テレビ局が芸能事務所に忖度する事情:独占禁止法違反の境界線

ジャニーズ事務所に対する公正取引委員会の「注意」に続き、吉本興業の「契約書の不存在」疑惑に関して同委員会幹部が問題視するなど、最近、芸能事務所に対する独占禁止法の適用が注目を浴びている。直近ではマツコ・デラックスさんの事務所がジャニーズ事務所の意向を忖度するかのような姿勢をとっていたとして週刊誌で報じられ(「ジャニーズ幹部の稲垣「舞台潰し」とマツコ「共演拒否」」)、同時に本人の反論が掲載されている。

公正取引委員会の対応に、「それ見たことか」「けしからん」という声が強いが、「だから何だ」「なにが問題なのか」という声も一方である。気になるのが、後者の理由である。ジャニーズについては、公正取引委員会の対応が「注意」にとどまったことが大きい。公正取引委員会は「違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られないが、違反につながるおそれがある行為がみられたときには、未然防止を図る観点から「注意」を行ってい」(公取委のウェブ・サイト「よくある質問コーナー(独占禁止法)」Q27)る。「違反行為の存在を疑うに足る証拠」がないということは、違反摘発という意味ではそのスタートラインにすらつけなかったということを意味する(「公取委がジャニーズ事務所を注意〜「圧力」とは何か?」参照)。未然防止の必要性についてはジャニーズ側にどれだけ非がある話なのかは、「注意」という事実だけから何ともいえないのが実情である。

吉本の場合、「コンプライアンス」に拘泥することへの警戒の声が少なくない。例えば、古舘伊知郎さんは「四角四面の道徳警察にならない方がいい、つまらなくなる」と述べている(「古舘伊知郎、吉本騒動に対する世間の目に「四角四面の道徳警察にならない方がいい、つまらなくなる」)。どんぶり勘定的な契約スタイルも、それはこの業界にとって不可欠な要素であるかのような物言いをするベテラン芸人も見かける。どちらにしても独占禁止法や下請法に本当に違反するのであれば、無視すべきコンプライアンス問題であるとは到底思えない。特に吉本擁護に関しては、「四の五の言うな」という開き直りの風潮が強いようにも思える。

さて、話をジャニーズに絞ってその競争の構造を考えてみよう。テレビ局に対してあからさまな圧力をかけて競合するタレントを排除しようとしたという独占禁止法の格好のターゲットとなるような話から、マツコ・デラックスさんのように「テレビ局は使いたくない」といった、そもそものニーズの有無のレベルの問題だ、という見方もあるだろう。

使いたくないタレントは使わない話なのか、使いたいタレントも使えない話なのか、独占禁止法違反の有無を考える上では非常に重要な違いだ。前者ならば、契約相手の「自由な選択」の問題であり、これを独占禁止法上問題視することはナンセンスである。いい商品を売って競合他社が排除されたのであれば、それは競争原理そのものだ。後者の場合、状況を二つに分けて考えるべきだろう。

第一は、競合するタレントを排除するようにテレビ局に働きかけて意図的に仕組んだ場合。この場合、独占禁止法の門を完全にくぐっている。第二は、「忖度」の言葉にあらわれるように、事務所からの明確な働きかけはないがテレビ局が事務所の顔色を伺うような場合。多くの人は、第一の状況が「空気」の中で行われている場合を想起するだろう。その空気の醸成にどれだけ事務所が加担したかが問われることになろうが、しかし違反の証明には苦労するだろう。

それだけではない。忖度の言葉の裏には、テレビ局が事務所に対して「何かを期待する」思惑も見え隠れする。例えば、ある事務所のタレントばかりを出演させることで「信頼関係」を構築し、将来的にも安定的にその事務所の有望株や次世代のスターたちを出演させ続けることができる期待にテレビ局が「投資している」といえるケースである。いわば「お得意さん」になる、ということだ。そういった関係を構築するためには、事務所は次世代の売れっ子を養成するために弛まぬ努力をし続けなければならない。それが長期に渡れば渡るほど、この関係は強固になる。この場合、それ自体が競争だという見方ができる。あるメーカーにとって自社のプロモーションを必死でやってくれる小売店は「お得意さん」である。そういったお得意さんには常に最新のモデルや各種情報を積極的に提供するようにインセンティブをつけることもあるだろう。これは通常の流通戦略である。こういった行為がどこまで行けば競争に適う行為として説明できなくなるか、見極めは簡単ではない。そのメーカーが支配的であればあるほど独占禁止法の射程として「魅力的」なものになっていく。しかし、そういった行為は出発点としては真っ当な競争活動なのである。

公正取引委員会の「注意」という対応を読み解くためには、「(健全な)競争と(そうでない)独占の境界線」を見極めることが重要である。

独占禁止法を考えるにあたり、「「注意」されたのだからやましいことをやっているのだろう」などという解説では物足りなさ過ぎる。

公共発注と競争入札:改めて基礎から考える

公共発注において競争入札が原則とされているのは、その手続が競争させる側(ここでは発注機関)にとって最も望ましい条件での契約を可能にしてくれる、という期待があるからだ。競争のメリットは公共発注にのみ存在するのではなく、取引一般についてもいえる。売り手側にも買い手側にも競争環境を整えることにより、経済社会において最も望ましい結果が生み出される、という信頼が存在する。会計法や地方自治法は競争入札(一般競争入札)を原則とし、随意契約を例外としているのはそのためだし、独占禁止法が競争制限行為を禁止するのもそうだ。ただ、高度成長期の成功体験があるので、当時ほとんど機能していなかった独占禁止法へのアレルギーが昭和の世代を中心に少なからず存在する。競争は日本社会に馴染まない、と。

かつては随意契約や指名競争入札が当たり前のように用いられていた。指名「競争」といっても名ばかりで、実質は業者間の協調によって結果(落札)が決められ、競争は骨抜きにされていた。落札価格は予定価格とほぼ一致していたが、それが「競争価格」だ、と発注機関は強弁してきた。法令が追求する競争価格と予定価格の根拠となる発注機関の積算とを一致させることで、「予定価格=適正価格」という「神話」を作り出し、事前に計画した予算を過不足なく消化できるという「官の無謬性」の体裁を作り上げてきた。落札率100%なのだから余ることもないがそこに抵抗感はなかった。仮に足りなかったら安い値段でどこかの業者に強引に引き受けさせることができた。このことを「請負」の文字を使って「請け負け」などと表現してきた(それができたのは随意契約や指名の裁量権を発注機関が持っていたからだ)。単年度予算という制約の中で、競争によるメリットを捨て去ってまで、言い換えれば談合という犠牲を払ってまで、(表面的な)「予定調和」のメカニズムを維持しようとしてきたのである。それが昭和の時代だった。

かつての常識は平成の時代に通用しなくなった。一般競争は当然の前提となり、法令の要請と実態とが一致するようになった。随意契約や指名競争入札は、専ら批判の対象となり、そのメリットが指摘されることはほとんどなくなった。各発注機関は「随意契約」といわれる手続に拒否反応を示すようになった。より正確にいうと、拒否反応を示す世論に敏感になった。形だけでもいいから一般競争入札を徹底している「体裁」を重視し、それが一者応札であろうが、予定価格ぴったりであろうが、あるいは不調や不成立であっても、一般競争入札を用いたのだから、そこで得られた結果が正しいのだ、と強弁する(せざるを得ない)発注機関も多々ある。時代は変わっても行政が「体裁」に拘るのは変わらないようだ。

随意契約のメリットは、手続にかける時間的短縮が可能であること、事前の交渉が柔軟に進められること、総合評価方式のような契約手法との比較では煩雑さを回避できること、さまざまである。そのデメリットは、競争が欠如していること、競争という手続によって満たされただろう透明性に欠けることである、といわれている。ただ、競争入札であっても競争を骨抜きにすることは可能であるし、不透明な形で実施することも可能だ、ということには注意しておきたい。要は仕組み次第ということだ。裏を返せば、随意契約であっても、競争的要素を組み込むことができる(事前確認公募型の随意契約、企画競争等がその例だし、見積り合わせもそうだ。公開型の見積り合わせの方式もあると聞く)し、情報公開を徹底することで透明性を確保することもできる。競争入札か随意契約か、という二元論ではなく、各方式のメリットを最大限にし、デメリットを最小限にするような「最適な組合わせ」を模索すべきだ。

しばしば競争入札のメリットを説く論者が強調するのが価格低下であるが、そもそも競争においては価格だけではなく、品質も重要だ。競争入札の組み方次第では価格よりも品質重視の契約者選定が可能となる方法もあるし、分野によっては多用されている。

特定の業者(あるいは事業者団体)が他の追随を許さない、あるいは存在する唯一の適正な契約相手であるというならば、その説明責任を果たした上で、法令の枠内で堂々と随意契約すればよい。しばしば随意契約をめぐる住民訴訟を見聞きする。地方自治体の場合、司法の判断が一つの方向性を見出す。それが適正化の担保となっている。国の場合はやや状況が異なる。会計検査院の対応の鍵となるが、議員による問題喚起も重要である。

音喜多駿氏がブログ記事(「時間がないから、競争入札は無し?!」)で、参議院議員会館の改築工事が随意契約で行われたことを問題視している。このような意識を個々の議員が先鋭化させることは大歓迎である。どんどん問題提起したらよい。それによって透明性も高まるだろう。

競争入札の場合、競争の結果が契約の合理性を自ずと説明する(但し競争のルールが適正な場合に限る)。随意契約の場合そうはいかない。発注機関が自ら積極的にその説明を行わなければならない。それは一定の知識を有する外部の人間が、その適正さをチェックできるくらいに透明である必要がある。情報公開は公共発注の適正化のための生命線だ。欧州では、公共発注の適正化に向けて、Digital Whistleblowerという発想が広く共有されている。公共発注に係るデジタル情報へのアクセシビリティーを高めることで、誰もがその不正、不効率を指摘することができるような環境整備を行うことが重要であるという考え方がその背景にある。実際、欧州における公共発注のデジタル・データベース化とその徹底した公開性の推進には目を見張るものがある。日本・EUのEPA(Economic Partnership Agreement)で公共発注が大きなイシューとなったが、透明性の問題について「欧州並み」を日本が実現するのはいつのことになるのだろうか。

競争入札はやり方次第でいくらでも骨抜きにできる。競争入札が実施されているからといって無批判に評価するのは危険である。同時に随意契約も必要な場合は必要であることをより正面から認めるべきだ。それを闇雲に批判するのはナンセンスである。随意契約にも競争的なそれもある。特命随意契約の候補を立てつつ公募をかけ、応募する業者が現れたら競争入札を行うという事前確認公募型の随意契約はその一例である。議員会館のケースはそれに馴染むものなのかもしれない。

時代は令和である。昭和の時代の反動から公共発注方式に対する闇雲な批判や思考停止の礼賛が平成の時代まかり通ってきたが、この新しい時代、真に納税者の利益になるものは何か、という「実質」をより深く考えて行かなければならない。

独占禁止法はビジネスモデルを変える

コンビニの24時間営業の見直しが進んでいる。東大阪市のケースを発端にこれまでセブンイレブンばかりが目立ってきたが、7月26日の記事で各社がファミリーマートについて報じている(以下の引用は同日付の産経新聞記事「時短営業拡大へ 希望店舗は全体の半数 ファミマ調査」より)。

ファミリーマートは26日、時短営業に関する全国加盟店へのアンケートで、1万4572店舗の約半数が「検討したい」と回答したことを明らかにした。これを受け、6月から行っている時短営業実験を現在の24店舗から、10月中旬より全国の最大700店舗に拡大する。実験では、収益などの変化は、地域や周辺環境で店舗ごとにばらつきが出た。大規模検証を進め、12月以降に時短営業のあり方の方向性を示す。

各コンビニチェーンが見直しの動きを活性化させた背景には、いうまでもなく、公正取引委員会の対応がある。

2019年4月24日付の朝日新聞記事は、次の通り報じている(「コンビニ24時間、見直し拒否で独禁法適用検討:公取委」)。

公取委の複数の幹部によると、バイトらの人件費の上昇で店が赤字になる場合などに店主が営業時間の見直しを求め、本部が一方的に拒んだ場合には、独禁法が禁じている「優越的地位の乱用」にあたり得る、との文書をまとめた。

この辺りは既に、過去の筆者のブログ、「コンビニの深夜営業と独占禁止法」で触れたところである。他のコンビニ本部の対応の早さに多少の驚きはあるが、コンビニは「イメージ商売」の性格が多分にあり、労働者を酷使しているなどという「ブラック企業」認定はどうしても避けたいのであろう。近年の「働き方改革」の潮流もあり、各社競うように「見直し」を加速化させている。

今後のコンビニ経営のあり方はどうなるかはわからない。同ブログで指摘したように、24時間組のメインブランドと深夜営業のないサブ・ブランドの使い分けがなされるかもしれない。24時間営業を続けるコンビニが作り上げるコンビニのプラスのイメージ(それがあるかどうかが一つの争点ではあるが)にそうでない組のコンビニがフリーライドする状況は避けたいと思うだろう。24時間営業は主として直営店の形でなされる(独占禁止法上の優越的地位濫用規制違反の問題になりようがない)ことになるかもしれない。

見逃してはならないのは、各コンビニ本部の動きを決定付けたのが公正取引委員会の示唆だった、ということである。「公正取引委員会が注目してますよ」というメッセージは、「放っておいたら処分されるかもしれませんよ」というメッセージでもある。優越的地位濫用規制はいわば「弱い者いじめ」規制であるから、ブラック企業認定に十分なインパクトだ。上記の公正取引委員会の示唆は、コンビニ経営のあり方を大きく変えるきっかけになるかもしれない。事実、これまでの動きはそれを推測するに十分なものになっている。

同じことは吉本興業のケースについても当てはまる。先日(7月24日)、公正取引委員会の山田昭典事務総長が定例記者会見で、所属芸人との契約書の不存在に関し、「契約書面が存在しないことは問題がある」と発言した(【吉本興業“契約書なし”を問題視 公取委事務総長が指摘】)。その翌日の共同通信では次の通り報じられている(「吉本興業、芸人と契約書締結へ 第三者交え委員会設置」)。

「闇営業」問題に端を発する騒動に揺れる吉本興業が、所属タレントと原則として契約書を交わす方針を決めたことが、25日分かった。同社はこれまで多くのケースで口頭での契約しか交わしてこなかった。第三者を交えた「経営アドバイザリー委員会」を設置し、来週にも会合を開いて内容などを検討する。

メディアで少々報じられた程度では動じないだろう企業も、公正取引委員会の「ひとこと」には随分と反応がよいようだ(違反の自発的解消は処分を回避する一つの手段だ。回避できれば「違反の認定を受けておりません」というエクスキューズが可能になる)。それだけ独占禁止法は脅威なのだろう。独占禁止法とそれを執行する公正取引委員会が市場の番人として、企業行動を規律するに十分な存在感があるということを意味する。

独占禁止法は企業のビジネスモデルに大きな影響を与える。マネジメントを学ぶ者は必須の知識だ。

筆者は大学生の頃、所属したゼミで熱心にマーケティングを学んでいた。その時に二つの疑問があった。一つは「企業の社会的責任(CSR)」は、マーケティング活動としては実際のところ「広告・宣伝」以上の意味を持たないのではないか、という疑問。そしてもう一つが企業行動を考える上では法的環境の存在が重要なのではないか、という疑問である。前者についてはCSRをコンプライアンスの問題として再構成することで一つの落とし所を見付けるに至った(拙著『ハイエク主義の企業の社会的責任論』)。後者については、当時のマーケティングの教科書では「経営における外部環境」として議論の対象にはほとんどされていなかったことを思い出す。理論上整理された形で「法と経済学」が扱うテーマであるが、マーケティング、経営戦略のような現在進行形の「生きた素材」を用いた議論は(少なくとも我が国では)未開拓なのではないだろうか。

下請法と独占禁止法:芸能事務所と芸能人の関係で考える

芸能事務所(マネジメント会社)と芸能人の仕事のやりとりとお金の払い方にはいくつものバリエーションがあるだろう。個々の仕事を切り取ってみると、ある仕事(イベント、テレビ出演等)をとってきた芸能事務所が個々のタレントにその仕事をふり、それに対して報酬を支払うということになるが、その報酬は固定型のもの、歩合型のものさまざまだろう。固定であっても歩合であっても、事務所側が強ければ固定報酬は抑えられ、歩合といってもほとんどを事務所側が持っていってしまう。事務所所属のための登録料だけとって、オーディション等の情報提供はするが後は個々のタレントに自由に任せるという形態もあるかもしれない。タレントと出演先とを「つなぐ」、仲介者のようなビジネスもあるだろう。お金のやりとりも様々だろう。極端な話、芸能事務所の数だけ契約のバリエーションがあるといってもよい。個々の事務所の芸能マネジメント契約が具体的にどのようになっているのか、筆者にはわかりかねる。

闇営業問題を発端にした「吉本」のケースでは、そもそも契約書のない、文書でのやりとりがないなどと批判されているが、それだけ事務所とタレントの関係が(とりあえずいろいろなものをごっちゃに押し込む、という意味で)「どんぶり」的だということなのだろう。さすがに事務所がテレビ局などから仕事を受けるときは、テレビ局側のコンプライアンスが厳しいのでどんぶりということはなかろうが、事務所内部では曖昧にされているところが多いのだろう。「真っ当な契約社会ではあり得ない」というコメントが多いが、この業界はもしかしたらこの令和の時代に昭和の感覚で居続けているのかもしれない(ただ、移籍制限や兼業禁止などの「制限的」な取り決めに関しては、文書(念書)の形で残すようなところもあるのだろう)。事務所とタレントの間には優越的地位に立つ側と立たれる側に分かれることが多いので、独占禁止法上の優越的地位濫用規制違反の温床になりやすい(売れっ子タレントは別だし、場合によっては逆の関係になる場合もあるかもしれない)。条件が揃えば下請法(下請代金支払遅延等防止法)の問題にもなるだろう。その点については、アゴラ・ブログにおいて、郷原信郎弁護士の論考、「『吉本興業と芸人の取引』は下請法違反」が鋭い問題意識を提示している。

下請法には親事業者性についての形式要件がある。下請する側が1000万円以下の資本金又は個人の場合は、親事業者が資本金1000万円超であることがその適用対象となっている。吉本興業ホールディングス株式会社のウェブサイトを見ると、ホールディングスの資本金は1億円、子会社の吉本興業株式会社は資本金1000万円となっている。吉本興業株式会社自体が親事業者の場合は形式上、下請法の適用対象外だが、仮に下請法2条9項のいわゆる「トンネル会社規制」の対象となれば、下請法は適用される。仮に直接の発注者が資本金の形式要件を満たさなくても、当該発注がその発注者を支配する事業者からの再委託なのであれば、「再委託をする事業者は親事業者と、再委託を受ける事業者は下請事業者とみなす」とされている。吉本興業株式会社が敢えて資本金を1000万円ぴったりにしていることを考えれば、その辺のコンプライアンスを意識してそうしたのであろうという推測はできるが、実態は不明である。

立法論的にはこのトンネル規制の仕組み作りは甘かった、という指摘はあり得よう。持ち株会社形態の会社の場合、子会社はその実態として企業内の一部門のようなもので、それを分社化したものが多い。子会社が仕事を取れるのは、統括である持ち株会社への信用があるからである。つまり、完全子会社のような場合には下請法上親会社と子会社とを同視する「みなし」規定を作っておくべきだったという意見はあるだろう。まさに、「トンネル規制のトンネル」のようなものだ。

より強調しておきたいのは、下請法は独占禁止法の優越的地位濫用規制の補完的立法である、ということである。下請法の各規制は、優越的地位濫用規制違反の予防規制という性格を有する。「優越的地位」の認定等で一定の時間を要するなど、下請事業者の利益を保護する観点に立てば機動力が欠ける等の問題があることから、独占禁止法の違反事件処理手続とは別の簡易な手続が必要であるとの要請の下、1956年に独占禁止法の補完法として下請法が制定されている。下請法違反該当行為がそもそもの優越的地位濫用規制に抵触するならば、後者の適用を否定するものではない。下請法8条では、親事業者が公正取引委員会の勧告に従わない場合の独占禁止法に基づく排除措置命令や課徴金納付命令について明記されている。

ましてや資本金等の要件から下請法が適用されないケースにおいては、独占禁止法がダイレクトに適用されることになる。資本金云々の関係は「優越的地位」等の認定をスキップする意味を持つが、「優越的地位」等の認定が容易なのであれば独占禁止法の適用に当たって当局側のハードルは高くない。筆者も過去のブログで引用した公正取引委員会の「人材と競争政策に関する検討会」報告書公表の前後から今に至るまで、様々な場面で芸能事務所と所属タレントの関係が取り沙汰されており、公正取引委員会側も着々と準備を進めていることだろう。資本金が小さいかどうかはもはや無関係だ。立場の優越性というのは相対的なものであって資本金で決まるものでは必ずしもない。そもそも業務委託契約かどうかなどという形式論も関係ない。独占禁止法2条9項5号は、「その他取引の相手方に不利益となるように取引の条件を設定し、若しくは変更し、又は取引を実施すること」を射程としている。業界の慣行がそうなっているかは関係ない。それが公正な取引秩序に反するかが問題だ。

契約書も文書もない、そんなどんぶり感覚の中、タレントに不利な内容の契約を押し付けるようなことが仮にあるのであれば、それは下請法にとってもど真ん中の違反であると同時に、優越的地位濫用規制の格好のターゲットでもある。もし資本金1000万円だから大丈夫、という発想があったならば、そのコンプライアンス感覚は極めて危うい。親会社、子会社間で委託、再委託という関係があれば下請法の射程となる見込みが大きくなるが、そうでなかったからといって問題がないという訳には行かない。持ち株会社形態と少額資本金とをうまく組み合わせることで下請法の射程外としようという「意図」があるのであれば、公正な取引秩序に対するある種の挑戦といえ、その悪質性を独占禁止法は見逃さないだろう。資本金の形式を整えれば大丈夫という結論には決して至らないのである。下請法には確かに穴があるのかもしれないが、独占禁止法という「守護神」が後ろに控えていることを忘れてはならない。

公取委の「注意」について:黒か白か

前回のブログ記事(「公取委がジャニーズ事務所を注意 〜「圧力」とは何か?」)では、芸能分野にあるだろう独禁法違反のシナリオについての若干の考察と、そこには十分な証拠をもって明確な違反として捉え難い側面があるということを指摘した。その後、一連の報道やネット上の反応をみてみると、公取委の「注意」があったということは「圧力」があったのだ、という意見が多くみられることに気が付いた。一部には、「注意」にとどまったのだから「圧力」はなかったのだ、という意見も見受けられる。

「圧力」とは具体的に何なのかが分からない以上、独禁法の適用の可否も論じられないが、一つだけ分かっているのは、違反の可能性を疑って調査しただろう公取委が「注意」という結論に至ったことである。

公取委のウェブ・サイトに「よくある質問コーナー(独占禁止法)」というコーナーがあり、そのQ27で次のような回答がなされている。

Q27 排除措置命令ではどのようなことが命じられるのですか。 法的措置ではない警告や注意とはどのようなものですか。
A. 排除措置命令では、例えば、価格カルテルの場合には、価格引上げ等の決定の破棄とその周知、再発防止のための対策(例えば、独占禁止法遵守のための行動指針の作成、営業担当者に対する研修)などを命じます。
また、排除措置命令等の法的措置を採るに足る証拠が得られなかった場合であっても、違反するおそれがある行為があるときは、関係事業者等に対して「警告」を行い、その行為を取りやめること等を指示しています。
さらに、違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られないが、違反につながるおそれがある行為がみられたときには、未然防止を図る観点から「注意」を行っています。

排除措置命令が下された場合とは、公取委によって法的措置の前提として違反の認定がなされた場合である。警告がなされた場合とは、法的措置を採るに足る証拠が得られなかった場合であっても,違反するおそれがある行為が認められた場合である。そして注意は、違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られないけれども,違反につながるおそれは認められ、未然防止を図る観点からその必要性が認められた場合になされるものである。それすらなければ公取委は何もしない。

少なくとも公取委側の説明によるならば、注意がなされたということは、(1)排除措置命令、警告とは異なり、「違反」も「違反するおそれ」も認められない、(2)違反行為の存在を疑うに足る証拠もない(あればワンランク上の警告になろう)、ということを前提にものを考えなければならない。

公取委は何も疑いがないところに調査はしない。それはその通りである。ただ、調査の結果どうなったか。違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られなかったのである。つまり入り口である「違反行為の存在を疑うこと」それ自体の証拠がなかった、といっているのである。

冒頭の話に関連していうならば、「圧力」があったなかったと盛んに報じられているが、その「圧力なるもの」の証拠がなかったので公取委が「注意」に止めたのか、「圧力なるもの」の証拠を公取委が握っていても「注意」に止めたのか分からなければ話が先に進まない。後者ならば、その「圧力」とやらは「違反行為の存在を疑うこと」それ自体の証拠にもならなかったということになってしまう(それは一連の報道との整合性に疑義が生じる)。一部報道によれば、元メンバーの番組起用を妨げるような働きかけがあった場合は独禁法違反につながる恐れがある、といった認定のようで、とするならば、「圧力」それ自体の証拠はなかった、ということなのだろうか(前回のブログ記事で指摘したような「空気」「局側の忖度」ということだったのか)。

ジャニーズ事務所は一連の報道を受けて次の通りコメントしている(「2019年7月17日報道に関するご報告」)。

弊社がテレビ局に圧力などをかけた事実はなく、公正取引委員会からも独占禁止法違反行為があったとして行政処分や警告を受けたものでもありません。とはいえ、このような当局からの調査を受けたことは重く受け止め、今後は誤解を受けないように留意したいと思います。

繰り返すが、公取委が報道されているような「圧力」を認定しなかったのか、認定した上で「注意」に止めたのか分からない(どうやら前者のようだが)。また、そこでいう「圧力」の中身がはっきりしない以上、「した」、「しない」は「自分の定義」で論じることになり、ほぼ意味のない話になる。ただ、「圧力=独禁法違反行為の存在を疑わせるかそれ以上の行為」を前提にするならば、上記のコメントと公取委の判断は整合的ということになる。ただ、コンプライアンスのあり方として以上のような文章での対応が妥当だったかについては色々な意見があるだろう。「違反につながるおそれ」が指摘されたのならば、「そういった指摘を真摯に受け止めて」「公正な競争秩序を乱さぬようしっかりとコンプライアンス対応を図っていく」程度の表現があってもよかったのではないだろうか。

公取委に注意されたジャニーズ事務所

ジャニーズ事務所が公取委に注意された。ジャニーズ事務所から独立した元SMAPの3名を出演させないよう、テレビ局に対し圧力をかけたという。注意なので違反が認められ、処分された訳ではない。違反の恐れが認められた場合の警告が発せられたのでもない。あくまでも違反につながる恐れに止まるものである。しかし大ニュースとなったジャニー喜多川氏の死去の直後ということもあって、この情報にメディア各局が挙って飛びついた。

注意の場合は公取委はプレスリリースはしない。非公式な対応だ。報道では「関係者が明らかにした」とあるが、元SMAPの3名に近い者によるリークだろうか、あるいは事務所内部から出た情報か。

独占禁止法には芸能事務所によるメディアへの圧力を違反にする規定が多くある。不公正な取引方法の禁止(19条)は、違反行為が細かく類型化されており、例えば、「取引拒絶」「抱き合わせ」「拘束条件付き取引」「優越的地位濫用」「取引妨害」などが適用の候補となるだろう(筆者は、過去の論考(「存在感を増す独禁法の優越的地位濫用規制:芸能人からGAFAまで」)で「芸能界への優越的地位濫用規定の適用」について触れたので参照いただきたい)。

芸能事務所とメディアの関係は、メーカーと流通業者の関係に置き換えることができる。メーカーからすれば、自社の製品を他社の製品よりも優遇して扱ってもらいたい。流通業者が自社製品を欲しがれば欲しがるほど自社に有利な条件、競争他社に不利な条件での取引を行おうとするだろう。芸能の場合、自分のところで抱えているアイドルグループと競合するタレントを番組から排除する、同じ事務所の複数のグループをセットで出演させることで番組の「枠」を埋めてしまうといったやり方が考えられる。

この元SMAPの3人組の場合はどうなのだろうか。もちろん元SMAPのメンバーは、ジャニーズ事務所にとって少なからぬ脅威となる競争相手ではある。彼らをテレビ番組に出演させないことで、競争に悪影響を与える形で自らの支配的地位を維持しようとした、という説明もなくはない。ただ、排除されそうになった相手の範囲があまりにも「限定的」過ぎる。不公正な取引方法の効果に係る要件である「公正な競争を阻害するおそれ」を認定するには競争への影響が足りないようにも見える。問題となる市場も狭く、独占禁止法の射程としては小さすぎる。

どちらかというとこのケースは、独立したメンバーに対するサンクションとして理解する方がしっくりくる。独立したタレントが売れてしまうと独立の連鎖を止めることができない。だから独立したタレントの出演を阻止しようとした、そんな話なのかもしれない。この場合、独占禁止法上は「取引妨害規制」の適用が考えられる。この場合の「公正な競争を阻害するおそれ」は、「やり方がひどい」という手段の不公正さで説明されることがある。

何故、公取委の対応が「注意」にとどまったのであろうか。産経新聞の2019年7月17日付記事に考えるヒントがある。

ある民放の関係者は「全く現場レベルにはそのような話は伝わっておらず、びっくりした。確かに『新しい地図』の3人の出演はSMAP時代に比べれば減ってはいたが…」と驚く。

 

 別の関係者は、「民放各局ともに、3人を起用する番組はそれぞれにあったと思うし、全く3人を起用しないということでもなかった」と同調する。

 さらに別の関係者は「少なくともそんな指示があったなどという話は聞いたことがないが、ジャニーズ事務所に対し、いわゆる“忖度(そんたく)”のようなものが働いていたといわれれば、3人の出演が減っていることなどを考えると、それは否定できないのかもしれない」と指摘した。

このケースは、事務所から明らかな妨害の指示があったのではなく、元SMAPのメンバーを使いづらい、そんな空気があったケースだったのかもしれない。空気なので、はっきりと誰がどのように指示したかは明確ではない。ジャニーズ事務所ぐらいの超大手になればコンプライアンスにも敏感だろうから、法令違反の言質を取られるような真似はしないだろう。そのような空気の醸成に事務所が関与したとしても、公取委は明確な証拠をもって違反を認定するのには躊躇するだろう。違反の疑いありともいえず、せいぜい違反につながる恐れあり、ということになるのはうなずける。

さらに問題なのは、メディア側が「忖度」したという場合である。メディア側がジャニーズ事務所に忖度するのは、事務所との良好な関係を築きたい、維持したいからである。そうであればそれは何が問題なのか。そうするように圧力をかけたのであればそれは忖度ではなく、圧力である。最後の関係者の発言は明確な指示に基づく圧力の結果ではなく、ジャニーズ事務所がこれまで築いてきた地位による「存在という圧力」の結果であることをいわんとしている。しかし、それをもって「違反」とされてしまったらたまったものではない。公取委は、もしこの状態で明確な指示があれば違反の疑いが生じ、あるいは違反が認定されますよ、ということを「注意」しただけかもしれない。そうであれば、その時点ではジャニーズ事務所の対応は「白」ということになる。ジャニーズ事務所が、この問題について抑制的な動きをしているというのであれば、それは批判すべきことではなく、評価されるべきことなのかもしれない。

しかし報道では「圧力」とある。

公取委が調べるだけ調べて出てきた結果が、「違反を認定し処分した」のではなく「注意に止まった」ことに興味が湧く。圧力をかけたといっても、具体的に何をしたというのだろうか。そしてそれは何故、注意に止まったのだろうか。

独占禁止法と入札談合:「競争の体裁」は不幸を生む

前回の論考は談合罪に関するものだったが、今回は独占禁止法を取り上げる。1941年の刑法改正で創設された談合罪に対し、独占禁止法は戦後の1947年の制定である。高校の日本史教科書にも載っているように、独占禁止法はGHQの経済民主化政策の一環として導入されたもので、財閥解体などとセットで語られてきた。

独占禁止法はその名の通り市場における企業の独占化を問題視するものであるが、よく知られる違反はカルテルや入札談合といった、業者間でなされる競争をしないことの合意である。競争制限の合意は独占と同じような弊害を市場に生み出す。それも単なる独占であればそれ自体競争の結果(効率性の反映)である可能性もあるが、業者間の合意にはそれがない。

それを禁止するのが「不当な取引制限」規制である。独占禁止法3条は「事業者は、私的独占又は不当な取引制限をしてはならない。」と定め、その定義規定である2条6項は以下の通り定める。

この法律において「不当な取引制限」とは、事業者が、契約、協定その他何らの名義をもつてするかを問わず、他の事業者と共同して対価を決定し、維持し、若しくは引き上げ、又は数量、技術、製品、設備若しくは取引の相手方を制限する等相互にその事業活動を拘束し、又は遂行することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。

この規定の射程に入札談合が含まれることは容易に理解できよう。母法である米国反トラスト法も同様の取り扱いをしているので、日本の独占禁止法が入札談合をその射程とすることは当然視された。これにより入札談合に対する法的規律は刑法の談合罪と独占禁止法の「二重規制」の形をとることになった。

ではどうやって両者は棲み分けているのか。上記の条文から分かる通り、独占禁止法には「一定の取引分野」という要件がある。この「分野」という言葉から、独占禁止法は単発の入札における談合は射程としないものだと理解され(もちろんそうでないとも理解できる)、単発の談合は談合罪、連続する(複数の)それについては独占禁止法というだいたいの実務が定着している。談合罪には対象となる入札の回数の制限をかける文言はないので、論理上、複数回の談合に対し談合罪の適用が妨げられるものでは決してない。

複数回にわたる受注調整を扱う独占禁止法では事業者に対する行政処分が中心であり刑事制裁は例外的な扱いであることから、談合罪との不均衡の問題は無視できない。法人処罰の有無等、両者を単純に比較することもできない。(敗戦を挟んだ)「接木的」な立法の整理が戦後三四半世紀経ってもできていないのが現状である。

独占禁止法においては、違反事実は「基本合意」と「個別調整」とに分けて認定されることが多い(一緒にまとめてなされることもある)。複数回にわたる受注調整の場合、各々が独立して(相互に切り離されて)なされることは珍しく、大抵の場合、事前に全体に係る基本的な合意がなされて、その後にその基本的な合意に従って、個別案件において受注の調整がなされる。例えば、公共工事であれば、現場に近い業者が落札するとか、工事の規模に応じて応札する業者を分けるとか、落札の順番を決めるとか、そういった取り決めを事前にしておくことが多い(曖昧な形での合意も少なくない)。

戦後の経済民主化政策の目玉として華々しくデビューした独占禁止法ではあるが、制定後数年経ったあたりからその存在感が薄れ、1960年前後にはほとんど適用されない年もあった。それは朝鮮戦争あたりから経済復興を競争ではなく国家主導の計画あるいは業者間の協調によって実現しようという考え方が支配的になったからである。カルテルを合法化する立法が相次ぎ、あるいは行政指導によって業者間の競争は骨抜きにされ、独占禁止法のプレゼンスは著しく低下した。独占禁止法は戦後復興と高度成長時代の主役ではなかった。いまでも独占禁止法にアレルギーを持つ人々の思想は、こうした昭和の記憶に支えられている。

入札談合も同様である。日本は「談合天国」などと揶揄されるが、昭和の中頃、談合は「必要悪」などといわれ、世の中をうまくやりくりするための「大人の知恵」と考えられた。調達対象の内容とは無関係に、例外なく価格だけで競争させる入札を実施し続けた。その一方、法令上の原則である一般競争入札ではなく、例外的な指名競争入札を多用し、談合の常態化を招いた。それでも確実な調達が可能になるという前提で、この状況を受け入れ続けてきた。業者側には不透明な金銭のプールが生まれ、これがトラブル解決の潤滑油にもなったが、政治家が巣食う利権にもなった。「天の声」が政治家やその秘書筋から発せられてきたのは、競争的な仕組みの体裁を繕いつつ、その実、非競争的な実態を見直さず、指名に係る発注者の裁量を多く残したからである。旧来的な政官財の相互利用の構造を支えてきたのが、公共調達の分野であった。公共工事はその象徴的な例である。

時代は変わった。1990年代のゼネコン汚職事件はその大きな転換点だった。その前の日米構造協議を受けた独占禁止法の強化とゼネコン汚職事件後急速に進む入札改革は、談合的な業界構造の変化を迫った。2005年の大手ゼネコンによる「談合決別宣言」は、それまでに定着してきた談合を含む「旧来のしきたり」の存在を認め、それからの脱却を誓うものだった。その後も、談合事件が生じる度に「旧態依然とした」と批判され続けて今に至る。独占禁止法も数次にわたり改正され、その強化が図られてきた。指名競争入札や随意契約は法令の規定通りに例外的なものとなり、一般競争入札が当たり前になった。一方で、2005年の公共工事品質確保法の影響で公共工事については総合評価方式が原則的な方式と位置付けられることで、発注者にとって現実的な対応が可能となった。

これまで独占禁止法は「適用しない」ことで、上記の「大人の事情」に対応してきた。しかし、平成に入った頃から公正取引委員会は容赦無く入札談合にメスを入れてきたし、今後もそうするだろう。独占禁止法には「公共の利益」というエクスキューズが用意されているが、独占禁止法の適用に当たっては実際上、通用しない。それは何故か。

それは発注者が競争入札を採用している以上、その競争の手続きに反する行為は発注者の利益に反するものだという理解があるからだ。そもそも発注者自身、自ら採用した競争入札の効用を否定する訳がなく、入札談合がなされたならばほぼ確実に、徹底して「被害者」として振る舞うであろう。非を認めれば責任が自分にくるからだ(もちろんそうでないレアなケースの存在は否定しない)。「競争の体裁」がある以上、競争しない業者は疑われる。そうであれば公正取引委員会も裁判所もそのような前提で考えるだろう。発注者が競争の体裁を作った以上、その体裁に反する行為は独占禁止法の網にかかる。かつてのように独占禁止法が「大人の事情」を考慮することは期待できない。

考えるための格好の素材が、リニア談合事件である。一年に一件あるかないかの独占禁止法の刑事事件だ。リニア工事は民間工事であるが官公需の性格を持ち合わせてもおり、公共発注に通じるものがある。事件の真相は裁判の過程で明らかになるだろうが、その断片はすでに雑誌等で報じられている。例えば『東洋経済』の記事、「混迷「リニア談合」、JR東海に責任はないのか:ゼネコン4社が起訴されたが、どこかちぐはぐ」では次のように述べられている(「同社」とはJR東海を指す)。

都心の大深部や南アルプスを掘削するリニアは難工事とされ、同社もそれを察してか、事前に地質調査やトンネル掘削の研究開発をゼネコンに依頼していた。

難工事の連続、かつ時間的制約が厳しいというのであれば、競争よりも計画あるいは協調の方がうまく行くかもしれない。協調的関係がなかったとしても業者側にとって得意分野を選択し、そこに資源を集中させる方が効率的であり、そのような棲み分けが競争制限の基本合意なしに形成されることも十分あり得る。そのような事情があり、それを発注者が理解しているのであれば、公共調達でいう特命随意契約を各社と結べば足りるものだったのではないか、という疑問が残る。少しでも安くしたいというプレッシャーがJR東海側に強くかかったのか。あるいはWTO政府調達協定の対象であった時代の感覚がどこかにあったのか。財務部門と技術部門の連携は十分に図られていたか。もし非競争的な状況のきっかけを作ったのが発注者であるJR東海だというならば、この事件は果たして刑事事件になるようなものだったのか。

公正取引委員会委員長の発言が上記『東洋経済』誌で紹介されている。

 (各社の技術力や手繰りなど)事前に工事を割り振らざるを得ない事情があったとしても、価格競争をルールに設けた以上、受注者同士で価格を話し合うのは独禁法違反だ。初めから(特定のゼネコンと直接契約を結ぶ)随意契約なら問題はなかった。

随意契約だったらよかった。公正取引委員会の本音が垣間見られる。何故、大成と鹿島は否認しているのか。事件の本質はその理由が何なのかに見出されよう。独占禁止法が今、試されている。

一連の競争入札改革は一般競争入札の徹底を発注者に求め、発注者は競争という体裁を繕うことに躍起になった。競争を信頼していない発注者が競争の体裁を繕うだけで、旧来的なやり方での業者側の柔軟な対応を期待するのであれば、業者側は独占禁止法違反という大きなリスクを負うことになってしまう。市場原理に基づく自然な棲み分けであっても、独占禁止法はあれこれ理由を探して牙をむくかもしれない。一方、業者側がコンプライアンスに拘れば(それは過剰反応の場合もある)、リスクは発注者側に移ることになる。「談合決別宣言」の少し後に、建設業界のトップに宣言後の公共工事の展望について話を聞いたことがある。「これからは困るのは私たちではなく発注者だよ。」と答えてくれたことを今でも鮮明に覚えている。