「予定価格」という「魔物」:富山県舟橋村から内閣官房IT総合戦略室まで

国や地方自治体が業者から物品を調達したり、業者に工事を請け負わせたりする場合、原則、競争入札で契約者が選定され、価格等の契約条件が決定される。その際、開札よりも前に「予定価格」という価格が発注機関側において設定され、その額を超えない範囲の価格で落札者が決定される。つまり予定価格とは上限価格の役割を果たすものである(予定価格自体は随意契約でも設定されるが、価格の競争、調整がないと大した意味を持たない)。競争の手続が必ずしも十分な価格低下をもたらすとは限らず、場合によっては発注機関にとって高過ぎる結果になる可能性もあるのだが、予定価格の存在はそういった「高い買い物を防ぐ」機能を有している。

この「予定価格」は、しばしば厄介な現象を引き起こす。予定価格の設定を誤れば有効な調達ができなくなる。低過ぎれば落札者がいなくなってしまい、調達ができず(再入札になり、時間をロスするので)、行政に支障が出る。予定価格はその時々の市況に応じて機敏に変化する柔軟性を持っていないので、競争の結果が予想外だった場合、発注機関は対処に苦労する。また、予定価格は確かに上限価格だが、裏を返せばそこまでは契約を可能とする額でもあるので、それを業者側が知れば、一者応札が予想されるケースでは満額取られてしまうことになる。一者応札でも競争の手続を採用した以上、競争の結果に従うしかなく、そこからの調整は予定されていない。

予定価格の引き起こす問題でここ数年、頻繁に生じているのが、予定価格の情報漏洩である。国の場合は予定価格の事前の公表はできないが、地方自治体の場合は選択できる。すなわち開札の前に上限価格がいくらなのかを開示することが可能である。各自治体の対応はバラバラである。事前公表から事後公表に切り替えるところもあれば、その逆もあり、また(金額や種類別で)併用するところもある。

予定価格が事前に公表されないと、どのような問題が生じるか。それは分かり易く、漏洩の危険が生じるということだ。競争入札に係る情報の漏洩が入札の公正を害する場合には、それは犯罪(官製談合防止法違反等)になる。自己防衛のために事前公表に切り替えた地方自治体は少なくない。

ではその逆はどうか。事前に公表されると何が問題なのか。かつてから指摘されてきたのは、上限価格付近での談合が容易になってしまうという点である。公正取引委員会などはそういった懸念を強調してきた。業種によっては予定価格をかなりの精度で事前に推測することは可能なのであるが、それでもぴったりとした数字が知れているのとそうでないのとには大きな差がある。

公共工事分野では、安過ぎる価格を防ぐために下限価格(法的にはややこしい制度の説明が必要だがここでは一般的にこのような言い方をしておく)が設定されることが多いが、その場合、事前に予定価格が公表されると、予定価格から一定の計算式に基づいて算出される下限価格もかなりの精度で予想されることになり、競争が激しければ価格が下限価格に張り付くことになる。複数業者が下限価格同額で応札すれば、抽選になる。そういう事態が公共工事で頻発して、建設業界は挙って予定価格の事前公表を止めるよう強く求めてきたし、国も同様の観点から事前公表に懸念を示してきた。そういった声を重視して、事前公表から事後公表に切り替えた自治体も少なくない。

各自治体の対応はバラバラである、といったのは、こういった事情のうち何を重視するかが異なるからだ。

つい最近、富山県舟橋村で予定価格の情報漏洩事件があり、村の幹部が官製談合防止法違反で逮捕、起訴された(「舟橋村の官製談合 村幹部職員と受注業者役員を起訴」)。同村ではこの事件をきっかけに予定価格の事前公表に切り替えたという。ある有識者が「情報を隠すから犯罪が起きる」などとコメントしたのをどこかで見たが、問題は単純ではない。予定価格を事前公表したことが談合を誘発したら、「情報を出すから犯罪が容易になる」とでもコメントするのではないか。

予定価格は手続上、開札の直前に決定することができなくはないのだが、公告(募集)段階で決定されていることが圧倒的に多い。それは「何を調達するか」が決まっているのだから、その段階で上限価格を決めておくのは当然、という発想があるからだ。発注者側の知識で予定価格を組むことができなければ業者から見積りをとってきて組むことになるのだが、一者だけからとると公正性が疑われるのでなるべく複数者からとることが求められている。いわゆる「五輪アプリ」の調達で内閣官房IT総合戦略室も複数業者から見積りをとったのだが、担当者がある業者の見積りを他の業者に見せたり、額をにおわせるような発言をしたりといった公正さを疑われる行為があり、第三者調査チームから「不適切」の指摘を受けて、関係者が処分されてしまった(「IT室幹部ら6人処分 オリパラアプリ不適切入札問」)ことは記憶に新しい。

複数の見積りを業者からとれば、一部業者が極端に低い額を示すかもしれない。発注機関が危惧するのは、これだ。一番低い額に合わせるのであれば簡単だが、仮にそれでよい調達ができなければ元も子もない。しかし高い額に合わせるならば、それ相応の重い説明責任が生じる。だから本音としては「そこそこいい値段」の見積りが欲しかったのではないか、そういう推測が可能である。いずれにしても複数業者から見積りをとる趣旨には反するので「不適切」ということなる。その後にくる競争入札への影響はなかった(不明だった)というのが第三者調査チームの結論のようだが、見積りをとった業者に応札の意思がない場合、一者応札が予想されているような場合には、調査で得られた事実を前提にするならば確かにそういうことになるのだろう。

今後、後継のデジタル庁も同様の問題を抱えるかも知れない。民間人材の積極登用が同庁の「ウリ」のようだが、果たして調達の問題についてはどうか。見積書作成作業の有償、無償の問題も含めて、正面から問い直すべき課題ではある。より根本的には、「予定価格」という硬直的な上限拘束性を有する価格制度の存在が引き起こした問題である、といえよう。

公共工事からシステム調達まで、性格は違うが、「予定価格」はしばしば行政を悩ませる「魔物」と化すのである。

随意契約の罠

一連の公共契約改革で随意契約は「警戒の対象」となった。指名競争とともに随意契約は不正の温床であるといわれ続け、今では公共発注機関は随意契約が妥当な場面であっても、会計法令上の「随意契約の理由付けが立たない」との理由で、強引に一般競争に持ち込むケースが多くなったように思われる。競争入札をしていれば悪くいわれないという安心感からか、強引に競争入札をして「一者応札」になったり応札者が現れず「不成立」になったりするケースが少なくない。行政コストや時間的制約を無視できれば問題は小さいだろうが、そうではない場合、無視できない問題を引き起こす。少し前の東京都のように「一者応札はやり直し」、という方針を採ったりすれば事態はより深刻なものになる。

ただ公共発注機関が随意契約を完全に止めたか、というとそういう訳ではない。行政にとって避けたいのは「外部からの批判」であって、説明が面倒なものはできる限りしたくないというマインドが働く。だから色々批判される随意契約に躊躇する。しかし、このことは裏を返せば、「説明が容易なもの」には躊躇しないということを意味するものでもある。少額の随意契約がそれだ。少額の随意契約は法令上も「はっきり」と認められているので、この枠に入ればチェックは甘くなる。そこにコンプライアンス上の落とし穴がある。

少額随意契約をめぐる国土交通省九州地方整備局の汚職事件が最近、報じられた。以下、8月24日の西日本新聞の記事(「修理業務、複数回に分け発注 九地整汚職、少額随意契約内に調整か」)より。

国土交通省九州地方整備局関門航路事務所(北九州市小倉北区)が発注したクレーンの修理業務を巡る汚職事件で、収賄の疑いで逮捕された同局職員・・・が、本来は一括で契約できる修理業務を複数回に分けて発注したとみられることが、捜査関係者への取材で分かった。業務規模が小さくなると、競争入札を経ずに随意契約が可能になるため、福岡県警は・・・特定の業者に受注させやすくするために業務を分けた可能性があるとみて調べている。

この少額随意契約についての発注業務はこの「容疑者が1人で担当しており、1回の業務が少額随意契約の範囲に収まるよう調整した可能性がある」とのことで、また「少額随意契約の契約結果は非公表」(同記事)と報じられている。

随意契約はチェックが厳しい。説明責任が重いので、できれば避けたい。競争入札で一者応札になった場合も最近は色々いわれるが、随意契約に対する批判よりもまだ軽いと思われているようだ。それはそれで問題だが(拙稿「『一者応札』は『不正』なのか?〜 公共契約の悩ましい問題」参照)、さらに問題なのが、随意契約の説明が楽なものはその段階で「思考停止」になってしまっているのではないか、ということだ。記事にあるように担当者が1人の判断で業務を分割し少額随意契約で話を進めようとしていたとするならば、それ対して誰も気付かず(気付けず)、何もいわなかった(いえなかった)のだろうか、疑問が生じる。

分割発注による競争入札の回避は、官公需法の要請への応答等の事情もあり、一概に善悪は付け難いものではあるが、不正の背景になり易いのは事実である(拙稿「『分割発注』のリスクについて」参照)。少額随意契約は「随意契約理由が立つ」からといって、それに対して批判的でなくなってしまうのは、おそらくは随意契約それ自体への批判があまりにもこれまで強過ぎたからなのだろうが、その反動で「説明し易い随意契約」への適正チェックが甘くなったのであれば、悪しきコンプライアンスとしかいいようがない。入札監視委員会等の外部からのチェックのあり方も含めて早急に再検討を要する問題といえよう。

具体的な事実は裁判の過程で明らかにされるだろうし、今後国土交通省からも何らかの事情の説明があることだろう。新たな材料が見つかれば、この論考の続報を書く予定である。

一般競争入札と指名競争入札

今から30年前の日米構造協議を契機として日本では本格的な「入札改革」が始まった。後に続いたゼネコン汚職は改革の強い追い風となった。公共調達、とりわけ公共工事は不正の温床だという強烈な印象が国民に植え付けられ、「競争を徹底することによって価格を下げる」タイプの改革が絶対視されるようになった。「改革派」としてアピールしたい首長は挙って「競争=既得権益との決別」を強調した。その象徴的な手法が一般競争入札の徹底化である。

会計法や地方自治法上、公共調達の契約手法は一般競争、指名競争、そして随意契約に分かれており、原則は一般競争である。一般競争、指名競争は「札入れ」(電子入札が普及しているが)行為が伴うので「一般競争入札」「指名競争入札」と呼ばれることが多い。ごく簡単にいえば、一般競争は入札参加資格を有する者であれば誰でも入札に参加できる仕組みであり、指名競争は応札可能業者が発注機関の「指名」によって限定されている仕組みである。随意契約は「それら以外」のものを指すが、一般的に特定の業者を最初から決めて契約を締結するタイプの非競争的なものとして理解される。ただ、企画競争のような競争的なものもある。入札監視委員会の資料等では「競争性のある随意契約」「競争性のない随意契約」などと分類される。

指名競争は随意契約とともに不正・癒着の温床として語られてきた。地方では公共工事や工事関連の業務委託で指名競争が用いられることが多く、指名をめぐる不正の事件がたびたび起こる。例えば、7月30日の北海道新聞は次のように報じている(「官製談合事件 開発局は不正の根絶を」)。

道警は旭川開建士別道路事務所発注の国道補修工事の設計業務を巡り、札幌市内のコンサルタント会社に意図的に落札させたとして前所長を官製談合防止法違反(入札妨害)などの疑いで逮捕した。

具体的な逮捕容疑は、「前所長が在任中の指名競争入札で非公表の指名業者の予定案を会社の社長に漏らした。前所長は社長の依頼に応じ、特定の業者を指名業者から外して社長の会社に落札させた」ということだ。同記事は「開発局は工事について原則として一般競争入札を実施している。談合を防ぐには当然の措置だ」としている。

一般競争が談合の抑止になるという主張は、一般論としてはその通りだ。ただ、条件による。一般競争の仕組み次第では指名競争と変わらない状況を作ることができるし、意図的に一者応札の構造を作ることもできる。入札参加資格や技術仕様等を操作すればそれが可能だからだ。あるいは一般競争であっても、緊急性を強調して提案型の総合評価方式なのにも拘らず異常に短い公告期間を設定したり、その総合評価方式における非価格点を操作したりして、特定の業者を意図的に有利にすることも可能である。つまり、「一般競争を利用したから安心」というわけには決して行かないのである。公共契約における不正が疑われたケースでしばしばなされる、「一般競争を利用しているので問題ない」という回答には全く説得力がない。

指名競争はなぜ用いられるか。会計法や地方自治法には指名競争が可能な場面が定められているが、総じていえば、最初から契約業者として相応しい業者が一定数に絞り込まれている場合、コストと時間のかかる一般競争に見合うだけの契約規模に至っていない場合に手続の効率性を高めようという意図がそこにはある。発注機関の本音は、法令上の要請を受けてそうしているのではなく、単に「安心できる業者」を囲い込んでおきたいというところにあるのだろう。一歩進めて、特定のメンバーに応札業者を固定化させることで「業界の安定を図る」という思惑があることも、あるだろう。その発想がさらにもう一歩進むと、それは談合ということになる。「業界の安定を図る」ことと「激しい価格競争に至る」こととは両立しないからだ。最近では予定価格に近い水準で最低制限価格が設定されることが多く、最低制限価格付近での競い合いのケースも目立っている。非談合型の業界安定の手法(本来は品質確保のための手法だが)だが、最低制限価格の漏洩事件という違うタイプの入札不正を頻発化させているものでもある。これは一般競争にも指名競争にも共通する問題である。

指名競争には多くの問題がある。それは事実である。しかし一般競争にも多くの問題がある。この点はもっと強調されてよい。「しないよりまだまし」という反論もあるだろうが、「体裁を作ってお終い」という対応こそが、コンプライアンス上、最も深刻な問題を招くのではなかろうか。重要なのは形式ではなく実質である。ただ、その実質が(落札率で表現される)価格の低下「だけ」で評価されるものであるならば私は反対である。そのような「価格偏重のものの見方」が今でも世論には根強いが、2005年に制定され、二度の改正を経て今に至る公共工事品質確保法の趣旨は何なのかを改めて問い直す必要があるだろう。

問題は単純ではない。問題の単純化(「問題の一部だけを恣意的に切り取って白黒を付けようとする議論」と言い換えてもよい)は世論の操作には有効だが政策を誤らせるリスクを伴う。「指名か一般か」の議論はその一つの典型例といえよう。

「分割発注」のリスクについて

 コンプライアンスの問題は企業だけではなく行政にも存在する。収賄のような露骨な刑法犯もあるが、公共契約の過程で発生するケアレスミスも一歩間違えれば深刻なコンプライアンス問題を発生させることになる(拙稿「予定価格の積算ミス:業者にとっては死活問題」参照)。ここでは「分割発注」に焦点を当てて論じてみたい。まずは、6日の報道を紹介することから始めよう。三重県津市が「道路や河川などの公共土木施設の少額修繕工事で不適切な事務処理があったとして、市幹部を含む職員計97人を懲戒処分や文書厳重訓告にしたと発表した」とするニュースである(毎日新聞ウェブニュース「津市職員97人を処分 修繕工事、意図的に分割発注」)。具体的には以下の通りである。

市によると、2018年~19年に行った公共土木施設の修繕工事計5617件のうち、41件90カ所について、一括して発注せずに、随意契約にするために職員が予定価格が50万円以下になるよう意図的に分割発注していたという。

  要するに一定額以上の公共調達については競争入札になるところ、それを避けるために意図的に分割して小さくしたというのである。一定額以上の契約において競争入札とすることは法令上の要請である。なぜそういう規定が存在するかといえば、競争入札が財源の有効利用に資すると考えられているからである。簡単にいえば、より安い調達ができるということだ。一定額未満の場合には、競争入札の実施にかかる手間暇を考えれば費用対効果上、割に合わないので、より簡便な手続である随意契約が認められるという訳である。裏を返せば一定額以上のものについては費用対効果において、競争入札が優れた方法だということだ。

 ある工事を分割発注して、同種のいくつかの工事にして随意契約とすることは、競争入札の便宜を放棄する行いである。一言でいえば「高くつく」方法だ。つまり、合理性のない分割発注は無駄遣いの所業ということになる。

 なぜ発注機関は分割発注するのか。一つは、意中の業者に確実に発注するためである。競争入札において意中の業者に確実に発注するためには、入札参加資格や仕様の設定や、総合評価における非価格点の仕組みを意図的に操作する必要があるが、これは手間がかかるし、排除された業者にはその意図が気付かれてしまう可能が高い。一方、いわゆる特命随意契約ならば、その理由が立てばそれほど追及されることはない。特にいわゆる「少額随意契約」の場合は、「何故その業者にしたのか」についての説明責任は、そうでない随意契約の場合よりもはるかに甘いものがある。

 もう一つが、随意契約の手間をかけたくないという行政側の負担軽減の要請である。発注機関の担当者が、随意契約が可能な額を少し超えるだけの契約に競争入札を適用する合理性を認めていないケースは、実は非常に多いかもしれない。分割発注の方が費用対効果がよいという共通了解が発注機関の中で形成されているのだとするならば、法令が現実に整合していないということになる。「法令と実態の乖離」は、歪んだコンプライアンス対応を生み出す温床以外の何ものでもない。

 何よりも競争入札はその名の通り競争なのであるが、競争を用いれば全てがうまく解決するというのは幻想である。不調、不成立になればその分時間がかかる。必要な工事が必要なタイミングでなされなければそれ自体損失である。随意契約であればそのリスクは少なくなる(確実ではないが)。だから分割発注に頼ってしまう。

 法的な観点からは、地方自治法施行令上「競争入札に付することが不利と認められるとき」は随意契約が可能となっているが、それを説明することに面倒なのでこのような「例外規定」を発注機関は用いようとしない。「不合理な分割発注を禁じる」規定が存在しないのであれば(WTO政府調達協定には存在する)、法令上随意契約が可能となる「形式」を手にいれようとするのが、おそらく行政の「コンプライアンス・マインド」なのだろう。競争入札回避のための分割発注は、ある種の「グレーゾーン」といえよう。

 確かに不調、不成立のリスクを理由に競争入札が回避できるのであれば、どんな契約であってもその説明が可能になってしまう。そうすれば会計法や地方自治法といった公共契約を規律する法令は「ザル法」と化すこととなる。厳格さは重要だが、柔軟性も大事である。このバランスが欠いたときにコンプライアンス問題が発生するのであるが、このバランスが難しい。「正面突破よりも、グレーゾーン」。日本らしい対応だ。

 しかし、この「グレーゾーン」は「グレーゾーン」故に、当局が本気になれば「摘発の対象」となることも十分あり得ることに注意しなければならない。官製談合防止法(「入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律」)の牙は年々鋭くなっている。同法は、「入札等の公正を害すべき行為を行(う)」という抽象的な構成要件を有する、競争の要請に反する手続違背を広くその射程に入れる「容量の大きな」法律であり、収賄の入り口事件として絶大な効力をこれまで発揮してきた。「競争の意図的な回避」の案件は十分射程となり得る。

 分割発注は、おそらくはあらゆる地方自治体が抱えている公共契約の問題だと考えられる。津市の報道は決して他人事ではないはずだ。問題は「ではどうするのか」なのだが、「その回答がなかなか見つからないのが問題」であるのが、悩ましい。

楽天の再挑戦:「送料無料化」の突破なるか?

6月12日の産経新聞ニュースより(「楽天出店者組合、送料無料化に法的措置も」)。

楽天グループが運営するインターネット通販サイト「楽天市場」の一部出店者でつくる任意団体「楽天ユニオン」が、楽天側の一方的な契約約款の変更に対し、法的措置を含めた対応を検討していることが12日、分かった。楽天は5月、出店者に事前告知せずに、出店プランを変更する際には商品の送料無料制度への参加を義務化しており、楽天ユニオンは独占禁止法や民法に抵触する懸念を指摘している。

楽天市場(以下、「楽天」)は今年5月「出店者が出店プランを変更する場合は制度の導入を義務化するように約款を変更し」、「出店者が事業の拡大や縮小をしようとすれば、送料無料制度に参加せざるを得なくなる」(同記事)とのことだ。多少時間はかかるが結果的に(ほぼ)「一律の送料無料化」が実現できると考えているのだろう。

楽天の流通戦略の全体像については担当者に聞いてみないとわからないが、Amazon等との対抗上、楽天としてはこの送料無料化は譲れない一線ということだけはわかる。送料についてのバラバラな対応は使い勝手が悪いという印象をユーザーに与え、実際に楽天市場をよく使う筆者もそう感じることがある。確かに、送料込みの価格で比較可能であればそれでユーザー側からみた問題は解消されるともいえるが、「送料の負担」感をユーザーに与えるのはやはり一般消費者相手の商売としては避けたいところだ。「送料込みの値段」を「送料無料の値段」と称すればいいだけ(この「無料アピール」のマーケティングは宿泊施設では定番だ)という指摘もあるが、柔軟な送料設定の余地を保持しておきたい店舗も多かろう。

独禁法上の優越的地位濫用規制については過去にも触れた(「「送料無料」をめぐる攻防:楽天vs楽天ユニオン」等参照)が、改めて言及しておこう。優越的地位濫用規制は、ごく簡単にいえば、「取引関係上、強い立場(優越的な地位)にある事業者が取引相手に対して合理性を欠く要求をしたり、不利益を押し付けたりする行為を禁止する」ものであるが、ビジネスの世界においては立場の強弱は不可避のものであって、取引関係上優位にある事業者には優位にある理由があるものだ。魅力があるが故の優位であるならば、一定の交渉力を行使することを否定してはならない。何故ならばそれはビジネスの否定であるからだ。しかし、取引相手にとって他の取引相手への乗り換え(あるいは独自展開)の選択肢が喪失された状態で、そのような力の行使をするのは許されない。何故ならば、それは「魅力があるが故の優位」とはもはやいえないからだ。楽天の場合、送料無料化問題でワークマンが楽天から撤退した(拙稿「ワークマンが撤退へ:楽天「送料無料」問題②」参照)が、この場合、ワークマンは楽天との関係では「優越的地位に立たれなかった」ということになる。しかし、「今、悲鳴をあげている店舗」はそうではない。

楽天側からすれば、「楽天に魅力があるから他に乗り換えようがない」のであって、楽天の行為が「優越的地位」の「濫用」と呼ばれるのは心外だろう。優越的地位濫用規制は一部論者からは評判が悪く、立法論として「廃止すべき」との声は決して小さくはない。自由市場を機能不全に陥れる独占の弊害ではなく、取引関係上の交渉事に介入するのはもはや中小企業保護立法の発想であり独禁法への本来的要請の射程外だという意見は、理解はできる。独禁法は確かに、最近、働き方の領域にも手を伸ばし始めるなど、競争を保護したいのか、競争に参加する「者」を保護したいのか、曖昧になりつつある。曖昧にしている根源はまさに、優越的地位濫用規制なのである。

そういう事情もあってか、公正取引委員会が作成、公表している「優越的地位の濫用に関する独占禁止法上の考え方」では、競争に与える影響について、次の通り記述されるに至っている。

・・・取引の相手方の自由かつ自主的な判断による取引を阻害するとともに,・・・取引の相手方はその競争者との関係において競争上不利となる一方で,行為者はその競争者との関係において競争上有利となるおそれがある・・・。

「自由かつ自主的な判断による取引を阻害」というが、何をもって「自由かつ自主的」というのかは曖昧すぎて、このような基準はあまり「役に立たない」と考える論者は少なくないはずだ(筆者もその一人である)。独禁法である以上、競争への影響を問題視せねば、ということで「競争上の不利・有利」という記述を「接ぎ木」したのだろうが、自由市場それ自体の機能不全を問題にしているのか、個別の競い合いのレベルの話をしているのか、これもまた曖昧である。

この「競争上の不利・有利」ということを問題にするならば、今回の楽天の再度の挑戦はどう評価できるのだろうか。

楽天はこの送料無料化で競争上有利となるか。なるだろう。しかしそれはAmazon等との対抗上、必要な競争上の有利化である。不当なそれではないはずだ。では、店舗はこの送料無料化で競争上不利となるか。楽天の店舗が「楽天以外の選択肢を持たない」という前提であれば、一律の送料無料化は「誰を不利にする訳でも有利にする訳でもない」という理屈が成り立つかもしれない。楽天に乗っている限りでは条件は同じのはずだからである。楽天以外との戦いにおいて有利・不利があるというのであれば、それは楽天それ自体の有利・不利ということになるが、その点においては楽天が有利になるのであれば店舗も有利になるという関係があるのではないだろうか。そのような疑問に店舗側はどう答えるのか、一つのポイントになるかもしれない。

楽天は昨年、公正取引委員会から独禁法違反の疑いを指摘され、送料無料化案を一旦撤回している。今回は、約款改正を絡め、プランの変更という条件付きでの送料無料化とのことなので、事情は前回とは違うということか。リーガル部門が「何をどう評価した」のか筆者にはわからないが、優越的地位濫用規制の一つの肝である「双方間で条件を詰める交渉のプロセス」はどのようなものだったのか、そしてこれからどうなるかが気になるところである(報道を見る限りでは「これまでは一方的だった」とのことであるが)。

公正取引委員会はどう動くだろうか。今後さらに事実が明らかになった段階で、もう一度筆を執りたいと思う。

止まらない官製談合:犯罪の背景を読み解くことが重要

官製談合防止法での摘発が相次いでいる。19日にも、こんなニュースがあった。何度も繰り返し聞いたような話だ。

去年、糸魚川市が発注した公衆トイレの整備工事の入札を巡り、事前に工事価格を業者に教えて落札させたなどとして、糸魚川市の48歳の係長と建設会社の営業担当者が官製談合防止法違反などの疑いで19日夜、警察に逮捕されました。

筆者はこれまでに数回、官製談合関連の論考を書いてきたが、改めてこのトレンドをどう説明したらよいのだろうか、を考えてみる。

 最近特に目立つのが、価格に関する情報漏洩である。特定の業者を意図的に排除する入札参加資格の設定とか、指名業者選定に係る恣意的な操作のケースもあるが、情報漏洩、それも発注者側の積算価格に関する情報漏洩のケースが、報道に接する限り、大半を占めている。

 ただこの価格に関連する情報には二つのタイプがあることに注意が必要だ。一つは業界の中で競争が激化し、値段が下がり切っている状況での情報漏洩だ。この場合、最低制限価格という下限価格(それ未満の入札は失格になる価格)付近での受注を目指して競争しているから、その設定された額を行政から聞き出せばその業者の受注の可能性が格段に高まる。そこで、特定の業者と行政職員の癒着という構造が見えてくる。警察は、この特定の人間関係の中での接待とか金品の授受とかを狙うことになる。

 もう一方が、予定価格付近での受注を狙っての情報の受領だ。この場合は競争が激しくなく、業界で談合構造が成り立っていることが推測される。その仕切り役が行政の幹部や担当者から情報を聞き出し、それを元に業者間で調整するというものだ。この場合、個別の入札に関する金銭の授受といった不正には結び付きにくい。どちらかというと「官民間の長年の付き合い」だからだ。金銭の授受があるとすると、それは相当長期間の、それも中枢に至る癒着の構造が疑われる。

 手口は複雑である。談合構造に反発する業者、除け者にされている業者に入札参加資格を与えないように発注者が恣意的に操作することもあり得る。アウトサイダーが応札する場合には他の業者が意図的にダンピング受注し、割りが合わないと諦めて入札に参加しなくなったらまた高値受注をするといった「いじめのような慣行」を聞いたこともある。この場合、指名業者や応札業者の名前を行政が漏らしているのだろうか。行政が協力すれば「何でもあり」になる。

談合が行政にとって高くつくならば反発するはずだが、談合を見て見ぬふりをする行政も少なくないように思う。何故か。例えば、次のような理由を挙げることができる。

 第一に、談合による高値受注よりも業界の安定を優先しようとするマインドが行政の一部にあるからだ。業界が安定すれば公共の事業も容易になる。そう考えているのだろう。行政が業界に協力的であれば、安定受注の見返りに、行政に何か不都合な事態が生じたときに業者は「うまい具合に」対応してくれる。地元でのトラブルなど予想外の出来事に柔軟に対応できるのは行政の方ではなく、民間の方である。「貸し借り」がないと頼めるものも頼めなくなる。談合がないと困るのは行政である…そんな本音がどこかにあるのではないか。

 第二に、計上された予算を有効利用しようという発想が足りないからだ。それは自分のポケットマネーではないので、予算を目一杯使用することに抵抗感がない。一昔前は、予算は計算されたものなのだから全部使うのは当たり前という感覚すら行政にはあった。行政にとって計画は無謬でなければならないようだ。そんなことは「決して」ないはずなのだが。

当初契約では低入札価格で落札しておいて、その後、設計変更、契約変更によって「埋め合わせる」、そういった受発注者間での結託のケースに注意が必要だ。契約変更でどれだけ金額が変わったか、そしてそれが適正な根拠に基づくものなのか、ここに注目である。「入札」ばかりに目を奪われると悪質な不正は見抜けない。しかし、このようなケースは多くの場合、「入札の公正」を害すべきことを禁じる官製談合防止法の射程外となるだろう。刑法典であれば背任の射程に入るものだろうが、立証は大変だ。立法論として、公共契約における不正な操作に関する罪の創設は一考に値するのではないだろうか。

 公共契約について警察向けの研修をする場合でも行政向けの研修をする場合でも、私は官製談合防止法の射程の広さを強調するだろう。官製談合防止法において罪となるのは「入札等の公正を害すべき行為」である。秘密にすべき情報の漏洩は形式上、これに該当する。判例の傾向を見ると、競争の結果に重大な影響を与えなくても、競争手続への信頼を害することそれ自体で、この「公正を害す」るとの認定がなされているようである。手続違背、即犯罪という運用がなされてもおかしくない状況にある。そもそもどのような情報が秘密にされるべきで、あるいはそうでないか微妙なものも少なくない。警察にとってはとっかかりとして「狙い目」であり、行政にとってはひたすら「脅威」である。地方自治体の幹部職員には業界との調整に長けた人が少なくないが、そういった「遣り手」ほど、リスクが高いともいえそうだ。射程の広すぎる犯罪の存在は、法の支配という観点から決して望ましいこととは思わないが、それが現実である。

繰り返される下請法違反

19日の時事通信の記事(「下請法違反でマツダに勧告 手数料名目で5100万円徴収 公取委」)より。

自動車大手マツダ(広島県府中町)が下請け業者に対し、手数料名目で計約5100万円を不当に支払わせていたとして、公正取引委員会は19日、下請法違反で同社に再発防止を勧告した。

記事によると、「同社は2018年11月~19年10月、下請けの資材メーカー3社に対し、手数料名目で計約5100万円を請求し、支払わせて」おり、「手数料はマツダが委託する部品メーカーと3社との取引量に応じて決められ、マツダが毎月請求していた」。「こうした請求は少なくとも昭和50年代ごろから続いていたとみられるが、資材メーカー側にメリットはなかった」とのことである。

マツダ側は公取委に指摘されるまで「違反と認識していなかった」というが、合理性の欠ける一方的な金銭の徴収は下請法違反の典型なので、なぜ違反の認識がなかったのか。大企業にとって下請法は「コンプライアンスでお馴染み」の法律なのだが、その対応はどうなっていたのであろうか。「昭和50年代ごろから続いていた」慣行なので、当然視して意識にのぼらなかったか、あるいは「今更、問題にしてもややこしくなるだけ」ということで敢えて見なかったことにしたか。

「コンプライアンス」と簡単にいうが、こうした掘り起こせない、あるいは掘り起こしたくない問題が、歴史ある企業には少なからず存在するので悩ましい。特に下請関係は長い間かけて形成された慣行のようなものが多かろうから、尚更である。担当者は見て見ぬ振りをするか、本当に見えていない。

この「手数料請求」の慣行を止めて値引き分として相手に合意させようとすればそれはそれで下請法上の問題が生じるかもしれない。せっかく支払わせていたものを失いたくない、失えばその時の担当がいろいろいわれる。その引き継ぎが繰り返され、今に至った。そして考えることもしなくなった。そんなところだろうか。

今更止める訳にもいかない。問題になったらそれは事故に遭ったようなものと考えよう。そういう「エクスキューズ」が企業には存在しないか。それはまるで今もなお根強く残っているだろう地方での入札談合と同じようなものだ。

マツダは「08年にも、部品の製造を委託する58社に対し、支払うべき代金から計約7億7900万円を不当に減額したとして、下請法違反で勧告を受けていた」(上記記事)という。そこで宣言しただろう「コンプライアンスの徹底」は何だったのか。

ややこしそうな問題はできる限り自分の担当のときには触れたくない。それはどの組織にも見られるマインドである。「仕事を増やしたくない」「責任を取りたくない」、そういった「面倒」を避けたい心理が働き易いのだろう。コンプライアンスはそういったマイナスの心理との戦いであるともいえる。やはり重要なのはトップのコミットメントである。

頻発する官製の入札不正について

官製談合防止法違反の摘発が相次いでいる。ニュースの検索をかけるとほぼ毎日のように官製談合防止法違反事件の記事が出てくる。昨日、今日(2021年2月13、14日)も、京都・南丹市幹部摘発の報道があった。まるで、全国で摘発キャンペーンが行われているかのようである。

予定価格を聞き出すといった情報漏洩の事件が目立つ。業者側を刑法上の公契約関係競売入札妨害罪で摘発し、それに応じた発注機関職員を官製談合防止法違反で摘発するというのが典型だ。入札談合への関与のケースもあるが、多くは特定の業者が抜け駆け的に発注機関職員と癒着し、入札で有利になろうとするものだ。官製談合防止法の正式名称は「入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律」だ。官製談合防止法という略称が、「また談合か」と思わせるので、ややミスリーディングのような気はする。官公庁では官製談合防止法とは呼ばずに、「入札談合等関与行為防止法」と慎重な言い回しをするが、大した違いはない。「等」というエクスキューズがあるだけだ(そこが役人にとって重要なのだが)。

ただ入札談合もいまだに根強く残っている地域も少なくない、というのが筆者の見立てである。いまだに「談合がないと業界が疲弊する」「地方が疲弊する」などという言い訳を聞くことがある。「地域の災害対応の担い手がいなくなる」という深刻な事情も確かにある。

過去に、記者から談合業者に対する指名停止について問われ、一定期間指名停止にするがその期間は発注それ自体をしないと答えた首長がいたのを思い出す。業界の保護が先にあるのだ。そしてその首長はそう発言したとしても自分への有権者からの支持が崩れない、という空気を感じ取っていたのであろう。それが一部地方の現状なのかもしれない。この調子では談合がなくなる訳がない。

談合金の授受のような事情がない限り、言い換えれば単なる談合は刑法の談合罪には抵触しない、という地裁判決が出たのが昭和43年だった。最高裁判決の考え方とは食い違っていたが、そのまま控訴されずに確定してしまった。以降、単なる談合はセーフという今では考えられない法実務が半ば暗黙の了解になってしまった。独占禁止法の適用も低調だった。談合に対する厳格な態度を法がとり始めたのは平成に入ってからである。その背景には日米構造協議という「外圧」があった。

平成17年の、課徴金減免制度が導入されるなどの独占禁止法の大改正のタイミングで、大手ゼネコンは共同で「談合決別宣言」を出した。正確には「(談合を含む)旧来のしきたりとの決別宣言」である。何が「旧来のしきたり」なのかは、話すと長くなる。興味がある方は是非、拙著『公共調達と競争政策の法的構造(第2版)』(上智大学出版、2017年)をお読みいただきたい。筆者は「談合擁護論者」ではまったくないが、なぜ談合が長い間「必要悪」などといわれてきたのかを理解することは重要だ。

一部の談合体質が残っている地域は、このタイミングでの「切り替え」に失敗した。いや、そもそも切り替えるつもり自体がなかったようにも思われる。大手ゼネコンが決別宣言を出せた背景には、公共工事品質確保法という法律が上記の独占禁止法改正と同時に制定されたことがある。この法律では、公共工事は価格だけではなく技術や経験を重視して「優良な業者」に発注するべきことが宣言されている。価格だけの競争の下で価格を調整する談合は止めにして、品質をめぐる厳しい競い合いを通じて勝ち残った業者が透明でドライな契約を締結する。「不透明な貸し借りは今後一切なしだ」という宣言なのである。

しかし、地方は国とは事情が異なった。特に中小の地方公共団体はそうである。そもそも価格以外の要素を総合的に勘案するような手の込んだ入札方式を実施するだけの余裕がない。「貸し借り」がなければ回る工事も回らない。地元では官も民も皆、顔見知りだ。ドライな契約など相互不信を招くだけだ。そんな空気が強いのだろう。

そういう状況に理解のある地方公共団体の幹部は、極めてリスキーな立場に置かれている。確認しておきたいのは、競争入札を採用した以上、その手続に反することは競争の侵害と評価される妨害行為に該当する可能性があるということだ。当局に自分たちの事情を斟酌してもらおうなどとは期待しない方がよい。裁判所も同様だ。競争入札を採用しておいて、それと矛盾する行為をした以上、それは有権者、納税者に対する裏切り行為だ。ただの癒着のようにしか見えず、誰も相手にしてくれはしない。救いようのない癒着、腐敗のケースも実際、たくさんあり、それらと同列にしか見られないのだ。

 “Alliance”という「働き方」

<書評>

Reid Hoffman, Ben Casnocha and Chris Yeh, The Alliance: Managing Talent in the Networked Age, Harvard Business Review Press (2014). 邦訳:リード・ホフマン=ベン・カスノーカ=クリス・イェ(篠田真貴子監訳)『ALLIANCE:人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用』ダイヤモンド社(2015)。

1 「alliance連携、提携」という言葉を聞くと、反射的に競争制限の問題に結び付けようとするのは経済法学者の悪い習性だ。「corporation協力」「collaboration協働」も同様だ。そこに何か「反競争」の臭いを嗅ぎ取ろうとする。一方、経営戦略やマーケティングの世界では、これらの言葉は中立か、肯定的な言葉として用いられることがほとんどだ。それらが経営資源の充実化や有効なマーケティングの手法を語る文脈で登場する言葉だからだ。

独占禁止法の世界と経営戦略やマーケティングの世界との間に存在する距離感というか、関係性は面白い。1970年代と80年代にブームとなったマイケル・ポーター(Michael Porter)の(豊富なケース分析を踏まえた)競争優位戦略は、後から振り返ってみると、80年代からしばらくの間、経済法学者が好んで言及した産業組織論で見かける「相手のコストを引き上げる戦略」として説明される競争制限行為を論じていたようにも見える。独占禁止法はいつでも後追いである。一番先に現場が試行錯誤しながらビジネスのプラクティスを開拓し、それを経営学、商業学の世界がキャッチ・アップし、経済学が(大抵の場合)後知恵的に理論化と実証を進め、その後に独占禁止法が周回遅れで駆け込んでくる。ビジネス界で競争優位の「決定打」が出てくるとしばらく称賛されるが、独占禁止法という鬼が出てきて「積み重ねた石」を壊しにやってくる。

それも米欧の流れを後追いするから、ビジネスのフロンティアから見れば「先頭から2周遅れ」となる。この国における独占禁止法学者としての評価は、この2週遅れを1周半遅れにできるかどうかにかかっているという残念な状況にあるのが現実である。それはビジネスに関連する法分野に共通する話なのかもしれない。

Ⅱ 『ALLIANCE』と題された著作が2014年に出版された。著者は3名で、その中心はリード・ホフマン(Reid Hoffman)だ。ホフマンは、LinkedInの創業者として知られており、その前はPay Palの創業者として知られていた、シリコンバレーを象徴する起業家の一人だ。2016年にLinkedInはMicrosoftに買収されたが、その価格は日本円で約3兆だった。LinkedInの創業は2002年であり、15年間でそこまで大きくしたということになる。莫大な資本を背景として、ホフマンは投資家としても大きな影響をシリコンバレーに与えている。

『ALLIANCE』は、シリコンバレーにおける働き方、人と人との関わり方を論じるもので、その名の通り、allianceという発想がシリコンバレーの成長の源泉になっていることを説く。企業は(米国でも)かつては終身雇用をスタンダードとしていたが、少し前のトレンドは自由意思によるドライな契約関係として捉え直されるようになった。雇用主は「家族」として迎えるといいつつ、都合が悪くなれば容易に従業員を「切り捨て要員」として扱い、従業員側としても「忠誠を誓う」フリをしておきながら、常に転職の機会を伺うという、緊張関係が形成されてしまっている。

『ALLIANCE』は、終身雇用がスタンダードだった時代の、雇用主、従業員間の「家族・忠誠」のような関係でもなく、その後のドライな「取引」のような関係でもない、allianceの関係を新機軸として打ち立てようとする。企業を退職した従業員はただの「退職者」ではなく、チームを組むべき新たなパートナー候補である。そのためには働き方のヴィジョンを、闇雲なコミットメントではない、プロジェクトベースのコミットメントとして捉え直すことが必要であり、その期間もそれに応じたものとして規定されるべきという。そうすることで退職した人材は、退職によって得られた活動の自由とその企業において培ったスキルと経験をその企業に再び活かせる効用の両方を獲得することができるし、企業側は退職に伴う人材の流出のデメリットを最小限にすることができる。

こうした人材が退職後に獲得し、伸張する情報ネットワークを新規に利用することが可能になるのであるから、損失の減少ではなく、利益の増大として「退職」を捉えることもできる。つまり、人材を「チームの一員」と理解することにより、現職の、そして退職後の人材を有効に活用することが可能になる。重要なことはその人材を見極めることである。そしてその人材がもつ価値観や目標を自社のもつ価値観や目標と整合的な範囲で、どのようなプロジェクトを遂行できるかを理解することである。そのためには自社のことを知らなければならない。何よりも対話が重要である。

人材のネットワークとは情報のネットワークである。人材の魅力は情報へのアンテナの感度であり、情報へのアクセシビリティーである。どれだけのリンクを持っているか、がその人材のポテンシャルであり、それを如何につなぎ、自社のプロジェクトに還元するかが、企業経営者の腕の見せ所だ。シリコンバレーが成長したのは、そういった人材のクラスターが、幾重にも連なり、それが縦横に張り巡らされているからだ、というのは、確かに本質をついている。

退職者は離職者ではなく卒業生だ。卒業生がOB・OG会を通じてネットワークができるように、シリコンバレーでは、退職者はallianceのための新たな人材バンクとなる。もちろん無能な人材は淘汰されるが、生き残った人材は(優れた人材ネットワークという)ブランドの形成に貢献し、さらに魅力ある人材を引きつける。これがシリコンバレーの力の源泉だ、とこの著書は強調する。ビジネスのネットワークとは何らかの意味での「卒業生のネットワーク(alumni network)」だ。日本での(ウェブ系の)青年実業家たちの情報網も似たようなものがあるのかもしれない。

Ⅲ  経営学者の楠木建は『ALL REVIEW』掲載の、この著の書評において次のように述べている(https://allreviews.jp/review/1232)。

経営という「人の世の営み」では、大切なことほど「言われてみれば当たり前」のことが多い。本書にしても、一見新しい提案のように早えるが、その実、古今東西の人間にとつて最も自然な「仕事の姿」をストレートに描いている。子供のころに遊んだ「お店屋さんごっこ」を思い出してほしい。そこで(暗黙のうちに)想定されていた「雇用」はここに描かれていたアライアンスの関係そのものではなかっただろうか。人間の本性を直視した、真っ当過ぎるぐらい真っ当な主張。原点回帰の書である。

「お店屋さんごっこ」は「原点回帰」過ぎだが、「古今東西の人間にとつて最も自然な『仕事の姿』」である点には素直に賛成したい。流動化し過ぎたバラバラな働き方こそ歴史的には異質なものだ。

『ALLIANCE』が描く、退職後の当該企業との関わり方については、終身雇用、家族的企業観が通常視されていた時代においてもある程度見られたのではないか。バブル崩壊までの日本は、単一の企業に定年まで勤め上げる労働者が多数いる一方で、独立して事業を立ち上げる人も少なくなかった。そのうち少なくない数の人は、元いた企業と何らかの関わりを持つ事業を展開した。例えばある製造業者のセールスマンが、その独立後、この製造業者の商品の流通業者になったり、販売代理店になったり、あるいは技術系従業員がその独立後、下請工場を経営したり、といった具合に、である。ただ、これらは『ALLIANCE』が描く働き方よりも、コミットメントが強くかつ長期に渡るものである。資本関係はなくとも実質、グループ化された事業活動である。資本関係がないので切り捨て対象になり易いようにも見えるが、独占禁止法上の優越的地位濫用規制や下請法の出る幕のあまりない、「出世組の同期」が面倒を見てくれる「半分家族」の提携、連携だ。

Ⅳ  『ALLIANCE』の描写は確かに、少し単純過ぎるかもしれない。ただ、『ALLIANCE』の表現したい世界は、その関係を引き剥がすことができない家族的なコミットメントと(相互不信を伴う)不安定なぶつ切りのコミットメント(それは非コミットメントといってもよいかもしれない)の間にある何か、というだけではない。

「情報ネットワーク」としての人材間の連携というシリコンバレー特有の特徴を描写しようとしていることには注意を要する。シリコンバレーは情報産業の「メッカ」だ。それだけに人材のネットワークにアクセスが容易で、各々が有する情報をマッチングさせるコミュニケーション力に長けた人々をチームとして迎え容れ、プロジェクトを遂行する、そういうビジネスが展開される。アイデアをつなぎ合わせることで成り立つネット系、ウェブ系のビジネスの多くはそういう互恵関係にある限りでのコミットメントに馴染み易い。強調していうならば、一人一人が有能なアントレプレナーであって、あるいは有能なフリーランサーであって、彼女ら、彼らは、相互に有能と認めた限りにおいて、チームを形成する。そのブランドが新しい有能な人材の参入を促進する。どのチームにも貢献できない人材は容赦なく退出させられる。シリコンバレーとは、ブランド化された情報とスキルのネットワークなのである。

Ⅴ 「チーム」とか「信頼」のような言葉を聞くと、「血の通った温かいコミュニティー」を想起してしまうが、そうではない。チームに入るための信頼の基礎はその人材のスキルにかかっている。シリコンバレーでは情報へのアクセシビリティ、外部人材のネットワーク力にかかっている。スキルがない人材はお呼びではない、のである。シリコンバレーはチームに入れない人材を「効率的に無用化」する仕組みがうまくできている世界、というところに本質がある。

チームに入れない人材を無用化するというのは、別にシリコンバレーに始まったものでもあるまい。コンサルティング・ファームや大手弁護士事務所でもチームで行動する。能力をアピールできない人材にはチームに招かれないので、居場所がなく、給与が低く抑えられたり、契約更新の機会が与えられなかったりする。シリコンバレーで見られる現象は、各々の人材の独立性が高いそういった世界ではしばしば見られるものである。

『ALLIANCE』の邦訳の副題にあるように、allianceを形成する基礎は「信頼」にある。しかしその信頼は闇雲なそれではなく、個々の人材の能力(情報へのアクセシビリティー、有能な人材のネットワーク力)に裏打ちされたそれである。

互恵関係に参画できない人材は「信頼」がない。「信頼」は互いに認め合った仲にのみ限定されたもの。つまり共同体主義とは程遠い、ドライ過ぎるぐらいの実力主義がその前提にある。「チーム」というと聞こえはよいが、その実、「チームに入れない人材」から見れば極めて排他的なものなのである。

シリコンバレーは、有能な人材が居場所を作りやすく、さらに高いスキルを身につけ、大きな創造を生み出す場所である。参入障壁は低くない。

Ⅵ  シリコンバレーというとGAFAのような情報産業における巨大企業のイメージが先行して、その結果としての脅威ばかりが強調される傾向にあるが、どうしてこのような世界における先進的な企業が出現するのか、という過程にはあまり着目されてこなかった。この本はビジネスに関心がある人々全ての大きな示唆を与える本だと言える。

『ALLIANCE』の主張は、人材を取引の対象として扱う、流動性が重視されたポスト終身雇用の労働観に対するアンチテーゼとして提示された、人材間の関係性を重視するものの見方なのであるが、コミットメントの対象とその期間に限定された互恵性を上手に利用する限りにおいて成り立つ関係である。Win-Win関係であることを前提としていることについては「冷たい」関係だが、有能な人間の間では「情熱的」で「充実」した「働き方」であり続けるのである。関係性を重視するといっても、それは契約の自由の範疇で語られるものであり、むしろ契約の自由の世界における淘汰の結果としての(働き方に係る)ビジネスモデルである。それが楠木のいうような原点回帰という点が興味深いのであって、同時に資本主義の進化形であるともいえるのだ。

関係性を重視する労働観というと、フリーランス人材と企業と間の労務提供契約を規律する優越的地位濫用規制と整合的であるように考えるべきではない。 Alex Rosenblatの『ウーバランド(Uberland)』が描写したテクノロジー企業たるプラットフォーマーと(実際上はそうではない)アントレプレナーであるフリーランサーとの緊張関係のようなものは、そこには存在しない。そのサークル内に存在するのは、一人一人が「ウーバー」になり得る知的人材であり、それが「チーム」なのであって、日本でいえば「ウーバーイーツ」の配達員は「チーム」ではなく、「ギグエコノミー」の世界の中でプラットフォーマーと緊張関係にある「働く人」なのである。シリコンバレーの「チーム」にいるのは、「ウーバーのなり手」なのであって、「ウーバーでの働き手」ではない。グーグルやFacebookのユーザーやAmazonの出品者は、これらの企業の利益の源泉であるが、シリコンバレー的世界の一員ではない。

 また、関係性が重要だといっても、90年代に話題となった関係性から契約の解釈を行おうという私法観を想起すべきではない。関係が契約を決めるのではなく、関係を重視した契約を結ぶのである。チームへの貢献がなければ契約は解消する。だからプロジェクトがベースになるのである。ギグエコノミーのように小刻みではないが、将来の成長に結び付かない過去の関係は無意味となる。経営資源としての意味を有する限りにおいて、allianceが成り立つのである。

Ⅶ  『ALLIANCE』では、シリコンバレーの世界を構成する人材は重要な情報源として語られている。そしてシリコンバレーが展開するビジネスのユーザーもまた情報源となっている。しかし、両者には決定的な違いがある。それは前者が経営資源としての情報の源泉であるのに対して、後者はビジネスのためのデータベース(ビッグ・データ)そのものである。

シリコンバレーの成長の鍵が「情報」との向き合い方にある一方、シリコンバレーの市場支配の鍵も「情報」との向き合い方にある。独占禁止法が警戒するのは後者である。前者は確かに排他的ではあるものの、市場における競争制限をもたらすものではない限り、独占禁止法は手を出せない。日本の場合、優越的地位濫用という伝家の宝刀があるが、それを抜くシーンもおそらくないだろう。一人一人が有能で独立性の高いフリーランサーは、独占禁止法の関心の射程外である。ある企業に優越的地位に立たれるような人材は、そもそもシリコンバレーには招かれていないのだ。

Ⅷ  セオドア・レビット(Theodore Levitt)が「マーケティング・マイオピア(Marketing Myopia)」をHarvard Business Reviewに発表してから60年が経つ。環境の変化に適応できない経営は淘汰される。人材へのアプローチも同様だ。『ALLIANCE』の描写する「働き方」はもちろん、世の中に存在するあらゆる産業や組織にぴったり当てはまるものではないけれども、あらゆる産業や組織を取り巻く技術の変化のスピードが加速し、人々の生きる環境が変化すれば、人材、働き方の発想も従来の常識が通用しなくなるのも当然だ。近い将来、『ALLIANCE』の世界が常識となり、やがてそれが古めかしい、時代遅れのものになる日が到来するのかもしれない。この本の中でホフマンらがジャック・ウェルチ(Jack Welch)を批判したように、私たちの知らない次世代ビジネスのフロントランナーたちがシリコンバレーの住人を「過去の人々」と揶揄することだって、十分にあり得るのだ(そうなるのが運命ともいえる)。ウェルチだって、ベストセラーとなったCarol Dweckの『マインドセット(Mindset)』の中で、柔軟で、変化によく適応できるお手本のような経営者だと絶賛されていた。

そう考えると、変わりゆく世の中において新しいものは何かを探る作業よりも、それでも変わらないものは何かを探る作業の方が興味深いものともいえる。それが時代の変化に疎い、法学者的なものの見方だといわれるとしても、決して否定はしない。

ミサイル監視の衛星研究を「22円」で落札?

たまに見かける公共契約における「ただ同然の受注」だが、今度は防衛省で出てきた。

2021年1月23日の毎日新聞のニュース(「契約額は「22円」 三菱電機、ミサイル監視の衛星研究を驚きの低価格で受注」)より。

防衛省が、中国や北朝鮮などが開発する新型ミサイルを人工衛星で監視する最新技術の調査研究を委託するため、競争入札にかけたところ、大手総合電機メーカーの三菱電機が22円で受注したことが防衛省への取材で明らかになった。

記事では、「これまで聞いたことがない低い額で驚いている」との防衛省関係者のコメントを載せているが、筆者にとって驚きはない。理由は簡単で、当該業者はその額でもメリットがある、と考えているだろうからである。

応札金額を間違えたのではないなら、極端な低価格入札の背景(業者側の思惑)は大きく分けて二つ。

一つは、自身にとって将来への投資と考えているということ。新しい技術への投資は受注と無関係に必要なもので、それこそ防衛の実践に係るものであるならば、そのような投資は将来の「何か」に役立つはずだ、と考えているはずだ。国家が存在する以上、防衛は切り離せないものであるというならば、このような投資は(防衛省と今後なされる情報交換等も考えれば)ただでも(あるいはお金を払ってでも)やっておきたい、と考えるのは自然な発想だ。

もう一つが、これによって「さらなる何かの受注」が期待できるということ。それが何かは防衛産業に詳しい人物に聞かなければならないが、調達の世界では(官民問わず)次の何かが前の何かにリンクしているならば、それは大きなビジネスになる。次は随意契約かもしれないし、競争入札でも一者応札になるかもしれない。だから私たちは「次の何か」に注目すべきなのである。

この点について一つ注意点を示しておきたい。前の受注に密にリンクする後の発注で、後の発注が競争入札(企画競争型の随意契約も含む)で行われる場合、特定の企業との間で発注に係る特定の情報が「事前に」発注機関と共有されるおそれがある(むしろそれが通常だ)ということである。その場合、後の入札の公正さが害される危険があり、リーガルの問題が生じることになる。多くの場合、特命での随意契約が選択される。この場合、価格は交渉となるが、一般的には業者側が有利である。

その他に「受注することが名誉だから」「評判効果を考えて」という理由も、極端な低価格入札のケースでしばしば聞くが、今回はそういう問題ではないだろう。三菱電機といえば、この業界では定番ともいえる有名企業だ。

最後に、法令上の問題について。上記記事はこう書いている。

同省によると、過去には数百円程度の低額の入札もあったが、最近はなかったという。同省は想定していた調査研究費を明らかにしていないが、少なくとも数百万円以上とみられる。入札額は10万分の1以下となる計算で、同省は弁護士に契約に問題がないか相談し、三菱電機側にも調査の履行が可能かを確認したが、いずれも問題なかったという。

履行確認をするのは当然だが、できると回答するのも当然だ。仮に1000万円が予定価格だったとしても、三菱電機にとって「ただ同然だから低品質になる」訳がない。このようなケースの場合、その契約のその金額だけで品質が決まるものではない。

またリーガル面ではどうか。まず、入札の仕組みとして22円での応札を許している以上、会計法上の問題は生じない。あるとしたら独占禁止法だ。不公正な取引方法にいう不当廉売規制はその候補になるが、これによってどのような市場の、どのような競争が妨げられたというのだろうか。公共建設工事などで見られる、連続する、極端な低価格入札のケースでも「警告」止まりである。リーガルで問題にならないとは不当廉売規制の射程に入っていないということだろう(過去にオリンピック用マットの調達のケースで極端な安値受注のケースがあった。筆者の論考(「東京五輪空手用マット「1円落札」は妥当か?」)を参照頂きたい)。一応、公正取引委員会には情報だけは提供しているのだろうか。

現代情報産業と独占禁止法

前回の論考(「『新しい地図』とGAFA:改めて考える芸能界における「圧力」問題と独占禁止法」)では、「文春オンライン」の杉本和行前公正取引委員会委員長へのインタビューの前半部分(「杉本和行元公取委員長インタビュー#1:元SMAPの3人めぐって…公正取引委員会がジャニーズ事務所を「注意」した真意とは」)を素材に、芸能界と独禁法の関係を中心に論じたが、今回の論考ではこのインタビューの後半部分(「杉本和行元公取委員長インタビュー#2:『公務員のデジタル人材調達は難しい』GAFA時代の競争、日本はどう規制すべきなのか」)を素材に、主としてデジタル社会における政策のあり方について論じてみたい。

杉本氏は「公取ではプラットフォーム企業の実態を把握するためのチームを作った」のか、という質問に対して、こんなことをいう。

専属部隊を作ったんですけど、公取の中にデジタルの専門家がいるわけではありませんからね。外部の専門家の知恵を借りましたし、事務方も一から勉強しました。とはいえ、やはり基本的なところから勉強しなければなりませんから、やはりIT技術の専門家を招く必要もあるわけです。ただ、今の公務員のシステムではなかなか……。

情報技術は恐ろしく速いスピードで進化していく。この技術のフロンティアをキャッチ・アップしている人材は少なく、その市場価値は大きい。一から勉強しているうちに技術は次のステージに移っているかもしれず、産業の姿は様変わりしているかもしれない。

20年数年前にマイクロソフトが反トラスト法違反で司法省から訴えられた際、この分野の技術の進展のスピードは速く、常に革新を目指して競争的に振舞わなければ一見支配的かのように映る現在の構造は脆く崩れ去るだろう(だからマイクロソフトを支配的企業というのはナンセンスだ)、といった趣旨の反論をしていたと記憶しているが、当時、GoogleやFacebookといった企業が反トラスト法のターゲットになるような今の事態を誰が想像しただろうか。10年後、20年後にはこれらの企業が勢いをなくし、次の技術の波に乗っかった別の企業が今では想像もつかない形で情報産業を席巻しているかもしれない(私はそういった支配的企業の自由市場を通じた衰退の過程に関心がある。独占禁止法による弱体化ではなくて)。

法律はいつも後追いである。ある産業におけるある企業のある行動が反競争的かどうかを、独占禁止法は見極めなければならないが、新しい産業や新しいビジネススタイルについては、それが分かるのはいつも後になってからだ。露骨なカルテルや入札談合ならば、有無をいわさずアウトの判定ができようが、デジタル・プラットフォーマーの行動はどうだろうか。デジタル人材が不足しているのでどうしたらよいかということに悩む公正取引委員会の姿が悩ましい。今のアメリカで、「効率性の追求」ではなく「大きいものへの警戒」を反トラスト法の基本思想に据えようという考えが支持されつつあるのも、そういう「わからない」「わかり得ない」ことへの不安が背景にあるのかもしれない。

産業における現実、企業行動が先にあり、マーケティング学、経営戦略論、そして経済学がそれに続き、行政が悩み、法律家が最後に出てくる。それも日本の場合、欧米の後追いであることが多い。私が90年代、学部生の頃に勉強した70年代から80年前後のマイケル・ポーターの戦略論は、単純にいえば「競争優位=効果的な障壁の形成」の話なのだが、後から考えれば独占禁止法の標的になることがたくさん盛り込まれていた。独占禁止法がトレンドにしたのは随分後になってからのことである。さて、デジタル・プラットフォーマーに対する独占禁止法のアプローチはどこまでそういった「時間差」を短縮できるか。そうこうしているうちに、技術革新が進み、事情が変わってしまうかもしれない。

話を杉本氏に戻そう。

杉本氏はデジタル・プラットフォーマーの優位は情報量における優位と考え、そういったデータをプラットフォーム企業がオープンにし、他企業が産業インフラとして利用できるようにすべきだ、と主張する。

プラットフォームは競合企業にデータへのアクセス権を設定する。その代わり、企業はプラットフォームに対してアクセス料金を支払う。これは、競争政策におけるエッセンシャル・ファシリティの考え方なんです。「不可欠資産」とも言うんですが、例えば電力会社の配送電網とか、携帯電話の電波網などは限られた資源で、既存事業者によって寡占・独占にならざるを得ない。そこに競争原理を入れて、企業が新規参入できるようにするためには、独占状態になっている不可欠資産に対するアクセス権を設定してあげることが必要になってきます。

 競争を回復(維持、創出)させるために必要な資源に他社をアクセスさせる方法は、独占禁止法の適用においてはもはや「古典的手法」の域といえようが、元々国有企業だった業者(資源形成のコスト自体が税金によって賄われた)に対してはまだしも、民間企業の創意、工夫、努力によって形成された資源の場合、「優位になったから開放せよ」では市場の否定ともなりかねない。自由市場を信頼して新たな技術革新にかけるのか、それとも競争条件の矯正された平等を重視するのか、のものの見方(哲学)の違いである。自由市場に期待できないのであれば社会主義的な発想をするのがストレートなのだが、そこを競争政策に期待し続け自由市場の看板を下ろさないところに、問うべき論点がある。

「競争」という言葉は多義的である。かつては独占禁止法の世界では、「平等であることが競争である」という考え方が根強かった。それは放っておいたら競争できない業者が独占禁止法の介入によって競争できる状態にすること、すなわち「格差の解消」を「競争」という言葉に置き換えたものである。一方、アメリカの反トラスト法の世界では「競争」を「価格が安くなること」と読み替える考え方がここ半世紀ほど根強かった。だからデジタル・プラットフォーマー規制に悩むのである。

独占禁止法はその目的規定にあるように「公正且つ自由な競争」を促進する法律である。そして「一般消費者の利益」「国民経済の民主的で健全な発達」のためにある法律である。「公正」とは何か、「自由」とは何か、「一般消費者の利益」とは何か、「国民経済」とは何か、「民主的」とは何か、「健全な」とは何か、実はほとんど詰められていないものばかりである。

杉本氏の話はその後、情報社会の本質論に及ぶのであるが、独占禁止法の話とは距離があるので重要な指摘だがここでは割愛しよう。その代わり、これも独占禁止法の話ではないのだが、一つ彼の余談をとりあげる。

昔話になりますが、私が大学受験をした年は学生運動によって東大の安田講堂が占拠された1969年です。東大の入試は中止になり、1年だけ京大に通ったのですが当時の総長、奥田東さんが演台に立って入学式の訓辞を始めようとした途端に全共闘がワッショイワッショイと入学式を粉砕。その後は全学バリケードといって授業もすべてなくなりました。クラスでは討論会だけが行われましてね、先生方は校門の前に並べられた椅子に座らされて学生に「自己反省が足りない」なんて頭をポカッと殴られたりして。そんな時代だったんです。

杉本氏はこの発言を「若者が世の中を、日本をどうにかしなければいけないと、その熱いエネルギーを思い切り発露させていた」という認識、そして「日本の将来のためにアグレッシブであれ」という現役官僚へのエールに結び付けるのであるが、この流れに水を差すようで申し訳ないが、一言だけコメントしておく。  

「自己反省が足りない」とポカっと殴った連中もより過激な活動をした連中も含めて、皆「自由」「公正」「平等」といった概念を自分の都合のよいように「解放」という言葉に込めて闘争を繰り返してきた歴史があった。既成左翼の場合、そこに「民主主義」という言葉がさらに覆い被さった。独占禁止法は競争概念がコアにあるのであるが、それを装飾する言葉にあまりにも幅があり過ぎる。独占禁止法の歴史的経過の中でその時々の哲学があってもよいと思うが、その時々のトレンドに振り回されてしまうとそもそも何をしたい法律なのか分からなくなってしまう恐れがあることを、私たちは十分認識するべきではないだろうか。

改めて考える芸能界における「圧力」問題と独占禁止法

1月15日の「文春オンライン」で前の公正取引委員会委員長の杉本和行氏のインタビューが掲載された。大きく分けて、芸能界における「圧力」問題への独占禁止法の適用(杉本和行元公取委員長インタビュー #1:元SMAPの3人めぐって…公正取引委員会がジャニーズ事務所を「注意」した真意とは)と、いわゆる「G A F A」と呼ばれるデジタル・プラットフォーマーに対する独占禁止法の適用(杉本和行元公取委員長インタビュー #2:「『公務員のデジタル人材調達は難しい』GAFA時代の競争、日本はどう規制すべきなのか)についてのものだ。

筆者はこれまで、何度となくこれらの問題について論じてきた(「テレビ局が芸能事務所に忖度する事情:独禁法違反の境界線」「デジタル・プラットフォーマー規制:独占禁止法の問題とそれ以外の問題」等)が、これらに関わった前公正取引委員長のある程度突っ込んだ発言があったことから、改めて論じることとしたい。今回は前者の問題、すなわち芸能界における「圧力」問題への独占禁止法の適用のあり方について取り上げることとする。

ジャニーズ事務所は「新しい地図」の3人を出演させないようにテレビ局に圧力をかけたのか、そして公正取引委員会はどのような事実をどう評価したのか。杉本氏の発言はこうだ。

ジャニーズ事務所がテレビ局に対し、退所した3人のメンバーを出演させないよう圧力をかけた場合は独占禁止法に触れるおそれがありますよ、という注意処分でした。これは公取が芸能プロダクション側、テレビ局側の双方を調査して、独禁法違反とするまでの確定した証拠までは得られなかったが、いろんなことを総合すると独禁法違反につながり得る行為があると判断した結果です。

何とも中途半端な言い方だ。そもそも「注意」という措置自体が曖昧な性格のものなのだが、「圧力をかけた場合は独占禁止法に触れるおそれがありますよ」というのだから「圧力をかけた」事実は確認されなかった、ということのようだ。そうであるならば、ジャニーズ事務所の言い分通り、圧力の事実それ自体は(公正取引委員会には認められ)なかったということになる。

「独禁法違反とするまでの確定した証拠までは得られなかったが、いろんなことを総合すると独禁法違反につながり得る行為がある」ともいう。「違反自体は存在すると考えられるが、立件するだけの証拠がなかった」といいたげのようだ。しかし、違反の証拠が得られなかったのと、将来そういう違反行為につながり得る行為、状況があることには距離がある。現時点でブラックなのか、グレーなのか、現時点ではホワイトだが将来ブラックに発展する恐れがあるのは意味が異なる。「注意」は3番目のものである。多くのコメンテーターは前2者の中間であるかのように論じるが、杉本氏の言い様は後2者の中間であるかのようだ。本音は2番目の「警告」を発したかったのかもしれない。

ではどのような規制の違反なのか。杉本前委員長は次の通り述べる。

「優越的地位の濫用」のおそれがあるからですね。例えばの話ですが「脱退したメンバーを番組に出演させたら、もうあなたの局には所属タレントを出しませんよ」と事務所が圧力をかけたとすると、事務所を独立した芸能人の方は自由な活動ができなくなります。これはマーケットパワーの強い事務所が、新規参入の事務所、あるいは個人の活動を制限する行為ですよね。

私的独占規制違反のようなものの言い方だ。優越的地位濫用規制の特徴は、マーケット全体におけるパワーではなく、個別的な取引関係における交渉力の優劣を利用して相手に不利益な条件を飲ませるタイプの規制で、規制側から見れば「使い勝手の良い」類型だ。マーケットパワーは個別的な取引関係における優越的地位の源泉にもなるので、話に矛盾はないが、どちらかというとライバル排除の規制類型(私的独占規制でなければ不公正な取引方法中の取引妨害規制等)の方がしっくりくる。

公正取引委員会はデジタル・プラットフォーマー規制でもこの優越的地位濫用規制を駆使しようという傾向が見られる。芸能界を含む人材競争の世界でも今後大いに活用されるだろう。しかし、優越的地位濫用規制にはその存在自体に批判的な立場の論者も多いということを忘れてはならない。取引関係上、力の優劣があるのは当然であり、この規制の使い方次第では「力の格差」それ自体を否定することになりかねない。それは競争自体を否定する結果を招きかねない。戦後間もない頃、自由主義の批判者とその同調者(決してマルクス主義者とまではいえない人々も含めて)が、この種の「競争志向」ではなく「平等志向」の独占禁止法を熱烈に支持したという事実は、独占禁止法の歴史の一部として理解しておくべきだ。

独占禁止法の母国であるアメリカでも今、その反トラスト法のアイデンティーが揺らいでいるという。効率性を高めることでますます支配的になるデジタル・プラットフォーマーを前に、従来の反トラスト法の哲学ではその支配を止めることができないという危惧があるからだ。だから反トラスト法の初期の発想に戻って私的経済権力自体との戦いをすべきだ、という考えが支持を集めつつある。資本主義自体のあり方自体が根本から問われつつある新しい世紀を先取りしているのが、もしかしたら日本の優越的地位濫用規制なのかもしれない。

「新しい地図」で注目を浴びた独占禁止法であるが、優越的地位濫用規制は独占禁止法の歴史の初期の段階から存在する、歴史的にはずいぶんと「古い地図」なのである。

杉本氏は公正取引委員会の注意によって「タレントの方、俳優の方などが不当に活動を制約されない環境が、テレビ、芸能をめぐる世界で整備された」と自画自賛する。普通に考えて、今後大手事務所は露骨な圧力をかけなくなるだろう。ただ、その代わりライバルを採用する取引相手には自社の有力なタレントを良い条件では出さなくなるだろう。その理由は「お得意さんではないから」だ。しかし、自由市場の観点からはそれは健全な手続きだ。大手事務所だからといって全方位で契約をしなければならない義務はない。その事務所の今後排出される人気タレントを長く使い続ける期待を取るのか、その時点で使いたいタレントを使うのかはテレビ局の自由だ。「契約の自由」にどこまで踏み込めるかだが、独占禁止法にそこまでの介入を期待しない方がよい。だから競争に悪影響を与えるかどうかがポイントとなるのであるが、優越的地位濫用規制はこの観点からの基盤が弱い。競争の手続きを破壊する拒絶とそうでない拒絶とでは重みが違う。

争われやすい「処分」ではなく、「注意」のような形での「問題喚起」は規制側からは有効なのかもしれないが(そもそも注意は公表を前提としていないので問題喚起の手段としては実は疑問がある)、そのような思惑が公正取引委員会にあったとするならば、法の適用は厳格であるべきという観点からはむしろ非常に危ういことをしているのではないか、と筆者には感じられる。

経済活動の統制はどこまで可能か:コロナ特措法、施行令見直し

今日(2020年1月6日)の読売新聞の記事より(「飲食店に休業指示、応じない店名を公表…緊急事態宣言に合わせ政令改正」)。

新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言に合わせ、政府が改定する基本的対処方針の原案が分かった。宣言の対象となる東京都と埼玉、千葉、神奈川3県で知事が飲食店に休業を指示できるよう政令を改正し、不要不急の外出の自粛要請も行う。菅首相は7日に宣言を発令する予定だ。

 「現在、感染が拡大している地域の知事は、新型インフルエンザ対策特別措置法24条に基づいて飲食店に営業時間短縮を要請しているが、「応じない店が多い」(政府関係者)のが実情」であり、「宣言発令後は、特措法45条に基づきキャバクラやカラオケ店などに休業要請もできる。時短や休業の要請に応じない店には指示を出せ、店名も公表されるため、一定の効力が見込まれる」が「特措法と同法施行令が規定する対象施設に飲食店は含まれていないため、施行令改正で追加する」とのことである(同記事)。他の報道ではこれに関連して「罰則」(「過料」のようである)の追加の案も与党側から提起されており、野党からは「補償」を優先すべきという意見が出ているという(2020年1月5日のN H Kウェブ記事より)。

特措法24条はその9項で「都道府県対策本部長は、当該都道府県の区域に係る・・・対策を的確かつ迅速に実施するため必要があると認めるときは、公私の団体又は個人に対し、その区域に係る・・・対策の実施に関し必要な協力の要請をすることができる。」と一般的に定め、この要請に対しては公表の規定は存在しないし、従わない場合の指示の規定もない。罰則規定も当然ない。では緊急事態宣言を出せば飲食店への時短指示が可能かというとその根拠規定がない。緊急事態宣言後は、指導のレベルに止まる要請を超えて処分としての指示(内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室長から都道府県知事宛ての事務連絡参照)に踏み込むことができるがその分対象を絞り込むことになり、飲食店一般には現行法令では及んでいない。そこで上記報道のような事態に至ったのである。

確かに、緊急事態宣言を出しても拘束力のある対応ができなければ「雰囲気」でしかない。その雰囲気も最初は緊張感を伴うが、慣れてしまうと弛緩したものになってしまう。緊急事態宣言の前後で政府や地方自治体の対応が変わらないと見透かされた段階で、人々は行動を変えようとしないだろう。

特措法には緊急事態宣言後に民間業者の経済活動を拘束する強権的な規定がいくつか存在する(最も参照頻度の高い中央法規の『逐条解説 新型インフルエンザ等対策特別措置法』は現在、その高い社会的必要性からWEB公開されている。以下この著書に言及する際には「解説」と表記する)。以下、いくつかに言及しよう(権限発動の主体は機関の「長」、都道府県「知事」等なのだが、以下、「長」「知事」等の言葉は省略する)。

指定公共機関に含まれる民間業者(電気通信、水道、製薬、輸送等)は「緊急事態において、それぞれその業務計画で定めるところ」により、業務に係る「必要な措置を講じなければならない」等と定められている(52条以下)。民間業者については、行政庁から免許、許可等を受けて各種事業法等による行政庁からの監督下で公益性、公共性のある業務を行っている者が指定の対象となる(解説22頁)。また、国、都道府県等は緊急物資の輸送、医薬品・医療機器の配送を要請することができ、正当な理由なく従わない場合には「指示」を出すことができる。この指示に従わない場合には違法状態となる。但し、罰則はない。

より強力なのが、「物資の売渡し」である。国、都道府県は緊急事態の措置として必要があるときには(政令で定める)「必要な物資・・・であって生産、集荷、販売、配給、保管又は輸送を業とする者が取り扱うもの」について、「その所有者に対し・・・売渡しを要請することができる」と定め、「正当な理由がないのに・・・要請に応じないとき」は「特に必要があると認めるときに限り、当該特定物資を収用することができる」と定めている(55条1項、2項、4項)。ここでいう「収用」とは処分業者に当該物資を原始取得させその所有者の財産権を全面的に失わせる行政処分であって、行政不服審査法上の不服申立ての対象となる(解説203頁)。同様に、必要な物資についての保管命令の規定も存在する(55条3項)。いずれも損失の補償の対象となる(62条1項)。なお保管命令については罰則があり、該当する「物資を隠匿し、損壊し、廃棄し、又は搬出した者」に対して6ヶ月以下の懲役又は30万円以下の罰金が科される(76条)。

特措法上の罰則は、この罰則の他に、土地収用(ここでは触れていないが)、物資の収用の際の検査拒否に対する罰則があるだけで、都道府県によるイベント会場等の使用の制限、停止等に係る指示(45条3項)は罰則が伴っていない(指示に際して公表はなされる)。イベント会場等の使用の制限、停止等についてはこれに応じた業者への補償の規定もない。これは罰則の有無、期間の長短、損害の多寡、危険な状況での営業のそもそもの妥当性等を考慮してのことだという(解説161頁)。

ここに飲食店を追加して罰則規定を設けよう、あるいは補償規定を設けよう、というのである。確かに「密」の度合いからいえばこれまでにリストアップされた施設との比較では変わりはないが、施設にも大小あり、個室の有無、空気の入れ替えの容易さなどまちまちであり、その数の多さを考えれば一般的な要請以上のことができない、という事情も理解はできる。指示(さらに強化して命令)となれば該当する飲食店の特定が必要になり、罰則導入となれば膨大な手続上の負担が生じる。応じない飲食店が例外的であればまだしも、数多くの飲食店が周りの状況をみて時短を拒み続けるならば、行政あるいは当局はどこを「見せしめ」的に吊し上げるかに悩むだろう。罰則があること自体が象徴的な意味を持つという意見もあるだろが、機能しない立法ならば逆のメッセージになりかねない。当初から違法状態が当たり前に放置される立法は、法律への信頼を損ねる悪手である。やるなら徹底的にやらねばならないが、それだけの覚悟はあるのか。

現在の特措法上の罰則規定は保管命令違反と検査拒否について用意されている。これは対象となる少数の業者が特定されている状態を前提にしている。おそらく特措法制定時に罰則規定の射程についての議論がおおいになされ、結果として「相当に絞り込んだ」のではないだろうか。

損失の補償については、上記の「罰則の有無、期間の長短、損害の多寡、危険な状況での営業のそもそもの妥当性等」という制度の根拠をどう捉えるか、の問題がある。野党は罰則よりも補償をというが、罰則のような強権があるからこそ補償という話にもなるのではないか。少なくとも現行特措法における各種補償規定は「有無をいわせない」場合に限定されており、その「思想」自体を変えていかなければならないだろう。

最後に一点、特措法上、経済面での介入についての罰則や補償に係る規定は同法第4章(緊急事態宣言)の第4節である「国民生活及び国民経済の安定に関する措置」に集中しているが、類似のものとして特措法の他に、コロナ禍で発動された経済統制法令として国民生活安定緊急措置法の存在を思い出して欲しい。この法律は3月に発動され、マスクの高額転売が禁止されたことからも分かる通り、特措法上の緊急事態宣言とは無関係のものである。 必要な物資の安定的な供給を目指すものであり、感染症の拡大を防止するための措置とは距離があるが、場合によっては生産計画の作成義務を課すなど、強権性の強い経済過程への介入を可能にするものであり、違反のタイプを柔軟に政令に委ね、法定刑が違反によっては最長5年の懲役であるなど特措法よりも重いものとなっている。単純な比較はできないが、このような立法の存在を前に、(法的拘束力の限定的な)今のままの特措法での緊急事態宣言とは何なのか、を改めて考えさせられる。

デジタル・プラットフォーマー規制:独占禁止法の問題とそれ以外の問題

先日、中国でもデジタル・プラットフォーマーが独占禁止法の網にかかったことが報道された。以下、ロイターの記事(「中国当局、アリババやテンセントなどに罰金 独占禁止法巡る報告で」)より。

中国国家市場監督管理総局(SAMR)は14日、アリババ・グループ・ホールディング、騰訊控股(テンセント・ホールディングス)出資の閲文集団(チャイナ・リテラチュア)、および深セン豊巣(ハイブ・ボックス)について、独占禁止の観点から過去の案件を適切に報告しなかったとし、それぞれ50万元(約7万6000ドル)の罰金を科すと明らかにした。

「中国では2008年に独占禁止法が施行されたが、インターネット関連企業が、独占禁止法審査への適切な報告を怠ったとして、同法に基づいて罰金の支払いを命じられたのは今回が初めて」という。(同記事)。

「デジタル・プラットフォーマーと独占禁止法」というと、米国のいわゆる「GAFA」に対する反トラスト法による攻撃がすぐ思い浮かぶ(今年10月の司法省によるグーグル提訴が記憶に新しい)が、時価総額ランキングでGAFAに次ぐポジションにあるのが、アリババ、テンセントといった中国のデジタル・プラットフォーマーたちだ(昨年末上場と同時にいきなりトップに立ったサウジアラムコ(Saudi Aramco)は別枠と考えた方がよい)。

罰金50万元とは、企業規模からして控え目過ぎるが、このロイターの記事は、清華大学の研究者の「最もシンプルで、最も反論が少ないケースから着手していけば、反トラスト法を執行する用意があるというシグナルを最も手早く示すことができる」とのコメントを掲載している。当局の警告ということか。

技術革新のスピードの速さから現時点で支配的に見える巨大企業が短期間の間にその地位を失ってしまう可能性もあり、独占禁止法上の評価が難しいといった問題(これは現在の反トラスト法適用に対するGAFAによる反論の定番だが、世紀がかわるちょっと前のマイクロソフトも同じことをいっていた。その頃、グーグルやフェイスブックがここまで成長するとは誰も思わなかっただろう)や、そもそも情報産業では何と何がライバル関係にあるかが把握しにくく、古典的な市場の静的な把握が難しいといった競争制限の評価に係るテクニカルな問題もある。ネットワークの拡大が価格低下のような消費者の便益に結び付くアマゾンのような企業に対しては、その支配を悪い意味で認定しづらい点も悩ましい。一般的に消費者がアマゾンを支持する限り、アマゾンへの独占禁止法による攻撃は局所的なものに止まるだろう。

同時に、この問題は経済的側面だけではなく、表現の自由や民主主義といった政治的側面にも大きく関わるので、デジタルプラットフォーマーの存在は悩ましいのである。米国では、表現の自由や表現されたものを知る自由の担い手を考えるとき、デジタルプラットフォーマーの存在を無視することはもはやできなくなった。これは民主主義の過程がデジタルプラットフォーマーによって少なくない影響を受けることを意味している。テレビや新聞の果たしてきた役割がとってかえられただけ、といえるのかもしれないが、圧倒的なデータ蓄積とその情報処理のスピード、AI技術の進展を伴うデジタルプラットフォーマーの時代は、人間社会がこれまでに経験したことのない脅威である。中国では別の意味での表現の自由や民主主義の問題を、デジタルプラットフォーマーが生み出しているようにも見える。精神的自由に対する国家の積極的な介入を極端に警戒する日本ではこのような問題意識が果たして共有されているのであろうか。

もう一つ、時価総額で上位を占めるデジタルプラットフォーマーの存在は、米中間の経済的主導権をめぐる争いの中心に位置するということである。単に規模が大きいというだけではなく、次世代の情報産業の技術の担い手にどの国の企業がなるのか、という点に関心がある。日本企業は新しい時代に絡むことはできるのだろうか。

次の技術の担い手が経済的に、政治的に、どのような支配をもたらすのか。GAFAの場合は「何が脅威か」がある程度具体的に議論できるからまだマシかもしれない。時代が進み、技術がこれまで以上に大きく変化したとき、すなわち「ポストGAFA」の時代に、一体何が起こるのであろうか。そろそろそういった問題意識を持ってもよいだろう。

日本の場合、デジタルプラットフォーマー規制は(独占禁止法上の)優越的地位濫用規制に置き換えられることが多い。競争制限の問題を正面から問わなくてよい優越的地位濫用規制は、使い勝手のよい違反類型だ。アマゾンへの対抗のために送料無料に踏み切ろうとした楽天が優越的地位濫用規制違反の疑いを持たれたことは記憶に新しい(筆者の論考参照)。

世界ではより大きなフレームワークでデジタルプラットフォーマー規制が語られているということは、もっと強調されてよい。

随意契約と官製不正:青森県西目屋村長逮捕

青森県西目屋村の村長が逮捕された。容疑は官製談合防止法違反という。筆者はAGORAで何度も言及してきたように、現在よくみる官製の入札不正の典型は(特定の業者を優遇する)「抜け駆け型」であり、業者間の談合に手を貸すタイプのものではない。ただ、適用される法律が「官製談合防止法」と呼ばれ、名前を聞いただけでは何の容疑だかよく分からないのである。この法律の正式名称は「入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律」である。ここで問題になっているのは、「職員による入札等の公正を害すべき行為」の方である。業者側の役員は刑法における公契約関係競売入札妨害の疑いで逮捕されている。

村とはいえ首長の逮捕なのでニュースの扱いは自然と大きくなる。加えて、この村長は、「世界自然遺産の白神山地を生かした観光政策のほか、新型コロナウイルス対策として全国民に現金10万円を給付する国の緊急経済対策で、全国に先駆けて配ったことなどで知られる」(読売新聞2020年12月4日ウェブニュース)とのことである。なかなか行動力がある首長のようだ。最近メディアで取り上げられた首長ゆえに不祥事の際も扱いが大きくなるということだろう。

具体的な容疑はどのようなものだったか。読売の記事によれば、村長は「7月中旬頃から下旬頃、村給食センターで使用する冷却機を借りる随意契約で、複数業者から見積もりを取る際」、意中の「会社に有利になるよう不正に取り計らった疑い」なのだという。その業者は「他の業者より低い価格で見積もりを提出し、契約を受注。今年9月1日~2025年8月31日の間、総額547万8000円を受け取るリース契約を村と締結した」とのことである(以上同記事より)

ここで官製談合防止法の適用に関連して二点、触れておこう。

第一が官製談合防止法は随意契約でも適用されるということである。その名前から競争入札のみが対象となりそうであるが、そうではなく、競争の要素があれば随意契約でも問題になり得る。刑事罰規定を定める同法8条は次の通りである。

職員が、その所属する国等が入札等により行う売買、貸借、請負その他の契約の締結に関し、その職務に反し、事業者その他の者に談合を唆すこと、事業者その他の者に予定価格その他の入札等に関する秘密を教示すること又はその他の方法により、当該入札等の公正を害すべき行為を行ったときは、5年以下の懲役又は250円以下の罰金に処する。

「当該入札等の公正を害すべき行為」の「等」に、随意契約が含まれる。「その公正を害すべき」とは適正な競争手続の下で契約者が決まるべきところがそうでなく不当に人為的に決められることになる、ということを指す。意中の業者が受注者となるように競争を歪める形で取り計らうことが問題なのであり、本件では恐らくであるが他の見積もり業者の情報を教えたか、示唆的な何かをしたのであろう。

上記記事には不正を働いた業者が「他の業者より低い価格で見積もりを提出」とある。見積合わせなのだから他の業者よりも安くすれば有利になる。業者にとって値段は高い方がよいに決まっているが、他の業者が安ければ仕方がなく、それよりも安くするしかない。

「一番安いのだから問題ないのでは」という反論もあるだろうが、談合罪ならば(その要件である「公正な価格を(する)目的」として)「不当な値段の吊り上げ」が問題になるといえるが、公契約関係競売入札妨害とセットで出てくる官製談合防止法にいう「その公正を害すべき行為」は、手続的公正もその射程に入り得る。単に他よりも安いから違法ではない、という訳にはいかないのだ(ただ、悪質性、重大性の評価には影響があるだろう)。そうでなくても、他の業者の価格を知れば、自らの値引き価格を抑える効果もあるのだから部分的には値段上昇効果があるともいえる。

さらに重要な点は、一度契約してしまえば、価格低下の損失を埋め合わせるような「契約変更」の可能性があるということだ。仮に官民間で癒着があるというのならその後の契約変更で1.5倍、2倍に契約金額が変更される危険はある。

当初契約が「安い」場合で、契約変更によって契約金額が「高く」なっているケースは慎重にウォッチすべきだ。ヒントはたくさん転がっていると思う。発注機関はあれこれ説明する準備を整えてくるだろうが、それをいかに突破するか、捜査機関の腕の見せ所である。もちろん冒頭のケースがどうなるかは分からない。記事によれば認否は不明とのことである。

見逃されがちな「契約の自由」の視点

 筆者は行政機関で実務研修の講師をすることが多い。その多くが会計法や地方自治法といった公共契約に係る法令の講義である。実務研修なので、学問的な何かではなく、諸法令や諸規則が実務上どのような意味を持ち、どのように扱われているのか、について解説することがそのミッションとなる。

 公共契約の世界では、しばしば法令に書かれていることと現実に存在する事実とが大きく乖離していることがある。日本はかつて「談合天国」などと揶揄されてきたが、独占禁止法は1947年から厳然と存在し、刑法の談合罪や競売入札妨害罪(現行刑法では公契約関係競売入札妨害罪)はその前から存在していた。しかし、戦後しばらくの間、談合は半ば公然となされてきたといわれている。入札談合について独占禁止法の適用除外立法があった訳でもなく、刑法の談合罪においても早い段階で競争的な価格を侵害すればそれが公正な価格の侵害になるという最高裁判例が確立しており、談合を見逃す法的根拠はなかったはずである。しかし、独占禁止法は談合に対して寛容だったし、適正利潤を反映した価格が談合罪にいう「公正な価格」であるという昭和40年代の地裁判決があり、(検察が控訴しなかったことで)それが確定してしまった後、刑事実務でも談合摘発に消極的になってしまった時期が長く続いた。談合厳罰の実務は、戦後三四半世紀の歴史の中の直近の3分の1について当てはまるものなのである。

 残りの3分の2、すなわち戦後半世紀においては指名競争が一般だった。指名される業者が固定化されれば談合が誘発される。しかし表面上は競争をした体裁になっている。談合をされれば(上限価格としての)予定価格ぴったりになるのが通常(そこで予定価格の漏洩などで官製談合とリンクする)だが、発注者は必ずしも困らない。なぜならば予定価格を超えることがないからである。予定価格が獲得した予算を反映すると考えるならば、談合されても予算オーバーになることがない、ということだ。予定価格の設定も計上された予算も行政による「事前の計画」だとするならば、予定価格ぴったりの落札は「計画通り」ということになる。ここで体裁上は、予定価格=計画された価格=競争価格という「信じがたい」と等式が成立することになる。

これは無謬の形式が欲しい行政にとっては都合のよい話だった。結果、予算も過不足なく消化できる。前年度の計画通りは次年度の計画を正当化させる強い根拠になる。経済学者の金本良嗣はかつて、「指名・談合・予定価格」を「公共工事の三点セット」と呼んだ。

会計法や地方自治法が考える適正な価格は競争価格である。今では一般に設定されるようになった低入札調査基準価格や最低制限価格(最低制限価格は地方自治体のみが設定可能である)と予定価格との間で決まる「競争価格」が、法の予定する適正価格である。会計法令には予定価格は適正に設定せよ、そして公共工事品質確保法には適正な利潤を反映させろと書かれてあるが、予定価格が競争価格などとは書かれていない。そもそも「競争の計画」という発想は撞着的だ。ある程度のレンジで予測することは可能かもしれないが、競争の重要な性質の一つは、さまざまな条件に、そしてその変化に柔軟に対応することにある、ということを見失ったものの見方である。

行政は自らの正当化根拠を「失敗しない」ことに見出そうとする。事前に予測したことと現実のそれが乖離したときに、現実の説明を計画の範囲に押し込もうとする。上記の指名競争は行政が無謬を装う上で都合のよい存在だったのだ。指名される業者は談合構造の中で安定的な受注が期待できるので、指名され続けるために手抜き工事、不良工事をする訳にはいかない。発注者である行政は予算を過不足なく消化できるだけでなく、予想外の出来事や予算を計上しにくい費目への支出を受注者側に委ねることができたし、それは半ば強制されたものであった。行政が扱う公的財源よりも民間に渡った金銭の方が柔軟性を持つので都合がよいのだ。

この非公式な対応が、行政の無謬性(の体裁)を支えてきた。このような「不透明さ」に政治的要素が絡んで、各種の利害関係が形成され、安定的なものになったということはもっと強調されてよい。

しかし、時代は変わった。今でも公共工事の入札不正は絶えないが、かつてのような安定的な談合構造は相当程度解消されたといってよいだろう。最近において道路舗装工事などでゼネコン系企業が摘発されることはあったにせよ、(課徴金算定率の大幅引き上げを実現した)2005年の独禁法改正の時期になされた大手ゼネコン企業による「談合訣別宣言」以降、公共工事が総合評価方式へと切り替わったこともあって、大規模工事は技術力の勝負へと大きく舵を切り、競争状況は一変した。むしろ公共工事以外の公共契約で疑われる談合構造の方が問題だ。

公共工事の入札不正は、癒着した特定企業を有利にするための情報漏洩や手続操作といった「入札妨害」行為の方が今では目立っている。この場合、官側の協力が通常不可欠になるので、官製談合事案となるのであるが、業者間の競争制限行為であるいわゆる「談合」ではないことに注意が必要だ(官製談合防止法違反になるので「官製談合」と呼ばれるのであるが、やや誤解を招く表現ではなかろうか)。

公共契約が競争的に実施されることはそれ自体望ましいことである。会計法令が公共契約の法的規律のベースを競い合いに置いているということは、競争という手続が公的財源の利用の仕方として合理的だと考えられているからに他ならない。かつてのような体面だけ競争で中身は非競争という「法令と実態の乖離」の時代から、法令と実態とが一致する時代になった。競争的な過程を通じて至った契約は、契約外の不透明な対応を困難にする効果を持つ。業者にとって「見返り」がないからである。契約過程の透明性は過去に比べて徹底されるようになった(ただ、今でも情報公開への消極姿勢は目立つが)が、その分、契約はドライなものになった。上記の「談合訣別宣言」は「談合だけ」を問題にしたのではなく、官民間、民民間で行われてきた諸々の「旧来のしきたり」との訣別を宣言したものである、ということに注意しなければならない。

ここで重要な点は、「契約するかしないかは自由」ということでる。「契約の自由」という当たり前の原則は、公共契約の発注担当者にとって大きな脅威である。十分な予算が取れなければ、業者は公共契約に魅力を感じない。民間需要が大きければそちらに流れてしまう。競争が激しいと思われれば、回避されるかもしれない。一般的にはあまり知られていないが、今、公共工事分野で深刻なのは応札者が存在しない「不成立」の問題である。「入札で一定数以上の応札者が存在しないのは不正の証拠だ」などと平気でいう識者をたまに見かけるし、一時期の東京都のように「一者応札は無効」などという乱暴な政策も存在するが、入札における競争の実態はその入札をきちんと吟味しなければ何もいえないはずである。

公共契約を競争的に実施するということは、その分、「契約の自由」の原理(言い換えれば資本主義のロジック)に従うということだ。競争は確かにメリットがあるが、その分のリスクもある。当たり前だが、この手続は相手方に「仁義なき戦い」を要求するものであるが、相手方の行動が思惑通りに展開されるとは限らない。言い換えれば、常に自分が相手方の競争のメリットを獲得できる保証はない。それをうまくコントロールするのが公共契約担当官のスキルのはずである。指名の時代は競争という体裁があったが、その実態は「官民協働」のようなものであった。競争はメリットも大きいがリスクも大きいという事実に向き合うことから始めるべきだ。

「契約の自由」という発想は当たり前過ぎてか、政策論から抜け落ちることは多々あるように思われる。例えば、最低賃金の引き上げは国内の新規雇用を抑制する効果を持つかもしれない。金利規制の強化は新規貸付を抑制する効果を持つかもしれない。新規雇用の判断も新規貸付の判断も企業側に「契約の自由」がある以上、もともとの狙いとは相反する効果を持つかもしれないのである。今、話題になっている地銀同士の統合は統合された地銀の活動を自由に委ねれば、期待される地方における金融の機能とは異なる結果を生み出すかもしれない。もちろん分かった上で、それ以上の効果を期待するのであればよいが、事象の一部だけを切り取って評価しているのであれば、それはリスキーなアプローチだ。

公益事業などで見かける契約義務、あるいは新型インフルエンザ等対策特別措置法にあるような契約強制は例外だ。競争を基軸とする経済運営を展開する上で「契約の自由」の視点は欠かせない。しかし「契約の自由」は単純そうに見えるが、実はなかなか手強い相手である。

入札談合と違約金:「地元業者」重視の悩ましさ

2週間ほど前、以下の記事を目にした(「『談合防止骨抜き』か『業者救済』か 山梨県議会が違約金減額求める」(産経新聞2020.10.12ウェブ記事))。

山梨県発注の土木工事では、業者が談合を行った場合は代金の20%を違約金として県に支払う契約になっている。ところが県議会は6日、談合が認定された建設業者27社への違約金計約30億1300万円の減額を求める請願を採択した。「支払いで業者が倒産するかもしれない」という切実な訴えだが、「減額すれば制度が骨抜きになる」との批判がある。

現在、「27社のうち26社が減額を求めて甲府簡裁に民事調停を申し立てている」(同記事)という。

入札談合が摘発され独占禁止法違反が確定した場合、約束通りの違約金が請求される。刑法典上の談合罪等でも同様である。それは違反によって不当に高値で契約を獲得した、と考えられているからだ。かつては違約金の定めがなく、損害賠償請求訴訟が多発した時期があり、そのたびに具体的な損害額が争点となったが、今では約款記載の率での請求が自動的になされる。契約金額の「10%」というケースも見かけるが、「20%」のところの方が多いようだ。この「20%」の根拠はどこにあるのか。談合がなければ落札率が20%程度低下するはずだ、という想定がその背景にあるのだろう。2005年の独占禁止法改正で行政処分として課される課徴金の算定率が引き上げられたとき、「談合による平均的な価格上昇率」が「10数%」であるとの算定がなされ、それを根拠に引き上げを正当化した経緯がある。低く見積もって「10%」、高く見積もって「20%」という違約金の数字はそこから導かれているのかもれない。

2005年に公共工事品質確保法が制定され、公共工事の競争入札で総合評価落札方式が一般化されるようになるまで、「改革派」と呼ばれる首長は挙って公共契約における競争を煽り、ひたすらに(予定価格分の契約金額の百分率である)落札率の低下を目指した。指名競争を一般競争に変更し、地域要件のような入札参加条件を緩和することで「叩き合い」を激化させた。地方自治体によっては落札率が60%、70%にまで低下した。これら首長たちは「30%、40%の無駄排除」を喧伝し、再選や国政進出へのアピール材料とするのに躍起になった。「落札率90%」は「談合の指標」とされ、90%超の発注機関、一般競争に消極的な発注機関は「改革を怠っている」と批判された。

今では国をはじめとして公共工事の契約は一般競争入札と総合評価方式のセットで実施されるのがスタンダードとなり、低入札価格調査や最低制限価格の設定が厳格化されるようになったので、90%を大きく割り込むようなケースは少なくなった。総合評価方式や下限価格の設定はいずれも品質維持のために必要というコンセンサスがあるので、この状況を批判する人々は少なくなった。

違約金は賠償額と推定され、違約があれば予め定められた通りの請求がなされる。公序良俗違反があったり、相手方の不法があった場合には別である。素朴な疑問として、最低制限価格が予定価格の90%で設定されるような場合には、「20%の違約金」は損害額としては「制度的に生じ得ない」ということになり、その存在根拠が問われることになろう。その場合は、賠償額の予定ではなく、ペナルティーとしての性格を見出すことになるだろうが、そのあたりの約款の記載の仕方は今後問題になるかもしれない。

さて、冒頭の記事が問題にするケースは、想定された違約金の減額事由が存在しない場面において、県議会が「減額を求める採択」をしてしまったものである。一般に、請負契約約款に「発注者が特に認める場合はこの限りでない」といった例外規定を盛り込ませるので、手続上減額が許されているといえようし、定めた通りの違約金を請求するかどうかは民事上の問題だと考え、当事者の判断によるといってしまえばそれまでだが、請求できるのにしないとなるとこれを不満に思う住民からの地方自治法上の請求へと発展するかもしれない。

冒頭の記事では、「県関係者によると今回も、県に与えた損害額は支払わせるが、『議会の意思を重視する』との名目で違約金としては一定の減額を行い、分割払いや支払い猶予などを認める可能性があるという」と報じられている。県の公共工事に係る下限価格(が設定されているのであれば、であるが)の水準を考えれば、実損は違約金よりも小さいことが想定されるので、「諸般の事情を考慮」して、実損賠償の請求に止めるというのが、コンセンサスを取りやすい「落とし所」ということなのだろうか(記事の書き振りだけからは明らかではないが)。少なくとも「違反行為のやり得」にはならない(本来であれば発覚率を考慮すべきだが)状況を作るのだから、裁判所として乗り易いラインともいえる。県の決議があるので、「民主的に決まった」という体裁もある。20%の違約金を、設定された下限価格で修正する。これが今後一つのスタンダードになるかもしれない。

独占禁止法上の課徴金が取られているのであれば、違約金は「実損」にとどめておくというのも一案だ(刑法犯の場合は個人処罰を考慮)。指名停止期間の長さも考慮するべきかもしれない。談合に対してはひたすらペナルティーを重くすればよいと考えている人には理解しがたい提案だろうが。もちろん軽すぎれば談合抑止にはならず、発注機関は「談合を容認している」といわれかねない。いずれにしても「一部を切り取って」議論すべきではない。

長崎幸太郎知事は「防災・減災の重要な担い手」としての役割を強調する。建設会社は災害時の緊急復旧工事での最重要の担い手である。コロナ禍で多くの人が痛感したように、緊急時の公共調達ほど難しいものはない。建設会社が「担い手」として協力的である限り、その心配は緩和される。そういった政策的判断を無視することはできない。しかし一方で通常時における「競い合い」の手続も重要である。

「ペナルティーが嫌だったら違法行為をしなければいい」という単純な発想で片付けるべき問題ではないことだけは、いえるだろう。

公共契約を通じた新しい官民協働のスタイル:日南モデル

 地方創生の鍵概念である「官民協働」

  伝統的建造物群保存地区として知られる飫肥城下町。日南市は、飫肥にある歴史的建造物の利活用に取り組む業者を募集し、応募者に対する書類審査や公開ヒアリングを経て、9月7日、交渉権者を発表した(Nichinan TV「飫肥地区古民家の利活用事業者が決定」)。今回決まったのは、小村寿太郎生家、旧高橋源次郎家、旧山本猪平家、商家資料館、そして旧伊東伝左衛門家の各歴史的建造物である。

 公共施設の維持管理についてはこれまでの国や地方自治体による直営から民間業者への委託に切り替えるのが最近の傾向である。公務員削減という止むを得ない事情もあるが、コスト意識に敏感な民間業者に委ねるほうが効率的だろうという「前提」がそこに置かれている。しばらく前に地方自治法の指定管理者制度が見直され、「公の施設」(住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設のこと)の管理業務への民間業者への参入が可能となったのも、そういった民間活力の積極利用の発想があってのことである。

 従来は官の領域と民の領域とは距離があったが、近年では官が民の知恵や経験を積極的に求め、民が官に積極的に働きかけるようになった。しばしば「官民協働」という言葉で表されるこのトレンドは、特に地域創生、地域振興に向き合う地方自治体の取り組みで、よく聞かれる。地方創生の鍵概念は「官民協働」といっても過言ではない。

日南市もこの「官民協働」を「売り」にする先鋭的自治体の一つだ。歴史ある港町である油津にIT系のスタートアップ企業を多数誘致し、地元商店街を活性化させたという話は、地方創生戦略のお手本としてよく知られている(「人の幸せのために地域がある まちづくり仕掛け人が見た日南市「油津商店街の7年間」」)。

 「官民協働」の初期設定はPFIだった

公共契約において「官民協働」といえばPFI(Private Finance Initiative)とほぼ互換的に用いられてきた(官民協働(Public Private Partnership)のイニシャルである「PPP」と併せて「PPP/PFI」などと表記されることが多い)。例えば、世界銀行は「官民協働」を「民間経済主体と政府機関とが長期の契約を通じて、民間経済主体がリスク負担と経営上の責任を負う一方、成果にリンクした報酬を得る形で、公共財・サービスの提供を行うこと」といった定義をPPPに用いており、OECD(経済協力開発機構)もほぼ同様であるなど、世界の主要な機関においては大方の一致は見られている。そこでいう重要な要素は、リスクとリターンに係る市場原理を採用していること、そしてそれが契約や協定によって明らかにされていることである。英国発祥のPFIはその先駆となったものであり、終始その中核として位置付けられていたものである。日本の内閣府に置かれた関連部署は「PPP/PFI推進室」と呼ばれている(PFI事業は「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」(PFI法)を根拠に実施されている)。

公共機関にとってのPFIの元々の狙いは、ざっくりいえば、初期費用の抑制にあった。政府が公共施設の建設から運営、メンテナンスを行おうと思えば、建設の初期費用がかかる。これを民間が自ら調達した資金で一連の事業を行ってくれるのであれば、公共機関はそれに対してその「利用料」のような形で対価を支払えば、財政支出を長期に渡り平準化することができ、その分財政が楽になる。それを入札のような競争的な形で業者を選定すれば、さらに効率化できるのではないか、そういった期待があった。

しかし、そのPFIは英国を含め、最近雲行きが怪しい。その最大の理由は、リスク負担と経営上の責任を負う民間経済主体がそのリスクを見誤り、経営上の責任を負い切れない事例が多発したためだ。簡単にいえば、市場の論理を利用すればその効率化作用のメリットを得ることができるが、一方で市場の不確実性や不安定性といったデメリットの影響も受けるということだ。完全民営化でもない限り、公共サービスを提供する責任が行政から消え去った訳ではないのだから、そのリスクは最終的には行政が負担することになり、延いては国民のリスクということになる。

重要なのは「利活用の創造性と持続性」:やり方はシンプルでもいい

公共施設の建設や補修だけなのであれば、通常の公共工事である。民間業者と工事請負契約を結べばよい。ポイントは管理(=運営)の方にある。指定管理者とPFI事業とは異なるものであるが、しばしば重なってみえるのは、いずれも公共施設の管理を直営から民間委託にするための選択肢であり、法令の改正によって可能となったスタイルだからである。

現在の論点は、公共施設を「どう利活用するか(させるか)」にある。少し前にPFI法の中に位置付けられるようになったコンセッション(物権としての運営権付与)方式は、施設運営に係る民間企業が果たす効率化作用を期待して、主として空港や水道といったインフラ(施設)の使用料等の徴収を認める代わりに運営権に係る対価を行政が徴収できる制度設計である(インフラ事業にコンセッション方式が成功するかについて疑問視する声もあり、海外では失敗事例も目立っている)。

このPFI法上のコンセッション方式で地方自治体が所有する歴史的建造物を宿泊施設として利活用した例が最近出てきたと聞く。そこでは、宿泊施設として利用するために地方自治体が改修工事を行い、整備を済ませた上で選定された運営業者に運営権を付与しているようだ。インセンティブを付与するために、当初一定期間の運営権料は免除しているという。

日南市の場合、10年間の賃貸借契約である。改修費用は業者持ちである。国登録有形文化財であったり、市指定文化財であったりすることから、改修、改築の際には関連するルールを遵守する必要があり、これに対して行政からのモニタリングがあるが、用途には相当の自由度があり、民間から創意に満ちたアイデアが提供され、公開ヒアリングを通じて交渉権者が決まったのである。相手は九州の顔である鉄道会社と、日本を代表する航空会社やフロントランナーとして知られる設計集団を含む共同事業体だ。評価されるアイデアの自由度が高い分、飫肥というブランドも相俟って、大手企業にとって自社のパイロット的な社会的事業として魅力を感じやすかったのかもしれない。

「民間への貸し出し」の発想は実にシンプルである。「官民協働」としてはPFI法とか改正された指定管理者制度よりも前のやり方だ。しかし、歴史的建造物の文化財としての保護のあり方を行政が事前に決め打ちするのではなく、民間の創意の中に解決を見出すのは実に先鋭的である。運営権の付与と同様、賃貸借の場合は収入原因になる。一定期間賃借料を免除しても市にはマイナスにならない。何よりも賃貸借というその手法がストレートでシンプルだ。

地方自治体における「官民協働」の解答は、実は意外にも分かりやすいところにあるのかもしれない。新しい、手の込んだ制度はこれまで制約があったことを実現するための技術として存在するのであって、場面を問わず新しい制度を使えばそれが解答になる訳ではない。特定の手続に拘って却って身動きが取れなくなるケースもある。重要なのは、その地方自治体が自らの資源を見極め、その魅力を評価し、その可動域の中で外部からの創意を引き出すことにある。官と民がパートナーシップを結ぶことそれ自体に意味があるのではなく、それが「創造的」で「持続可能」なものであるところが真のポイントになる。ここでいう「創造的」とは単なる「効率化に向けた工夫」に止まらない地域創生へのより本質的なヴィジョンに係るものであり、「持続可能」とは単なる「ビジネスの期間」ではなく、その地域の発展への強いコミットメントを意味する。そこから生み出される新しい価値が行政の、企業の、そして市民の共有財産になる。それを歴史の町、飫肥で実現しようというところに日南の戦略が見て取れる。やり方はシンプルでいい。

日南の挑戦は続く

冒頭に紹介した公募事業は初めてのものではない。すでに先行する事業では営業が始まっている。日南市所有の歴史的建造物である、築約140年の「旧小鹿倉邸」を利活用してできた「Nazuna 飫肥 城下町温泉」がそれである。これも10年間の賃貸借である。日南の選択はパイロット事業から本格展開の段階に入ったということだ。

「創客創人」は日南市の戦略のコア概念である。それは「様々な分野において、今あるもの、資源の中から、人々が望む価値を見出し、それを実現する製品やサービスなどを創り出し、『新しい需要=客』を創り、その客を幸せにする仕組みを創れる人財を育てる」というものだ(日南市HPより)。飫肥城下町のプロジェクトはその象徴的存在だ。今回、歴史的建造物の利活用事業に参与することとなった人々は、日南市を支えるプレイヤーとしてこれから多くの客と人を創り出すことだろう。

豊かな山林と温泉に恵まれた北郷、風光明媚な海の自然を誇る南郷、進化した港町・油津、南九州を代表する名勝・鵜戸神宮、そして飫肥城下町・・・。日南市には「創客創人」の潜在性に満ち溢れている。

令和を象徴する仕掛け人、﨑田恭平市長率いる日南市の挑戦は続く。

予定価格の積算ミス:業者にとっては死活問題

日本の法令では公共契約に際して予定価格を設定することが義務付けられている。価格の安さで勝負する公共調達の契約においては、予定価格は「上限価格」として機能し、最低価格自動落札方式の場合、この予定価格を超えない範囲で応札業者中、最低価格を提示した業者が落札者となる。

 この予定価格で積算ミスが発生した場合どうなるか。こんな記事(「県発注工事で積算誤り~予定価格より低く、契約は継続:三重」)に接した。

三重県は8日、工事の予定価格を実際よりも低く積算して業者と契約したと発表した。業者との契約後に誤りが発覚。正しい予定価格で入札をすれば別の業者が落札した可能性があるが、県は「落札者が契約の継続を希望している」とし、入札をやり直さない方針。

同記事によれば、「県によると、積算を誤ったのは鈴鹿市内の農業用水路を整備する工事。四日市農林事務所の担当者が一般競争入札の予定価格を積算した際に材料費の一部を計上し忘れ、予定価格は実際より155万円ほど安い約2億1229万円とな」り、ある業者が1億9756万円で落札したが、その後、「入札に参加した別の業者から県に指摘があって積算の誤りが発覚。県は入札参加者に謝罪し、事情を説明した」とのことである。予定価格が事後公表なので、正しい予定価格を前提に応札価格を決めた業者が、後から指摘したのだろう。

(価格以外の要素も考慮する)総合評価落札方式が採用されているのであれば、事情は変わるが、記事の書きぶりからすれば影響の範囲は価格に対するそれに限定されているようだ。最低価格自動落札方式でも総合評価方式でも同じ問題が発生しているということだろう。

この予定価格の積算ミスが入札の結果に影響を及ぼすとすれば、実際の落札状況を見る限り、積算ミスによって本来であれば最低制限価格に一番近かった業者がそれを下回ることで「失格」となり、より高い業者が落札する結果となる、というものだろう。最低制限価格は予定価格にリンクしている。三重県もこの件についてそのホームページで公表しているが、そこには言及していない。もしかしたら低入札調査基準価格なのかもしれないが、問題の本質は変わらない。

発注者からすれば本来失格となるべき業者と契約したことになり、最低制限価格制度の趣旨からすれば大いに問題だ。落札を逃した業者からすれば「死活問題」となる。ただ上記記事では「正しい予定価格で入札をすれば、より近い金額で入札した別の業者が落札した可能性があるが、県は再入札をせずに現状の契約を維持する。」とだけ記載されており、これでは「予定価格に近い業者が・・・」と読めてしまう。

予定価格の積算ミスは、競争が激しい場合には下限価格に集中するのでちょっとしたミスが結果に重要な影響を及ぼす。復興需要等の特別な要因がないと、公共工事の発注量は過去に比べて随分と少ない。少ないパイの奪い合いの状況のところが多い。業者にとって死活問題だ。昔であれば、不満を抱く業者には随意契約を出すとか、下請けに入れるように取り計らうような、官民間、民民間の「調整」もあっただろうが、コンプライアンスに厳格な今、そういう訳にもいかない。調整が効かなければ法的紛争のリスクがその分、高まることを意味する。

三重県は、「本⼯事は契約を締結しており、受注者には帰責性がないこと、再度の契約⼿続きを⾏った場合には来季の営農に⽀障が⽣じること等を勘案し、現契約を継続します。なお、⼊札に参加した全ての事業者の⽅々に対し、謝罪及び事情説明を⾏いました。」と説明しているが、やり直すほどの重大なミスではなかったということか。

この件がどのような結末を迎えるかは分からないが、行政は過去には想定されなかったリスクに晒されているという現実を改めて認識させるケースであるといえるだろう。

再び「楽天vs楽天ユニオン」

今年の前半、「楽天の送料無料」問題が何度となく報じられ、筆者もいくつかの論考を公表してきた(「『送料無料』をめぐる攻防:楽天vs楽天ユニオン」等参照)が、以前から燻っていた別の話が大きく報じられた。違約金等に係る楽天側による一方的な規約変更が独占禁止法に違反するのではないかとして、楽天ユニオンが公正取引委員会に対して排除措置命令を出すように要請した、というのである。

報道によれば、ユニオン側が問題視したのは、2016年導入の違反点数制度であり、これは「ブランドの模造品の出品や商標権の侵害など、1年間の違反行為を点数で加算し、一定レベルに達すると違約金、営業停止などの処分がある」制度である、とのことだ。「通販サイトの違反行為を減らす目的だが、最大300万円の違約金」となり、ユニオン側はこれまでに「商品画像の登録ミスでも違反点数が加算される。不利益な規約変更を繰り返してきた」と主張している(日本経済新聞2020年8月18日ウェブ記事より)。

楽天ユニオンはほかにも

・「アフィリエイト」と呼ばれる成果報酬型のネット広告の手数料

・決済システムの利用手数料の過去の引き上げ

についても、公正取引委員会に排除措置命令を求めたとのことだ(同記事)。

楽天ユニオン代表の勝又勇輝氏とは今年2月、日テレBSの「深層NEWS」でご一緒したが、その際、「楽天は送料無料以外にも色々問題がある。このあたりは今後争っていきたい」といった趣旨のことを述べていたのを覚えている。コロナ禍で準備や調整に時間がかかったのかもしれない。半年経ってのアクションである。

ユニオン側の理屈は明快である。優越的地位に立つ楽天が立たれる店舗側に対して、断れないのを前提に店舗に不利益となる規約の改定を押し付けた、というものだ。「甲が取引先である乙に対して優越した地位にあるとは,乙にとって甲との取引の継続が困難になることが事業経営上大きな支障を来すため,甲が乙にとって著しく不利益な要請等を行っても,乙がこれを受け入れざるを得ないような場合」(おおよそ「依存度が高い場合」といってよかろう)に「取引の一方の当事者(甲)が他方の当事者(乙)に対し,取引上の地位が優越している」と認定できる(公正取引委員会の指針、「優越的地位の濫用に関する独占禁止法上の考え方」)とするならば、その認定には支障はあるまい。後はそのような不利益を一方的に押し付けている(濫用)かどうか、だ。

楽天側からすれば、依存度が高いということはそれだけ、魅力的なサービス(プラットフォーム)を形成しているからであって、魅力的な企業であればあるほど違反になり易くなるというのであれば、それこそ競争原理に反していて不当だ、ということになる。魅力的なサービスを提供し続けている企業が、より市場で競争優位を実現するために契約スキームを見直すことはむしろ「成長志向の店舗」からすればウェルカムではないか、という反論がありそうだ。事実、一定数楽天の提案に賛同している小売店舗もあるという。楽天側には楽天市場で出店することがふさわしくない(ユーザーにとって好ましくない)店舗に対するサンクションを強めることで、市場での競争力を高めたいというマーケティング志向の規約の見直しという意識が強いのかもしれない。

これまでに楽天とユニオンの間にどのようなやりとりがなされたかの詳細な情報を筆者は知らないので、簡単には結論を出すことはできないが、優越的地位濫用規制の性格からして、ユニオン側有利の見立てが自然な気がする。

しかし、楽天側は納得しないだろう。顧客志向を貫いて罰せられるのであれば、それはビジネス自体の否定ではないか、と。そこがプラットフォーム・ビジネスの特徴であるマッチング・ビジネスの悩ましさだ。優越的地位を利用した単なる「搾取」とは異なり、競争促進的な側面が一方の面の市場で認められる(主張される)場合があるからだ。

同じ問題はコンビニのフランチャイズ契約でも指摘できる。大阪のあるコンビニでをめぐっては、契約解除による店舗引渡しに応じる、応じないで紛争になっている。その店舗は本部の要請に逆らって時短を強行した店舗として大きく報じられたが、本部側はそれが理由ではなく、その店舗には顧客から様々なクレームが寄せられていることが理由だと主張している。何れにしても本部の意向に反していることが理由であり、本部からすれば顧客の利益にそぐわない店舗とは契約に値しないということだろう。ただ時短によって顧客の利益がどれだけ奪われるかは、最近の調査ではそれほどのインパクトはない、との見方も優勢のようで、公正取引委員会も時短については店舗側寄りのスタンスをとっていると考えられるから、本部もそれを理由にしにくいのであろう。コンビニも、営業モデルの提供を店舗側にして、そこと顧客をマッチングさせるビジネスと捉えるならば、ある意味プラット・フォーマーだ。ただ、実店舗の場合「デジタル」の要素が少ない、あるいは自由度が低いというだけの話である。

仮に問題となるプラット・フォーマーの行動が、店舗には不利益だが顧客には利益になる、あるいは顧客をめぐる市場においては競争促進的な要素が強いと認定された場合、優越的地位濫用規制の適用はどうなるのであろうか。「契約の自由」の論理からすれば許される行動を制約する法はどうあるべきで、どう適用されるべきなのか。カルテルや談合が一般論として競争制限的で独占禁止法違反であるという理解はストレートに導けても、優越的地位濫用規制はそうはいかない。

公正取引委員会は次の点に注目するだろう。

第一に、このような楽天の行為によって楽天の市場における競争上の地位が強まるかどうかである。特定の取引関係を超えて市場全体に影響を及ぼす場合、独占禁止法は登場し易くなる。

第二に、顧客の利益に「本当に」結び付くものなのか、あるいは取引の公正さの向上に結び付くかどうか、ということである。そこが崩されると楽天側の正当性が怪しくなる。

第三に、規約の変更に際し、どの程度両者で真摯な交渉が持たれたのか、そして楽天側が然るべき譲歩案を出したのだろうか、ということである。そして店舗側に対するサンクションとして恣意性が働かないか、あるいは過剰なものになっていないか、ということである。「濫用」といわれないためには、相手方の利益への配慮が必要だからである。

裏を返せば、楽天側がデフェンスするためにはこの辺りのポイントに注力すべきだろう、ということになる。「依存することが悪く、依存させることは悪くはない」という論理はこの規制では通用しないと思った方がよい。

「契約の自由」に法はどこまで介入するべきか、あるいはしてよいか。この古くて新しい問題の歴史は、資本主義制度の歴史そのものといってよい。

コロナ禍で問われる適正な公共調達:布マスク・持続化給付金・Go Toトラベルキャンペーン

はじめに

コロナ禍における公共調達においては、金額が大きく、過去に経験したことがなく、そして時間的な制約が厳しい案件が続き、その多くが事業実施に際して色々と批判された。全世帯向けに配布された布マスクは、先行して行われていた妊婦向けの配布マスクで多くの不良品が見つかったことで検査体制を強化したことなどが原因となって当初の予定より大幅に配布が遅れ、多くの地域では緊急事態宣言が解除された後に届く事態となった。もともとこの全世帯向けのマスク配布事業自体への批判が強かったこともあり、この遅延によって再び炎上することとなった。持続化給付金に係る業務委託については、受注者となった一般社団法人であるサービスデザイン推進協議会がその業務のほとんどを大手広告代理店に再委託し、そこから多数の外注先へと拡散し、その金銭の流れが不透明であったことに加え、その全体像を発注者自身が十分に把握していなかったことなどが問題となった。Go Toトラベルキャンペーンは、首都圏において感染の再拡大の兆候が強まってきたその最中に実施時期を先送りするどころか前倒しする決定を政府が行ったことで「人災を誘発するのか」との批判が巻き起こった。

筆者が過去に掲載した論考、「『アベノマスク』4つの論点 〜 公共調達の視点から」でも指摘したように、政府の施策に対してその事業内容についての批判は多くなされている一方で、入札や契約のあり方をめぐる議論が欠如しているか、物足りないように思われる。本稿では、過去に掲載した論考(上記の論考のほか、「持続化給付金業務委託について:法的視点からの論点整理」「持続化給付金問題② 公共契約において重要なのは手続的公正さ」)の記述も踏まえつつ、新たな情報を追加する形で、上記で触れた三つの公共調達のケースを考察する。

なお、各事業それ自体の是非はここでは論じない。

 

1 全世帯向けの布マスク配布(厚生労働省)

特命随意契約によって業者選定がなされている。つまり、競争入札ではなく、随意契約の中でも競争的手続を経ない方式でなされている。ただ注意が必要なのは、契約相手であるマスク製造業者、あるいは商社との間での価格や仕様に係る交渉の過程で、契約条件を一定の枠内に抑えなければならないのであるから、これに応じられない業者は対象外とせざるを得ないのであり、発注者側において適切な業者とそうでない業者との間の比較は(見えない形で)なされているだろうから、全く競争的な要素がないという訳ではない、ということである。とはいえ、特命随意契約は公告に基づく競い合いの形式を踏まえていないのであるからそのままでは非競争的といわれても仕方がなく、そうであるが故に、透明性を徹底することがその手続を正当化する生命線となるのである。

透明性の徹底という観点からは、この布マスク配布事業は明らかに遅きに失したといわざるを得ない。現在においても、不明な点は少なくない。例えば、4月初旬にマスク一枚当たり約200円を見込んでいるとの政府側の見立てが示されたが、政府のアナウンスの直後に契約された全体の半分に係る布マスク調達は平均150円を切る金額だった。3月中にはすでに交渉が大詰めの段階に至っており、その段階で実際の契約金額はほぼ判明していたのだろうから、何故に政府は高い金額を国民に提示したのだろうか。そこから「安くなった」と強弁しても、元々の見立て自体を何故に高めに出したのかが不明なままである。一部報道を見ると当初の予定からマスクの「スペックダウン」の可能性もあり、そうすると当初の予定が高く、実際の契約金額が安いのは当然の結果となる。その辺の事情次第が分からないと、この布マスク調達がリーズナブルなものだったかどうかは評価することができない。

 

2 持続化給付金(経済産業省、中小企業庁)

一般競争入札で契約業者が決定されている。布マスク調達を特命随意契約で行ったことについて筆者は妥当だと思う一方、持続化給付金支給に係る業務委託で一般競争入札が用いられたことにはやや驚いた。緊急性が高い公共契約の場合には随意契約が許されているだけではなく、場合によっては随意契約を用いるべきであるともいえる。例えば布マスク配布については、生産体制の確保、調整を企画段階から行う必要があるが、競争入札を前提にしていながら特定業者との事前の交渉などを行えば入札妨害行為となってしまう。競争入札においては「公告からのスタート」であるのが大原則であり、何らかの事前の情報提供などを行うのであれば「全ての可能性のある業者」に「平等」に行わなければならない。非競争的な随意契約を選択することを決断しさえすれば、その辺りの制約は随分と緩和される。

この一般競争入札は非常に窮屈なスケジュールで行われている。公告から応募まで5日間、その翌日には落札者が決定されるタイトな日程である。(事前にヒアリングした業者のうち)2者が応募し200頁に及ぶ提案書を提出したと聞くが、それらを複数の内部職員で業者ヒアリングなしで評価を下したという(おそらく時期的にも法的にもすれすれの選択だったのだろう)。その結果、再委託問題を抱えたサービスデザイン推進協議会への発注が炎上することとなった。契約日は落札者決定から2週間後である。落札者決定後すぐに契約を締結するならば、より公告期間や審査期間を確保できたという見方もできるが、落札者が決まればコミュニケーションの制約が急に緩まり、この2週間という受発注者の調整期間が双方欲しかったのだろう。

現在なされている業務は一次補正予算分であり、今後二次補正分が続くという。この一般競争入札が妥当なものであったという前提を置くならば(サービスデザイン推進協議会(+再委託先)が潜在的に可能性のある業者も含めて最も優れた業者であるとするならば)、継続中の業務の追加発注になるので、通常の発想であれば「契約変更」ということになる(形式上は随意契約になると思われるが実務においては厳密ではない)。しかし、経済産業省は(確認公募型随意契約の前提としての)「入札可能性調査」を行い、応札候補者が現れれば競争入札を行うと宣言し、現段階で、複数事業者が応札の意向を示しており、競争入札が実施される見込みであるという。やや意外な途中経過であるが、このことは当初の契約(手続)がより効果的になされているのであれば、より効率的な発注が行われていた(すなわち違う結果となった)可能性を示唆している。

また、競争入札になったとき、事前のヒアリングは行われるのか、公告期間、審査期間はどのくらいとるのか、既存の受注業者が持っている情報(業務体制、ノウハウ、トラブル事案等)を開示するのかどうか、そして入札過程全般に係る透明性をどう確保するのか、注目すべき点が多々出現することになる。

 

3 Go Toトラベルキャンペーン(国土交通省、観光庁)

企画競争型の随意契約である。これは競争入札と特命随意契約の中間的な存在で、競争入札でない以上価格要素を必須としないが、価格を評価の対象にしても構わない。法的には会計法や予算決算及び会計令上の制約があるが、競争入札よりもメリットが大きいことを十分に示せるのであれば正当化が可能な手続である。委託業務の規模は前2事業よりも大きいが、競争的に業者を決めている点、そして何よりも「評価点数に係る項目ごとの得点」「各委員の採点」「各委員の発言」のいずれも国土交通省・観光庁のウェブサイトで公表するなど透明性の徹底に努めている点で、前2事業とは決定的に異なる。

(競争入札を用いないが競争的要素を加味する)企画競争は競争の要素を持ち込むものであるから公募の手続は厳格にしなければならないが、(本件における具体的な手続の詳細を筆者は承知していないが)実務上、競争入札のような杓子定規的な手続に制約されずに柔軟に対応できるメリットがある。持続化給付金のような時間的制約が特に厳しい業務委託の場合、この方式がどの程度機能するかは不明であるが、早い段階で「競争的交渉」を随意契約で行うことを宣言すれば、技術面と価格面とで総合的により優れた業者を発見し、より合理的な契約が可能になったのかもしれない。

このGo Toトラベルキャンペーン業務委託における企画競争は今後大いに参考にされてよい。

あとは透明性の問題である。透明性の確保は、発注者の自信の表れである。そして批判をシャットアウトする最大の武器でもある。

国宝工事をめぐる官製談合事件について

2020年6月25日付の日本経済新聞記事(「官製談合疑いで県職員逮捕 滋賀、国宝工事巡り」)より。

滋賀県警は25日までに、国宝や重要文化財の修理工事の競争入札で予定価格に近い価格を建設会社側に漏らし、不正に落札させたとして、滋賀県教育委員会の主査・・・を官製談合防止法違反と公競売入札妨害の容疑で逮捕した。

落札した業者の「社長・・・も公競売入札妨害容疑で逮捕した」(同記事)という。

一昔前であれば、発注者による予定価格の漏洩行為は談合の幇助のような機能を果たしていた、と考えてほぼ間違いなかった。予定価格は落札金額の上限を画するので、これが業者側に伝わると談合が容易になるからである。予定価格が分からないと、談合によってどこまで価格を吊り上げてよいか談合業者側には分からず、誤ってオーバーしてしまえば入札が流れ(再度入札を繰り返せば結果は同じになるが面倒な話になる)、保険をかけて低い価格で調整すれば談合の利益が減少する。予定価格を漏洩することは、談合の実施を容易にするのである。

予定価格(を推測させる価格)の漏洩、予定価格付近での落札と報じられると、多くの読者は上記の「業者間の談合+発注者側の関与」を想起するだろう。

しかし、報じられた内容だけからするとそうとも言い切れないというのが、筆者の見立てである。業者間で価格を吊り上げる談合がなくても、発注者には予定価格を漏洩する動機が存在するからである。それは他の業者ではない特定の業者に落札させたいという意向が発注者側にあり、その意向を汲んで当該業者が落札する意思を有するというケースである。この場合、予定価格付近での受注価格は業者間の話し合いで吊り上げた結果としてのそれではなく、発注者側の意向としての価格である。一般的には癒着の関係があると予想されるが、何らかの特殊な事情で当該業者が落札することが発注者にとって合理的であると考えられる場合もあるかもしれない。通常は随意契約を利用すればよいのであるが、随意契約の利用がますます厳格に扱われる昨今において、競争入札を選択しておいてそれを恣意的に操作することが不正として立件される事件が最近目立つ。安易な競争入札の利用は却って不正を誘発する、ということに発注者はもっと敏感であるべきだ。

本件においては応札者は三者だったという。他の応札者と当該業者との関係が分からないと違反事実の性格もわからないのであるが、他の応札者が本気で落としにいっていない「お付き合い入札」の場合もあり得る。別の報道によれば、他の二者は予定価格をオーバーしていたという。現段階では何ともいえない。本気で落としにいっている(業者間の談合がない)のであれば、当該業者の予定価格付近での落札の説明が苦しくなる。

これだけの情報だけだと、いろいろなシナリオが考えられる。三者とも本気で落札を目指している中、発注者が意中の業者に落札させるためにどうすればよいか。意図的に予定価格を低く設定し、それを漏洩すれば、意中の業者だけが予定価格内の応札をするように操作することが一つのやり方である。他の二者にとっては予想外に低い予定価格ということだ。しかしこのままでは落札業者にとっては割の合わない受注になりかねない。そこで、発注者は契約変更や随意契約による追加工事の発注によって「割の合う」形に仕立て直すことで利益を調整することができる。

何故、他の二者は予定価格オーバーとなったのだろうか。より詳細なファクトが欲しい。

上記報道では予定価格ではなく「予定価格に近い価格を・・・伝え」たと報じられているのも気にかかる。これは「予定価格」ではなく「予算規模」のことなのだろうか。予算規模に係る情報提供は、実務上予定価格よりも緩やかに扱われているようだ。しかし、予定価格を「ある程度」推測できる情報の提供が予定価格に準じて扱われるというのであれば、入札の公正を扱う官製談合防止法等の法律違反を考える上で、大きなインパクトを与えるかもしれない。

一般競争なのだから提供する情報は「すべての者に平等に」なされなければならない。持続化給付金の業務委託をめぐる一連の問題についても当てはまる指摘である。

公共契約において重要なのは手続的公正さ:持続化給付金業務委託問題(2)

経済産業省発注の持続化給付金業務委託に係る入札と契約のあり方が批判されている。日々いろいろな情報が出てくるので、落ち着いたころにまとめて、とも思うこともあるのだが、タイムリーな論評も必要だろうから、このテーマについての「第二弾」を書くこととした。受注者はある社団法人であり、日本を代表する広告代理店に業務の大半が再委託されている。

(1)「競争入札だから問題ない」は通用しない

安倍首相が国会の答弁で「一般競争入札のプロセスを経た(から問題ない)」旨の発言をしたとのことだが、それはミスリーディングである。問題は、この一般競争入札のプロセスが公正だったか否かであり、一般競争入札だから公正なのではない。正しくは「公正なルールに基づく一般競争入札を公正なプロセスで実施した(から問題ない)」だ。また、「事業目的に照らし、ルールに則ったプロセスを経て決定された」ともいったそうだが、正しくは「ルールの趣旨を踏まえ公正に設定された手法に基づき、公正なプロセスを経て決定された」だ。

また、経済産業大臣が、第2次補正予算案に計上したとされる追加の事務委託費850億円について、「入札可能性調査を行い、公募を経て適切に対応していく」と述べたとのことだが、これが確認公募型随意契約を指しているのなら、むしろ新規参入を見込んでいないと考えるのが公共契約分野における共通了解だ。この場合発注機関は特命随意契約をベースに考え、競争入札や企画競争を実施しても一者応札、一者応募になるだろうことを予想しているのが一般だ。それでも少しでも競争性確保の可能性を模索しての手続なのである。多少の手間はかかるが随意契約に対する批判をかわす手法として、最近よく用いられるようになった。継続中の業務委託などは建設中の工事のようなもので、そこに追加工事を発注する場合に新規業者を期待することはまずできないし、いたとしても既存の事業者が圧倒的に有利である。そもそも建設中の工事に追加工事を発注するときは「契約変更」になるはずだ。

随意契約の場合、最も重要なのは「透明性」である。特命随意契約の場合、競争の要素がないので、徹底的な説明責任を尽くすことでしか正当化を図る方法がない。一方、競争入札の場合、競争の結果が望ましい結果だという正当化ができる。但し、そこには決定的に重要な条件がある。それは設定された競争のルールが公正であり、その運用が公正になされているという前提事実である。

この入札は4月8日に公告されたとのことだが、3月末から4月初頭にかけて、後に応札者となる事業者にヒアリングをしていたと報じられている。ヒアリング対象者は3者で応札者はそのうちの2者である(両者ともに応札依頼をしたとのこと)。この数の少なさには、応募締め切りが公告から僅か5日後だったという「超が付くほど」の短期だったことが大きな影響を与えていることはほぼ疑いない。それも手間暇のかかる総合評価方式だという。事前のヒアリングを受けていない事業者が、準備に困難を来すことになっただろうことは想像に難くない。

ある経済産業省の最高幹部の一人から「複数の事業者に同様の情報を提供」したので「問題はない」との発言があったとのことだが、一般競争入札なのだからそこは「潜在的な事業者すべてに対して」でなければならない。競争入札は入札参加資格を有する事業者に「開かれている」ことが重要なのであって、競争という形式があれば足りるという訳ではないし、部分的に競争があるからそれで足りるという訳でもない。公告日に初めて仕様書等を目にした潜在的応札者との比較で、事前のヒアリングの存在がどれだけ受注者を有利にしたか、が問われているのである。

複数の事業者に同様の情報を提供したので問題ないという認識を示したということは、競争の結果に影響を与える何かが示されたということなのだろうか。その情報とは何なのだろうか。そしてその情報を聞くことができなかった潜在的な競争者との間にどのような格差を生み出すことになったのだろうか。知りたいことはたくさんある。

もちろん、やりとりされた情報次第では「問題にならない」シナリオもあり得ることは指摘しておかなければならない。

 

(2)再委託について

再委託が許されるのは受注者が「司令塔」としての役割を有し、再委託先のマネージメントをするという前提であり、本件はどうも、再委託先が司令塔になっているように見える。こういう形態の再委託は「下請け」ならぬ「上請け」といわれ、公共契約において禁止される「丸投げ」の一種として理解されることが多い。

ただ、本件は100%「丸投げ」ではない。受注者である社団法人は業務委託の大半を再委託先である広告代理店に投げている(そこからまた再委託関係が続く)が、振込業務のような一部業務は当該社団法人が行っているという。故に本来は下請的な立場にある事業者なのではないか、という疑念が再委託に係る本件のポイントとなっている。この社団法人が巨大な再委託先の業務を含む全体の工程管理を行っているのか、あるいは再委託先が実質的にこの社団法人のマネージメントをしているのか、十分な説明が求められる。

報道によると、政府はこの再委託について「共同事業体(JV)」のようなものとして説明しているそうだ。ただそうならば、受注業者、再委託先のような関係を作るのは不自然で、共同事業体として受注すればよく、その業務分担をそのまま企画書、提案書に記載すればよいとうことになる(単独でもJVでも応札を認める混合方式をとることが前提になるが)。

仮にその実体が共同事業体であり、上記社団法人が一部業務を担うに過ぎないというのであれば、この社団法人が今年度における800億円近い官公需の受注実績を有することになるのは形式と実態の乖離となってしまうのではないか。やはり「JVみたいなもの」ではなく、「受注者として司令塔の性格を持っている」という説明が必要なのではないか。

企画書、提案書には再委託先との関係がどのように書かれていたのであろうか。まさか再委託先が司令塔であり、そこに「上請け」に出すと書く訳はなく、受注者が全工程、全業務を自ら把握し、適切なマネージメントを行うとされているはずだ。本当にそのような実態があるのなら再委託批判は的外れとなる。

再委託云々の批判については、ルールで禁止されていない以上、それが「合理的かどうか」だけの問題だ。それが複層的な再委託だったとしても同様だ。分離発注が困難な大規模業務委託の場合、受注者単独で、あるいは再委託業者単独で行えというのは無理なケースもある。実質があるのなら問題視されるべきではない。

それだけに競争入札が機能しているかどうかが重要なのである。その結果が公正である以上、利益が抜かれてもそれは市場の論理として受け入れなければならない。それが競争入札というものである。その場合、事業者を責めるべきではない。

最後に一言。この代理店はただの代理店ではない。日本最大の「何でも屋」といっても過言ではない。その情報量とネットワークは他の追随を許さず、人を集め、作業させることについては圧倒的な実績と力量がある(「再委託能力」といってもよいかもしれない)。各省庁が各種イベント、各種業務委託でこの事業者を頼りにするのには、十分な理由がある。発注機関が最初からそこに依存する傾向はなかったか。民間ならば当然の連携であっても、公共の場合、同じ理屈が通用する訳ではない。上記社団法人を挟む、挟まないは別にして、超短期の公告期間で総合評価を選択するのではなく、(ヒアリングを通じた)特命随意契約に踏み切ってすべてをオープンにするという選択肢はなかったのだろうか。

そのような発想はあまりにも「発注機関寄り」と思われるだろうか。「競争性の確保」が大原則である公共契約の、悩ましいところである。

 

持続化給付金業務委託について:法的視点からの論点整理

ついこの間、府中市における入札情報の漏洩事件についてのコラムを書いたばかりだが、世間の話題は持続化給付金に係る業務委託に集まっている。このケースも受発注者間で不適切な情報のやりとりがあったのではないかとの疑惑であるが、契約額も大きく、新型肺炎絡みの事業なので、各紙大きく取り上げている。

筆者のところにもメディア各社からの取材がきて、その都度、関連する法令や制度について紹介、解説しているのだが、それならば文章の形で残し、「まずそれを見てください」といった方が効率的だし、読者一般の便宜にもなると思い、筆をとることにした。

確かに、今与えられている情報は「断片的」である。十分な材料のない中での「考える筋道」の提示なので、推測的なことに止まらざるを得ない部分が多くなることを予め断っておく。

まずよく聞かれるのが、「発注機関の対応は不正といえますか」というものだが、結論からいえば、「ケース・バイ・ケース」としかいいようがない。事前のヒアリングは不公正だ、というが、何をどうヒアリングしたかによる。そもそも事前のヒアリングもしないで仕様書を書く方が無責任だともいえるのであって、問題はその仕方である。

 

このケースは大きな額だが、緊急性が高いということで仕様にかかわる事前の意見招請の手続などはしていないのだろう。ヒアリングを通じて使用を決定し、公告し、説明会、そして応募、入札という手続を矢継ぎ早に進めている。公告から、あるいは説明会から応募まで数日しかないとするならば(それ自体は法令上認められている手続である)、規模が規模だけに業者は書類の作成に困難をきたすかもしれない。本当に業務遂行体制が整えられるのか、積算は正確か、価格はどこまで下げられるのか、赤字になるリスクはないのか等々、業者選定のスキームに合わせる形で、考えなければならないことは多い。

今回の競争入札は総合評価方式だという。提案書の作成を伴う総合評価方式の場合、ますます時間的制約がネックになる。仮に公告段階で初めて公になった仕様書(案)の具体的内容、提案すべき内容、総合評価のルール等について、公告前に知らされていたならば、当該業者はその分、時間的な猶予が与えられることになり有利となる。裏を返せば、そのような有利になる情報が提供されていないならば、入札の公正を害するとまではいえないことになる。だから、「ケース・バイ・ケース」としかいいようがないのである。

事前のヒアリングで何がやりとりされていたのか、がポイントになる。本来であれば、公告前の特定業者との事前のやりとりがあっても、仕様書等公告段階で明らかにされる内容について意見招請の手続を踏まえてオープンに批判させる機会を設けることで、入札の公正を担保する手続もあるのだが、非常に短い期間での手続が要請される中、入札の公正を担保する仕組み作りは、もはや条件の平等化しかない。競争入札という手続を採用した以上、特定の業者が他の業者にオープンにされていない内部情報を発注機関と共有することは「入札の公正」を疑わせるものになる。裏を返せばオープンになっている情報を提供したところで、問題にはならない。ポイントは結局、何がやりとりされたのか、である。

関連する法令は、官製談合防止法(正式名称は「入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律」)と刑法典上の公契約関係競売入札妨害罪だ。両方とも、「入札の公正を害すべき」行為が犯罪となっている。そのうち情報漏洩行為が多くを占め、前回のコラムで触れた予定価格や最低制限価格の漏洩がその典型である。ここでいう「公正を害すべき」とは「公の競売又は入札が公正に行われていること、すなわち入札等の参加者が平等な取扱いの下でその意思に基づいて自由に競争しているということに対し客観的に疑問を懐かせることないしそのような意味における公正さに正当でない影響を与える」ものとして理解されており、少なくとも特定の業者が、入札における平等を害する形で有利になる状況が想定される以上、それが便宜だったとの抗弁は通用しない(発注機関の悩みは十分理解できるが)。なお、各省庁が策定する発注者綱紀保持規程でも、秘密にすべき入札情報の保持、特定の業者を有利にするような接触の禁止について定められている。

繰り返すと、この要件の該当性を論じるためには、そのやりとりの具体的な中身が明らかにされなければならない。

一連の報道を見て驚いたのは、これだけ大きな事業をこれだけ短時間で、それも総合評価方式で実施するという点である。総合評価はどのようなスキームものであり、何をどう評価したのだろうか。業者は応札にあたってどのような作業を求められたのであろうか。それも気になるところである。

ここで比較の対象になるのが、10年ほど前に問題になった年金機構発注の「紙台帳等とコンピュータ記録との突合せ業務の入札」に係る不正事件である。この事件では、紙台帳等とコンピュータ記録との突合せ業務を発注する年金機構のある職員が、これまでに経験したことない業務委託がうまくいくかを懸念して、ある業者に再就職した旧社会保険庁OBに対して当時未開示だった仕様書案等を提供し、アドバイスをもらっていたところ、その業者が入札に参加し落札したのである。本人は、最初は発注機関によかれと思って情報交換をしていたが、結果的に業者側を競争上不当に利する結果となってしまった。その他にも、総合評価方式における競争相手の技術点を漏洩するなど、さらに悪質な逸脱があったことから立件され、官製談合防止法等で有罪となってしまった。

筆者も参加したこの事件に係る検証委員会の報告書(「紙台帳等とコンピュータ記録との突合せ業務の入札に関する第三者検証会議報告書」)を参照いただきたい。

本件において、発注機関はコンプライアンスを意識して情報交換、意見交換に臨んでいたと思いたいところであるが、公告期間の短さを勘案するならば事前のヒアリングによって得た情報次第では、随分と有利に手続を進めることができたのではないか、との疑念が自然に生じるのもまた否めない。その点について発注機関は十分なディフェンスを行うことが求められるだろう。

随意契約の生命線は透明性であり、競争入札の生命線は競争の公正さにある。それが担保されている限り、競争の結果を受け入れなければならないが、そこに疑義が生じてしまえば、やはり透明性の問題に行き着くことになるのである。

問題が沈静化するか、さらに炎上に向かうか、次にくる情報次第だろう。

入札不正の現在位置:護送船団型から抜け駆け型へ

こんなニュースを昨日目にした。最近では見飽きたニュースである(NHKニュース「市の発注工事で官製談合か 市幹部や市議ら6人逮捕 東京 府中」)。

東京 府中市が発注した公園や道路の工事をめぐって、市の幹部が工事の最低制限価格を市議会議員を通じて業者に漏らしたとして、警視庁は府中市の幹部や市議会議員、それに業者ら合わせて6人を官製談合防止法違反や入札妨害の疑いで逮捕しました。

地方公共団体発注の公共工事の入札においては、多くの場合、上限である予定価格の他に下限である最低制限価格が付けられる。これは、予定価格を上回った入札を失格にするのと同様に、この水準未満の価格での入札を失格にする効果があるラインを設定するものである。国の公共契約を規律する会計法、予算決算及び会計令にはそのような規定はなく、地方自治法及びその施行令において認められている地方公共団体の公共契約に独特の制度である(あまりにも安い札入れに対して、契約履行が確実にできるのかについて調査を行うという制度は国、地方公共団体共に存在する)。

最低制限価格の存在はすなわち落札率の高止まりを意味するので、少しでも支出を抑えたい首長の多くは最低制限価格の存在をよく思っていないが、工事や契約の実務に携わっている現場の職員の多くは、品質維持のために必要だと思っている。

この最低制限価格の漏洩事件が近年あまりにも目立つ。最近の入札不正事件の半分以上、いや3分の2以上を占めるのではないだろうか。

最低制限価格の漏洩はある特定の業者に対してのみなされるのが一般である。それは何故か。それは最低制限価格をピンポイントで知った業者は、この価格で入札すれば相当高い確率で受注者になれるからだ。数千万円、数億円に上る公共工事の下限価格をぴったり当てるのは困難である。1円でも下回れば失格になる。積算能力の高い業者であればそれなりに近い額は導き出せるが、ピンポイントとなるとそうはいかない。予定価格から一定の計算式を通じて最低制限価格を出すのが一般的なので、予定価格が分かればよいが、それが非公表だとやはり難しい。

この最低制限価格の漏洩は、本来であれば競争によって決まるはずの価格が、特定の業者にのみ特定の情報が不正に与えられたことで歪められてしまうので、それは「入札の公正を害する」と評価され、刑法典上の公契約関係競売入札妨害罪や官製談合防止法違反罪に問われることとなるのである。

かつては公共契約に係る不正といえば、競争入札における入札談合と随意契約における癒着が定番だった。入札談合は、指名競争という、閉じられた(いつも同じようなメンバーという意味で)空間で業者間の協調関係によって生み出されるもので、かつては「談合天国」などと揶揄されるくらいに日本社会に蔓延していたものである(根絶された訳ではなく、今でもしばしば見かける)。会計法や地方自治法上、指名競争は例外的な位置付けなのにも拘らず、かつてはほぼ原則化されていた。随意契約も今では考えられないくらいに大甘に利用されてきた。

時代は変遷し、一般競争入札の徹底が図られ(とはいっても骨抜きにしている発注機関は少なからず存在するが)、随意契約は批判の目に晒され利用機会が極端に制限されるようになった。透明性を徹底できない随意契約には「不正の疑義」が生じる、といっても過言ではない状況となった。企画競争等、競争的な随意契約(この表現方法が適切かは疑問であるが)も多く登場するようになった。

公共契約をめぐる不正の性格も変遷した。護送船団的な入札談合ではなく、特定の業者が発注機関職員と通じて、あるいは議員を介在して、他の業者が知り得ない情報を入手し不正に受注を獲得するというタイプの不正が目立つようになったのである。冒頭に紹介した事件がまさにその典型だ。その他にも、総合評価方式型の競争入札において発注機関職員から提案書記載の指南を受けて競争を有利に進めたとして独占禁止法違反(不公正な取引方法)に問われた事件もある。

競争入札の公告前に公告される内容を不正に入手することも同じ問題である。その業者のみ、実質的に公告期間が延長されているようなものであり、競争入札において不当に有利な立場にするからである。その他、競争入札の参加資格や総合評価方式における点数の付け方についての恣意的な操作がよく問題になる。

この特定の業者のみが不当に有利になる(「抜け駆け」的といってもよいかもしれない)タイプの入札不正の重要な特徴は、発注機関職員の協力が必要であるということだ。つまり、本来的に官製談合的な要素を有するということだ(ここで「官製談合」というのは「官民間の癒着」というやや広い意味を持つことに注意されたい)。だから、刑法典上の公契約関係競売入札妨害罪と官製談合防止法違反罪がセットで出てくるのである。そして「口利き」をした議員が出てくると贈収賄事件へと発展する。冒頭のケースは、そのまま公契約関係競売入札妨害罪が問われているが、当局は「その次」を睨んでいるのかもしれない。

最低制限価格の漏洩という違反の存在は、競争入札の結果、各業者の応札が下限価格に張り付いていることを物語っている。かつての入札談合の時代においては、予定価格はほぼ受注価格だったが、今では競争的になっていることを(それだけみるならば)意味している。「みんなで安定受注を目指す」時代から、「自分だけが生き残ろうとする」時代になったということだろう。

入札不正には色々なバリエーションがある。最低制限価格の漏洩は価格が下限に張り付いているので不正は不正だとしてもまだ「競争的」な方だが、競争入札参加資格や評価点数の恣意的操作などは、競争それ自体を排除するものでありより深刻である。公告期間を極端に短くしておきながら、特定の業者には相当前から公告内容を漏洩しているようなケース、それも提案書の提出を要求するような総合評価方式や企画競争のケースは、競争の体裁を繕いつつ意中の業者との契約を不当に目指す、悪質性の高い不正類型だ。もちろん、ルールに則って必要性に基づいて対応したものならば難じることはできないが、その辺りの「見極め」が、公共契約の不正をウオッチする側に求められるスキルである。

公共契約を眺めるポイントは「表面」に惑わされてはならないということだ。競争入札だから安心とか、落札率が低いから安心とか、応札者(応募者)が複数いるから安心、という訳にはいかないのである。競争入札も骨抜きにできるし、予定価格を高く設定すれば安くなった体裁を作れるし、発注機関が特定の業者に肩入れしているケースでは競い合いの体裁は意味をなさない。

随意契約、それも特命随意契約の場合は、業者選択と契約価格の適正さが問われるのが不可避である。特命随意契約の場合、競争の体裁が作れないので、正当化の逃げ場が少なく、透明性の徹底が要求されるので、発注機関による合理的な説明が生命線となる。

「当初の見込みより安くなった」という政府の説明には警戒した方がよい。公共工事のような材料費や労務費、工数の積み上げによってターゲットとなる価格が決まる分野はまだしも、これまでに経験のないような発注だったり、業者からの見積もりやヒアリングに依存するタイプの発注だったりする場合には、そもそも当初の見込み自体があやふやだし、不確かなものが多いだろう。緊急性を理由にした随意契約の場合には、特にそうである。とってきた予算が適正である保証はどこにもない。予算額と予定価格が大きく乖離している場合は、獲得した予算の妥当性の再検討が必要になる。

「安くなったから契約しました」は、特命随意契約を正当化しようとする発注機関が利用するかつての「常套句」だった。実際は、元々の提示価格が高い場合だったりするのである。そこから3割引、5割引します、という理由で価格の合理性を説明していた発注機関の話をよく聞く。スペックダウンして安くする体裁を作るやり方もあるだろう。そのようなやり方は「過去のもの」だと思っていたが、実はそうでもないのかもしれない。

もう一度繰り返すが、公共契約を眺めるポイントは「表面」に惑わされてはならないということである。

 

(紹介)  *併せて読んでいただけると幸いです。

楠茂樹『公共調達と競争政策の法的構造〔第2版〕』上智大学出版(2017)

 

消毒液も高値転売禁止へ

マスクに続き、消毒液なども国民生活安定緊急措置法に基づく高値転売禁止の対象になるそうだ。18日の時事通信は以下の通り報じている(「消毒液も転売禁止へ 新型コロナで品薄―政府」)。

政府は18日、新型コロナウイルスの影響で品薄が続く消毒液について、インターネットなどを通じた転売を禁止する方針を固めた。転売目的の買い占めを防ぎ、医療施設などに優先的に供給できる態勢を整えるのが狙い。22日にも関連する政令を閣議決定する。

同記事によれば「アルコールを含んだ医薬品や、消毒液の代用となるアルコール濃度が高い酒も対象とする」とのことである。マスクが国民生活安定緊急措置法で高値転売禁止されたのは約2ヶ月前だった(筆者のコラム「マスクの利益上乗せ転売禁止:古典的措置法をネット時代に適用」参照)。そのころにはアルコール消毒液、除菌ジェルや除菌シートの類も品薄で、高値販売されていたので、マスクと同時に対象にしてもよかった気もする。今では除菌ジェルなどはスーパーやコンビニの店頭でそれ相応の価格で販売されるようになってきた。ただ、消毒液が医療機関等必要なところに必要な分量が行き渡らないという状況が今でもあるのであれば、遅きに失した訳でもない。この政府の判断は、確かに一歩前進である。

注意しなければならないのは、国民生活安定緊急措置法で高値転売が禁止されたといっても、当該商品の価格が前の水準に戻るかというとそういう保証はない、ということだ。この法律の対象となるのは、小売店(一般消費者に対して直接販売する製造事業者、卸売事業者や個人も含む)から買ってきたものを高値転売することであって、生産者から購入した小売店舗が仕入れ値よりも高く売ることが禁止されている訳ではない。それを禁止してしまったらビジネスが成り立たなくなってしまう。そこまで「価格統制を徹底する措置」ではないのだ。だから生産の段階で、卸売の段階で高騰してしまった場合には当然、消費者価格が下がる訳ではないし、アンテナを張っていち早く生産者から一定の在庫を確保した小売店が大きな利益を出したとしても、規制の射程には入らないということになる。マスクの高値転売を禁止してもしばらくは価格が高止まりしていたのは、取締まりが甘かったというよりは、射程外の問題の影響が大きかった、ということなのだろう。だからといって今回の一連の措置の存在意義を否定するつもりはない。

物価統制のような直接的な市場介入は批判が強い。政府としてはコンセンサスが得られる範囲で、法適用の射程を考えたのだろう。私の専門である「経済法」の中心は競争制限的行為を類型化して禁止する独占禁止法であるが、石油ショックの際に制定された国民生活安定緊急措置法は、その介入の仕方として「標準価格」「特定標準価格」を設定してこれを小売業者に遵守させることができ、後者では違反者に課徴金を課すことができる規定が存在するなど、市場介入色が強く「経済統制法」ともいえる立法として知られていた(独占禁止法の課徴金制度はこの立法を参考にしたともいわれている)。今回の高値転売禁止は経済法と経済統制法のちょうど中間的な性格を持つものだ(問題となる商品の、適切な価格を設定するのはそもそも難しいだろう)。今回の一連の対応は、市場への直接的介入は可能な限り避け、譲渡に際して特に問題となる行為を絞り込んで、これを明確化し禁止する、そういうものだった。

国民生活安定緊急措置法はなかなか考えられた法律である。

マラソン、次世代のスターは?

「なぜケニア人は世界記録を連発するのか? マラソン最強国を知る専門家が語る速さの秘密」というインタビュー記事(REAL SPORTS編集部)を興味深く読んだ。最後の「厚底シューズ」に関する評価については若干の違和感があったが、標高の高さ、身体的特徴など、概ね説得的で示唆的な内容だった。

確かに、中長距離におけるケニア勢の強さは別格だ。しかし、トラック競技の10000m走では世界記録は相変わらずエチオピアのケネニサ・ベケレであり、もう15年も破られていない。その前の記録は同じエチオピアのハイレ・ゲブレセラシェだった。この二人の記録を20年以上、ケニア勢は破れていない。

ベケレの走りは圧倒的だった。最後の一周は、信じ難い走り方をする。まるで800mのような走り方だ。ちなみにマラソンの現世界記録保持者で、参考記録ながら2時間切りを達成したエリウド・キプチョゲの10000mの記録はベケレよりも30秒以上遅い(それでもその記録、26分40秒台は日本人選手と比較したら圧倒的である)。その後、キプチョゲはマラソンに転向して、トップに立った。遅れてマラソンに参入したベケレは惜しいところに止まっている。

ケニアは圧倒的だが、エチオピアとの比較をしたらどうだろうか。何か面白い分析はできないか。そんな興味を抱く。今一番の期待の星は、ケニアのジョフリー・カムウォロルだ。ハーフマラソンを、ほぼ58分ジャストで走っている。

ゲブレセラシェもそうだったが、アフリカのトップアスリートの多くはトラックからの転向組だ。日本でも学生時代は5000mや10000mのトラック選手であり、その後トラック選手と駅伝選手を兼ねて、マラソンに参入する。マラソンへの新規参入の仕方は似ているようだが、何かが違うのだろうか。実業団チームという独特のキャリア・パスは、そういう発想のない(日本にいる選手は別にして)アフリカ選手との比較でどうなのか。そしてプロランナー・大迫傑の強さは、どこからくるのか。

そういえば、80年代は日本男子マラソン界の黄金期だった。往年の瀬古利彦のトラック勝負は、「ベケレの最後の1周」を彷彿させるものだったし、宗兄弟も中山竹通も強かった。瀬古はロンドンもシカゴもボストンも制している(最近では、悪天候の中の川内優輝のボストン優勝は衝撃的だった)。2000年前後は女子マラソンの日本勢が活躍した。2003年のポーラ・ラドグリフの当時の世界記録は異常だったが、日本人選手(野口みずき、渋井陽子、高橋尚子)も20分を切り、世界に食い込んでいた。

ここ2、30年間の世界(特にケニア、エチオピア勢)と日本との開きはどこから生じ、そして「マラソン大国、日本」の復活のためには何が必要なのだろうか。

アフリカ・マラソン界のトップアスリートに共通すること、それはクロス・カントリーにおいても世界を代表する選手だということである。ベケレは世界大会優勝の常連だったし、カムウォロルは2015、2017年と2連覇している。クロス・カントリーがマラソンの次世代のスター選手を生み出すとするならば、注目は2019年優勝のジョシュア・チェプテゲイだ。ウガンダの23歳の選手である。そして10代のジュニア界にも続々とダイヤの原石が控えている。

次世代のスター選手に早くから注目するのも、スポーツの楽しみ方の一つである。

政府によるマスクの調達について:公共契約としての論点整理

政府によるマスク調達が連日テレビや新聞で報じられている。安倍晋三首相が4月1日に全世帯向けに布マスクを配布することを表明し、自ら布マスクを付け始めたことから、「アベノマスク」などと呼ばれるようになったこのマスク、予算規模の大きさや要不要について様々な議論を呼び起こし、ここ数日は(既に発注されていた)妊婦向けマスクについて不良品が多数見つかったことなどが報道され、その品質管理の杜撰さが批判されるようになった。どの対象の調達についてどの業者がいくらの量をいくらで受注したか、という情報公開の声が強まり、その対応が遅いとさらに批判されることとなった。

数百億円にものぼる政府によるマスク調達は公共の契約であり、公共の契約は国であれば会計法(地方自治体であれば地方自治法)という法律によって、そして関連する規則、指針等によって、その公的支出が厳格に規律される。各種報道を見ていて、この「公共契約の適正化」からの議論が極めて少ないことに気付く。そこで、以下、公共の契約という観点からの論点整理をしておきたい。報道によれば不良品が多数見つかった妊婦向けの配布マスクは緊急随意契約とのことであり、全世帯向けのそれも同様であろうから、ここでは随意契約を前提に話を進めることとする。

第一に、随意契約の適用場面である。これは会計法、地方自治法(その施行令)に厳格に定められている。一般には特定の業者しか提供できないという供給源の唯一性のケースだが、マスクの場合は緊急性の高さがその理由になっているといってよい。緊急随意契約の典型は災害等における緊急復旧工事である。競争入札には(公告等)手続に係る一定の時間を要することとなり、それが待てない場合には随意契約が採用される。マスク配布の必要性が真にあるという前提で、そのための時間的制約が厳しい以上、そこに競争を求めることはできないということになる。しかしマスク配布の必要性を見出さない人にとっては(緊急だと思っていないので)議論の前提自体が欠如してしまい、適用場面に係る会話が成り立たない。今さまざまに展開している議論は、もしかしたらそういう段階の違いを無視したレベルの応酬になっているのかもしれないが、そこは論点を分けて冷静に論じるべきである。

第二に、価格面の問題である。緊急随意契約だからといって「どんぶり勘定」でよい訳がなく、できる限りリーズナブルな価格に収めることが必要である。緊急性と唯一性が混在する場合には「説得する」しかないが、複数の業者が選択し得る場合には価格に関する精査をし、より低廉な方(そしてより品質上の問題のない方)を選ぶことが求められる。本件において政府はどのような状況に置かれ、どこまで選択可能な業者を射程に入れていたのであろうか(必要枚数入手の見込みが立たず焦っていたのかもしれない)。

ここで、会計法上のルールとして「予定価格」という概念が出てくることに注意したい。一般的には獲得した予算を反映するもので随意契約の場合、実際の契約額に合わせて予定価格を組むことが多いので、落札率が100%となることが多いのだが、随意契約の正当化のために、予定価格を高めに設定して実際の契約額をそれなりに低くすることで「安くなった」(だからこの業者にした)という印象を作るというやり方もしばしば見かける。最初に高めの見積りを出しておいて、競争がない状態では、後から安い額を提示し契約を獲得する(実際には「言い値」なのだが)というやり方をする業者もいる。「見込み額より安い」といってもそれだけでは何も判断できない。競争という要素がない随意契約において価格の妥当性の評価は最も悩ましい問題の一つである。

第三に、業者選択である。業者選択の問題は品質の問題と言い換えてよい。公共契約の契約相手はリスクの低い業者に任せなければならず、安ければ誰でもよいという訳にはいかない。緊急随意契約の場合は「失敗は許されない」調達なのであるから、特にそうである。実はそこが難しく、緊急復旧工事の場合には、信頼できる地元業者が存在しているのが前提になっている(だからこそ、公共工事、建設業における担い手育成・確保が国土交通省の最大の政策課題になっている)が、そもそも経験のない(乏しい)物品調達、製造委託の場合、時間との戦いの中、品質を見極めなければならないという困難に直面することになる。政府のマスク輸入業者の選定については厚生労働省以外の省庁も関わったとの報道もあり、それが本当だとするならば、その辺りの経緯も重要な検討対象となる。

第四に、そして最も重要なものとして、透明性である。なぜ随意契約にしたのか、なぜその価格なのか、そしてなぜその業者なのか。これらの疑問に対しては、透明性の徹底によって応えていくしかない。競争入札であれば、その公告された内容から手続としての適正さが評価でき、競争の結果が公正な結果であると評価することが制度上可能となっているが、随意契約(特に競争性のないそれ)の場合はそのようなフィルターがない。それだけに「説明責任を尽くすこと」でしかその適正さを担保することができないのである。価格面でいえば、当初の見込額の妥当性と実際の契約額の妥当性である。見込みよりも下がったという事実は、その見込みが高過ぎれば意味のない事実である。価格の精査方法、実際のやりとり、交渉の有無等、価格決定に至るまでのプロセスはどうだったのか。業者選択については、どのような経緯でその業者になったのか。過去の実績がない、乏しいところと契約をしたのであれば、説明責任の度合いはさらに高まる。品質管理体制も不明な点が多い。どこの業者がどうして大量に不良品を出したのか。なぜそれを防げず、見抜けなかったのか。

ただ迅速であっても不正確であればそれは拙速であり、多少時間がかかっても正確な情報の方がよい。だからこそ随意契約の情報公開は「一定の期間内」になされるというのが実務なのである。しかし批判が強いケースの場合、正確性と迅速性が同時に求められることになる。発注機関は大変だろう。だからこそ準備段階で、契約段階で適正化への意識を先鋭化させておくことが重要なのである。急にどこからか降って湧いた緊急随意契約で、現場はパニック状態だったのかもしれない。現場の苦労は察するに余りある。

行政は「無謬性」の体裁に拘る傾向が強い。情報を出さないという形でそれを維持しようとしているのかもしれないが、それがますます疑問を深める結果になっているとはいえないだろうか。

筆者は、政策として政府が必要なマスクを調達し、必要な人に配布することそれ自体を批判するつもりはない。不良品がなく、支出も低廉に抑えられて、目的に対して一定の成果が期待できるならば、批判されるべきものではない。そして場合によって随意契約が必要だという考えは当然だ。公共工事における緊急随意契約は人々の命を守るために必要なものだから競争入札のメリットを捨てて、「時間を買う」のである。それを否定する人はいない。誰もを説得できる自信があるから、発注機関はその調達の必要性も含めて徹底した情報公開に努めるのである。

随意契約にとっては透明性がその生命線である。随意契約への国民の不信感が高まり、今後必要な場面において発注機関が躊躇して随意契約を利用できないような事態になれば、それは政府にとって不幸な話であるし、それは延いては国民にとって不幸な話だ。あれこれと批判される中、政府にとって必要なのは先手先手の透明化なのではないだろうか。

セブン、消費期限が近い弁当の実質値引きへ

4月26日付の読売新聞記事より。

セブン―イレブン・ジャパンは消費期限が迫った弁当などの実質値引きを、5月11日から全国約2万1000の全店舗で始める。おにぎりや弁当、サンドイッチなどの対象商品を買うと、税抜き価格の5%分のポイントがもらえる。

具体的には、販売期限の5時間前から該当商品をセブンの電子マネー「ナナコ」で買うと、次回以降使用可能なポイントがもらえる(同記事)、とのことである(丼物はその時間が長くなるという)。

セブンというと、最近は24時間営業、深夜営業を中止したいコンビニ店舗との対立で話題となり、公正取引委員会の事務総長が独占禁止法上の問題点を指摘したことが報道されたが、10年ほど前のセブンの独占禁止法に係る話題といえばこの「値引き問題」だった。

コンビニ店舗のオーナーが消費期限の近い弁当類等の値引きをしようとした際に、本部が禁止しそれを阻止したとされる事案について、公正取引委員会は2009年、優越的地位濫用規制に抵触するとして排除措置命令を出した。これを受けて複数のオーナーが損害賠償訴訟を提起した(原告勝訴と敗訴のケースが混在している)。同時に「もったない」運動に連動してしまったので、本部のイメージダウンとなってしまった。

この値引き販売禁止のカラクリは、「加盟店は商標の使用や経営指導の見返りに、一定の利益を本部にロイヤルティーとして支払うが、商品を廃棄処分した損失は加盟店が全額負担するため、売れ残りが多くなれば、それだけ利益の取り分が減る仕組みとなっている」(日本経済新聞2009年6月24日付記事)ことにあった。

コンビニ戦略の狙いの一つはその画一性にある。「どのコンビニに行っても24時間やっている」「どのコンビニに行ってもサービスは同じである」「どのコンビニに行っても同じ品揃えで同じ値段である」というのが、消費者に一定の安心感を与え、スーパーやディスカウントショップに比べ多少割高でも、「一番近くにある便利な店」への集客を可能にしてきた。一回で買う金額もそれほど高くないので、割高感を覚えることはほとんどないだろう。

オーナーはできる限り売上げを大きくしたい。コミッションの負担を小さくするためには売り上げ増とコスト減が効果的であるのでいろいろ策を打ちたいが、本部は認めてくれない。そこに対立の源泉がある。本部側は値引きをしないことがむしろ売り上げ増につながるとのロジックを展開したが、公正取引委員会には通用しなかったようだ。これは楽天が送料無料を強行しようとした際に、店舗側を説得しようとしたものとほぼ同じである。公正取引委員会の緊急停止命令申立てを止められなかった(後に楽天側は予定されたプランを一旦撤回したので、公正取引委員会も上記申立てを取り下げた)のは、「店舗の利益のためにやっている」といいつつも、結局は本部(プラットフォーマー)の都合でそういっているだけだと、当局に信じてもらえなかったということなのだろう。

今回の本部主導の値引きがどのような意味を持つのかは断片的な情報では即断できないが、表示価格を下げるのではなくポイントを付与するという形での実質的な値引き(それも5%であるが)といったあたりは、やはりコンビニとしての「画一性」へのこだわりがあるということなのだろう。ナナコポイントの付与なのでそれはセブン本部側の負担でなされるものだろうから、それ自体店舗と本部との対立を引き起こすものではないだろう(コミッションの取り方もポイントになるかもしれないが、この辺りは詳しい人物に委ねたい)。また、ナナコカードの利用が前提なのでビジネス上の合理性ありということなのだろう(他社の動向も当然重要な前提となる)。ただ弁当等の売れ行きのよくない店舗は、ポイント5%付与対象のものを多く提供することになり、セブン本部への負担を増やすことになる訳(それを抑止する策はあるのだろうか)だが、そのような統計情報を前に本部はどう店舗にアプローチするのだろうか。そこに新たな火種は生じないか。あるいはポイント5%付与をする代わりに表示価格の値引きは認めないなどの条件が付くようなことはないのか。何れにしても追加情報を待ちたい。

競輪事業の民間委託公募をめぐる不正疑惑:徳島・小松島市

16日付の毎日新聞記事より(「徳島・小松島市長 幹部に点数「足せれんの」 業者の評価水増し要求」)。

徳島県小松島市の浜田保徳市長が2019年11月、競輪事業の民間委託を巡り、選定会議による応募業者の判定点数が合格点を下回っていたのに、市幹部らに「(点数を)足せれんの(足せないのか)」などと点数改ざんの指示ともとれる発言を繰り返していたことが15日、関係者への取材で分かった。浜田市長も発言を認めた。

この民間委託公募の具体的なスキームを筆者は詳細に知らないが、報道によれば、市長が一者応募となった業者が「競輪事業の開催業務」「老朽化した施設(競輪場)整備業務」の各々について求められる合格最低点のうち、後者について点数が足りなかったので失格との評価が外部委員を含む選定会議でなされ、それに対して市長がこの点数の不足について懸念を示した、とのことである。これが「改ざん要求」の疑惑と表現された。

この問題は市の最高幹部同士のパワハラ問題が絡んでいるが、それを切り離して純粋な入札不正の問題と考えよう。法的には、刑法典における公契約関係競売入札妨害罪、あるいは官製談合防止法違反罪の問題である(公募型の公共契約がこれら法律にいう「公の入札」の射程に入るかどうかは論点であるが、ここでは該当するという前提で話を進めることにする)。

市長の懸念を踏まえて(市長に忖度して)選定会議の委員が再考し、合格点に達するように点数を付け直したらどうなるだろうか。それが集計ミスの修正のような実態に即した変更であれば、不正(妨害)ではない。むしろそれが判っていたのに放置する方が問題である。一方実態としては合格点数に達していないのに、「下駄を履かせる」ようなことをした場合は、それは不正(妨害)としかいいようがない。公共契約に係る入札・公募においては、基準を満たさない業者と契約を結ぶ行為に他ならない。それは公金支出のためのハードルを厳格に定める入札・公募のルールの趣旨に反するものであり、入札の公正は害される。

こんなことを許してしまえば、意中の業者を不当に優遇することが何でも可能になってしまう。毎日新聞の上記記事によれば、市長は合格者が出なければ競輪事業からの撤退を議会から要求されることを危惧したとのことであるが、評価の公正性を担保するために外部委員を含めた選定会議を設けたことも含め、公募の手続、ルールを決定した最終責任者が市長にあることを考えれば、到底そのような発言は許されないはずである。合格点に達しない業者に委託をすることになれば、それこそ市民への裏切りではないか。

仮にこの入札・公募において業者選定が最優先課題であり、そのために質の面で多少の妥協をするというのであればそのようなルールを作るべきであり、あるいは第一選定候補として当該業者を選出しておいて、その後の交渉によって上記の点数不足を補う何らかのコミットメントをさせるように手続を定めるべきだった。そうしないのに、後から「困る」からといって自ら定めたルールに反する行為を促す、というのであればそれは不正と捉えられても仕方があるまい。「困る」云々の話は情状の一要素に過ぎない。

その他の情報を筆者は知らないので、市長が「改ざんを指示したという認識はない。市民のため、どうしても民間委託をしたいという思いが高じての発言だった」(上記毎日新聞の記事より)との発言がどの程度信用できるかは断定できないが、入札の公正という観点からは大いに問題のある発言であることは少なくともいえる。「改ざんは指示していないが、修正は指示した」というのだろうか。手続的公正を満たさない評価の修正は、入札・公募に対する立派な妨害である。市長の発言(そしてその発言を受けた関係者の行動)が手続上、正当化できるものかどうか、それが論点だ。

このような事案に出会うと、筆者は次のように思わざるを得ない。公共契約をめぐるこの種の不正は相当程度、特に地方において存在するのではないか、と。入札・公募の手続やルールについて外部には不明な部分が多いケース、内部的にも曖昧にされているケース、外部委員が選定会議にいないケース、首長自らが選定委員になっているケースの場合は特に怪しい。

オリンピック代表の再選出は「公正」か?

オリンピックの延期が決まった。来年ということではあるが、来年のいつかはわからない。これから調整が大変だろう。ただ、ある程度は関係各所への根回しが済んでいるのかもしれない。だからこそ、少し前まで不自然なくらいに関係者が揃って「予定通り開催の方向」といっていたのが、「1年の延期もやむなし」に揃っていうようになった、ともいえそうだ。「決定するなら全員で」という「責任の分散」のマインドの現れであるようにみえるが、そのために決定が遅れ、コロナ対応で取り返しのつかない損失が出るのであれば目も当てられない。さてその辺の事情はどうなのだろうか。

2020年東京大会の出場選手は、相当程度決まっている。コロナ禍でその選考過程がストップしてしまった競技もあるが、既に決まった選手はどう扱われるのであろうか。これは難しい問題である。個人的な心情としては、試練を乗り越えて勝ち取ったチャンスをそのままにしてあげたいという気持ちが強いが、しかし2、3ヶ月の延期ならともかく1年(もしかしたら2022年開催もあり得るかもしれない)延期となれば、その時々に優れた結果を出す選手も変わってくるのではないか、ともいえ、もう一度選考をし直すという意見にも理がありそうだ。日本オリンピック委員会の山下泰裕会長は「(延期の)期間が長くなると、選手たちは選考をもう1回やり直し、なんてことも出てくるかもしれない」と発言している(FNN PRIME2020年3月24日「“五輪延期”なら再選考? アスリートに動揺広がる」)。現在のところ、マラソンに関しては、現時点での代表を、延期されたオリンピックでも代表とする方針のようだ(読売新聞2020年3月25日記事「マラソン五輪代表、再選考しない方針…瀬古氏」)。

代表の選出は、決まったルールの下でなされた競争の結果として決定される。陸上競技ならば、100メートル走のように一発型もあれば、マラソンのように複数回のチャンスが与えられるものもある。日本では、過去には、実績のある選手を直近の成績を無視して選出し物議を醸したケースもあったが、今では比較的クリアな基準で納得のいく選考がなされているといえよう。しかし「延期」は当然のことだが、「想定外」だった。

想定外だが、現実に延期が決まった以上、何らかの決断が必要である。今はまだ、どこまで延期するのかが決まっていない段階なので、この問題を先送りできるが、直前になって決めるのは混乱を招くだけである。

仮に東京オリンピックが中止になって、次回のオリンピックが2024年開催(フランス・パリ)になるとしよう。その場合、東京オリンピックの代表選手はパリのオリンピックの選手ではないのだから、そのための新規の代表選出手続があることについてさすがに異論はあるまい。

2年後の東京オリンピック開催ならば、どうか。2年半前の選出手続をそのまま有効と見るのはどのような競技であっても難しいという意見が強いだろう。同じオリンピックだとしても時間があきすぎている。2年間といったら世界陸上ならもう、次の大会だ。

難しいのは1年後である。代表はオリンピック開催前の3ヶ月から1年のスパンで選出されることが多い(陸上の100M走はもっと直前だ)。つまり、1年後(例えば2021年7月開幕)になるのが今年7月に決まるとして、そこからまだ1年間あるのだから、新規の代表選手は可能ではありそうだ。しかし、異論も強いだろう。延期云々の議論のときに頻繁に出てきた「アスリート・ファースト」の発想は、ここでは意味をなさない。アスリート間における選出に係る問題だからだ。チームスポーツなのか、個人競技なのか、の問題もあるだろう。前者ならば国としての代表枠とその中での代表選手の問題があるが、国別でもう一回やり直すのはタイミング的に現実的ではない(国別の場合、選手別ほどパフォーマンスのブレがないともいえる。これも競技によるだろうが)。

どのような選択をするにせよ、競争的な選出という手続の公正さに疑義が出るのは避けがたい。新規の手続を主張する者は、その時々の最高のパフォーマスを出せるアスリートを優先すべきというだろう。既に決まった代表を引き続き代表とすべき、と主張する者は、同じオリンピックであるのだから一度決めたことを覆すのは公平ではないというだろう。命懸けで戦ってきた選手をレスペクトせよ、というかもしれない。

確かに代表選手の選出は、最高のパフォーマンスを出すことが期待できる順番でなされる。それを直近のレースや競技によって評価される。それが「公正な基準」と考えられている。しかし、今問われているのは、「それをキャンセルすることの「公正な基準」とは何か」である。別の要素が加わっているのである。

問題の根本は、そういった事態を事前に想定し、特殊な場面における代表選手のルールを予め決めなかったことにある。それを事前に決めておくことは、おそらくコンセンサスがとりやすかっただろう。何故ならば、その時点では誰が代表になるかがわからないので、誰もが「第三者的」な立場にいることができたからである。事後的には調整ができない問題であっても、事前にはコンセンサスを得ることが容易だった。いろいろ考え方はあろうが、いったんルールを決めてしまえば、それに従うのが「公正だ」と納得させやすい。しかし利害関係が生じた後のルール作りは実質的には「利害の調整」ということになり、「公正さ」を維持するのが難しい。

現在のところ延期は1年(程度)ということのようだが、仮にそれ以上伸びる場合には、どうするのか、将来のことも見据え、今の段階でアクシデント発生時のルール(方針)を考えておくべきではないだろうか。

「責任ある決断をしない」国、日本

I accept full responsibility. If someone is unhappy, if somebody wants to blame someone, or complain about someone, blame me. There is no one else who is responsible for this decision.

「責任は全て私にある。誰かを責めたければ私を責めて欲しい。」米国ニューヨーク州のクオモ知事の言葉である(CNNのサイトより)。クオモ知事は20日、民間企業の全従業員の出勤を禁止、在宅勤務義務付けを発表した。住民の外出制限は要請に止まったとのことであるが、状況次第ではフランスのような大胆な決断に至るかもしれない。

国や企業の幹部には責任回避することばかり考える人が少なくない。(不作為も含め)何らかの決断をする人は失敗したときに責任をとる。だから責任を負いたくない人は決断しないという行動をとる。しかし何もしなければ、事態の悪化の責任をとらされる。だから、何らかの行動をするときは、判断の内容を不明確にするか、2番手以降で判断するか、あるいは判断の理由を他人の判断にリンクさせようとする。いずれも「主体性」をぼかす振る舞いである。

だから「抽象的要請」という「言及」に止める。米国や欧州という前例を引き合いに出す。どこそこの要請といいながら「やむを得ない」形を作る。要請する側は「要請した」したのだから責任はないといい、要請される側は「要請された」のだから責任はないという。結果がよくない場合には、要請する側は「具体的な判断は要請された側がすること」なので責任をとろうとしない。要請された側は「判断の根拠は要請した側にある」ので責任をとろうとしない。それでいて強権的である。人事や金銭面で圧力をかけてくる。やり方は露骨だが、堂々とはやらない。

一般には力関係で弱いほうが責任をとらされるが、何重にもわたりしばしば循環する、「多くの人を巻き込む」意思決定主体の連鎖の中で世の中ができてしまっている。責任の所在を曖昧にするのは、日本の「十八番(おはこ)」である。誰も責任をとらないが、そこに何らかの権力構造が存在する。

オリンピック開催の是非をめぐって、なかなか関係者が決断に至らない(外部にそれを出さない)のは、「結論」に触れた人間(外部にそれを言い出した責任者クラスの人間)が責任を負わされるという「恐れ」をどこかで感じているからか。それは、ステークホルダーの数があまりにも多く、ステークの規模があまりにも大きいだけに、関係者にとっては「恐怖」といえよう。しかし「予定通り開催」も一つの決断である。タイムリミットが近づいている。アメリカあたりの要請にしたいのかもしれないが、どうやらトランプ大統領は「それは日本が決めることだ」といっているようである。WHO(世界保健機関)も「判断する立場にない」と述べていたと記憶している。オリンピック開催はみんなで決めたことだから(変更なしで)開催と言い続ける分には(その場限りでは)責任回避できる。そういう思考回路なのかもしれない(なお22日のロイター記事では、関係筋の話として、五輪組織委が通常開催の代替策を検討し始めたと報じられている)。

22日、国や埼玉県が自粛を呼びかけた中で格闘技イベント「K―1」が「さいたまスーパーアリーナ」で開催されたが、この点について橋下徹氏はTwitterで次の通り述べた。

法に基づかない要請は何も定めることなく権力側のフリーハンド。国民からすると法に基づかない要請の方がよほど強権的。そして政府は何も責任を取らない。今回、K1イベント埼玉アリーナで感染拡大すれば政治の責任。社会防衛のために止めるなら「命令」の上、正当な補償を。憲法29条3項。

平常時では法に基づかない要請は強権的になる。一方、危機のとき(失敗のとき)には、法に基づかない要請は責任回避になる。これが民主主義の届かない日本型権力構造の本質ではないか。しかし、「法に基づく命令」を「権力の暴走」と「知識人」がいうのだから、責任の所在が不明確な強権政治がこの国では生き残るはずである。

「誰かを責めたければ私を責めて欲しい」といえるリーダーの存在に令和の日本がかかっている。

「転売ヤー」捕物帳

国民生活安定緊急措置法の政令改正によるマスク転売規制は、仕入れ価格以上の値段でマスクを再販売することの禁止だったので、転売ヤーが「抱き合わせ」による「すり抜け」を考えることは容易に予想された。つまり、転売規制の対象になっていないウェットティシュとか、その他除菌・防疫アイテムと一緒に「高額」で販売すれば、マスクの再販売で値段を吊り上げたことの立証はできないだろう、という発想だ。

これに対して、経済産業省の対応は早かった。そのウェブサイト上にある「マスク転売規制についてのQ&A」というコーナーの、Q4-4「マスクを他の商品と一緒に販売する行為(抱き合わせ販売)は対象になりますか。」で、以下のように回答している。

今回の規制により禁止される行為は、①不特定の相手方に対して販売をする者からマスクを購入し、②購入価格(仕入価格)を超える価格で、③不特定又は多数の者に対して転売する行為です。このため、抱き合わせ販売そのものを規制するものではありませんが、抱き合わせで販売されるマスクが上記に該当する場合には、規制の対象になります。

業者はおそらく、「いやいやマスク自体は仕入れ原価のまま販売しております。その他の商品で儲けさせいただいております。」とくるだろう。買い手はマスクの方が欲しく、その他の商品の購入を強制されているので、業者はマスクの方で「不当に儲けている」ことは明らかであるから、理屈としては当局の規制は及び得るのであるが、問題はどうやって立証するか、である。特に刑事罰を科すとなると、当局は慎重になるだろう。

経済産業省は上記の記述に続けて、独占禁止法にも言及する。

なお、商品の供給が不足しており、当該商品に代わる商品が存在しない状況の下で行われる抱き合わせ販売は,独占禁止法が禁止する不公正な取引方法(抱き合わせ販売等)と評価されるおそれがあります。

不公正な取引方法には刑事罰規定がない。転売ヤーは身動きが軽いので、公取委が慎重にことを進めている間にどこかへ行ってしまう。楽天のような「逃げも隠れもしない(できない)」業者であれば緊急停止命令の申立てもありだろうが、相手はその筋の「輩」である。

より積極的に、「抱き合わせの場合には他の商品と併せてトータルで仕入原価を超える値段を設定した場合も同様である」としておかないと、逃げられてしまうかもしれない。そもそも現代ネット社会では、このような法令は「ザル」なのかもしれないが。

海千山千の転売ヤーである。もう次の一手を考えているのだろう。

「人材」と「人財」

「人材」という言葉は人をモノのように扱っているような印象を与えることから、経営者の中には「人財」という言葉を好んで用いる人が少なくない。経営書や経営雑誌でも「人材から人財へ」のようなテーマのコラムを見かけることもある。

おそらく、財=財産=貴重な存在という連想なのであろうが、一つ気になることがある。「材」という言葉はそんなに悪い言葉なのであろうか。

「財」とは「貝に才」なのであるから、経済的価値、貨幣的価値をおそらく意味するのであろう。一方、「材」は「木に才」だから、自然的な素材のもつ価値ということだろう。衣食住は、いずれも自然的価値を有する「材」の消費によって成り立っている。どちらの方が「人」の後に続く言葉としてふさわしいか。

人材という言葉に人をモノのように扱っている、という懸念を持つならば、人財という言葉には人をカネのように扱っている、という懸念を持たなければならない。

一方、「財」という言葉に掛替えのなさを見出すのであれば、「材」という言葉にも同様の掛替えのなさを見出してもらいたい。

公共契約に係る法制を研究していると、「土木」という言葉をよく見かける。公共工事の中心は建設であり、建設は大きく建築と土木に分かれる。

私はこの土木という言葉が好きである。人間の生活を支えるものは当然衣食住であるが、公共的な観点からは土木が大きな役割を果たす。いわゆるインフラ整備は、今では様々な人工的な材料が用いられるが歴史的には「土」と「木」だった。社会の重要な基盤がこうした自然の素材によって支えられてきたことはもっと強調されてよいだろう。

もちろん、人を木のように扱えとは思わない。しかし、土や木が私たちの生活のみならず、世の中を支える重要な公共的役割を果たしてきたことを考えるならば、「人材」という言葉にもまだまだ魅力があるのではないか、と思うのである。

「見返り」の意味とは?山形・大石田町の副町長再逮捕について

3月11日のさくらんぼテレビ(山形)ニュースより(「前副町長が収賄容疑で再逮捕 公共工事の入札で便宜 100万円受領か 山形・大石田町」)。

山形県大石田町の公共工事の入札を巡り、また不正が発覚した。前の副町長が、町民交流センターの建築工事で業者から、便宜を図った見返りに現金100万円を受け取ったとして再逮捕された。

これだけ見ると、視聴者は、入札情報の漏洩とか入札結果の操作とか、よくある「便宜を図る」ケースなのかな、と思うだろう。この副町長は「2015年8月に行われた『虹のプラザ』の入札」で、業者に「非公開の入札情報を教え、その見返りとして2017年3月・・・現金100万円を受け取った」とのとである(同ニュース)。他の記事によれば、「町民交流センターの競争入札には8つのジョイントベンチャーが指名され、そのうち3つは辞退」し、贈賄側のジョイントベンチャーが落札した。落札率99・89%だった(NNNニュースより)。「8つのジョイントベンチャーが指名」とあるが、おそらく当初入札(直後に見るようにこれは再入札の案件である)の際に応札したジョイントベンチャーなのだろう。

気になるのは、冒頭のニュースが、この「入札は、この1ヵ月前に一度実施されていたが、全ての入札額が予定価格を上回ったため成立しなかった」こと、そして前副町長は「何とか落札させるために再度入札を呼び掛け」、業者側に「情報をもらしていたのではないか」という関係者の証言を紹介していることである(工期が後にずれ込むのを懸念したことは想像できる)。そして、「その見返りとして、談合が発覚した消防庁舎の入札」で、贈賄側業者の「落札に便宜を図っていたと見られている」と報じている(冒頭のさくらんぼテレビニュース)。「消防庁舎の入札」とは前の逮捕容疑である、副町長の談合事件への関与行為(朝日新聞記事参照)が問題となった公共工事の入札(容疑は官製談合防止法違反、公契約関係競売入札妨害)。

全業者が予定価格オーバーということは、予定価格が業者側にとって「見合わない」ことを意味している。談合によって敢えて不落札にしておいて再入札時の予定価格を「吊り上げる」こともあるが、一般には、このような現象は予定価格が低すぎる場合に発生する。

このような場合、発注機関が取る選択肢は二つある。一つが予定価格を見直すか工事内容を限定することで「業者にとって見合う」ものにすることであり、もう一つは業者を説得してなんとか不採算の工事をしてもらうかである。報道を見る限りでは、この副町長は後者の選択をしたのだろう。そのために非公開の予定価格を教示し、その枠内で応札価格を入れてもらうように頼んだのだろう。落札価格が予定価格よりも0.1%ほど低いのは「端数を切った」のだろうか。18億ぴったりにしなかったのは、そうだとすると綺麗にゼロが並び過ぎて「積算っぽくない」からだろうか。

だから、「見返り」が必要になる。誤解してはならないのは、公共工事の不正での「見返り」は通常、業者に便宜を図った発注機関職員になされるものである。ここでは見返りが副町長から業者に対してなされているのである。つまり、前の入札で協力してもらった見返りに後の入札で便宜を図るという、という構造になっている。

このような「貸し借り」は公共工事ではよく聞く話である。予算が足りないとき低額で受注してもらう、追加の工事が必要になったとき無償で応じてくれる、そういった業者に対してかつては別の随意契約の発注で応えていたが、今は競争入札が徹底されるようになったのでそうはいかない。だから情報漏洩という「不正」につながるのである。

そう考えると、報道内容について三つの注文を付けたくなる。

第一に、落札率の99・89%というのは、(再入札において条件面での変更がないという前提で)「高いのではなく安い」ということである。不採算の工事を引き受けてもらったという理解ならば、である。視聴者は直感的に「落札率高い=不正」と理解してしまう。

 第二に、「便宜を図った見返りに現金100万円を受け取った」というのは、何についての「見返り」なのか、ということである。これは官製談合防止法違反、公契約関係競売入札妨害の容疑の対象となった、消防庁舎の入札に係る(副町長から業者への)便宜に対する見返りなのではないか。「誰の誰に対する何」の関係をもっとクリアにしてもらいたい。

第三に、というのであれば、今回報道された内容に対する容疑は贈収賄ではなく(「虹のプラザ」の入札に係る)別の官製談合防止法違反、公契約関係競売入札妨害なのではないだろうか(非公開情報の漏洩なのだから形式上はこれらの罪は成り立ち得る)。「100万円」の話は消防庁舎の入札に係る新事実だろう。もしこの100万円が「虹のプラザ」に係るものであるというのであれば、予定価格の変更、発注内容の見直し等の事情があったということになるが、そのような事実はあるのか。

限定された情報を前提にしているので、筆者の勝手な推測や思い込みがあるのかもしれない。追加の情報が待たれるところである。

「コロナに効く」に注意せよ:消費者庁が改善要請

予想されたように、新型コロナウィルス関係の便乗商法が目立ってきている。「摂氏26度で死滅」などというのは「普通に考えてデマ」だが、「免疫力を高めましょう」的な商法は、健康増進のコピーとしては一般的なものだし、それ自体悪いことではない。免疫力の低下と重症化がリンクしているようなので、多くの消費者はこのコピーに敏感になってしまう。問題になるのは、新型コロナウィルスと密接な関係にあるかのような表現がなされている時だ。以下、3月11日の時事通信のニュース(「『コロナ予防』広告に注意=消費者庁、販売業者に改善要請」)より。

新型コロナウイルスの予防効果をうたうインターネット上の商品広告について、消費者庁は11日までに、販売業者に表示の改善を要請した。消費者に対しては、「効果を裏付ける根拠は認められていない」などと注意喚起している。

この記事では、続けて、「同庁によると、2月25日~3月6日、ネット上の商品広告の緊急監視を実施。健康食品や空気清浄機などを販売する30事業者の46商品が予防効果を掲げていた。健康食品分野が最も多く、『ビタミンCはコロナウイルスから体を守る』『新型肺炎には早期の漢方が効果的」などとしていた。」と報じている。科学的裏付けのない効用の表示、成分の表示は景品表示法違反の疑いがあるので、消費者庁が乗り出したという訳だ。

ただ賢い業者ならば、敢えて「コロナ」の表現を用いず、「免疫力UP」とかいってボカすだろう。実は何のことだかわからなくても、消費者は「免疫(力)」というフレーズに敏感になっているのだから、露骨な「コロナ」の表現など使わずとも消費者は敏感に反応するのではないか。広告で重要なのは、「共有知識」として「どのフレーズへの感度が高いか」である。

真偽は分からないが、納豆が品薄になっているそうだ(私の職場や自宅の周辺ではそんなことはないが)。納豆は健康にいい=免疫力UP=コロナ対策という連想なのであろうが、そんなの納豆に限ったものではないし、納豆が突出して健康増進によいのであれば日本では主たるオカズが歴史的に納豆になっているはずである(個人的には好きな食べ物であることをここで断っておく)。もちろん科学的因果が証明されているならば、それに従うべきであるが。

そういえば関西テレビの「発掘!あるある大事典」の情報捏造事件(2007年)もテーマは納豆だった。この時は「納豆はダイエット効果が高い」というものだった。この放送回終了後、消費者は納豆に殺到し、店頭からその姿を消した。「納豆」という独特の雰囲気がそんな気分にさせるのか。そうであるならば、次は違う「ネバネバ」系に殺到するのだろうか。

消費者を惑わすのは商品の表示のみではなく、メディアの報道もそうである。「公器」の体裁がある以上、怪しげな広告よりもはるかに消費者に対するインパクトが強い。新型コロナウィルスに関する報道も、色々な知識人が色々なことをいっているが、本当に信用できるのだろうか(特に医療、衛生分野の専門家の発言は重い)。知識人間での相互批判がもっと盛んになるべきである。

マスクの利益上乗せ転売禁止について

マスクの買い漁りが深刻化してから1ヶ月ぐらいが経つだろうか。政府がとうとう転売禁止の対応に踏み切った。その手段は、国民生活緊急措置法の政令改正である。

国民生活緊急措置法はその第26条第1項で、「生活関連物資等の供給が著しく不足するなど国民生活の安定又は国民経済の円滑な運営に重大な支障が生じるおそれがあると認められるときは、当該生活関連物資等を政令で指定し、譲渡の禁止などに関し必要な事項を定めることができる旨が規定」されている。そして、関連する政令の改正によって、同法の規定に基づき、「衛生マスクを不特定の相手方に対し売り渡す者から購入した衛生マスクの譲渡を禁止する等の必要があるため、必要な措置」が定められた。

具体的には、「衛生マスク」を指定し、「衛生マスクを不特定の相手方に対し売り渡す者から衛生マスクの購入をした者は、当該購入をした衛生マスクの譲渡(不特定又は多数の者に対し、当該衛生マスクの売買契約の締結の申込み又は誘引をして行うものであつて、当該衛生マスクの購入価格を超える価格によるものに限る。)をしてはならない」と定め、「違反に対する罰則」を定めた(以上、経済産業省ウェブサイトより)。

政令の規定から、メーカーから小売までのプロセスには適用されない。当然、仕入原価から一定の価格を上乗せして再販売するので、これを禁止してしまえば「商売が成り立たない」。どこかのコンビニとかスーパーで仕入れたものを個人がネットで転売したり、他の小売店が店頭で転売したりすることを規制する措置である。

この措置は在庫商品の「小売間の横流し」というよくある流通にも該当することになるが、一般には売れ残り商品の引き取りとその廉売なので、今のマスク問題には無関係だろう。

国民生活緊急措置法は昭和48年制定の法律である。そこからもわかるようにこの法律は石油ショックをきっかけに制定されたものである。独占禁止法が競争への弊害をもたらす事業者の活動を禁止し、自由市場の規律を「やや遠回し」に行うことに比して、国民生活緊急措置法は「よりダイレクト」に市場過程に介在するものであり、いわば「非常停止ボタン」のような役割を果たしている。

当時と今では、置かれた経済、社会状況が異なるが、法律の考え方は一緒である。現在「ネット販売」という当時存在しなかった販売手法で多くの問題が生じていることを考えれば、。「古典的な立法」の「現代的な適用」といえるだろう。

マスクの取引自体は当然合法なので「闇取引」のようなものは生じないだろう。国内では通常の価格に戻って行くだろう。ただ、卸売業者から入手した小売業者が「再販売」した場合の価格高騰の恐れがなくなった訳ではない(再販売価格維持は独占禁止法違反である)し、メーカーの段階で値上げをする可能性も否定できない。そしてマスク転売問題が解消したとしても、需給バランスが崩れたままである限りは「行列」の解消にはならない。買い漁り行為の一つのインセンティブは消えたが、もう一つの(マスクを付けたくても付けられないリスクを減らそうとする)防衛行為としてのインセンティブをどう解消するか、そちらの方が全体としては重要な課題といえよう(増産するか、マスクの不要性を認識させるか)。

そもそもマスク買い漁り問題は、生産量の低下の思い込みによる「買い漁り」ではなく、みんながマスクを必要とする状況が急激に発生したことによる需給バランスの崩壊がその前提にあるのであって、この状況がいつまで続くか分からないが故に人々は買い漁るのである。「思い込み」がなくなれば問題が解消される訳ではない。とするならば価格が安定した状況で、単に品不足の状況が続くことになる。そのためのサーチコストが上昇して、(行列に並んだりする労力も含めて)結果的に、「高い買い物」となりかねない。

海外のサイトでもマスクは高額販売されている(欧州や米国でもマスク需要は高まっているようなので、今後、さらに価格が高騰するかもしれない)。品不足が続けばどうしても欲しい日本の消費者は「輸入」にすがることになるだろう。

仮に「ぼったくり」への憤慨を解消しても、マスク不足という国民生活への深刻な影響が解消されない限り、国民生活緊急措置法の狙いが十分に実現されたことには必ずしもならないのである。

「仕組み利用ビジネス」としてのコンビニ

セブン・イレブンのある店舗でマスク一箱を16900円で売っていたとの報道があった(ANNニュース「セブン マスク60枚1万6900円で販売」)。セブンの店舗がセブンの本部の了承なしに勝手に売っていたのであろうから、セブン本体を責めるのは筋違いである。むしろフランチャイザーとしてのセブン・イレブンからすれば、「いい迷惑」ということになる。もちろん、店舗への「指導不足」の批判は免れない。セブンのブランドで顧客を店舗に向かわせているのだから、そこで生じた不信はセブン自体に向けられた不信となる。

セブン・イレブンは、最近、24時間営業や元旦営業などを拒もうとするコンビニ・オーナーと対立していることで報じられることが多い。

自らのビジネス・モデルに従えないのならば、そのブランドを使わせたくないというのは、フランチャイザーとしては当然の理であって、その点だけ見ればフランチャイザー側に分が有りそうに見える。しかし、コンビニ・オーナー側が「過酷な労働」をアピールすることで今の世論はフランチャイジーを擁護する傾向が強い。大企業vs中小企業の構図で語られるコンビニ・ビジネスは、「契約の自由」では突破できない、「評判」という高いハードルがある。最近では、公正取引委員会が優越的地位濫用規制によって援護射撃してくれそうなので、コンビニ・オーナー側は強気である。数年前には、深夜営業等の強要を止めるようコンビニ・オーナーが争った訴訟ではセブン・イレブン本部が勝訴していることを考えれば、急展開である。

フランチャイズと呼ばれるコンビニのビジネスは、言い方を換えれば「仕組み利用ビジネス」「ブランド利用ビジネス」である。つまり、フランチャイザーが構築し改良してきた販売手法を、外部のオーナーが「統一のブランド」の下で利用して事業を行うビジネスである。脱サラして自分でコンビニを始めようと思うのなら、「〇〇ストア」みたいな名前を付けて一人で立ち上げてもよい。しかし、そんなノウハウは脱サラしたばかりの素人にはない。セブンやファミマ、ローソンといった確立した経営ノウハウ、ブランドに乗っかるのが一番早いし、効率的である。

コンビニ・ビジネスはある種のプラットフォーム・ビジネスである。セブンならばセブンというプラットフォームをオーナーが利用し、自らそのブランドで顧客に接する。顧客はセブンというプラットフォーム(化された店舗)で購入し決済するが、契約自体はオーナーと顧客の間でなされる。オーナーはセブン本部との契約に基づき、一定のコミッションを支払う。

つまりコンビニはオーナーと顧客を統一ブランドとしてのプラットフォームの中でマッチングさせるビジネス(収益は手数料)であるということになる。そういう(プラットフォームという)感覚が直ぐに馴染まないのは、コンビニのブランド・イメージが強く、実態としても顧客側から見れば直営店で購入するのと変わりはないからであり、プラットフォーマーのイメージが主として「GAFA」と呼ばれる「デジタル・プラットフォーマー」によって形成されているからである。コンビニはただの店舗販売である・・・このイメージがコンビニの抱える問題の本質を見えなくさせている。

プラットフォーム・ビジネスの代表格は楽天のようなネット通販である。「市場(いちば)」という名前からもわかるように、ここでいう楽天のビジネスは「場」の提供であり、その本質はマッチング・ビジネスである。ネットワーク効果をフルに活かしたこのビジネスは、閲覧と購入の手続きの手際の良さが決定的に重要である。店舗は楽天のブランドで売っているのではなく、楽天の市場で売っている。だからマスクが一箱1万円とか2万円のような店舗が出てきてもそれは楽天の問題ではない、ということになる。コンビニよりもはるかに店舗側の自由度の高いビジネスなのである。もちろん「星1つ」の店舗が多ければユーザーは離れていくので、間接的には楽天が困ることにはなる。

ウーバー・イーツも、プラットフォームを利用した(させた)マッチング・ビジネスである。ウーバー・イーツはあくまでも配達者と顧客を結ぶツールを両者に提供する「テクノロジー提供」のビジネスであって。各々の配達者は独立したフリーランス人材としての事業者である。条件面をめぐって配達員側とウーバー側で色々、問題が噴出しているのは各種報道の通りである(例えば、日本経済新聞2019年12月5日記事「ウーバーイーツの労働組合、報酬下げの説明要求」など)。

筆者は、昨年12月、黒鳥社の若林恵氏がファシリテーターを務める読書会「66ブッククラブ」(六本木アカデミーヒルズ)にゲストスピーカーとして参加した。そこで扱われた素材は『ウーバーランド』(アレックス・ローゼンブラット著)であった。デジタル・プラットフォーマーが「シェアリング・エコノミー」「ギグ・エコノミー」といった現代的な「働き方」にどのように関連し、どのような問題を引き起こしているのか、豊富な事例を基に詳細で深い考察がなされている、当に「今、読むべき一冊」である。そこで出てくるドライバーは事業者である、労働者ではない。これは労働問題ではあるが、労働法の問題ではない。だとするならば、どうすればよいか。ウーバーが今後日本市場でどのように展開していくのかは、筆者には予想がつかないが、この『ウーバーランド』が論じていることの一部は、すでにウーバー・イーツの一連の問題で見て取ることができる。

ウーバーはデジタル・プラットフォーマーという意味では楽天に近いが、働き方の問題という意味ではコンビニに近い問題を抱えている。また公正取引委員会の関心事としては、GAFA規制の文脈とフリーランス人材をめぐる各種契約への独占禁止法の適用という文脈の中間に位置付けられよう。

コンビニと楽天、同じプラットフォーム・ビジネスでありながら、ビジネスの内容それ自体に深くプラットフォーマーが関わるコンビニと、ビジネスの場の提供に徹するネット通販。この違いが独占禁止法上の優越的地位濫用規制の適用のあり方に影響をもたらすとすればそれは興味深いことであろう。そしてウーバーの問題がどう関連するかも、今後見逃せない。

公取委、楽天に対する緊急停止命令申し立て

28日の東京新聞の記事(「送料無料 緊急停止申し立て 楽天、実施取りやめず」)。

通販サイト「楽天市場」を運営する楽天が、一定額以上の購入者への送料を出店者負担で無料にする制度を導入するのは独禁法違反(優越的地位の乱用)の疑いがあるとして、公正取引委員会は28日、制度の緊急停止命令を出すよう東京地裁に申し立てた。楽天が、立ち入り検査を受けた後も3月18日の導入を取りやめないことから、緊急に出店者の不利益を防ぐ必要があると判断した。

公取委は、「出店者側は(1)送料負担で出費が毎月数十万円増える(2)確実に売り上げが増えるなどの直接の利益はない-ことなどが分かり、公取委は制度導入で出店者側の不利益は避けられないと判断した」とのことである(同記事)。

公取委による緊急停止命令の申し立ては16年ぶりだという。

公取委の検査後、楽天は妥協案のようなものを提示した(「楽天が妥協案、公取委はどうする?楽天「送料無料」問題③」参照)が、公取委には響かなかったようだ。

楽天が「3月18日」という期限を切って、「送料無料」(その後「送料込みの価格」と言い換えた)の断行という、「強硬手段」に出ようとしたことが、緊急停止命令の申し立てという公取委側の「強硬手段」を招いたということはいえるだろう。直近の期限を設けて、合意に至らなければ強行するというのであれば、それを事前に問題視している公取委としても即効性のある対応をしなければならない、ということになる。

社長の三木谷氏は、送料無料の要求について、送料無料ではなく送料込みの価格にしてもらいたかっただけだなどと述べ、「誤解を招いてしまった」と釈明したそうだが、それもよくなかったのかもしれない。言いたいことは変わらないという主張は、結局、送料を店舗側に負担させたい思惑であることには変わらないということかと公取委に認識されてしまったのかもしれない。楽天は「送料を商品価格に転嫁すれば出店者の負担は増えないなどとして、予定通り実施する意向を示していた」(冒頭の日経新聞記事)とのことであるが、それは店舗側が送料を負担してかつ値上げをすることを強いていることを意味する。

送料無料となった場合、同一店舗で複数商品を同時に購入する消費者にとっては不利になるという可能性も無視できない(まとめ買いに対する相当の値引きがあれば別であるが)。送料別途請求ならば送料は一回で済むが(そうでない場合もあるようなので決済時には注意が必要である)、送料無料(あるいは込み)の場合は、消費者は個数分送料を負担することになってしまうおそれがある。無料の強制が実は消費者利益に反する結果となるという楽天への批判は公取委にとって大きな材料となる。

今後、楽天はどのようにディフェンスしていくのであろうか。

マスクの抱き合わせ販売は独禁法違反の疑い

マスクの品薄が深刻である。原因はもちろんコロナウィルスである。マスクによる予防のために(その効果については消極的な意見が強いようだ)人々が買い漁った結果、他人にうつさないためのマスクを必要とする人に行き渡らない非効率な状況が生じかねない。インフルエンザ患者もいる。花粉症患者にはマスクは症状緩和のために有効だという。しかしこの種の問題に「効率」を言い出すと、興奮して批判を始めるタイプの知識人がいる。健康や生命の問題こそ冷静な判断が必要なのに。

マスコミでこれだけ危機感を煽られれば、人々は当然、過度に不安になってしまう。消費者はむしろ被害者だ。アルコール消毒液やウェットティッシュなども品切れになっている。もう一つステージが進めば、次は生活必需品かもしれない。石油ショックのとき、人々がトイレットペーパーに殺到したように。

人々が不安になったとき、足元を見る業者が現れる。市場の論理はそういうものだ。買い占めて値段を吊り上げるのは典型的だが、中には「抱き合わせ」をする業者も現れる。在庫がかさんで早く処分したい商品と人気の商品を抱き合わせて販売することだ。関連性のないものをくっつけるのは露骨だが、「〇〇セット」と称して、うがい薬とか風邪薬とか、あるいは花粉症の薬などと抱き合わせて高額で販売するやり口もある。

そんな業者も出てくるだろうなと思っていたら、案の定、こんなニュースを見かけた(2020年2月26日の共同通信ニュースより)。

公正取引委員会の菅久修一事務総長は26日の定例記者会見で、新型コロナウイルスの影響で品薄が続く使い捨てマスクを、一部事業者が別の商品と抱き合わせて販売している実態があるとして「独禁法上問題になるような行為があれば、必要な調査をして適切に対応していきたい」と述べた。

読売新聞の記事によれば、この業者(ドラッグストア)は「2月以降、16店舗でマスクを買い求める客に、熱冷ましの冷却シートや栄養ドリンクなどと抱き合わせる形で販売していた。通常のマスクは1箱500円前後だが、最高で9000円前後で売っていたケースもあった」とのことである。

かつて、人気のコンピューターゲームのソフトウェアを入荷した卸売業者が、在庫処分したい売れないゲームソフトと抱き合わせて小売業者に販売して、抱き合わせ規制違反とされたケースがある。必要なものをどうしても購入したい者が、抱き合わされた不必要なものの購入を余儀なくされることを問題とする規制である。マスクの抱き合わせのケースはこのケースに近い。

最近では、ある商品で支配的な立場にある業者が、他の商品を抱き合わせることで後者の競争相手を排除して市場支配を実現するタイプの抱き合わせ規制の適用がスタンダートなものとして考えられている(その先例としてマイクロソフトによるエクセルとワードの抱き合わせの事件がよく知られている)が、今回のマスクのケースは抱き合わせ規制のかつてのスタンダードだったケースである。

値段を高くするだけのケースはどうか。これは独禁法の規制の対象外だ。要らない商品の購入を余儀なくされることが問題視され独禁法違反になるというのであれば、不当に高い価格での購入を余儀なくさるケースは何故に問題にならないか。マスク一箱2万円などとべらぼうな値段をつけているネット販売業者もいるではないか、という声は当然出てくるだろう。しかし独禁法には需要過多で値段が吊り上がることそれ自体を禁止する規定は存在しない(最近話題の優越的地位濫用規制は条件次第で適用の可能性があるとはいえる)。何故ならば、価格は需給バランスで決まるのであって、高価格販売を禁止することは市場の自律的な価格調整機能に介入することになるので、さすがの独禁法も手を出せないということなのだ(一方、価格が極端に安いとき独禁法はこれを問題視する。支配的な業者が競争相手を潰し、その支配を維持、強化するためだけの略奪的な価格設定は違反とされている)。

だったら抱き合わせだっていいではないか、という意見がありそうである。しかし、抱き合わせの場合は、マイクロソフトのように市場支配的な立場を利用した競争者の排除が問題とされるか、あるいはゲームソフトのケースのように(本来的に市場メカニズムが予定していない)不要なものを押し付ける行為が問題とされている。価格の高低だけの問題とはその問題の性質が異なるのである。

消費者の不安に乗じて儲けようとする業者はこれからも多く出てくるだろう。公正取引委員会のみならず不当表示規制(景品表示法)を所管する消費者庁にも監視の目を厳しくしてもらいたい。

「無料」を考える:健全なマーケティングか、誤認の誘発か?

筆者はこれまで、楽天市場の「送料無料」問題を独占禁止法の優越的地位濫用規制違反の問題として何度か述べてきたが、ここではマーケティングとしての「無料」の問題を考えてみたい。

「ただより高いものはない」という直感から、筆者は「ゼロ円」とか「無料」とかいわれると、むしろ警戒感を強めてしまう。「キャンペーン」として「ゼロ円」をやっている業者は大抵、初期の段階で顧客数を一定数増やす狙いがあり、おそらくその後の(一定以上顧客が増えればその後構造的に顧客が増え続ける)ネットワーク効果や(一度取り込まれたら容易に抜け切れない)ロックイン効果を期待してのものだと思ってしまう。何れにせよ、後から一定の値段を徴収しても顧客は減らないと思っているから、最初に「ゼロ円」とやる。「無制限に、永久に、『ゼロ円』」ならその企業は潰れてしまう。そうでないならば、他の商品や他の市場にリンクする何かがあって、そこで儲けようとしているのだろう。

最初はゼロ円とか、ゼロ円キャンペーンとかは、初期の段階での損失を後にどこかで取り戻そうという狙いがあると考えた方がよい。それが顧客にとって良いことか悪いことか、あるいは市場にとって良いことか悪いことかは別にして、である。ただ、独占禁止法の不当廉売規制は「(原価を割るような)安売りによる他者の排除、市場支配、将来における搾取」というシナリオで説明されるものだということは、知識としては用意しておくべきだろう。

さて、ネット販売でいう「送料無料」はどうか。楽天市場の各店舗は一般的に考えて市場支配的になることが考え難いので(だから優越的地位濫用規制の問題になる)、不当廉売規制のような問題ではない。

ネットで商品を買う場合、配送という行為が伴うのであるから、ものの価格の他に送料がかかるのは当たり前である。ただ、一定額以上の場合には「送料無料」と表示されている商品も頻繁に見かける。「送料無料」は、通常、大きな額の取引の場合には利益も大きいので、そういった「有り難い顧客」の場合には、おまけとして送料分を値引きしてあげるという意味合いがある(Amazon Primeのように最初に費用負担をした顧客にそのサービスを提供するタイプのものもある)。まとめ買いに対する値引きのようなものだ(「送料無料」が伴う場合は「一括配送」になるので、さらに値引きされることがある)。

しかし、これはその意味を「好意的に見た」場合の理解であって、意地悪な見方をすれば、「送料無料と表示すれば「お得感」が出るので顧客を誘引し易い」という効果を期待して、「送料分を上乗せ」しておいて「無料」とやる場合がある、という指摘も可能である。

ビジネスホテルを検索していると「朝食無料」という表示をよく見かける。「無料」という方が「聞こえがいい」からなのだろうか(実質、「朝食付き」一択なのだが)。ホテルの部屋に「コンプリメンタリー(おまけ)」としてペットボトルの水が置いてあるのと同じだ。パンとコーヒー程度なら「無料」もわかるが、結構本格的なブッフェのところもある。普通に考えてそれも経費なのだから、宿泊料金に反映されていると見るべきなのだが、人は「無料」の言葉に弱いようだ。

そもそも送料を無料にする意思もないのに、商品の価格に送料分を上乗せしておいて「送料無料」とやったらどうなるか。ある店舗が、実店舗での商品の販売価格に送料分を上乗せしておいてネット販売で「送料無料」と表示したら、どう評価すればよいのだろうか。これは「不当表示」だというだろうか。いや、「送料を別途取らないのだから「送料無料」で問題ない」というだろうか。

実質の伴わない「値引き」表示は有利誤認として景品表示法に抵触する恐れがある。それは「送料無料」表示であっても同じである。また「送料無料」の表示があっても、実際は条件(地域や時期等)によって変わるのであれば、それもまた問題になる。実はこの問題、公正取引委員会だけではなく、消費者庁の出番があるもしれない問題なのである。

ただ、通常の3倍の値段にして「70%オフ」のような表示をすれば、一発アウトになるだろうが、送料無料程度だったら多少の恣意的な表現があってもそれほど消費を歪めている訳でもないし、それも一つの一般化されているマーケティング手法なので消費者もそれはわかっているはずだし、わかって当然というのが予想される当局の反応だろうか。

「無料」の真贋を見極める力が、今、消費者に求められている。

楽天が妥協案、公取委はどうする? 楽天「送料無料」問題③

先日19日、日テレBSの「深層NEWS」に出演した。テーマは「ネット通販戦国時代!どうなる?送料無料化」である。筆者はこれまで2回に分けて楽天の送料無料問題について論考(「『送料無料』をめぐる攻防:楽天vs楽天ユニオン」「ワークマンが撤退へ:楽天「送料無料」問題②」)を執筆し、読者に問題喚起を行ってきた。

前回のAGORA論考からこれまでの間の3週間ほどでいくつかの動きがあった。今回の番組出演を機に、直近の動きも踏まえながら多少の考察を行っていきたい。

楽天市場が自社のサイトに出店する店舗に対して、3980円以上の売買については一律送料無料にするという方針を立て、それが店舗側の大反発を招き、紛糾した。その後、公正取引委員会の調査が入り、楽天側が「雲行きを心配し始めた」のか、いくつかの追加的な方針を明らかにした。2月の10日から13日ぐらいにかけての出来事である。日経新聞の記事(「楽天・三木谷氏「優越的地位の乱用でない」送料問題で」)はこう報じている(以下、三木谷氏の発言は同記事からの引用)。

楽天は13日、2019年12月期の決算説明会を東京都内で開いた。三木谷浩史会長兼社長は、ネット通販サイト「楽天市場」で一定額以上を購入すると、3月18日から送料を無料とする方針について「誤解を招く」として、送料込みという表現に改める考えを示した。4月に商用サービスを始める携帯電話事業については「わかりやすい料金設定にしたい」と語った。

「送料無料」と「送料込み」の何が違うのか。店舗側の不満は、「送料無料」ということは実質、「送料」というサービスも「込み」で商品を販売することになるが、市場の状況もあるので商売としてそんなに商品の値段を簡単には変えられない、これまでの価格を維持するために送料を自分で負担することになるのではないか、という危惧感を持ったのだろう。また、ものの大きさや内容によって送料は変わり得るので一律無料としてしまうのには無理があり、そのしわ寄せが店舗側にかかってくるという心配があるのかもしれない。

楽天側は、最終的に消費者が払う金額は「送料込み」なのだから、送料無料にしてその分値段をあげればいいではないか、と本気で思っていたのだろうか。「『送料無料』の方が利用者には響きがいいが、誤解のないようにする」と三木谷氏はいうが、これを妥協したのは、多少痛いところだろう。

しかし「送料込み」の値段を提示せよといっても、表示上の値段が上がるのだから、送料無料で嫌がる店舗は「送料込み」でも嫌がるだろう。「店舗で価格を調整してもらうので、優越的地位の乱用にも当たらないと考えている」と三木谷氏はいう。店舗側が「送料の押し付け」を理由には反発しているのなら、「送料込みの値段提示」でも同じ反論をすることになる。

それともやはり両者の間でコミッション(手数料)に差が付くのか?

楽天側のイクスキューズは、Amazonとの対抗上必要な対応だということ、そして消費者の便宜からすれば「送料無料」の一律化は正当化できる、というものだろう。だから、最初は強気の発言が続いていた、と筆者は考える。

しかし公正取引委員会の調査が入り、雲行きが怪しくなった。

優越的地位濫用規制のポイントは、「一方的な押し付け」の有無にある。相手にとって何らかの不利益な条件を提示したとしても一律に違反になる訳ではない、そんなことをしたら、ビジネスは成り立たない。重要なのは相手の事情を最大限配慮してギリギリの妥協案を詰められるかどうかだ。その「手続」が踏まれていれば、楽天側の行為は「濫用」とまではいえない、という環境が整うことになる。

「相手の事情を配慮」するアピールはこの規制を回避するうえで重要だ。他の報道ではこんな記事もあった(ロイター・ウェブニュース(2020年2月13日)「楽天、退店店舗に払い戻し 送料無料化めぐり」)。

インターネット通販サイト「楽天市場」を運営する楽天・・・の三木谷浩史会長兼社長は13日の決算会見で、3月中旬から予定する送料無料化の施策に関連し、送料無料の施策が原因で退店する店舗に対し、出店料を払い戻すとの方針を明らかにした。

三木谷社長は「店舗に中長期で大きな損失が出ないよう小売価格を調整するよう周知徹底しようとしている。それでも退店する店舗に、どういう補てんができるかしっかり考える」と述べた。

これは店舗というよりも公取委へのアピールだろう。「一方的ではない=濫用ではない」ことのアピールだ。この制度を使って援助してもらう店舗はどれだけいるのか。そんなことをするくらいなら、そもそもの手数料を下げてくれといいたいだろう。

しかし、この種のプラットフォーム事業の生命線は手数料である。その主導権はプラットフォーム側にあるのがビジネスの不可欠の基盤だ。ウーバーのような事業やコンビニでも同じことであろう。

さて、公取委はどうでるか。「事件化したくない」というのが本音だろう。処分すれば楽天はほぼ争ってくる。ある程度の妥協案を提示し、説明を何度も繰り返した。相手への配慮の手続は踏んでいる。優越的地位濫用規制の適用は、今では公取委の「看板事業」である。これでこけると大きな痛手になる。しかし、ほぼ社会問題化してしまったこの送料無料問題で、双方の妥協が得られないまま楽天が強行したのに公取委が何もしなければ、今度は公取委が悪くいわれる。これも嫌であろう。公取委の2月19日現在でのスタンスはこうだ(NHKニュース「楽天の“送料無料” 公取『実態見て判断』」)

楽天がネット通販サイトで一定額以上を購入した場合の送料を無料にするため、出店者に「送料込み」の料金体系にするよう求めていることについて、独占禁止法違反の疑いで調査している公正取引委員会は、不当に不利益を与える実態があるかどうかを見て判断する方針を改めて強調しました。

何とか妥協点を見出してほしい。一番そう思っているのは公取委なのかもしれない。

コンビニ問題、経済産業省の検討会が報告書案を公表:産経新聞からは厳しいコメント

本ブログ掲載の論考、「どうなる、コンビニの深夜営業・元旦営業?」(2019年12月30日)でも触れた、コンビニ問題に係る経済産業省の有識者会議、「新たなコンビニのあり方検討会」が2月6日、報告書案をまとめた(会議の場に提出した)。

人口減少社会、人手不足による人件費の高騰、加盟店オーナーの高齢化、その他コンビニサービスの多様化(加重化)などの環境変化を挙げつつ、「こうした中で加盟店が疲弊し、事業の継続が困難となるという事態が顕在化しており、今やフランチャイズによるコンビニというビジネスモデルの持続可能性が危機に瀕している」と指摘している。その上で報告書は次の通り述べている。

これまでの統一的なフランチャイズモデルをそのまま硬直的に各加盟店に適用しようとしても、個別の加盟店が置かれた経営環境が多様化してしまっているがゆえに、場合によっては加盟店が過度な負担を抱えることとなるケースや、加盟店が本部から適切な支援を受けられず、経営状況を立て直すことができないといったケースが昨今の課題として浮かび上がっているのではないか。

報告書は具体的な提案として、

① 「統一」からより「多様性」を重視するフランチャイズモデルへの転換

② 本部の加盟店支援の強化、フランチャイズへの加盟メリットの可視化

③ オーナーとの対話の強化

の三項目について述べている。

簡単にいえば、これまで報道されてきたようなフランチャイジー(コンビニ・オーナー側)の実情(苦境)をより重視し、フランチャイザー(本部側)が柔軟に対応せよ(理解を示せ)、ということである。一律の24時間営業の要請、休日の在り方(取り方)、アルバイトなど人材の確保、人件費の一部についての本部負担などが言及されている。

一連の報道で、フランチャイザー側の「ブラック企業」感が国民に浸透してしまっている(そういえば少し前に、どこかの経済誌で「コンビニ地獄」といった特集がされていたのを思い出す)のだろうか、報告書も「この流れ」に乗った形になっているように見える。要はフランチャイザー側に問題があるのだからこれを是正せよ、と。

各紙は報告書の内容を簡単に触れるだけのものが多いが、産経新聞は次のように書いている(「コンビニ問題の有識者会議、業界への注文に終始 不十分な報告書」)。

コンビニをめぐる課題を議論する経済産業省の有識者会議の報告書が6日まとまった。社会問題に発展したコンビニの課題は24時間営業への対応などが進んだ。ただ、議論の集大成と位置付けた報告書では、本部や業界への注文に文面が費やされた一方、もう一つの担い手である加盟店への言及がみられないなど、不十分な内容となった。

「本部と加盟店の双方がメリットを享受する」ことを促しながら、本部以外の重要なプレーヤーとなる加盟店やオーナーの果たすべき役割や姿勢についての提言には欠けた。

その他も産経の記事は、「報告書では各社に人材確保や定着に向けた店舗従業員教育の充実を求め、業界に特定技能制度の活用などを期待したが、目新しさには乏しい」などと手厳しい。

この報告書のストーリーは、コンビニはかつてビジネスモデルとして成功をおさめたものの、近年の環境変化の下、立ち行かなくなっており(「本部と加盟店の双方がメリットを享受するというフランチャイズの有する好循環が目詰まりを起こしている」と表現している)、「持続可能性」といった観点からのビジネスモデルの軌道修正が必要だ、と論じようとするものである。

持続可能性とは誰(何)に向けられた言葉なのであろうか。一般には、経済の、環境の、といった広く共通の対象に向けられているか、企業の、組織の、あるいは労働者の、といった特定の主体に向けられていることが多い。ここでは、持続可能性は「ビジネスモデル」に向けられている。

ビジネスモデルや業態が持続可能性を失い、新たなモデルや業態にとって代わられるのは、競争社会では通常の現象であり、むしろ歓迎されるべきものでもある。既存の企業が新興勢力に負けないためには、常に自社を環境の変化に適応させる必要がある。たとえGAFAのような巨大企業であっても進化し続けるテクノロジーの前には脆い存在である。コンビニのような一般消費者向けの流通業は、人々の生活スタイルの変化が大きく変われば自らの存在も大きく変化させなければやってはいけない。コンビニはそれに適応するように登場し、その変化を加速させた。

自社に脅威を与える変化に対応できない企業は淘汰される。あるコンビニのフランチャイザーがそうなのであれば、その程度の企業だったということである。それを危惧するのは、誰の利益を考えてのものなのか。コンビニのオーナーなのか、それとも生活する人々なのか。

変化とは何か。一連の問題は主として、フランチャイジー側が置かれた環境の変化である。もともとフランチャイジーは契約に際して、(それが甘かったかもしれないが)一定の利益の見通しがあって開業に至ったはずである(そこに「詐欺的な要素」があれば全く別の問題になる)。環境の変化はフランチャイジー側を襲ったのであり、フランチャイザー側はこれを「契約問題」としてドライに扱おうとしている。ビジネスモデルの持続可能性の問題として、フランチャイザー側は認識しているのであろうか。

フランチャイジー側の悩みは、自らが苦境に立たされていてもフランチャイザー側が聞く耳を持たず現状維持での更新か解除かを迫ってくることである。フランチャイジーの直面する脅威をフランチャイザーのそれと同一視できていないことを意味する。「一部の」フランチャイジーのためにビジネスモデルを見直す必要が果たしてあるのか、と考えているのかもしれない。「全ての」フランチャイジーが撤退を余儀なくされるほどの深刻な問題を抱えているのにフランチャイザーが無視しているのであれば、あまりに鈍感であるし、無能である。

一律的に深夜営業が苦しいというのであれば、それを強制するビジネスモデルを(新規の)オーナーは望まず、フランチャイジーのなり手は激減するだろう。その時、困るのはフランチャイザーである。既存のオーナーが「逃げられない」状況に陥っており、市場の自律的調整機能が期待できないというのであれば、それはもう独占禁止法の領域に入っているということになる。

フランチャイザーが直営店ではなく独立した事業者をフランチャイジーとして使いたがる理由は、それが「手数料ビジネス」として意味を有するからである。手数料ビジネスということは、経営のリスクを分散することができるということである。自社の労働者ではなく契約相手として店舗を展開することができる。ウーバーとドライバーのような関係だ。実質的に労働問題として理解できるが、独立した事業者として「ドライな契約」の世界に持ち込むことができる。フランチャイザーがそこにメリットを感じている以上、報告書の提言はフランチャイザーには響かないであろう。

コンビニ問題と、楽天、ウーバーイーツのようなデジタルプラットフォーマーが抱える一連の問題との共通性は、もっと強調されてよいだろう。つまり相手は労働者ではなく事業者である、ということであり、業態としてはマッチングビジネスだということである(コンビニをマッチング・ビジネスというと違和感があるかもしれないが、ブランド化された店舗=「場」で、フランチャイジーと消費者を結び付けるという意味では、そう捉え得るのではないだろうか)。コンビニという流通の(画一化された)「場」の性質を取引相手の都合でコロコロ変えたくない、というのが本音だろう。ウーバーの例でいえば、ドライバー、配達員の都合でアルゴリズムを「受動的に」変えたくないというのと同じだ。構築されたビジネスモデルが自社の競争環境にマッチしているかどうかは自社が考えるのであって、消費者の声は重要だが外部の「知識人」にいわれたくはない、と思っているのかもしれない。

持続可能性とは誰に向けてのものなのか。問題となるのは、自社の利益と他者の利益が不整合を起こす時だ。「企業の社会的責任(CSR)」が問題になるいつもの場面である。マイケル・ポーター流の共有される価値の創造(Creating Shared Value)が可能でそれが有効ならば、それは現場に任せればよい。

報告書は「公正な競争、公正な取引」を語りたいのか、マーケティングを語りたいのか、あるいは社会的責任や価値創造を語りたいのか。「持続可能性」という言葉が、ターゲットを曖昧にしてしまってはいないか。

最後に、報告書案はその後半部分で「新たな時代に向けたコンビニの革新」として、

①リテールテックを活用した次世代モデル

②社会課題解決型ビジネス

③国際展開

について述べているが、これはフランチャイザー・フランチャイジー問題とは別の報告書で扱うべき問題だろう。ビジネスモデルの持続可能性の問題に結びつけたいのだろうが、前半部分の(産経新聞のいう)「不十分」=「消化不良感」を埋め合わせるための「抱き合わせ」のような感じがしてならない。

歴史的建造物の「利活用」:日南市・飫肥の挑戦

九州の小京都が抱える課題

「九州の小京都」と呼ばれる宮崎県日南市・飫肥(おび)。江戸時代は五万一千石伊東氏飫肥藩の藩庁として栄え、当時の城下町としての地割りが今も残る、美しい街並みが保存されている。

1977年に九州初の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたこの景観地区の課題は、他の歴史的景観地区と同様、その良好な景観の維持にある。観光客は「美しい街並み」を体感しにくるのであって保存状況が悪ければ客足は遠のいてしまう。しかし、歴史的建造物の保存には自ずとコストがかかる。私的にも公的にも利用されていない歴史的建造物を「保存」の対象として扱う場合には、純粋に費用の「持ち出し」となる。観光資源としての間接的な効果が頼みであるが、必ずしも潤沢とはいえない公的財源の出動に躊躇してしまうのは、自然な現象である。それほど大きくない自治体にとって、数千万、数億という出費は相当の負担である。結局、国の補助や民間の寄付に依存する、受動的な対応となってしまい、自治体にできることは観光地としてのPRに努めることぐらいになってしまう。「無い袖は振れない」。同じ問題に直面する自治体は少なくないだろう。

「無い袖」が「振れない」のであれば、振れる袖を創ればよい。

創客創人

日南市の掲げるコンセプトの一つに「創客創人」というものがある。それは「様々な分野において、今あるもの、資源の中から、人々が望む価値を見出し、それを実現する製品やサービスなどを創り出し、『新しい需要=客』を創り、その客を幸せにする仕組みを創れる人財を育てる」という哲学を意味している(日南市HPより)。各自治体が共有すべき地方創生のコア概念といってもよい。日南市は、全国でも珍しい「マーケティング専門官」を外部から登用、配置するなど、「戦略的」な取り組みに熱心と聞く。

「保存」から「利活用」へ。これが転換のポイントだ。歴史的建造物を「保存」しようとするから「持ち出し」になる。「利活用」すれば「価値の創出」になる。その価値が地元の人々とそこを訪れる人々の間で共有されるのであれば受容される。歴史的景観を維持しつつ、新たな人の流れを創出する。昔よく見た観光地とは無関係な「タレントの店」などとは違う、これまで積み重ねられてきた伝統を重視しつつその伝統を紡ぎ直し、新たなスタイルへと昇華させる、サステイナブルな戦略が目指された。そのための志のあるプレイヤーを募った。

一棟貸し

その第一弾は「家の一棟貸し」だ。

京都では町家の一棟貸しという宿泊スタイルが定着しつつある。京都の旅館は敷居が高いが近代的なホテルは味気ない。そんな客層の需要に応えるものだ。旅館業法(同施行令)の見直しによって、簡易宿所営業の客室延床面積規制の基準が緩和され、厚生労働省通知の改正で少人数を対象とした簡易宿所のフロント設置義務付けも一定の条件を満たせば不要となった。

飫肥の特徴は、一棟貸しされるのが「邸」と呼ばれる物件だということだ。勝目邸(かつめてい)と合屋邸(おうやてい)という古民家を民間業者がリノベーションし、簡易宿所として2017年4月にオープンしている(IGNITEの記事参照)。京都の高級旅館に匹敵する、いずれも重要伝統的建造物群保存地区内にある建造物を一棟貸しとは何とも豪勢だが、(清掃等を除けば)従業員の人件費がかかっていないので、多くの人にとって十分選択肢に入る宿泊料金となっている。特にグループでの宿泊の場合、リーズナブルなものとなる。これが一棟貸しのメリットである。

現在、第二弾の準備が最終段階に達している。日南市所有の歴史的建造物である、築約140年の「旧小鹿倉邸」の利活用である(2015年に小鹿倉氏から日南市へ寄付されている)。2017年に市が実施した公募で採択された業者(勝目邸、合屋邸とは別の事業者)が、5部屋の宿泊施設を事業展開するという(日南テレビのサイト参照)。この事業は中小企業庁の「商店街活性化・観光消費創出事業」の補助対象にもなっている。市所有の建造物であるので、業者は「賃借する」形になるが、スタートアップのための補助として最初の5年分の賃借料相当分を助成することになっている。

待つだけではいけない

市が所有する歴史的建造物(飫肥城下町保存会のサイト参照)には、小村寿太郎生家や旧飯田医院など様々ある。もちろん、大手門のような貸し出すことに馴染まない建造物もあるが、馴染むものであれば旧小鹿倉邸のような民間業者の創意工夫に基づく利活用によって、歴史を後世へと残しつつ新たな価値を創出する、そういった存在へと蘇ることが期待されている。もちろん、すべてが簡易宿所である必要はない。企業の保養所、オフィス、私立大学のセミナーハウス等、さまざまな用途があり得よう。重要なのは、飫肥の伝統に関わりを持つこと、企業が、大学が地元住民と価値を共有することである。歴史地区を支える人の創出であり、この歴史地区への客の創出にもつながる。

 国の補助や民間の投資も、こうした「展開」があって初めて獲得できるというものである。何もせずに待っているだけではいけない。

そういった活動は、飫肥以外の日南市の戦略とリンクするものである。例えば、大学発ベンチャーの誘致、受け入れは、必然的に研究者と学生の流れを創る。地元の中学や高校との交流も活発になれば、そこは文教地区となる。それがクラスター(房)になれば、一つの文化圏となる。その延長線上で歴史地区への関わりも生まれてくるだろう。

官民協働の真髄:「公共空間」の新しいスタイル

「官民協働(Public Private Partnership)」という言葉が使われて久しい。これまでは公共調達の実施を民間主導の資金調達によって賄おうというPFI(Private Finance Initiative)のような意味で用いられることが多かった。しかし、PFIの場合は公共サービスを民間委託とその実変わらず、ただ建設費等当初のコストの分割払いのような意味においてメリットがあるに過ぎない。その割には手間暇がかかり、行政機関にはあまり評判のよくない公共契約手法であるという声は少なくない。官民協働の政策が行き詰まっていると感じるのは筆者だけではないだろう。

しかし本当の協働とは、官は民の知恵とニーズを引き出し、民は官の有するリソースを利活用する、そういった思惑の一致が、政策の推進力となり、創出された価値が共有されるという点に見出されるべきものではないだろうか。財政負担を軽くするだけであれば、一般競争入札で価格を下げさせるのと何も変わらない。財政負担の軽減と共有化される価値の創出という、一見、相反するかのような二つの要素が整合的なものとなることに官民協働の突破口がある。それは財産の利用とマーケットの利用という観点からすれば資本主義的であるが、それは「公益」を追求する資本主義である。ビジネスは「公益」だけでは動かない。しかしインセンティブの構造を構築しさえすれば、ビジネスは喜んで「公益」に向かっていく。そこに官民協働の真髄があるのではないか。

「飫肥(の歴史、文化)」という「公共空間」に、「民間の論理」がどうコミットしていくか。利活用のアイデアは「利活用する側」が持っている。それをどう引き出すかは、行政の腕の見せ所である。

飫肥地区をめぐる日南市の戦略は、政府の推進する「まち・ひと・しごと創生」政策の切り札的存在として、「新たな公共の創出」のモデルとなるのではないか、と期待している。

ハーフマラソンで日本記録更新:厚底シューズ問題②

今日(2020年2月3日)のサンスポ記事より。

香川・丸亀国際ハーフマラソン(2日、Pikaraスタジアム発着)厚底シューズで設楽超え!! 小椋裕介(26)=ヤクルト=が1時間0分0秒の日本新記録をマークし、日本勢トップの2位でゴールした。今夏の東京五輪での使用が認められたスポーツ用品大手ナイキの「厚底シューズ」を履きこなし、2017年9月に設楽悠太(28)=ホンダ=が出した1時間0分17秒の記録を塗り替えた。

ハーフマラソンの日本記録がとうとう、1時間ぴったりまで短縮された。世界記録はジョフリー・カムウォロルの58分1秒だからまだあと2分ある。フルマラソンの世界記録と日本記録の差は4分ちょっとなので、比率としては似たようなものだ。

今回のレースもまたもや厚底シューズが話題になった。小椋はハーフの自身の記録を2分ちょっと短縮したという。フルマラソンなら4分に相当する。これには本人も驚きを隠せない、という。

この「びっくり感」は厚底シューズに対する批判を後押しすることになる。本人もびっくりするような記録の飛躍は、このシューズによって達成されたものである、と。

次のように考えることもできる。薄底シューズを履いて練習してきた選手がいきなり本番で厚底に切り替えても「適応」ができず、好記録は期待できない。厚底を履きこなすための「必要な筋力、走法技術、経験や勘」があって初めて好記録につながる。F1選手が与えられたマシンやエンジンの特性を使いこなすスキルと同じようなものだ。

だから、「厚底」だけが強調されるのには違和感を覚える。記録更新の背景には、確かに厚底シューズの影響はある。しかし、得られた好結果は、そのツールを使いこなす選手とそれを指導するチームの努力と工夫の賜物である、ということを忘れてはならない。

とはいえ、日本記録、世界記録を過去のそれと比較し、ランク付けする従来の評価手法には、純粋に賛同し切れない。各時代における前提条件が異なるからだ。これまで「ゆっくりとした変化」の中で記録更新がなされてきたので、目立たなかったが、厚底シューズが「暗黙の了解」に揺さぶりをかけることになった。

誰もが厳密に比較可能だとは思っていない。だから、過去の記録が過小評価されることはなかった。当時において偉大な記録は現在でも偉大である。しかし、同時代においてここまで急激に変化してしまうとは・・・。

それでもいいと考えることもできる。記録は更新されるものだから、それが急激だからといって何が悪い、と。だからこそ「ルール」すなわち「公認のための条件の合意」が重要になってくる。

そもそもマラソンはコースの設定が重要なポイントとなる。起伏の激しいコースでは記録が出にくい。スタート地点とゴール地点の標高差のルールがあるのは当然だが、そうであるならば風が強くない、涼しい時季の、フラットなコースが好まれる。世界記録がいくつかの主要レースで出やすいのはそういう設定をして、有力選手を招待するからだ。

陸上競技はトラックであればトラックの質の問題があるし、短距離走であれば風速の問題がある。マイナスの風速で走った記録と風速+2.0で走った記録とを純粋に比較することなどできない。走幅跳や短距離はその競技場の標高も影響するという。世界陸上の東京大会(1991年)でマイク・パウエルがそれまで無敵のカール・ルイスを破って走幅跳の世界記録(8.95M)を樹立したが、それまで23年間破られなかった記録は高地でのものだった(その後約30年間、パウエルの記録は更新されていない。ロードとの比較で、これはこれで驚きだ)。

トラック競技最長の男子10000M走の世界記録はケネニサ・ベケレの26分17秒53であり、これは15年も破られていない。

条件の違いを厳密に考えたらランキングなど作ることができない。それは一定の範囲において「比較可能とのコンセンサス」があるから成り立つものである。

厚底シューズはどうやら容認される方向にあるようだ。人間は「記録」が好きだから似たような問題はこれから何度も出てくるだろう。

非公認のフルマラソン世界記録はエリウド・キプチョゲの1時間59分40秒2である。この記録はキプチョゲ本人とそのためのサポート・ランナーだけが走る特殊な環境で達成されたものである。その他、時間帯の調整や、給水サポートなど、有利な条件を意図的に作り出した上での記録ということで、国際陸上競技連盟(現在のWorld Athletics)は非公認としている。公認の条件がいろいろあるとして、「何故」そうでなければならないのか詰めて考えると面白そうだ。

仮にこのようなケースが公認の対象となった場合、大会形式のレースは大きく様変わりするだろう。純粋に駆け引きを含めた順位をめぐるレースとしての関心が高まるかもしれない。それはそれで望ましいことだと思う。日本国内でもマラソン大会の多くが市民参加型のそれになった現在、トップ・アスリートの「競い合いの仕方」が問われている。

 

NTTグループによる共同調達と「公正な競争」

KDDI、ソフトバンクといった約20(趣旨に賛同する事業者を含めれば約30)の電気通信事業者が共同で「NTTグループによる共同調達に係る意見申出書」(以下、「意見申出書」)を総務大臣に提出した、と報じられた(ITMedia2020年1月27日記事「KDDI、ソフトバンクなど21社、総務省に「意見書」を提出 NTTグループの「共同調達」緩和を巡り」等)。これは昨年12月に総務省・情報通信審議会の「電気通信事業分野における競争ルール等の包括的検証」が、一定の条件下でNTTグループ企業の「共同調達」を容認する旨の「最終答申」(平成 30 年8月 23 日付け諮問第 25 号 )を出したことを受けてのものである。

東西のNTTが「ルーターやサーバーなどの通信機器をドコモやNTTコミュニケーションズ、NTTデータと共同調達できるようになれば、発注量が増え、発注先に対する価格交渉力が高ま」り、「グループで令和5年度に平成29年度比で8千億円のコスト削減を計画するが、さらに効果を上乗せできる公算が大きい」(産経新聞2019年10月18日「巨大NTT復活へ 総務省が共同調達を容認方針」)とされる。「NTT持ち株会社とNTT東西を合わせた調達額のグループ全体に占める割合も、かつての8割程度から2割程度に下がっており、共同調達しても以前のような巨大な影響力はな」(同)いことが、共同調達を容認する背景にあるという。

通信のメガ企業であるNTTグループ各社は民営化後の事業分割によって誕生したが、グループ全体での機器等の共同調達を認めるとその購買力が圧倒的なものとなり、他社は太刀打ちでできない、という理由でこれまで共同調達が認められてこなかった。

NTTは、日本電信電話株式会社法の一部を改正する法律附則第3条に基づき旧郵政大臣(現総務大臣)が定める基本方針に従い、実施計画を作成し、認可を受けなければならないとされ、当該承継計画に従い、各事業会社へ事業等を承継している。その際の公正競争条件として、NTT及びNTT東西は、NTTコミュニケーションズと共同して資材調達を行わないことを定めている(なお、その後の当該基本方針について旧郵政省が公表した考え方において、これら地域会社とNTT データ、NTT ドコモとの共同調達等に関しても同様の考え方が当てはまるとされている)(最終答申52頁注15参照)。

しかし今では多くの有力な通信事業者が育ち、それなりの競争環境が整ってきたことから(一定の条件下における)共同調達の緩和に踏み切るというのである。つまり、それは「公正競争条件の整備の観点」(同52頁)から許される、ということだ。

製品の差別化があまり進んでいない場合、ライバル企業の低コスト調達は脅威となる。価格の勝負となればコストがものをいうからだ。NTTグループが共同調達によってコスト低下を実現すれば、競合他社にとって面白い訳がない。

当然ながら、政策としてものを語るとき、「自分(たち)が困るから止めてくれ」という主張が通る訳がない。それはただの圧力団体のやることだし、あるいはただの陳情だ。上記20社の言い分の政策上の根拠は、最終答申でも強調された「公正競争」にある。

「最終答申」は、NTTグループの共同調達容認の正当化根拠を以下の通り記している(52頁)。

・・・NTT 再編時等と比較して禁止行為規制等の公正競争を確保するための一定の規律が整備されていることを踏まえれば、NTT グループの強い購買力を背景とした公正競争の阻害を防止するという NTT グループの共同調達に係るルールの趣旨は引き続き維持しつつも、公正競争を阻害しない範囲において例外的に共同調達を認めることは、調達コストの低減等の効果を通じて、利用者への利益の還元が期待されるとともに、グローバル展開や先端的な研究開発に対する投資の促進に資すると考えられる。また、上記のスキームを通じ、希望に応じて他の事業者も含めた共同調達が行われることにより市場の活性化が期待される。

意見申出書は、最終答申では「公正競争を阻害しない措置」について「具体的なデータや根拠が示されておらず、議論が十分でな」く、「公正な競争環境が後退し、来る5G時代において利用者料金の高止まりやイノベーションの停滞が起こる」との懸念を示しつつ、「公正競争の確保のために必要な議論の実施」「『公正競争を阻害しない範囲』での共同調達実施に係る審査・認可基準などの運用ガイドラインの策定」を総務大臣に求めている。

最終答申では「調達コストの低減等の効果を通じて、利用者への利益の還元が期待されるとともに、グローバル展開や先端的な研究開発に対する投資の促進に資すると考えられる」という。KDDIやソフトバンク等によればNTTグループの共同調達を容認すれば「公正な競争環境が後退し、来る5G時代において利用者料金の高止まりやイノベーションの停滞が起こる」という。

一体どっちなのだろうか。

ユーザー目線で眺めると、上流段階でコストが安くなれば、その分、下流段階での価格低下を期待するだろう。そうでなければ「浮いた分」での研究開発投資を期待するのが自然である。それは当然ながら、一定の公正な競争環境が整っているという前提で、である。おそらく批判的なスタンスの企業は、NTTグループが上流段階で(コスト上の)競争優位を確立させてしまうと、整いかけた、維持してきた「一定の公正な競争環境」が破壊されてしまう、と考えているのだろう。そうすれば、NTTグループ以外の通信会社の競争力が低下してしまい、「一強」を招く。それは結果、高コスト体質による(あるいは独占的地位による)ユーザー負担の増大、イノベーションの停滞による我が国の通信産業の成長を結果として減速させることとなり、「来る5G時代」における我が国の「出遅れ」を招くと、いいたいのだろう。

NTTの共同調達は「一強」を促進するのか、しないのか。

支配的事業者側の理屈は大抵、イノベーションの進展が速い業界では支配的事業者といえども常日頃から研究開発への投資を怠たることはできない、という。「一強」は常に一時的なものだ、という。

一方、意見申出書では「NTT グループ内で設備・仕様の共通化が図られることにより、NTT グループ内では、早く、安価に設備利用が可能となる一方で、競争事業者では、仕様の違いによる新たな開発が伴い、期間や追加費用が必要になるなど、不公平な接続条件がもたらされることにな」ると指摘している。これは「一強」を構造的に安定化させる要因だ、ということなのだろう。

確かにNTTの構造上の優位性という観点を併せ考慮しなければならない。

だからこそ、次の最終答申の記述が重要になってくる(52〜53頁)。

・・・公正競争を確保する観点からは、NTT グループにおいて、公正競争を阻害しない範囲での共同調達の実施に関する方針の策定、共同調達の状況の公表等の自主的な取組を行うとともに、共同調達を求めるに当たり、総務省において公正競争への影響等を検証することとし、NTTに対して共同調達の運用状況等に関する定期的な報告を求める等の担保措置が必要である。

最終答申の公表からやや時間が経った今、KDDIやソフトバンク等が意見申出書を出したのは、総務省の動きが鈍く、NTT任せになっているのではないか等の疑念が高まり、相当のストレスを感じたからであろう。はっきりとした方針が見えないまま、なし崩し的にNTTグループの共同調達が認められるのではないか、そういう意識が強くなったのだろうか。

最終答申は「公正競争」を142回、「公正な競争」を38回使用している。もちろん、検証結果のすべてが批判されている訳ではないものの、その内容について鍵概念である「公正(な)競争」に疑念が抱かれてしまったのは、イノベーションの展開が速い分野に係る競争政策の難しさをよく物語っているのだといえよう。ただ競争政策という言葉は6回だけしか使用されていない。競争政策の中心的立法である「独占禁止法」という言葉は出てこない(プライバシー保護との係りで「競争法」という言葉が一度登場する)。

最終答申では、共同調達の容認の背景として、「NTT 再編時等と比較して禁止行為規制等の公正競争を確保するための一定の規律が整備されていること」を挙げている。規制云々については専ら電気通信事業法(及びNTT法)がその対象として検討されている。

複数事業者による共同調達は、それが競争制限的な性格を有すれば、独占禁止法上の不当な取引制限規制違反の疑いが生じる。場合によっては他の違反類型の問題にもなり得るだろう。独占禁止法の問題にならないとしても競争政策上の懸念は存在する。得られるメリットと競争制限のリスクの比較考量に依ることになろう。公正取引委員会は何もしないのだろうか。通信分野を所管するのは総務省だが、独占禁止法と競争政策全般については公正取引委員会である。規制産業の「縄張り争い」はかつてから問題になっているが、このNTTグループの共同調達の問題について、公正取引委員会はどのように反応するのだろうか。なお、最終答申公表の3ヶ月前には、総務省と公正取引委員会とが共同で「電気通信事業分野における競争の促進に関する指針」の最新版を公表している。

付言すると、最終答申にある、共同調達の「スキームを通じ、希望に応じて他の事業者も含めた共同調達が行われることにより市場の活性化が期待される」という記述は、独占禁止法の観点からすれば、やや勇み足な記述ではないだろうか。共同調達については競争相手に与える影響のみならず、取引相手に与える影響もまた考慮しなければならないのだから。

ワークマンが撤退へ:楽天「送料無料」問題(Ⅱ)

1月25日のTBSニュース(「ワークマンが楽天撤退、「送料無料」など受け」)より。

作業服の販売大手の「ワークマン」が、ネット通販サイトの「楽天市場」から撤退することが分かりました。楽天が出店者に事実上、送料の負担を強いる「送料無料」を打ち出したこともあり、自社サイトの利用を促します。

これで一ついえることは、楽天はワークマンに対して「優越的地位」に立っていなかった、ということである。独占禁止法の優越的地位濫用規制が要件として求めている「優越的地位」は、劣位に立たされる取引の相手方が、「他に代替的な流通経路を(大きなコストをかけずに)見つけることができるか」ということが判断要素になっているが、ワークマンは自社サイトでそれが可能だと判断したということなのだろう。これは競い合いが機能しているという重要な証拠になる。

問題は、他の「動けない」店舗である。多くの店舗はワークマンと違い、自社サイトで十分に戦えるだけの規模もリソースもない。だから楽天に店舗を構えたまま動けないのだ。楽天からすれば「こちらのネットワークを利用しているのだから、こちら側主導で何が悪い」という思いがあるのだろう。優越的地位濫用規制に納得のいかない大手事業者の本音は、いつもそうだ。「苦労を重ねて構築したネットワークやブランドを利用しておいて、いざこちら側が何かを要求すると「暴挙だ」というのは違うのではないか」と。

コンビニの深夜営業問題も似たような性格の問題といえよう。

さて、楽天の「送料無料」問題について前回の記事(「送料無料」をめぐる攻防:楽天vs楽天ユニオン」)に補足しておこう。報道では、「店舗側に送料負担を強いるのはおかしい」という声が強調されていたが、店舗側負担の問題は、送料込みの価格を出すことで、店舗の売上げが表面上大きくなり、その分、楽天側に支払う手数料が大きくなるということなのではないか。このあたりの事実関係はどうなのだろうか。

コンビニのお弁当値引き禁止騒動も、破棄したお弁当は「売上げ」とみなすという条項があったので、フランチャイジー側が不利になるという問題があったのではなかったか。コミッション・ビジネスを見るポイントは「手数料支払いに係る契約内容の洞察」にある。

実質的に業者側が何を負担することになるのか。今後の詰めた報道が期待される。

「送料無料」をめぐる攻防:楽天vs楽天ユニオン

2020年1月22日の産経新聞の記事(「楽天送料で公取委に調査要請」)より。

通販サイト「楽天市場」を運営する楽天が3980円以上の購入で送料を出店者負担で無料にすることに対し、出店者が加入する任意団体「楽天ユニオン」は22日、独占禁止法違反に当たるとして公正取引委員会に署名を提出し、調査と排除措置を求めた。楽天側は「売り上げが伸びて店舗のメリットにつながる」と主張し意見が対立、公取委の判断が注目される。

ユニオン側の言い分では「出店者側の十分な同意を得ないまま送料無料の制度を導入するのは、独禁法で禁じる『優越的地位の乱用』に当たる」とのことだ(独占禁止法では「濫用」という漢字が用いられている)。

優越的地位濫用規制は、簡単にいえば、取引関係上優越的な立場にある業者が(劣位にある)その取引の相手方に対して、後者にとって不都合な契約変更を押し付けたり合理的根拠のない金銭の提供を求めたりするなど、相手にとって不利益になるようにその力を濫用する行為を禁じるものである。

楽天側が優越的地位に立っている(相手方が容易に他の取引先を見出せない状況ある)という前提で考えて、この送料無料の義務付け制度の導入が、果たして「濫用」といわれるようなものといい得るのだろうか。

ここで注意すべき点は二つある。

第一は、送料無料の義務付けの狙いが、楽天だけが唯得をするものではなく、楽天のユーザーである一般消費者にとって有益なものであると、楽天側が考えているということである。一般消費者に対する便宜を図ることを通じて、自社の競争優位を確立する(あるいは多数のプライム会員によって支えられているAmazon等他のプラットフォーマーに対抗する)という「健全な競争活動」として、楽天側は考えているということである。確かに、一律送料無料となればユーザーにとっては「比較が容易」になり、それは消費者フレンドリーなものとなる。

私は楽天ユーザーでもあるし、Amazonプライム会員でもある。業者が消費者フレンドリーになることは、一消費者として、もちろんウェルカムである。

いわゆるデジタル・プラットフォーマーである楽天は、売り手と買い手を結ぶマッチング・ビジネス(あるいはその場の提供)を主たる業務内容としており、常に「二面の市場」と向き合っている。両方の市場においても取引相手との関係で優越的な立場にあるのであれば、それはまさに支配的だといえる。楽天のケースについては、一方の市場では競争的な状況に直面していて、他方の市場では取引相手に対して優越的な地位を確立している場合、だといえようか(楽天側はそもそも優越的地位の存在それ自体を争うかもしれないが)。

楽天はこの点について強気に見えるのは、一般消費者獲得をめぐってAmazonなどと熾烈な競争をしており、「楽天には消費者が味方に付くはずだ」という「正当化」ができると考えているからだろう。

第二は、第一の点に関連するが、送料無料の義務付けが「売り手に負担を増やす」というが、果たしてそうなのか、という点である。買い手側から見れば、ものを買うとき、自分がトータルでいくら払うかが重要である。その比較において「どこが一番得なのか」を考えているはずだ。送料無料の義務付けとなれば、それまで送料を含まなかった商品の値段が「実質、送料込み」の値段となる訳だから、表面上、高くなるのは自然な帰結である。

「送料無料にするという前提での値段を示せ」というのでも、「(無料の場合も含めて)送料込みの値段を示せ」というのでも、結果、同じことだろう。そうではダメなのか?

売り手側からすれば「高く見られるのは嫌だ」という抵抗感があるのだろう。どっちにしても嫌がるかもしれない。

プラットフォーマーからすれば「送料無料」というイメージが欲しいのかもしれない。そうであれば後者ではダメなのだろう。「売り上げが伸びて店舗のメリットにつながる」との楽天の主張はこのイメージを意識してのものなのだろうか。

問題の本質は、実は、値段が安くなる、値段が高くなるということではなく、「見せ方が変わる」ということについての鬩ぎ合いだ、ということなのではないか。そうだとすると、どっちもどっちという気もする。

もちろん、実質的に値段が上がる、あるいは下がるというのではあれば話は別だ。このケースの帰結を詰めて吟味する必要がある。

何れにせよ、今後の公正取引委員会の反応が注目される。

快記録を連発する厚底シューズ:公正な競争を実現するルールは何か?

厚底シューズを履いたマラソン選手が快記録を連発している。ついこのあいだの箱根駅伝でも話題になった。とりわけ、それまで圧倒的だったラドグリフの女子マラソン世界記録がコスゲイによって約15年ぶりに塗り替えられたのは衝撃だった。

その厚底シューズを認めないという動きが世界陸連(World Athletics)であるそうだ。The Times紙(「Nike’s record-breaking running shoe to be banned」(1月15日))などが報じている。似たような事例として水泳の水着問題があった。スピード社製の高速水着「レーザー・レーサー」が新記録を連発し問題となり、その後禁止された(これらの問題は、田村崇仁氏のコラム「箱根駅伝で「厚底シューズ」旋風、新記録連発で規制の動きも?」の解説参照)。

スポーツ科学が導き出した技術を靴や水着に実装した結果、記録が向上した。その何が問題なのだろうか。それはスポーツにおける「公正な競争とは何か」という問題と言い換えることができる。

例えばF1などの高速自動車レースでは、選手の力量だけでなく、エンジンや車体の性能やメカニックのスキル、スタッフのチームワークなど、総合的能力によって勝敗が決まる。「あの選手はエンジンのおかげで上位に食い込んでいる」などという指摘はあるかもしれないが、だからといってレース自体の有効性を問う声は出てこないだろう。表彰が個人単位でなされるのに加え、チームとしての順位も付けられ、それがファンの強い関心事になっており、このスポーツの魅力を高めている。誰々のファンというよりもどこどこ(例えばフェラーリ)のファンという人も多かろう。

もちろん、F1にはF1のレギュレーション(技術規則)が存在する。それも詳細に、厳格に存在する。その範囲でギリギリの勝負をする。イノベーションが起これば、それがまた将来のレギュレーションに反映される。その繰り返しである。

「マラソンはシューズ製造会社の技術の勝負であって選手の力量は無関係である」という前提を置くことも理念的には可能ではある。ある同一の選手がシューズ以外は全く同じ条件(これは実際上不可能である)で走ったときの時間で競い合い、タイムの短い順で表彰する。そういう競争も競争である。しかし陸上競技は「選手の競技」である。そこにツールの技術が絡んでくる。F1のように「選手とチーム」の「組み合わせ」で勝負しているのであれば、厚底シューズは大した問題にはならないのかもしれない。

問題は、レースをする側(見る側も含まれよう)に、「何の勝負をしているのか」ということについて「どのようなコンセンサス、共有化されたルールがあるか」ということに帰着する。競争の公正さにおいて重要なのは、合意された統一のルールの下にあるかどうか、である。スポーツにおける競争(勝負)とは共通のルールがあって初めて成り立つものであり、その解釈も共通のものでなければならない。そうしなければ比較可能にはならないし、勝敗を付ける根拠を失ってしまう。

悩むのは革新が起きたときだ。ルール上は禁止されていないが、誰も気づかなかった技法を始めた、あるいはある誰も使ったことのないツールを使った選手が新しい記録を出したとき、どう対処するか。

一つがその創意工夫を受容することである。それが有効な手法なら他の選手は真似をするだろう。その後、競技のスタイルがガラッと変わるかもしれない。走高跳や走幅跳における「跳び方」の技法はそのカテゴリーに入るだろう。そこで共有されている競い合い方のルールは、自力で走り、道具を使わずに高く、遠く跳ぶことにあるのであって、跳ぶ技法の変化はそのルールに形式的にも実質的にも反しないからだ。

もう一つが許されざる「想定外」としてその後ルールで禁止することである。禁止対象には指定されていなかったし、知られていなかった薬物であるが、禁止されているものと同様の効果と同様の危険を生じさせるものを使用した場合、がそれに当たるだろう。あるいはその結果をキャンセルすることである。この場合、そもそも「ルールに違反した」という扱いをすることになるが、それは「暗黙のうちに合意があったものに違反した」と理解をすることを意味する。

厚底シューズの問題は結局、何なのだろうか。陸上競技において暗黙のコンセンサスがあるとすると、それは一体どのようなものなのだろうか。ここで重要なことは、陸上競技の他のスポーツとの違いの一つは、レース自体の勝敗(競い合い)のみならず、過去の記録との比較という、もう一つの競い合いを展開しているということだ。

過去の記録を更新したとしても、技術的革新の前後で比較したところで果たしてどれだけ意味を有するのだろうか。野球の通算(あるいは年間)ホームラン記録も似たような 問題を抱えている。

だから急激な環境の変化は歓迎されない。特にアスリートの使う「ツール」の変化はそうである。

マラソン・シューズの技術は日々進歩している。アベベが裸足で走って、その後靴を履いた頃と比べれば、その性能は飛躍的に向上している。仮に2020年の技術が1960年代に突然導入されたらその当時の競技関係者はどう思うだろうか。メーカーの提供する技術が突出して目立つと、心理的に抵抗感を抱く。選手の弛まぬ努力で10秒、20秒、時間をかけてギリギリ詰めてきたのに、シューズの性能で突然1分、2分短縮されてしまうとは・・・そういう感情なのだろう。つまり、マラソンにおいては選手が主でシューズは従の役割が求められている、そういう「コンセンサス」がどこかにあって、メーカーの役割が急に目立つと、状況がそういうコンセンサスの射程外に置かれてしまう、そこに心理的な抵抗感(期待からの離脱)を覚えるのではないだろうか。

「新型シューズを皆、履けばよいではないか」という意見もある。無体財産権が絡むと独占という別の問題が出てきてしまうが、そうでなければ、そして安全性の問題がないのであれば、何が悪いのか、ということを説明するのは難しい。本人が走る以外の何かで勝負している、という批判をするならば、そもそも「靴を履くな」「同じ靴を履け」という極論に行き着いてしまう。

仮にメーカーが1年かけて実現した技術進歩が、練習方法の革新や肉体改造、走法や呼吸法の改善による1年分の記録の向上に匹敵するものだとするならば、それは受容されるべきものなのか。その技術進歩が10年分の記録向上を実現したらどうか。問題の本質は、技術開発のスピードが早過ぎた、あるいは唐突過ぎたが故に、記録更新の「度合い」がアスリートの努力、工夫を相対的にキャンセルしてしまうほど大きなもの感じられてしまう、その「無力感」にあるといえるのではないだろか。

ルールの問題としてこれをどう論じるか。陸上競技のあり方を考えるいいきっかけにはなるだろう。

「話し上手」ということと「雄弁である」ということ

大学教員に話し上手な人はあまりいない。もちろん、何割かは喋るのが仕事なので、経験が長い分、多くの学者はそういう仕事でない人と比べれば喋りはそれほど下手ではない。しかし、大学受験予備校の人気講師などと比べればその足元にも及ばない。予備校講師は「学生に如何に興味を惹かせ、効率よく教えていくか」が競争の要素だから、生き残るためには「話し上手」であることが最大の武器となる。FD(ファカリティー・デベロップメント)の取り組みは確かに最近盛んで、教員評価がうるさくなりつつあるが、予備校講師と比べれば、まだまだ厳しい競争に晒されているとは言い難い。

通常、大学生にとって大学教員との接点は「授業」「ゼミ」であって、「研究」ではない。研究の世界でよく知られた教員だからといって教え方が上手いとは限らない。ただ、研究の第一線で活躍している研究者の授業は大抵、情熱的ではあるが。

法科大学院では実務家教員として現役弁護士が講義を担当しているが、(私の知る限り)皆、話し上手である。一番大きな理由は「普段、お客さん(クライアント)を相手にしているから」であろう。お客さんに「わかりやすく丁寧に説明」しなければ仕事を失ってしまう。そして常に対峙する、あるいは説得する専門家(紛争の相手方弁護士、裁判官)に向き合っているからであろう。一定の知識を有する者に論理と証拠を用いて「上手く説得」しなければならない。

これは政治家の「雄弁さ」とは意味が違う。「雄弁さ」とは「人に感動を与えるような、巧みで、力強い」という意味での「有効な話し方」である。もちろん、それは「話し上手」ということではあるのであるが、その狙いが政治的なところにあることに注意しなければならない。つまり民主主義のプロセスにおいて自らの主張(や思想)を実現するための「説得術」ということである。説得された側は「投票」という行動で「いいね」を表明する。専門的知識を有している人々だけを説得しても、(議席獲得のための)ボリュームのある支持は獲得できない。相手から政治的な支持を受けるために話しているのだから、それはしばしば修辞にはしり、「扇動的に」なったり、「偽善的に」なったり、「盛って」いたりする。

リーダーには「雄弁さ」は不可欠の要素なのかもしれない。しかし、同時に警戒もしなければならない。筆者は、政治家や評論家を見て「ああ、この人は雄弁だなあ」と思ったら、「話し半分」で聞くようにしている。「半分」というのは「嘘が半分」という意味ではない。他の人が同じ内容のことを「雄弁でなく」話したら半分の説得力しか生み出さないということだ。

ある意見を形成したり、政治的な判断をしたりするとき、重要なのは「自分の頭をクールにして考えたときどうなのか」である。民主主義に求められるリテラシーとはそういうものではないだろうか。

「すしざんまい」の意地と戦略

5日の毎日新聞の記事(「大間産クロマグロに1億9320万円 「すしざんまい」会社が落札 豊洲初競り」)より。

豊洲市場(東京都江東区)で5日早朝、令和初となる新春恒例の「初競り」があった。毎年高値がついて話題となるクロマグロは、1本276キロの青森県大間産が最高値の1億9320万円(1キロあたり70万円)で競り落とされ、昨年に次ぐ史上2番目の高値となった。

記事によれば「大間産が最高値となるのは9年連続」で「最高値のマグロを落札したのは2年連続ですしチェーン「すしざんまい」を展開する「喜代村」(中央区)」だという。

一本「一億円超え」とはなんとも「豪快」だが、「初競り」は全国ニュースになるのだから、「豪快」であればあるほどバリューがある。「すしざんまい」は各メディアにとっては絶好のニュース源なのである。「今年もやってくれた」、そんなニュースが欲しいのだ。

「すしざんまい」も譲れない。「今年は違うのか」という(残念な)ニュースは、その「勢いを削ぐ」ことになり、これはどうしても避けたい。ここの社長さんは「マグロ大王」の異名を持つという。自分でも、自社のウェブサイトでそう公言している(「マグロ大王の部屋」)。

これはもう「風物詩」の領域だ。この光景を見ないと年が明けた気がしない。釣り上げた漁師の「一攫千金」のストーリーもまた、毎年話題になる。ここまでくると、ここで「競り落とす」ことは、この時期に「景気の良い話」を提供する、この企業ならではの「CSR(企業の社会的責任)」のようなものともいえる。

このような「一回の取引」による(ブランドとしての)全体のバリューの向上は、非常に効率の良いレバレッジ効果が働く有効な戦略だ。加えて「三方良し」を可能にする、効果的な社会貢献ともいえる。

重要なことは、この規模の企業でなければそれができないということだ。小さな企業がそんなことをやったら身が持たないし、それが寿司の価格に反映されれば結果として消費者にとってマイナスになってしまう。「広告宣伝費」と「割り切れる」ぐらいの規模がなければ、耐えられない。話題性の高さが売り上げを伸張させ、その分、余裕ができて消費者に還元できる。そのぐらいの「大展開」が前提になる。

「すしざんまい」の高価落札の報道を見て、少し前に筆者がアゴラに掲載した、五輪で使用する空手用マットの「一円入札」を思い出した(「東京五輪空手用マット「1円落札」は妥当か?」)。独占禁止法上、著しい原価割れの販売は、他の業者を排除して自らの支配的地位を形成する効果が伴えば、「不当廉売」として問題になるが、五輪で使用する器材の場合、市場全体での他業者の排除効果がない以上、問題にならないだろう。(積極的な宣伝はできないにしても)「口コミ」も期待でき、広告効果は少なくない(受注実績は業界では共有される知識になる)ので、そもそも競争制限を問えるのか疑問でもある。

高く買う行為も「不当高価購入」として独占禁止法上規制されているが、同様に他の業者の排除や市場全体への悪影響が問われるものであって、個別の取引ではなく市場全体において他の業者の排除効果がない以上、一回の高価落札だけを問題視することはできない。

筆者は今では独占禁止法の研究者であるが、学部時代はマーケティングのゼミで流通やブランディングを研究する学生だった。CSR論はその当時からのテーマで、法学研究者となってからも主たる関心の一つであり続け、2010年には『ハイエク主義の「企業の社会的責任」論』(勁草書房)という著作を刊行してもいる。冒頭の報道が興味を惹かない訳がない。

「すしざんまい」は近いうちにマーケティングの教科書に載るだろう。CSRとブランディング、そして広報の各ケースとしてで、である。横浜中華街に出店した立地戦略も興味深い。

どうなる、コンビニの深夜営業・元旦営業?

深夜営業に続き、元旦営業の是非(可否)をめぐって揺れているセブンイレブンに新たな動きがあった。12月29日の産経新聞ウェブ記事(「時短セブンの契約解除 オーナー反発、訴訟検討 31日付、クレーム理由に」)より。

セブン-イレブン・ジャパンは29日、自主的に時短営業をしていた大阪府東大阪市の加盟店オーナーに対し、31日付でフランチャイズ契約を解除すると最終通告した。オーナーが明らかにした。セブン本部は店へのクレームが多いことを理由にしているが、オーナーは反発しており地位確認などを求める訴訟を検討。店の明け渡しを拒否するとともに独自に営業を続けるという。

司法判断に委ねるということなので、その推移を見守るしかないが、一点確認したいことは、「契約の自由」の観点からは、フランチャイザーであるセブン-イレブン・ジャパンの方に軍配が上がるべき事案だということである。フランチャイザー側からすれば、「深夜営業も元旦営業も勝手に止めることはできないって契約したでしょう。」ということだ。「いつでもあいている」という「ビジネスモデル」なのだからそういう契約なのであって、自分の都合であけたりあけなかったりするのなら、「セブンの看板を降ろして」ということになる(今回のケースはそれ以外の理由での解除通告であることに注意)。

しかし、フランチャイジーであるコンビニ側がここまで粘れるのは何故か。もちろん、「ブラック企業という風評」をフランチャイザー側が恐れて妥協するのではないか、という(マスコミによる影響の)期待がその背景にあるが、もう一つさらに独占禁止法という「守護神」が後ろに控えていることを忘れてはならない。

過去の記事でも引用したが、2019年4月24日付の朝日新聞記事は、次の通り報じている(「コンビニ24時間、見直し拒否で独禁法適用検討:公取委」)。

公取委の複数の幹部によると、バイトらの人件費の上昇で店が赤字になる場合などに店主が営業時間の見直しを求め、本部が一方的に拒んだ場合には、独禁法が禁じている「優越的地位の乱用」にあたり得る、との文書をまとめた。

フランチャイザーもフランチャイジーもどちらも事業者であり、プロ対プロの対等な取引だというのが契約上の建前であるが、明らかにその置かれた立場は違う。他のフランチャイザーに容易に乗り換えることもできなければ他の業種にも転換できない多くのコンビニは、強大なフランチャイザーとの関係で圧倒的な劣位に晒されている。優位に立つ事業者は、自らに不利益になることは一切受け入れず、自らに有利に働けば相手方に不利益になることでも容易に選択する。契約の段階では「win-win」の構造にあるように見える契約も、よく見ればどちらかに一方的に有利な内容になっているかもしれない。

このコンビニをめぐる独占禁止法の問題は、フリーランス人材をめぐる同法の問題と類似する点がある。フリーランス人材に係る最近の問題は、フリーランス=プロという構図が成り立たなくなっている点に特徴がある。ギグエコノミー、シェアリングエコノミーと呼ばれる経済のあり方が浸透する中、フリーランサーは人々の「働き方」として容易に選ばれ得る選択肢である時代となった。しかしこうした人々は労働法制の盾を用いることができない。そこで注目されたのが独占禁止法である(NHKの「視点・論点」に最近筆者が出演し、このテーマ(「フリーランス人材と独占禁止法」)で話したので参照いただきたい)。

我が国で半世紀近い歴史を持つコンビニは、「脱サラ」手法の古典のような選択肢として知られている。アマチュアが「一国一城の主」になる、そういう生き方である。「働き方の多様化」の先駆のような存在だ。確立したビジネスモデルをそのまま利用できるので、営業ノウハウに乏しいサラリーマンには飛びつき易く、それがリスク分散を重視するフランチャイザーの思惑と合致した。もちろん営業指導に係る「面倒は見る」が、最後は「自己責任」という世界である。あらゆるビジネスと同じように、「成功する者もあれば失敗する者もある」のは当然である。どちらが正しくて、どちらが正しくないと割り切れる問題では本来にはない。ただ一ついえることは独占禁止法(公正取引委員会)がどう出るかで、問題のあり方が大きく変化するということだ。

コンビニと独占禁止法の問題は、フリーランス人材と独占禁止法の問題を考える上で重要な試金石となるだろう。

数日前、こんな記事を見かけた(「コンビニ「柔軟経営を」=24時間営業は需要次第—経産省報告原案」)。

コンビニエンスストアの在り方を検討する経済産業省の有識者検討会(座長・伊藤元重学習院大教授)は23日、24時間営業など長時間労働の改善に向け、コンビニ大手に「店舗の置かれた環境に応じて柔軟な経営を認める」ことを促す報告書原案を公表した。来年1月に報告を正式にまとめる。報告書に法的な拘束力はないが、政府の要請を受け、大手各社は業務改革の徹底を求められそうだ。

セブン-イレブン・ジャパンは一連の問題を踏まえて、時短営業の試行範囲を拡大し検証を本格化させるとも聞く。今後、コンビニのビジネスモデルは本質的な変化を遂げるのか。人々の生活において切っても切れない存在であるコンビニの、今後の動向が注目される。

フリーランス人材と移籍金、契約解除金

少し前のFNNのニュース(「芸能契約書が変わる 業界団体が契約書を見直し」)。芸能人の移籍制限に対して独占禁止法の適用の見解を公正取引委員会がまとめたというニュース(「芸能人の移籍制限は「独禁法違反」―公取委」)にリンクして、業界側の動きを報じたものだ。

関係者によると、国内最大の芸能業界団体「日本音楽事業者協会」は、契約書のひな形を見直し、芸能人との契約更新の際、独立や移籍を事務所側の判断で先延ばしできるとしてきた規定を削除するほか、「移籍金制度」を導入する方針で、関係者向けの説明会を開いている。

サッカー選手の移籍金制度のようなものを考えているのであろうか。Wikipediaによれば、「移籍金」とは「プロスポーツ選手が所属する団体(クラブ)との契約期間中に所属団体(クラブ)を変更(移籍)するにあたり、新しい移籍先から元の所属団体に対して支払う金額のことである。」とのことである(「移籍金」の項)。すなわち選手の保有権を譲渡することの代償としての金銭のことである。移籍先のチームと選手との間で予め合意がなされている移籍金は、チームと選手の間で定めた金銭を新しいチームに支払えば自由に移籍が認められる(バイアウト条項)という趣旨のもので、「契約解除(違約)金」と呼ばれるようだ(元の所属先に支払う場合とそうでない場合とがあるようだ。詳しくは、サッカー・ダイジェストWeb版の記事、「『契約解除違約金』ってなに? ネイマール電撃移籍で再注目」を参照)。

欧州サッカー界における現行の移籍金制度、契約解除金の運用は、チームとの契約が完全に終了した選手の保有権をチームは主張できないとした「ボスマン判決」を受けて、現在のような形で定着している。

芸能事務所が「移籍金」「契約解除金」のようなものを定めたとしよう。デビューしたてのタレントの場合、いくらが妥当なのだろうか。将来化けるかもしれないし、それだけの投資に見合うタレントと思えば「●億円」と定めておいて、あとは(事務所間の同意を求めて)「応交渉」としておくのが事務所にとっては都合がよいか。あるいは単に「応交渉」とだけ出しておくか。何れにしても「移籍金」や「契約解除金」という概念を出してきただけで「自由な移動」が保証された訳ではない。

タレントはどこからか購入して誰かに売り渡す「再販売」の商品ではない。だから値段を予め付けるのは難しい。「契約解除金」を定めるとすると高額になるのは必定である。低額で設定されるとするならば、事務所自体「評価していない」ことを自ら吐露するようなものだから、ハッタリでも高めに設定するかもしれない。

さらにいえば、今日本で問題になっているのはフリーランス人材の契約をめぐる独占禁止法上の問題である。想定されるのは、クラブや事務所との関係で劣位に立たされる選手やタレントであり、選手やタレントとの関係で優位に立つクラブや事務所である。バイアウト条項を定めるにしても、金額設定に関するそもそもの交渉力が選手やタレントにはないのが一般だ。選手の報酬がもともと高い場合には、バイアウト条項は選手にとってそれほど大きなハードルにはならないが、報酬が低い場合には「解除金の高額設定」は「一方的に不利な移籍制限」でしかない。

交渉による金銭的補償の合意に基づく移籍という場合、元々の「引き抜き禁止」の慣行が定着している限り、移籍金制度といってもワークしない恐れがある。そもそもそのような慣行がなければ、契約期間満了前のタレントを引き抜くために移籍金のようなものが現れ、既に定着していたのではないだろうか。業界における「引き抜き禁止」慣行は事務所間の共同行為(カルテル)の問題である。事務所とタレントとの契約関係を問題にする優越的地位濫用規制や不当な拘束条件付取引規制とは別次元のものである。サッカーにおける選手市場との背景の違いをよく吟味すべきだろう。

「移籍金制度」は独占禁止法違反を回避するための有効な処方箋となるか。

 

一括発注の罠:医薬品談合事件

先月28日の産経新聞のニュース(「医薬卸、一括受注悪用か 談合疑い4社、シェア9割 公取委「生活影響も」)より。公正取引委員会は現在、独占禁止法違反の疑いで、医薬品卸4社を強制調査した。検察への刑事告発を視野に入れた調査とのことである。

全国57病院を運営する独立行政法人地域医療機能推進機構(東京)が発注する医薬品の入札をめぐる医薬品卸売大手4社による談合疑惑で、過去3回の入札で落札したのは、全てこの4社だったことが28日、分かった。再編が進んだ医薬品卸売業界で巨大化した“4強”が医療費抑制のための一括発注を逆に悪用し、数年前から利益確保を図っていた疑いが浮上している。

記事によれば、「同機構では、地方病院の経営効率化が課題とされ、複数病院で医薬品を発注する場合は「共同入札」として、同機構が2年に1回、一括発注する方式が採られた」が、その理由は「一括でやった方がコストカットできる」からだという。しかし、「全国規模の納入に対応できるのは実質的に4社に限られ」る。記事では「巨額に上る医薬品を一括受注できる上、同機構は公的機関のため民間と比べて卸値を買いたたかれる懸念もない」と指摘するが、これは競争入札になれば、予定価格は高めに設定されるということを意味するものといえる。こうした事情が受注調整を容易にしたとみられている。

筆者はいくつかの発注機関で入札監視委員会や契約監視委員会の委員(長)を務めており(務めてきた)、そこでこの一括発注、共同購入の入札状況を数多く見聞きしてきたし、そのメリット、デメリットについて何度も討議をしてきた。

従前バラバラに発注してきたものを一括で、あるいは共同で発注する。そうすれば単価あたりの費用が下がるはずだ。その直感は正しい。しかし、業者が取り扱える量に限界がある。それが数社に限定されるならば談合し易い環境となり、その誘引が強くなる。競争的であれば確かに「より安く」調達できるのかもしれないが、談合されれば「より高く」なってしまう。談合されてもより安くなるような「一括発注、共同購入の効率性」が存在しなければ事態はただの悪化となる。このケースは全国規模の納入に対応できる業者が絞り込まれてしまい、談合を誘発したという「裏目に出た」ものである。

共同発注、共同購入のタイプとして、複数の種類の物品を一括発注するというものもある。例えば、文房具などを種別ごとにバラバラに発注するのではなく、いくつかの種類のものを併せて購入しようとすれば、確かに運送費等の観点から直感的には安くなるような気がするが、必ずしもそうはいかないことがある。その結果、一者応札になることがあるからだ。とりわけ地方自治体の発注のように地元調達に拘れば競争業者の数が相当に絞られることになるので、その傾向はますます強まる。

「一括発注、共同購入」は独立行政法人の調達改善計画の定番だ。しかし、それによって競争状況がどうなるかといった考察も同時に必要になるものである。確かに入札談合は法令違反そのものであり、それを摘発するのは各発注機関の役割ではない。しかし、自らの調達改善への取り組みが違反を誘発するのであるならば、その責任の一端はやはり各発注機関にあるといわざるを得ない。

一方で、発注機関が「応札業者数」「応札可能業者数」といった表面的な競争性に拘り、却って効率的、合理的な調達を自ら妨げる結果となる場合もあり得る。競争入札において仕様や入札参加資格の設定を「最低限」にするべきだという主張は、ほぼ暴論である。正しくは「合理的な仕様や入札参加資格を設定すべき」か、あるいは「競争性低下のデメリットとの比較でその妥当性を考えるべき」、というべきである。

「競争性」は軽視してもいけないし、拘泥してもいけない。公共契約をめぐる競争論は、一般に思われているほど単純ではない。

1円落札の問題性:東京五輪空手用マット

東京五輪の空手用マットの競争入札で1円落札が発生した。以下、21日のNHKのニュースより(「東京五輪空手用マット1円で落札:一般には500万円程度」)。発注者は大会組織委員会である。」

組織委員会によりますと、東京オリンピックで空手が行われる日本武道館や練習会場で使用するマットを調達するため、ことし7月に一般競争入札を実施したところ4つの業者が参加し、このうち2社が1円で応札しました。

調達にかけたマットは一般的には全体でおよそ500万円程度するということですが、組織委員会は9月に日本武道館で行われた空手のテスト大会で2社の製品を使い、製品の品質を確認したり選手に意見を聞いたりしたうえで、先月1日に埼玉県の業者が1円で落札したということです。

1円入札の動機は、大抵、(口コミを含む)評判のため、名誉のため、というものである。簡単に言えば、1円で落とすメリットが当該商品の価格以上にあるから1円で入札するのである。だから場合によっては「お金を払ってでもよいから受注したい」ということもあるだろう。一定の質が担保されているのであれば、発注者にとって不都合はなかろう。1円でも「高い」場合があるのだ。問題の本質は安すぎることではなく、1円以上での入札を求めることにあるともいえる。

独禁法上の不当廉売規制に抵触するか。これだけではならないだろう。費用割れの部分だけをみればそのように見えるが、そもそもこのような単発の入札での廉売では、どこの市場でどのような競争制限になるか不明である。同種の入札で似たような傾向が続くのであれば、多少の考慮の余地が生まれるだろうが、独禁法が私的独占の予防規定として不当廉売規制を位置付けていることにどう整合的に結び付けるのか、議論しなければならない点は多くある。公共契約では公共工事で不当廉売の警告事案がいくつかあるが、出血競争のようなタイプの廉売に規制の網をかけるのには疑問がある。

空手用マットの事案が、ビジネス上のメリットを考えての「合理的」な価格だというのであれば、出発点である原価割れという要件充足すら怪しくなる。それが形式的に満たされたと考えても、廉売のメリットが「受注によって儲かる」という点にあるのなら、それは短期的に損してでも競争相手を排除するというシナリオとは程遠い。

上記報道によれば「調達にかけたマットは一般的には全体でおよそ500万円程度する」が、「組織委員会は9月に日本武道館で行われた空手のテスト大会で2社の製品を使い、製品の品質を確認したり選手に意見を聞いたりしたうえで、先月1日に埼玉県の業者が1円で落札した」とのことである。これが低入札価格調査のような機能を果たしているといえるのだろう。ただ仮に1円入札した業者が1者だったときに、組織委員会はこのようなテストをしたのだろうか。

公共契約においては同額入札の場合はくじによる抽選となる。入札公告に「同額の場合はテストを行う」と書かれていたのであろうか。

高崎市官製談合事件:競争がある場合とない場合の違い

官製談合防止法違反のニュースを連日のように見聞きする。今日(19日)もまたこんな記事を目にした(「官製談合容疑で市職員逮捕 高崎芸術劇場入札で館長も」(産経新聞2019年11月19日))。

群馬県高崎市が発注した備品購入の指名競争入札で入札予定価格を漏らしたなどとして、県警捜査2課は18日、官製談合防止法違反などの疑いで高崎市総務部企画調整課付課長佐藤育男容疑者(50)=高崎市大八木町=と「ラジオ高崎」役員で高崎芸術劇場の館長菅田明則容疑者(66)=同県安中市安中、高崎市にある阿久沢電機社長阿久沢茂容疑者(68)=高崎市江木町=の3人を逮捕した。

具体的な容疑は、「3人が共謀し今年1月ごろ、高崎市が発注した芸術劇場の備品購入の指名競争入札で、都市整備部都市集客施設整備室長だった佐藤容疑者が入札予定価格を菅田容疑者に漏らし、1月24日に実施された指名競争入札で阿久沢容疑者の会社に落札させた」とのことである。発注担当者から予定価格を聞いた館長が社長にさらに伝えたという。この記事によれば漏洩された予定価格は6264万円で、落札価格は5680万円だという。

少し気を付けなければならない点がある。それは6264万円という予定価格が税込価格で落札価格は税抜きで5680万円だということである。(本稿執筆時点での)産経の記事はこの違いを明示していないが、読売の記事(「高崎芸術劇場館長ら、官製談合の疑いで逮捕」)ではこの違いを踏まえて、落札金額を6134万円と記載している。

これは実は重要な情報で、5680万円が税抜の額ならば税込の額は予定価格に非常に近くなる。仮に税込だとするならば落札率でいうと90%ぐらいになる。予定価格の漏洩で落札率がこの程度だと(公共工事なら)下限価格を当てさせるための予定価格の漏洩ということが疑われる。多くの発注者は、予定価格に一定の計算式を当てはめて下限価格を導いている。だから予定価格の漏洩によって下限価格(付近)での落札が可能になる。沼津市の官製談合防止法違反事件はそういうケースだった(「沼津・官製談合、市職員が元上司らから接待 飲食やゴルフ」(静岡新聞2019年10月21日))。しかし(請負契約でない)備品の購入のケースでは下限価格は定めない。

上限価格である予定価格を漏洩し予定価格付近で落札させるのは「古典的」な不正である。それも指名競争が採用されている。この一社が受注予定者であることが前提になっているか、一者応札が予想されるケースかのいずれかである疑いが強い。何故ならば競争があれば予定価格付近での落札は考えにくいからである。前者ならば協力業者がいるということだ。もちろん、予定価格が低すぎて競争が成り立たないようなケースもあるが、芸術劇場の備品購入においてそのような特殊な状況があるのだろうか。競争が激しい場合、予定価格の漏洩は下限価格での受注を目指す業者が「抜け駆け」的に発注者と癒着する不正が多くなる。

「税込」「税抜」の違いは「官製談合」という強烈な言葉の前であまりたいしたことがないような情報に見えるが、事案の特徴を見極める上では極めて重要な情報なのである。

ただ、発注者側の協力があれば「下限価格付近での入札談合」という「新手」もあり得る、ということには多少の注意を払っておいてもよいだろう。下限価格に多くの業者の応札価格を集中させ「競争がある」かのような体裁を作る、という手口である。下限価格が高めに設定されていれば、これは可能である。

関西電力発注の原発関連建設工事と独占禁止法

関西電力役員の金品受領問題への追及の声が止まない。事態の収束を図って行った先週の同社会長、社長による記者会見も、収拾がつくどころか逆に炎上させてしまった感さえある。どこか他人事のような、開き直りの態度に多くの視聴者、読者は呆気にとられたに違いない。

原子力発電所が存在する地元高浜町の元助役と、関係する工事の発注元である関西電力幹部との金品のやり取りは、元助役が顧問を務めていたとされる地元建設会社の存在が指摘されることで、工事費用の私的な循環として語られるようになった。

独占禁止法研究者である筆者は、元助役が関係するこの建設会社への関西電力による発注が、「仕組まれた競争制限」の結果であるかどうかに関心がある。情報が限られた中ではあるが、独占禁止法違反の成否に関する論点を提示しておこう。

民間発注における競争制限行為と発注者の責任

民間企業であれば、、調達の相手方を競争的に探すかそうでないかは、本来は、その自由の範疇である。会計法や地方自治法が公的発注機関に競争入札の採用を「法的に」要請しているが、民間企業の場合、(WTO政府調達協定の対象企業のような例外的なケースを除き)そういった法的要請はない。しかし、電力の卸売、小売が自由化されたとはいえ、地域の電力供給において、独占的な地位を有し、電気利用者が負担する電気料金によって事業が成り立っている電力会社に対しては、公正な競争による調達が強く求められてきた。

このような要請を受け、会社として、公正な競争による調達にコミットしている場合には、会社が、公共調達に準じた競争的発注を行うことを自ら義務付けているとみることができよう。実際、電力会社の多くは、行動規範などで「公正な競争による調達」の方針を掲げている。

そのような電力会社の調達に関して、受注希望者間で競争制限の合意が認められれば、独占禁止法違反として業者は処罰、処分の対象となる。さらに、電力会社側が発注者として競争制限に関与していた場合にはどうなるか。

関西電力発注工事での談合事件での発注者への「申し入れ」

関西電力の調達に関しては、5年前、架空送電工事の工事業者及び地中送電工事の工事業者が、関西電力発注のこれら工事の発注案件について、価格の低落防止及び機会の均等化を図るために受注調整を行なっていたとして、公正取引委員会が排除措置命令、課徴金納付命令を行なっている(「関西電力株式会社が発注する架空送電工事の工事業者及び地中送電工事の工事業者に対する排除措置命令、課徴金納付命令等について」(平成26年1月31日)(公正取引委員会ウェッブサイトより)。

これだけであれば(民間企業発注工事の)ただの談合事件であるが、注目すべきは発注者である関西電力側が受注業者側の受注調整に関与していた、という事実が公正取引委員会によって認められていたという点である。

(1) 関西電力は、架空送電工事及び地中送電工事を発注するに当たり、指名競争見積等の参加者を一堂に集めて現場説明会を行っていたところ、指名競争見積等に参加した工事業者の営業担当者は、現場説明会終了後に引き続いて、指名競争見積等の参加者間において受注予定者を決定する話合いや当該話合いの開催に当たっての日程調整等の話合いをしていた。

(2) 関西電力の設計担当者のうち、当該現場説明会の場等において、前記(1)の営業担当者の求めに応じ、契約締結の目安となる価格を算出する基となる「予算価格」と称する設計金額又はそのおおむねの金額(以下「予算価格等」という。)を、非公表情報であるにもかかわらず教示していた者が多数みられた。

(3) 関西電力の設計担当者の中には、前記(1)の営業担当者に対し、予算価格が記載された発注予定工事件名の一覧表を、非公表情報であるにもかかわらず提供していた者がいた。

(4) 関西電力の購買担当者の中には、地中送電工事の発注に係る指名競争見積等の参加者の選定に当たり、各工事件名における参加者の組合せについて事前に特定の工事業者に相談していた者がいた。

(5) 指名競争見積等の参加者は、関西電力の設計担当者から教示された予算価格等を、受注予定者が提示する見積価格を定める際の参考にするなどしていた。

(6) 受注予定者を決定する話合いを行っていた者の中には関西電力の退職者が29名おり、このうち少なくとも14名は、関西電力の設計担当者から予算価格等の教示を受けていた。

これが公共工事であれば明らかな官製談合防止法違反である。公正取引委員会はこうした事実を問題視し、関西電力に再発防止策を講じ、発注制度の競争性を改善してその効果を検証することを求める異例の「申し入れ」を行なっている(以上、上記公正取引委員会ウェブサイトより)。関西電力は、その申し入れの翌月にプレスリリースしその検証結果と再発防止策を公表している(「架空送電工事および地中送電工事の設計・発注業務における調査結果および再発防止対策について」(平成26年2月4日、関西電力)。

高浜原発関連工事発注と独占禁止法の適用

今問題になっている高浜原発関連工事についてはどうだろうか。情報があまりにも断片的で、限定的であるので、推測の域を超えないが、考える道筋はいくつか提示できる。

建設会社が関西電力から工事を受注するルート(契約手続)にはいくつかある。大きく分けて、特命発注(公共契約でいえば特命随意契約)によって直接受注するルート、そして何らかの形で他社との競争を通じて受注に至るルート(公共契約でいえば競争入札や企画競争といわれるもの)がある。報道では「特命発注」の方が注目を浴びているが、最初から発注者自身が競争要素を排しているので「不適切」という批判はあっても独占禁止法違反の射程からは遠ざかるように思える。しかし、本来であれば競争的に契約者を選定すべきところ、あるいは従来競争的に契約者を選定していたところ、受注業者が発注業者に圧力をかけたり、虚偽の情報を吹き込んだり、あるいは癒着したりして、特定業者への特命発注を実現、継続させるようなことがあれば、それは私的独占規制や取引妨害規制の射程に入ってくるように見える(公共発注においては、前者として東京都の医療用ベッド発注に係る競争業者排除事件であるパラマウントベッド事件があり、後者としては農水省東北農政局発注の公共工事をめぐる発注者側からの不正な協力による受注が問題となったフジタ事件がある)。

競争入札のような競争的な手続が採用されていた中で特定業者への人為的、恣意的な受発注が仕組まれていたのであれば、それは談合行為として不当な取引制限規制の対象となる。仮にこれが刑事事件になり発注者側の関与があったというのであれば、関与した発注者側の人間も共犯として刑事罰の対象となり得る(過去に、発注者が不当な取引制限の共犯の刑事責任を問われた事例として、1995年の下水道事業団発注の電気設備工事をめぐる談合事件がある。)。

では発注の実態はどうなのだろうか。平成30年9月11日作成の「調査委員会報告書」によれば、平成26年9月1日から平成29年3月31日までの間、元助役が顧問を務めていた当該企業が関西電力から受注したのは原子力事業本部分については22件、うち12件が競争的手法によるもの、10件が特命発注となっており、京都支社分については8件ありいずれも特命発注となっている。この内、特命発注分についてはいずれも「工事遂行にあたっての地元精通度の高さ」「工事現場との関係での立地条件のよさ」などといった理由が挙げられている。競争入札が原則化されている公共工事の場合、それだけの理由で随意契約が正当化されることは滅多にない、ということはここで指摘しておくべきだろう。

競争的な手法についてはどうか。上記報告書によれば関西電力の契約発注に関しては指名競争を原則とし、原子力関連の発注では若狭地域における取引先選定(指名)にあたって、地域共生、地域振興の観点から地元企業を優先しているとされている。指名競争においては最低価格自動落札方式ではなく、最安値の見積金額を提出した業者との間で、関西電力側が算出した査定価格に近づけるように交渉し、合意に至った場合には契約となるとのことである。指名の段階で優先される地元業者の候補(高浜町内における関西電力の土木工事の登録取引先)は二者だが、そのうち一者は「浚渫等の海周りの工事を得意としており、受注できる工事が限定的である」とし対象外となっている。元助役が顧問をしていた企業は「土木工事全般に対応する能力があ」り、「多数の元請受注実績をもっている」ことを理由として取引先選定の対象となっている。

ここに競争入札のあり方としていくつかの疑問が生じる。指名にあたって地域共生、地域振興の観点から地元企業を優先する方針があり、その方針が他の応札業者にも知られているのであれば、それは唯一の地元指名業者である当該企業が競争入札における「本命」であるというメッセージとなり得、他の業者が「忖度した」応札行動をとりかねない。ここで暗黙の了解型の不当な取引制限のシナリオは否定できない。そもそも地元企業でない指名企業とはどのような企業なのか、その企業の応札行動はいかなるものだったか、辞退率はどのくらいか、そういった情報を、関西電力側が明らにしていない以上、この唯一の地元業者ありきの競争入札だったといわれても、致し方あるまい。

報告書によれば、関西電力側は「発電所情報や、実施の見通しを得た工事について、工事物量や工事概算額等を自部門で算出し、または元請会社から聞き取るなどして、工事概要を取り纏め」、元助役との面談に臨んだという。地元自治体の幹部であれば、何らかの面談の必要は当然あるが、確定ではない「概算額」であっても他の企業が知らない工事に係る内部情報である以上、案件によってはその後の競争状況に影響がないとはいえない。また、立場上内部情報にアクセスできるというメッセージ自体、暗黙のうちに受注予定者が誰であるかを認識させる機能を果たすといえなくもない。この場合も公共契約であれば、法令上アウトといわれても文句はいえないだろう。独占禁止法についていえば、それは競争制限行為を助長する行為といわれかねない。

 

関西電力の調達方針との関係

関西電力のホームページ(「関西電力 調達基本方針~CSRを踏まえた調達活動~」)には「調達活動の行動基準」が掲げられており、そこでは、「透明性の高い開かれた取引」「コンプライアンスの徹底」が謳われている。そして「取引先のみなさまへのお願い」として「透明性の高い開かれた取引」の項目中に「競争制限的行為の禁止」の記載があり、「コンプライアンスの徹底」の項目中に「全ての関係法令およびそれらの精神の遵守、教育の実施」「不正の防止、撤廃」の記載がある。これは「資材調達」に係る方針として掲げられたものだが、当然、工事一般についても当てはまるものである。5年前の公正取引委員会からの申し入れを考えたらなおさらである。

「資材調達情報」をさらに見ていくと、「2019年度主要調達計画」という項目で、次の記述が目に入った。

また、計画が未確定のものや用地事情等により掲載していないものがあります。

「用地事情」とはどういうことだろうか。これは原子力発電所の立地のことをいうのだろうか。確かにこの項目中、「原子力機材」の欄はない(参考までに中国電力の調達情報には「原子力機器」の項目が設けられており情報が公開されている)。そういった点から、関西電力は調達の行動基準を定めておきながら「用地事情」などといって原子力発電所関連工事を特別扱いしており、会社として、調達手続の例外を容認しているのではないか、という疑念がわく。この会社の対応は上記でみた独占禁止法上の諸々の疑問にリンクしてくる。こうした疑念を解くべく関西電力はどう答えるか。

取引先に透明性とコンプライアンスの徹底をお願いするならば、まず自らを律するべきだ。何よりも関連する情報の透明化を求めたい。第三者委員会が新規に立ち上げられ、さらなる検証が行われるというが、上記の問題にまで踏み込めるのだろうか。問題はもはや会社設置の機関の射程を超えたレベルにまで達しているのではなかろうか。

 

独占禁止法違反が成立する場合の「犯罪の実体」

不当な取引制限の疑いがあるという前提で話を進めると、独占禁止法違反としての制裁や処罰の必要性に関連して注目すべきは、関西電力のケースは「発注者側への多額の金品の還流」が問題になった事案だということである。その「還流」が、関西電力からの受注によって事業者側が得た超過利潤の一部であることは容易に想像できる。

カルテル、談合等の独占禁止法違反が事業者に、常に不当な利益をもたらしているかといえば、そうではない。実際に、多くの違反で、「原材料価格上昇を転嫁しただけ」とか「ダンピングによる共倒れ防止のため」などという正当化の主張が行われてきた。そうした中では、発注者側に還流するほどの超過利潤が生じている競争制限行為は極めて特異である。仮に、事業者側の独占禁止法違反や発注者側の共犯が成立する場合には、行政処分では対処しきれない、まさに「犯罪の実体」を備えた行為と評価される余地もある。

所管官庁、公正取引委員会、そして検察当局がどう動くか、注目である。

青梅談合事件無罪判決を読む

9月20日、東京地方裁判所立川支部で、談合罪事件に対する無罪判決が下された(「青梅市談合、元建設業協会長に無罪判決 東京地裁立川支部」毎日新聞2019年9月20日)。

公共調達法制の研究者である筆者は、この事件で専門的見地からの意見書を裁判所に提出し、裁判所の決定により証人として公判廷で証言をした。

意見書作成に当たって、弁護人から事案の概要を聞いた時点で率直に思ったのは「そもそも何で談合罪として事件にしたのか」ということだった。

そもそも業者が「談合」したというが、同会長は被指名業者の一部にしか連絡しておらず、それ以外の業者の出方が全くわからない状況にあった。この程度の行為で刑法犯たる「談合」になるのが不思議で仕方がない。

同会長が指名業者数社に連絡したことは事実のようだ。しかし、それは、入札参加者間の受注希望を調整するためではなかった。条件の悪い、割に合わない案件を、入札不調で発注者の青梅市に迷惑がかかることを懸念した建設業協会会長の被告人が、責任感から受注したものだった。

こんなケースでは、談合罪を定める刑法96条の6第2項にいう「公正な価格を害」する目的を認める余地がないのではないかと考えていた。無罪判決が当然の事件のように思えた。結果は、予想通り、無罪であった。

積極的な受注意思がある業者同士がぶつかれば、価格面においては安さの競争になる。競争が激しければ激しいほど割りが合わなくなり、受注調整をするインセンティブが高まる。受注調整は一般的に予定価格付近への価格吊り上げとなり、「公正な価格」すなわち競争価格より高くなる。そこに、談合罪という犯罪の財産犯的な処罰価値がある。そういう「価格引き上げ」の要素がないのであれば、談合罪が成立する余地はない。

驚いたことに、筆者が、専門家証人として証言を求められたのが、同種工事の落札率の平均と本件工事の落札率を比較することで、本件工事の受注価格が「公正な価格」よりも高いことを証明することが可能かということであった。工事にはそれぞれ条件も特性もあり、同種工事の落札率を平均して「公正な価格」を算定するなどということは凡そ不可能であることを証言したのは言うまでもない。

判決では、類似工事といっても「様々な工事があり、難易度や採算性、さらには競り合いの状況もそれぞれ異なるものであるから、同種工事の落札率と比較し、本件工事の落札率がそれに比して高いからという結果だけで、被告人に公正な価格を害する目的があったと推認されるとはいえない」と一蹴されている。そもそも検察官がこんなところに論点を見出そうとしたこと自体、理解に苦しむといわざるを得ない。

この事件は検察側の完敗である。ここまで検察の主張が判決で否定れるのも珍しかろう。それも滅多に無罪判決など出ない談合罪の事件で、である。

何故、このような結末に至ったのか。

そもそもこの事件、公共契約や公共工事についての相応の理解があれば事件そのものになっていなかっただろう、ともいえそうだ。裁判所は学んだが、検察は学ばなかった。そういう評価ができる事件ではなかろうか。

この事件では、談合の事実を全面否認していた被告人が、80日ももの期間勾留され、心身ともに疲弊して、初公判では全面的に事実を認め、その後、弁護人が交代して無罪主張をするに至ったとのことだ。まさに、「人質司法」によって、有罪側に「堕ちる」寸前だったという。想像するだけでも恐ろしい。検察には、このような過ちを二度と起こさないよう反省してもらいたい。

芸能界と独禁法:公取委が自民党に見解を提示

公正取引委員会は27日午前に開かれた自民党の競争政策調査会で、芸能事務所がタレントとの間で交わす契約や取引について、どういったケースが独占禁止法上問題となり得るかをまとめて提示した。今回示した見解は、実質的な指針として業界への周知にも活用するという(朝日新聞2019年8月27日記事「芸能事務所の問題行為、公取委が例示 TV出演妨害など」)。

筆者は、まだその見解それ自体を詳細に見ていないが、上記の朝日新聞の記事によれば、以下の4つの「問題となり得る」例(芸能事務所の行為)が示されたという。

(1)移籍、独立をあきらめさせる

(2)契約を一方的に更新する

(3)正当な報酬を支払わない

(4)出演先や移籍先に圧力をかけて芸能活動を妨害する

「実際に独禁法に違反するかどうかは個別に判断されるが、(1)~(3)は独禁法の「優越的地位の乱用」、(4)は「取引妨害」などにあたるおそれがある。」とのことである。

独占禁止法という呼び名は、その正式名称である「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」からきているが、ここで列挙された、違反が疑われるケースはいずれも私的独占規制ではなく、不公正な取引方法規制の中にある違反類型である。そしてそこでいう公正競争阻害性といわれる効果要件(弊害要件)、すなわち競争秩序、取引秩序に与える悪影響の要件は、独占の弊害をもたらすとか、競争それ自体に対する悪影響を生じさせるとかいったものだけではなく、競争手段として不公正であったり、取引主体の独立性を否定するような意味での悪影響を問題にする、独占禁止法の中ではどちらかというと「裏街道」のような類型であることには多少の注意を払ってもよいだろう。

ジャニーズ事務所が「注意」を受けたのは、このうち(4)の例示に該当するものについてである。競争それ自体への悪影響ではなく、手段として不公正だというタイプの公正競争阻害性を問題にするとき、何を以て「手段が不公正」というかが問われることとなる。事務所から独立したタレントを使わないようにテレビ局などに圧力をかける行為を対象にしているとのことであるが、辞めたタレントではなく自分の事務所の現在の所属タレントを積極的に採用してもらうよう働きかけることは、通常の「営業活動」と説明することもできる。

公正取引委員会が平成30年度に不公正な取引方法規制違反として正式な処分を下したのは、実はたった一件であり、それは取引妨害規制違反であった(「平成30年度における独占禁止法違反事件の処理状況について」(公正取引委員会)参照)。農林水産省の東北農政局が発注した公共工事に係る入札不正事案であるが、ある業者が競争入札で勝てるよう、提出すべき技術提案について発注者から助言を受け、その内容について添削を受け、あるいは他の業者の技術評価点及び順位について情報の教示を受けた行為が、他の業者の取引を妨害したとされたケースである。これは明らかに刑法上の公契約関係競売入札妨害罪に該当する行為といえ、発注者側職員には官製談合防止法違反が成り立つような事案であった。問題となるやりとり自体が法に抵触する(犯罪にならなくとも競争入札のルールには違反する)ものであるということが、不公正手段であることの明白な説明になる。

では、芸能事務所の場合は、何が手段の不公正を基礎付けるのだろうか。芸能事務所が独占的な、支配的な地位を利用して競争全体を歪めるような行為をする場合は十分に不公正といえるだろうが、そうでない場合はどうなのだろうか。

随分と古いが、取引妨害のケースで「熊本魚市場事件」というものがある。これは生鮮食品の卸売市場において、競争業者のせり場の周囲に障壁を設置したという物理的妨害のケースであり、露骨な営業妨害のケースであった。仮に競争全体には影響を与えないとしても、確かに許しがたい妨害行為である。

さて、事務所を辞めたタレントを使わないように取引相手に要求する行為は、果たして許容範囲を超える妨害行為なのだろうか。自社のタレントを使うように要求しただけならばどうだろうか。これは企業にとっては自衛行為ともいえる。報道によれば、独占禁止法上違反疑いを生じさせる行為とは、「圧力をかけ」る行為である。要求と圧力はどう違うのか。結局、違反かどうかの線引きが「圧力」という言葉の意味をどう捉えるかによるのであれば、「圧力はダメだ」といったところで、それは大した指針にはならないだろう。移籍先が仮に大手事務所だったら結論は変わるだろうか。「見せしめ」的な妨害行為が念頭に置かれているのかもしれないが、どのような場合に「見せしめ」といえるのか。個別の番組での要求か、全般的な出禁の要求かでも評価は変わってくるだろうか。

いずれにせよ強者と弱者という対立の「一歩先」を見据えた議論が必要だろう。

テレビ局が芸能事務所に忖度する事情:独占禁止法違反の境界線

ジャニーズ事務所に対する公正取引委員会の「注意」に続き、吉本興業の「契約書の不存在」疑惑に関して同委員会幹部が問題視するなど、最近、芸能事務所に対する独占禁止法の適用が注目を浴びている。直近ではマツコ・デラックスさんの事務所がジャニーズ事務所の意向を忖度するかのような姿勢をとっていたとして週刊誌で報じられ(「ジャニーズ幹部の稲垣「舞台潰し」とマツコ「共演拒否」」)、同時に本人の反論が掲載されている。

公正取引委員会の対応に、「それ見たことか」「けしからん」という声が強いが、「だから何だ」「なにが問題なのか」という声も一方である。気になるのが、後者の理由である。ジャニーズについては、公正取引委員会の対応が「注意」にとどまったことが大きい。公正取引委員会は「違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られないが、違反につながるおそれがある行為がみられたときには、未然防止を図る観点から「注意」を行ってい」(公取委のウェブ・サイト「よくある質問コーナー(独占禁止法)」Q27)る。「違反行為の存在を疑うに足る証拠」がないということは、違反摘発という意味ではそのスタートラインにすらつけなかったということを意味する(「公取委がジャニーズ事務所を注意〜「圧力」とは何か?」参照)。未然防止の必要性についてはジャニーズ側にどれだけ非がある話なのかは、「注意」という事実だけから何ともいえないのが実情である。

吉本の場合、「コンプライアンス」に拘泥することへの警戒の声が少なくない。例えば、古舘伊知郎さんは「四角四面の道徳警察にならない方がいい、つまらなくなる」と述べている(「古舘伊知郎、吉本騒動に対する世間の目に「四角四面の道徳警察にならない方がいい、つまらなくなる」)。どんぶり勘定的な契約スタイルも、それはこの業界にとって不可欠な要素であるかのような物言いをするベテラン芸人も見かける。どちらにしても独占禁止法や下請法に本当に違反するのであれば、無視すべきコンプライアンス問題であるとは到底思えない。特に吉本擁護に関しては、「四の五の言うな」という開き直りの風潮が強いようにも思える。

さて、話をジャニーズに絞ってその競争の構造を考えてみよう。テレビ局に対してあからさまな圧力をかけて競合するタレントを排除しようとしたという独占禁止法の格好のターゲットとなるような話から、マツコ・デラックスさんのように「テレビ局は使いたくない」といった、そもそものニーズの有無のレベルの問題だ、という見方もあるだろう。

使いたくないタレントは使わない話なのか、使いたいタレントも使えない話なのか、独占禁止法違反の有無を考える上では非常に重要な違いだ。前者ならば、契約相手の「自由な選択」の問題であり、これを独占禁止法上問題視することはナンセンスである。いい商品を売って競合他社が排除されたのであれば、それは競争原理そのものだ。後者の場合、状況を二つに分けて考えるべきだろう。

第一は、競合するタレントを排除するようにテレビ局に働きかけて意図的に仕組んだ場合。この場合、独占禁止法の門を完全にくぐっている。第二は、「忖度」の言葉にあらわれるように、事務所からの明確な働きかけはないがテレビ局が事務所の顔色を伺うような場合。多くの人は、第一の状況が「空気」の中で行われている場合を想起するだろう。その空気の醸成にどれだけ事務所が加担したかが問われることになろうが、しかし違反の証明には苦労するだろう。

それだけではない。忖度の言葉の裏には、テレビ局が事務所に対して「何かを期待する」思惑も見え隠れする。例えば、ある事務所のタレントばかりを出演させることで「信頼関係」を構築し、将来的にも安定的にその事務所の有望株や次世代のスターたちを出演させ続けることができる期待にテレビ局が「投資している」といえるケースである。いわば「お得意さん」になる、ということだ。そういった関係を構築するためには、事務所は次世代の売れっ子を養成するために弛まぬ努力をし続けなければならない。それが長期に渡れば渡るほど、この関係は強固になる。この場合、それ自体が競争だという見方ができる。あるメーカーにとって自社のプロモーションを必死でやってくれる小売店は「お得意さん」である。そういったお得意さんには常に最新のモデルや各種情報を積極的に提供するようにインセンティブをつけることもあるだろう。これは通常の流通戦略である。こういった行為がどこまで行けば競争に適う行為として説明できなくなるか、見極めは簡単ではない。そのメーカーが支配的であればあるほど独占禁止法の射程として「魅力的」なものになっていく。しかし、そういった行為は出発点としては真っ当な競争活動なのである。

公正取引委員会の「注意」という対応を読み解くためには、「(健全な)競争と(そうでない)独占の境界線」を見極めることが重要である。

独占禁止法を考えるにあたり、「「注意」されたのだからやましいことをやっているのだろう」などという解説では物足りなさ過ぎる。

公共発注と競争入札:改めて基礎から考える

公共発注において競争入札が原則とされているのは、その手続が競争させる側(ここでは発注機関)にとって最も望ましい条件での契約を可能にしてくれる、という期待があるからだ。競争のメリットは公共発注にのみ存在するのではなく、取引一般についてもいえる。売り手側にも買い手側にも競争環境を整えることにより、経済社会において最も望ましい結果が生み出される、という信頼が存在する。会計法や地方自治法は競争入札(一般競争入札)を原則とし、随意契約を例外としているのはそのためだし、独占禁止法が競争制限行為を禁止するのもそうだ。ただ、高度成長期の成功体験があるので、当時ほとんど機能していなかった独占禁止法へのアレルギーが昭和の世代を中心に少なからず存在する。競争は日本社会に馴染まない、と。

かつては随意契約や指名競争入札が当たり前のように用いられていた。指名「競争」といっても名ばかりで、実質は業者間の協調によって結果(落札)が決められ、競争は骨抜きにされていた。落札価格は予定価格とほぼ一致していたが、それが「競争価格」だ、と発注機関は強弁してきた。法令が追求する競争価格と予定価格の根拠となる発注機関の積算とを一致させることで、「予定価格=適正価格」という「神話」を作り出し、事前に計画した予算を過不足なく消化できるという「官の無謬性」の体裁を作り上げてきた。落札率100%なのだから余ることもないがそこに抵抗感はなかった。仮に足りなかったら安い値段でどこかの業者に強引に引き受けさせることができた。このことを「請負」の文字を使って「請け負け」などと表現してきた(それができたのは随意契約や指名の裁量権を発注機関が持っていたからだ)。単年度予算という制約の中で、競争によるメリットを捨て去ってまで、言い換えれば談合という犠牲を払ってまで、(表面的な)「予定調和」のメカニズムを維持しようとしてきたのである。それが昭和の時代だった。

かつての常識は平成の時代に通用しなくなった。一般競争は当然の前提となり、法令の要請と実態とが一致するようになった。随意契約や指名競争入札は、専ら批判の対象となり、そのメリットが指摘されることはほとんどなくなった。各発注機関は「随意契約」といわれる手続に拒否反応を示すようになった。より正確にいうと、拒否反応を示す世論に敏感になった。形だけでもいいから一般競争入札を徹底している「体裁」を重視し、それが一者応札であろうが、予定価格ぴったりであろうが、あるいは不調や不成立であっても、一般競争入札を用いたのだから、そこで得られた結果が正しいのだ、と強弁する(せざるを得ない)発注機関も多々ある。時代は変わっても行政が「体裁」に拘るのは変わらないようだ。

随意契約のメリットは、手続にかける時間的短縮が可能であること、事前の交渉が柔軟に進められること、総合評価方式のような契約手法との比較では煩雑さを回避できること、さまざまである。そのデメリットは、競争が欠如していること、競争という手続によって満たされただろう透明性に欠けることである、といわれている。ただ、競争入札であっても競争を骨抜きにすることは可能であるし、不透明な形で実施することも可能だ、ということには注意しておきたい。要は仕組み次第ということだ。裏を返せば、随意契約であっても、競争的要素を組み込むことができる(事前確認公募型の随意契約、企画競争等がその例だし、見積り合わせもそうだ。公開型の見積り合わせの方式もあると聞く)し、情報公開を徹底することで透明性を確保することもできる。競争入札か随意契約か、という二元論ではなく、各方式のメリットを最大限にし、デメリットを最小限にするような「最適な組合わせ」を模索すべきだ。

しばしば競争入札のメリットを説く論者が強調するのが価格低下であるが、そもそも競争においては価格だけではなく、品質も重要だ。競争入札の組み方次第では価格よりも品質重視の契約者選定が可能となる方法もあるし、分野によっては多用されている。

特定の業者(あるいは事業者団体)が他の追随を許さない、あるいは存在する唯一の適正な契約相手であるというならば、その説明責任を果たした上で、法令の枠内で堂々と随意契約すればよい。しばしば随意契約をめぐる住民訴訟を見聞きする。地方自治体の場合、司法の判断が一つの方向性を見出す。それが適正化の担保となっている。国の場合はやや状況が異なる。会計検査院の対応の鍵となるが、議員による問題喚起も重要である。

音喜多駿氏がブログ記事(「時間がないから、競争入札は無し?!」)で、参議院議員会館の改築工事が随意契約で行われたことを問題視している。このような意識を個々の議員が先鋭化させることは大歓迎である。どんどん問題提起したらよい。それによって透明性も高まるだろう。

競争入札の場合、競争の結果が契約の合理性を自ずと説明する(但し競争のルールが適正な場合に限る)。随意契約の場合そうはいかない。発注機関が自ら積極的にその説明を行わなければならない。それは一定の知識を有する外部の人間が、その適正さをチェックできるくらいに透明である必要がある。情報公開は公共発注の適正化のための生命線だ。欧州では、公共発注の適正化に向けて、Digital Whistleblowerという発想が広く共有されている。公共発注に係るデジタル情報へのアクセシビリティーを高めることで、誰もがその不正、不効率を指摘することができるような環境整備を行うことが重要であるという考え方がその背景にある。実際、欧州における公共発注のデジタル・データベース化とその徹底した公開性の推進には目を見張るものがある。日本・EUのEPA(Economic Partnership Agreement)で公共発注が大きなイシューとなったが、透明性の問題について「欧州並み」を日本が実現するのはいつのことになるのだろうか。

競争入札はやり方次第でいくらでも骨抜きにできる。競争入札が実施されているからといって無批判に評価するのは危険である。同時に随意契約も必要な場合は必要であることをより正面から認めるべきだ。それを闇雲に批判するのはナンセンスである。随意契約にも競争的なそれもある。特命随意契約の候補を立てつつ公募をかけ、応募する業者が現れたら競争入札を行うという事前確認公募型の随意契約はその一例である。議員会館のケースはそれに馴染むものなのかもしれない。

時代は令和である。昭和の時代の反動から公共発注方式に対する闇雲な批判や思考停止の礼賛が平成の時代まかり通ってきたが、この新しい時代、真に納税者の利益になるものは何か、という「実質」をより深く考えて行かなければならない。

独占禁止法はビジネスモデルを変える

コンビニの24時間営業の見直しが進んでいる。東大阪市のケースを発端にこれまでセブンイレブンばかりが目立ってきたが、7月26日の記事で各社がファミリーマートについて報じている(以下の引用は同日付の産経新聞記事「時短営業拡大へ 希望店舗は全体の半数 ファミマ調査」より)。

ファミリーマートは26日、時短営業に関する全国加盟店へのアンケートで、1万4572店舗の約半数が「検討したい」と回答したことを明らかにした。これを受け、6月から行っている時短営業実験を現在の24店舗から、10月中旬より全国の最大700店舗に拡大する。実験では、収益などの変化は、地域や周辺環境で店舗ごとにばらつきが出た。大規模検証を進め、12月以降に時短営業のあり方の方向性を示す。

各コンビニチェーンが見直しの動きを活性化させた背景には、いうまでもなく、公正取引委員会の対応がある。

2019年4月24日付の朝日新聞記事は、次の通り報じている(「コンビニ24時間、見直し拒否で独禁法適用検討:公取委」)。

公取委の複数の幹部によると、バイトらの人件費の上昇で店が赤字になる場合などに店主が営業時間の見直しを求め、本部が一方的に拒んだ場合には、独禁法が禁じている「優越的地位の乱用」にあたり得る、との文書をまとめた。

この辺りは既に、過去の筆者のブログ、「コンビニの深夜営業と独占禁止法」で触れたところである。他のコンビニ本部の対応の早さに多少の驚きはあるが、コンビニは「イメージ商売」の性格が多分にあり、労働者を酷使しているなどという「ブラック企業」認定はどうしても避けたいのであろう。近年の「働き方改革」の潮流もあり、各社競うように「見直し」を加速化させている。

今後のコンビニ経営のあり方はどうなるかはわからない。同ブログで指摘したように、24時間組のメインブランドと深夜営業のないサブ・ブランドの使い分けがなされるかもしれない。24時間営業を続けるコンビニが作り上げるコンビニのプラスのイメージ(それがあるかどうかが一つの争点ではあるが)にそうでない組のコンビニがフリーライドする状況は避けたいと思うだろう。24時間営業は主として直営店の形でなされる(独占禁止法上の優越的地位濫用規制違反の問題になりようがない)ことになるかもしれない。

見逃してはならないのは、各コンビニ本部の動きを決定付けたのが公正取引委員会の示唆だった、ということである。「公正取引委員会が注目してますよ」というメッセージは、「放っておいたら処分されるかもしれませんよ」というメッセージでもある。優越的地位濫用規制はいわば「弱い者いじめ」規制であるから、ブラック企業認定に十分なインパクトだ。上記の公正取引委員会の示唆は、コンビニ経営のあり方を大きく変えるきっかけになるかもしれない。事実、これまでの動きはそれを推測するに十分なものになっている。

同じことは吉本興業のケースについても当てはまる。先日(7月24日)、公正取引委員会の山田昭典事務総長が定例記者会見で、所属芸人との契約書の不存在に関し、「契約書面が存在しないことは問題がある」と発言した(【吉本興業“契約書なし”を問題視 公取委事務総長が指摘】)。その翌日の共同通信では次の通り報じられている(「吉本興業、芸人と契約書締結へ 第三者交え委員会設置」)。

「闇営業」問題に端を発する騒動に揺れる吉本興業が、所属タレントと原則として契約書を交わす方針を決めたことが、25日分かった。同社はこれまで多くのケースで口頭での契約しか交わしてこなかった。第三者を交えた「経営アドバイザリー委員会」を設置し、来週にも会合を開いて内容などを検討する。

メディアで少々報じられた程度では動じないだろう企業も、公正取引委員会の「ひとこと」には随分と反応がよいようだ(違反の自発的解消は処分を回避する一つの手段だ。回避できれば「違反の認定を受けておりません」というエクスキューズが可能になる)。それだけ独占禁止法は脅威なのだろう。独占禁止法とそれを執行する公正取引委員会が市場の番人として、企業行動を規律するに十分な存在感があるということを意味する。

独占禁止法は企業のビジネスモデルに大きな影響を与える。マネジメントを学ぶ者は必須の知識だ。

筆者は大学生の頃、所属したゼミで熱心にマーケティングを学んでいた。その時に二つの疑問があった。一つは「企業の社会的責任(CSR)」は、マーケティング活動としては実際のところ「広告・宣伝」以上の意味を持たないのではないか、という疑問。そしてもう一つが企業行動を考える上では法的環境の存在が重要なのではないか、という疑問である。前者についてはCSRをコンプライアンスの問題として再構成することで一つの落とし所を見付けるに至った(拙著『ハイエク主義の企業の社会的責任論』)。後者については、当時のマーケティングの教科書では「経営における外部環境」として議論の対象にはほとんどされていなかったことを思い出す。理論上整理された形で「法と経済学」が扱うテーマであるが、マーケティング、経営戦略のような現在進行形の「生きた素材」を用いた議論は(少なくとも我が国では)未開拓なのではないだろうか。

下請法と独占禁止法:芸能事務所と芸能人の関係で考える

芸能事務所(マネジメント会社)と芸能人の仕事のやりとりとお金の払い方にはいくつものバリエーションがあるだろう。個々の仕事を切り取ってみると、ある仕事(イベント、テレビ出演等)をとってきた芸能事務所が個々のタレントにその仕事をふり、それに対して報酬を支払うということになるが、その報酬は固定型のもの、歩合型のものさまざまだろう。固定であっても歩合であっても、事務所側が強ければ固定報酬は抑えられ、歩合といってもほとんどを事務所側が持っていってしまう。事務所所属のための登録料だけとって、オーディション等の情報提供はするが後は個々のタレントに自由に任せるという形態もあるかもしれない。タレントと出演先とを「つなぐ」、仲介者のようなビジネスもあるだろう。お金のやりとりも様々だろう。極端な話、芸能事務所の数だけ契約のバリエーションがあるといってもよい。個々の事務所の芸能マネジメント契約が具体的にどのようになっているのか、筆者にはわかりかねる。

闇営業問題を発端にした「吉本」のケースでは、そもそも契約書のない、文書でのやりとりがないなどと批判されているが、それだけ事務所とタレントの関係が(とりあえずいろいろなものをごっちゃに押し込む、という意味で)「どんぶり」的だということなのだろう。さすがに事務所がテレビ局などから仕事を受けるときは、テレビ局側のコンプライアンスが厳しいのでどんぶりということはなかろうが、事務所内部では曖昧にされているところが多いのだろう。「真っ当な契約社会ではあり得ない」というコメントが多いが、この業界はもしかしたらこの令和の時代に昭和の感覚で居続けているのかもしれない(ただ、移籍制限や兼業禁止などの「制限的」な取り決めに関しては、文書(念書)の形で残すようなところもあるのだろう)。事務所とタレントの間には優越的地位に立つ側と立たれる側に分かれることが多いので、独占禁止法上の優越的地位濫用規制違反の温床になりやすい(売れっ子タレントは別だし、場合によっては逆の関係になる場合もあるかもしれない)。条件が揃えば下請法(下請代金支払遅延等防止法)の問題にもなるだろう。その点については、アゴラ・ブログにおいて、郷原信郎弁護士の論考、「『吉本興業と芸人の取引』は下請法違反」が鋭い問題意識を提示している。

下請法には親事業者性についての形式要件がある。下請する側が1000万円以下の資本金又は個人の場合は、親事業者が資本金1000万円超であることがその適用対象となっている。吉本興業ホールディングス株式会社のウェブサイトを見ると、ホールディングスの資本金は1億円、子会社の吉本興業株式会社は資本金1000万円となっている。吉本興業株式会社自体が親事業者の場合は形式上、下請法の適用対象外だが、仮に下請法2条9項のいわゆる「トンネル会社規制」の対象となれば、下請法は適用される。仮に直接の発注者が資本金の形式要件を満たさなくても、当該発注がその発注者を支配する事業者からの再委託なのであれば、「再委託をする事業者は親事業者と、再委託を受ける事業者は下請事業者とみなす」とされている。吉本興業株式会社が敢えて資本金を1000万円ぴったりにしていることを考えれば、その辺のコンプライアンスを意識してそうしたのであろうという推測はできるが、実態は不明である。

立法論的にはこのトンネル規制の仕組み作りは甘かった、という指摘はあり得よう。持ち株会社形態の会社の場合、子会社はその実態として企業内の一部門のようなもので、それを分社化したものが多い。子会社が仕事を取れるのは、統括である持ち株会社への信用があるからである。つまり、完全子会社のような場合には下請法上親会社と子会社とを同視する「みなし」規定を作っておくべきだったという意見はあるだろう。まさに、「トンネル規制のトンネル」のようなものだ。

より強調しておきたいのは、下請法は独占禁止法の優越的地位濫用規制の補完的立法である、ということである。下請法の各規制は、優越的地位濫用規制違反の予防規制という性格を有する。「優越的地位」の認定等で一定の時間を要するなど、下請事業者の利益を保護する観点に立てば機動力が欠ける等の問題があることから、独占禁止法の違反事件処理手続とは別の簡易な手続が必要であるとの要請の下、1956年に独占禁止法の補完法として下請法が制定されている。下請法違反該当行為がそもそもの優越的地位濫用規制に抵触するならば、後者の適用を否定するものではない。下請法8条では、親事業者が公正取引委員会の勧告に従わない場合の独占禁止法に基づく排除措置命令や課徴金納付命令について明記されている。

ましてや資本金等の要件から下請法が適用されないケースにおいては、独占禁止法がダイレクトに適用されることになる。資本金云々の関係は「優越的地位」等の認定をスキップする意味を持つが、「優越的地位」等の認定が容易なのであれば独占禁止法の適用に当たって当局側のハードルは高くない。筆者も過去のブログで引用した公正取引委員会の「人材と競争政策に関する検討会」報告書公表の前後から今に至るまで、様々な場面で芸能事務所と所属タレントの関係が取り沙汰されており、公正取引委員会側も着々と準備を進めていることだろう。資本金が小さいかどうかはもはや無関係だ。立場の優越性というのは相対的なものであって資本金で決まるものでは必ずしもない。そもそも業務委託契約かどうかなどという形式論も関係ない。独占禁止法2条9項5号は、「その他取引の相手方に不利益となるように取引の条件を設定し、若しくは変更し、又は取引を実施すること」を射程としている。業界の慣行がそうなっているかは関係ない。それが公正な取引秩序に反するかが問題だ。

契約書も文書もない、そんなどんぶり感覚の中、タレントに不利な内容の契約を押し付けるようなことが仮にあるのであれば、それは下請法にとってもど真ん中の違反であると同時に、優越的地位濫用規制の格好のターゲットでもある。もし資本金1000万円だから大丈夫、という発想があったならば、そのコンプライアンス感覚は極めて危うい。親会社、子会社間で委託、再委託という関係があれば下請法の射程となる見込みが大きくなるが、そうでなかったからといって問題がないという訳には行かない。持ち株会社形態と少額資本金とをうまく組み合わせることで下請法の射程外としようという「意図」があるのであれば、公正な取引秩序に対するある種の挑戦といえ、その悪質性を独占禁止法は見逃さないだろう。資本金の形式を整えれば大丈夫という結論には決して至らないのである。下請法には確かに穴があるのかもしれないが、独占禁止法という「守護神」が後ろに控えていることを忘れてはならない。

公取委の「注意」について:黒か白か

前回のブログ記事(「公取委がジャニーズ事務所を注意 〜「圧力」とは何か?」)では、芸能分野にあるだろう独禁法違反のシナリオについての若干の考察と、そこには十分な証拠をもって明確な違反として捉え難い側面があるということを指摘した。その後、一連の報道やネット上の反応をみてみると、公取委の「注意」があったということは「圧力」があったのだ、という意見が多くみられることに気が付いた。一部には、「注意」にとどまったのだから「圧力」はなかったのだ、という意見も見受けられる。

「圧力」とは具体的に何なのかが分からない以上、独禁法の適用の可否も論じられないが、一つだけ分かっているのは、違反の可能性を疑って調査しただろう公取委が「注意」という結論に至ったことである。

公取委のウェブ・サイトに「よくある質問コーナー(独占禁止法)」というコーナーがあり、そのQ27で次のような回答がなされている。

Q27 排除措置命令ではどのようなことが命じられるのですか。 法的措置ではない警告や注意とはどのようなものですか。
A. 排除措置命令では、例えば、価格カルテルの場合には、価格引上げ等の決定の破棄とその周知、再発防止のための対策(例えば、独占禁止法遵守のための行動指針の作成、営業担当者に対する研修)などを命じます。
また、排除措置命令等の法的措置を採るに足る証拠が得られなかった場合であっても、違反するおそれがある行為があるときは、関係事業者等に対して「警告」を行い、その行為を取りやめること等を指示しています。
さらに、違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られないが、違反につながるおそれがある行為がみられたときには、未然防止を図る観点から「注意」を行っています。

排除措置命令が下された場合とは、公取委によって法的措置の前提として違反の認定がなされた場合である。警告がなされた場合とは、法的措置を採るに足る証拠が得られなかった場合であっても,違反するおそれがある行為が認められた場合である。そして注意は、違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られないけれども,違反につながるおそれは認められ、未然防止を図る観点からその必要性が認められた場合になされるものである。それすらなければ公取委は何もしない。

少なくとも公取委側の説明によるならば、注意がなされたということは、(1)排除措置命令、警告とは異なり、「違反」も「違反するおそれ」も認められない、(2)違反行為の存在を疑うに足る証拠もない(あればワンランク上の警告になろう)、ということを前提にものを考えなければならない。

公取委は何も疑いがないところに調査はしない。それはその通りである。ただ、調査の結果どうなったか。違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られなかったのである。つまり入り口である「違反行為の存在を疑うこと」それ自体の証拠がなかった、といっているのである。

冒頭の話に関連していうならば、「圧力」があったなかったと盛んに報じられているが、その「圧力なるもの」の証拠がなかったので公取委が「注意」に止めたのか、「圧力なるもの」の証拠を公取委が握っていても「注意」に止めたのか分からなければ話が先に進まない。後者ならば、その「圧力」とやらは「違反行為の存在を疑うこと」それ自体の証拠にもならなかったということになってしまう(それは一連の報道との整合性に疑義が生じる)。一部報道によれば、元メンバーの番組起用を妨げるような働きかけがあった場合は独禁法違反につながる恐れがある、といった認定のようで、とするならば、「圧力」それ自体の証拠はなかった、ということなのだろうか(前回のブログ記事で指摘したような「空気」「局側の忖度」ということだったのか)。

ジャニーズ事務所は一連の報道を受けて次の通りコメントしている(「2019年7月17日報道に関するご報告」)。

弊社がテレビ局に圧力などをかけた事実はなく、公正取引委員会からも独占禁止法違反行為があったとして行政処分や警告を受けたものでもありません。とはいえ、このような当局からの調査を受けたことは重く受け止め、今後は誤解を受けないように留意したいと思います。

繰り返すが、公取委が報道されているような「圧力」を認定しなかったのか、認定した上で「注意」に止めたのか分からない(どうやら前者のようだが)。また、そこでいう「圧力」の中身がはっきりしない以上、「した」、「しない」は「自分の定義」で論じることになり、ほぼ意味のない話になる。ただ、「圧力=独禁法違反行為の存在を疑わせるかそれ以上の行為」を前提にするならば、上記のコメントと公取委の判断は整合的ということになる。ただ、コンプライアンスのあり方として以上のような文章での対応が妥当だったかについては色々な意見があるだろう。「違反につながるおそれ」が指摘されたのならば、「そういった指摘を真摯に受け止めて」「公正な競争秩序を乱さぬようしっかりとコンプライアンス対応を図っていく」程度の表現があってもよかったのではないだろうか。

公取委に注意されたジャニーズ事務所

ジャニーズ事務所が公取委に注意された。ジャニーズ事務所から独立した元SMAPの3名を出演させないよう、テレビ局に対し圧力をかけたという。注意なので違反が認められ、処分された訳ではない。違反の恐れが認められた場合の警告が発せられたのでもない。あくまでも違反につながる恐れに止まるものである。しかし大ニュースとなったジャニー喜多川氏の死去の直後ということもあって、この情報にメディア各局が挙って飛びついた。

注意の場合は公取委はプレスリリースはしない。非公式な対応だ。報道では「関係者が明らかにした」とあるが、元SMAPの3名に近い者によるリークだろうか、あるいは事務所内部から出た情報か。

独占禁止法には芸能事務所によるメディアへの圧力を違反にする規定が多くある。不公正な取引方法の禁止(19条)は、違反行為が細かく類型化されており、例えば、「取引拒絶」「抱き合わせ」「拘束条件付き取引」「優越的地位濫用」「取引妨害」などが適用の候補となるだろう(筆者は、過去の論考(「存在感を増す独禁法の優越的地位濫用規制:芸能人からGAFAまで」)で「芸能界への優越的地位濫用規定の適用」について触れたので参照いただきたい)。

芸能事務所とメディアの関係は、メーカーと流通業者の関係に置き換えることができる。メーカーからすれば、自社の製品を他社の製品よりも優遇して扱ってもらいたい。流通業者が自社製品を欲しがれば欲しがるほど自社に有利な条件、競争他社に不利な条件での取引を行おうとするだろう。芸能の場合、自分のところで抱えているアイドルグループと競合するタレントを番組から排除する、同じ事務所の複数のグループをセットで出演させることで番組の「枠」を埋めてしまうといったやり方が考えられる。

この元SMAPの3人組の場合はどうなのだろうか。もちろん元SMAPのメンバーは、ジャニーズ事務所にとって少なからぬ脅威となる競争相手ではある。彼らをテレビ番組に出演させないことで、競争に悪影響を与える形で自らの支配的地位を維持しようとした、という説明もなくはない。ただ、排除されそうになった相手の範囲があまりにも「限定的」過ぎる。不公正な取引方法の効果に係る要件である「公正な競争を阻害するおそれ」を認定するには競争への影響が足りないようにも見える。問題となる市場も狭く、独占禁止法の射程としては小さすぎる。

どちらかというとこのケースは、独立したメンバーに対するサンクションとして理解する方がしっくりくる。独立したタレントが売れてしまうと独立の連鎖を止めることができない。だから独立したタレントの出演を阻止しようとした、そんな話なのかもしれない。この場合、独占禁止法上は「取引妨害規制」の適用が考えられる。この場合の「公正な競争を阻害するおそれ」は、「やり方がひどい」という手段の不公正さで説明されることがある。

何故、公取委の対応が「注意」にとどまったのであろうか。産経新聞の2019年7月17日付記事に考えるヒントがある。

ある民放の関係者は「全く現場レベルにはそのような話は伝わっておらず、びっくりした。確かに『新しい地図』の3人の出演はSMAP時代に比べれば減ってはいたが…」と驚く。

 

 別の関係者は、「民放各局ともに、3人を起用する番組はそれぞれにあったと思うし、全く3人を起用しないということでもなかった」と同調する。

 さらに別の関係者は「少なくともそんな指示があったなどという話は聞いたことがないが、ジャニーズ事務所に対し、いわゆる“忖度(そんたく)”のようなものが働いていたといわれれば、3人の出演が減っていることなどを考えると、それは否定できないのかもしれない」と指摘した。

このケースは、事務所から明らかな妨害の指示があったのではなく、元SMAPのメンバーを使いづらい、そんな空気があったケースだったのかもしれない。空気なので、はっきりと誰がどのように指示したかは明確ではない。ジャニーズ事務所ぐらいの超大手になればコンプライアンスにも敏感だろうから、法令違反の言質を取られるような真似はしないだろう。そのような空気の醸成に事務所が関与したとしても、公取委は明確な証拠をもって違反を認定するのには躊躇するだろう。違反の疑いありともいえず、せいぜい違反につながる恐れあり、ということになるのはうなずける。

さらに問題なのは、メディア側が「忖度」したという場合である。メディア側がジャニーズ事務所に忖度するのは、事務所との良好な関係を築きたい、維持したいからである。そうであればそれは何が問題なのか。そうするように圧力をかけたのであればそれは忖度ではなく、圧力である。最後の関係者の発言は明確な指示に基づく圧力の結果ではなく、ジャニーズ事務所がこれまで築いてきた地位による「存在という圧力」の結果であることをいわんとしている。しかし、それをもって「違反」とされてしまったらたまったものではない。公取委は、もしこの状態で明確な指示があれば違反の疑いが生じ、あるいは違反が認定されますよ、ということを「注意」しただけかもしれない。そうであれば、その時点ではジャニーズ事務所の対応は「白」ということになる。ジャニーズ事務所が、この問題について抑制的な動きをしているというのであれば、それは批判すべきことではなく、評価されるべきことなのかもしれない。

しかし報道では「圧力」とある。

公取委が調べるだけ調べて出てきた結果が、「違反を認定し処分した」のではなく「注意に止まった」ことに興味が湧く。圧力をかけたといっても、具体的に何をしたというのだろうか。そしてそれは何故、注意に止まったのだろうか。

独占禁止法と入札談合:「競争の体裁」は不幸を生む

前回の論考は談合罪に関するものだったが、今回は独占禁止法を取り上げる。1941年の刑法改正で創設された談合罪に対し、独占禁止法は戦後の1947年の制定である。高校の日本史教科書にも載っているように、独占禁止法はGHQの経済民主化政策の一環として導入されたもので、財閥解体などとセットで語られてきた。

独占禁止法はその名の通り市場における企業の独占化を問題視するものであるが、よく知られる違反はカルテルや入札談合といった、業者間でなされる競争をしないことの合意である。競争制限の合意は独占と同じような弊害を市場に生み出す。それも単なる独占であればそれ自体競争の結果(効率性の反映)である可能性もあるが、業者間の合意にはそれがない。

それを禁止するのが「不当な取引制限」規制である。独占禁止法3条は「事業者は、私的独占又は不当な取引制限をしてはならない。」と定め、その定義規定である2条6項は以下の通り定める。

この法律において「不当な取引制限」とは、事業者が、契約、協定その他何らの名義をもつてするかを問わず、他の事業者と共同して対価を決定し、維持し、若しくは引き上げ、又は数量、技術、製品、設備若しくは取引の相手方を制限する等相互にその事業活動を拘束し、又は遂行することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。

この規定の射程に入札談合が含まれることは容易に理解できよう。母法である米国反トラスト法も同様の取り扱いをしているので、日本の独占禁止法が入札談合をその射程とすることは当然視された。これにより入札談合に対する法的規律は刑法の談合罪と独占禁止法の「二重規制」の形をとることになった。

ではどうやって両者は棲み分けているのか。上記の条文から分かる通り、独占禁止法には「一定の取引分野」という要件がある。この「分野」という言葉から、独占禁止法は単発の入札における談合は射程としないものだと理解され(もちろんそうでないとも理解できる)、単発の談合は談合罪、連続する(複数の)それについては独占禁止法というだいたいの実務が定着している。談合罪には対象となる入札の回数の制限をかける文言はないので、論理上、複数回の談合に対し談合罪の適用が妨げられるものでは決してない。

複数回にわたる受注調整を扱う独占禁止法では事業者に対する行政処分が中心であり刑事制裁は例外的な扱いであることから、談合罪との不均衡の問題は無視できない。法人処罰の有無等、両者を単純に比較することもできない。(敗戦を挟んだ)「接木的」な立法の整理が戦後三四半世紀経ってもできていないのが現状である。

独占禁止法においては、違反事実は「基本合意」と「個別調整」とに分けて認定されることが多い(一緒にまとめてなされることもある)。複数回にわたる受注調整の場合、各々が独立して(相互に切り離されて)なされることは珍しく、大抵の場合、事前に全体に係る基本的な合意がなされて、その後にその基本的な合意に従って、個別案件において受注の調整がなされる。例えば、公共工事であれば、現場に近い業者が落札するとか、工事の規模に応じて応札する業者を分けるとか、落札の順番を決めるとか、そういった取り決めを事前にしておくことが多い(曖昧な形での合意も少なくない)。

戦後の経済民主化政策の目玉として華々しくデビューした独占禁止法ではあるが、制定後数年経ったあたりからその存在感が薄れ、1960年前後にはほとんど適用されない年もあった。それは朝鮮戦争あたりから経済復興を競争ではなく国家主導の計画あるいは業者間の協調によって実現しようという考え方が支配的になったからである。カルテルを合法化する立法が相次ぎ、あるいは行政指導によって業者間の競争は骨抜きにされ、独占禁止法のプレゼンスは著しく低下した。独占禁止法は戦後復興と高度成長時代の主役ではなかった。いまでも独占禁止法にアレルギーを持つ人々の思想は、こうした昭和の記憶に支えられている。

入札談合も同様である。日本は「談合天国」などと揶揄されるが、昭和の中頃、談合は「必要悪」などといわれ、世の中をうまくやりくりするための「大人の知恵」と考えられた。調達対象の内容とは無関係に、例外なく価格だけで競争させる入札を実施し続けた。その一方、法令上の原則である一般競争入札ではなく、例外的な指名競争入札を多用し、談合の常態化を招いた。それでも確実な調達が可能になるという前提で、この状況を受け入れ続けてきた。業者側には不透明な金銭のプールが生まれ、これがトラブル解決の潤滑油にもなったが、政治家が巣食う利権にもなった。「天の声」が政治家やその秘書筋から発せられてきたのは、競争的な仕組みの体裁を繕いつつ、その実、非競争的な実態を見直さず、指名に係る発注者の裁量を多く残したからである。旧来的な政官財の相互利用の構造を支えてきたのが、公共調達の分野であった。公共工事はその象徴的な例である。

時代は変わった。1990年代のゼネコン汚職事件はその大きな転換点だった。その前の日米構造協議を受けた独占禁止法の強化とゼネコン汚職事件後急速に進む入札改革は、談合的な業界構造の変化を迫った。2005年の大手ゼネコンによる「談合決別宣言」は、それまでに定着してきた談合を含む「旧来のしきたり」の存在を認め、それからの脱却を誓うものだった。その後も、談合事件が生じる度に「旧態依然とした」と批判され続けて今に至る。独占禁止法も数次にわたり改正され、その強化が図られてきた。指名競争入札や随意契約は法令の規定通りに例外的なものとなり、一般競争入札が当たり前になった。一方で、2005年の公共工事品質確保法の影響で公共工事については総合評価方式が原則的な方式と位置付けられることで、発注者にとって現実的な対応が可能となった。

これまで独占禁止法は「適用しない」ことで、上記の「大人の事情」に対応してきた。しかし、平成に入った頃から公正取引委員会は容赦無く入札談合にメスを入れてきたし、今後もそうするだろう。独占禁止法には「公共の利益」というエクスキューズが用意されているが、独占禁止法の適用に当たっては実際上、通用しない。それは何故か。

それは発注者が競争入札を採用している以上、その競争の手続きに反する行為は発注者の利益に反するものだという理解があるからだ。そもそも発注者自身、自ら採用した競争入札の効用を否定する訳がなく、入札談合がなされたならばほぼ確実に、徹底して「被害者」として振る舞うであろう。非を認めれば責任が自分にくるからだ(もちろんそうでないレアなケースの存在は否定しない)。「競争の体裁」がある以上、競争しない業者は疑われる。そうであれば公正取引委員会も裁判所もそのような前提で考えるだろう。発注者が競争の体裁を作った以上、その体裁に反する行為は独占禁止法の網にかかる。かつてのように独占禁止法が「大人の事情」を考慮することは期待できない。

考えるための格好の素材が、リニア談合事件である。一年に一件あるかないかの独占禁止法の刑事事件だ。リニア工事は民間工事であるが官公需の性格を持ち合わせてもおり、公共発注に通じるものがある。事件の真相は裁判の過程で明らかになるだろうが、その断片はすでに雑誌等で報じられている。例えば『東洋経済』の記事、「混迷「リニア談合」、JR東海に責任はないのか:ゼネコン4社が起訴されたが、どこかちぐはぐ」では次のように述べられている(「同社」とはJR東海を指す)。

都心の大深部や南アルプスを掘削するリニアは難工事とされ、同社もそれを察してか、事前に地質調査やトンネル掘削の研究開発をゼネコンに依頼していた。

難工事の連続、かつ時間的制約が厳しいというのであれば、競争よりも計画あるいは協調の方がうまく行くかもしれない。協調的関係がなかったとしても業者側にとって得意分野を選択し、そこに資源を集中させる方が効率的であり、そのような棲み分けが競争制限の基本合意なしに形成されることも十分あり得る。そのような事情があり、それを発注者が理解しているのであれば、公共調達でいう特命随意契約を各社と結べば足りるものだったのではないか、という疑問が残る。少しでも安くしたいというプレッシャーがJR東海側に強くかかったのか。あるいはWTO政府調達協定の対象であった時代の感覚がどこかにあったのか。財務部門と技術部門の連携は十分に図られていたか。もし非競争的な状況のきっかけを作ったのが発注者であるJR東海だというならば、この事件は果たして刑事事件になるようなものだったのか。

公正取引委員会委員長の発言が上記『東洋経済』誌で紹介されている。

 (各社の技術力や手繰りなど)事前に工事を割り振らざるを得ない事情があったとしても、価格競争をルールに設けた以上、受注者同士で価格を話し合うのは独禁法違反だ。初めから(特定のゼネコンと直接契約を結ぶ)随意契約なら問題はなかった。

随意契約だったらよかった。公正取引委員会の本音が垣間見られる。何故、大成と鹿島は否認しているのか。事件の本質はその理由が何なのかに見出されよう。独占禁止法が今、試されている。

一連の競争入札改革は一般競争入札の徹底を発注者に求め、発注者は競争という体裁を繕うことに躍起になった。競争を信頼していない発注者が競争の体裁を繕うだけで、旧来的なやり方での業者側の柔軟な対応を期待するのであれば、業者側は独占禁止法違反という大きなリスクを負うことになってしまう。市場原理に基づく自然な棲み分けであっても、独占禁止法はあれこれ理由を探して牙をむくかもしれない。一方、業者側がコンプライアンスに拘れば(それは過剰反応の場合もある)、リスクは発注者側に移ることになる。「談合決別宣言」の少し後に、建設業界のトップに宣言後の公共工事の展望について話を聞いたことがある。「これからは困るのは私たちではなく発注者だよ。」と答えてくれたことを今でも鮮明に覚えている。

談合をめぐる環境変化と談合罪の再確認

令和元年の現在、「良い談合」「悪い談合」が堂々と議論されていた昭和の時代は遠い過去のものとなり、「必要悪」といわれていた入札談合を擁護する主張はほぼ皆無となった。平成に入り、いわゆる「ゼネコン汚職」をきっかけに急速に進められた競争入札改革や、日米構造協議を受けた独占禁止法強化の流れの中で、入札談合の余地は狭められていった。その決定打となったのは、2005年に大手ゼネコンが共同で行った「談合決別宣言」であった。独占禁止法の制裁は数次にわたり強化され、指名停止期間も拡大、談合発覚時の違約金特約も契約金額の20%程度が当たり前になった。入札談合に対するメディアの取り上げ方も大きくなり、その批判も強烈なものとなった。

競争入札は、競争という手続きを用いることによって、最適な契約者と契約条件とを発見することを可能にする仕組みである。価格面でいうならば、競争入札は競争価格を実現してくれることにその効用がある。禁止される入札談合とは受注調整なので受注調整に至らない「話し合い」は本来射程外だが、入札談合に対する激しい攻撃に晒された企業は「少しでも疑われる」ことに過剰に反応するようになった。その典型例が、リニア談合事件における大林組の対応である。大林組は事件の摘発を受けて、大学の同窓会なども含めて他のゼネコンが出席する会合や飲み会に役員や社員が参加するのを原則禁止する、というコンプライアンス対策を発表した(日経XTECH記事「なめてませんか?コンプライアンス:ささいなルール破りが倒産や懲戒処分に」参照)。ライバル社と競争制限につながる情報交換がなされるのを防ごうという狙いだが、過剰反応だという批判が相次いだ。

そのような過剰反応の背景には、入札談合の犯罪としての要件について少なくない誤解があるのかもしれない。ある業者が他の業者に応札の意欲があるかどうかを聞いただけで刑法の談合罪が成立するかのように考えている捜査当局の職員がいるとも聞く。疑いのきっかけになる事実と犯罪を構成する事実とを混同しているとしかいいようがないが、当局でさえそうなのだから、一般にはもっと誤解されているかもしれない。

以下では、談合罪に係る基本事項、具体的には「条文」「『談合』の意味」「『公正な価格』の意味」について触れることとしよう。一週間ほど前に筆者は官製談合防止法違反の罪についても解説したところであり(「官製談合防止法のリアル:“金星”目当ての捜査の危険性」参照)、こちらも併せて参照いただきたい。独占禁止法については、日を改めて別稿で論じることとする。

 

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条文

刑法96条の6第1項(公契約関係競売等妨害罪)は「偽計又は威力を用いて、公の競売又は入札で契約を締結するためのものの公正を害すべき行為をした者は、3年以下の懲役若しくは250万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」と定め、同第2項(談合罪)は「公正な価格を害し又は不正な利益を得る目的で、談合した者も、前項と同様とする。」と定める。談合罪は昭和16年の刑法改正において創設された。

 

「談合」とは

「談合」とは辞書的にいえば「談じ合うこと」あるいは「話し意を合わせること」である。談合罪には「何についての談合か」は明記されていないが、前項の公契約関係競売等妨害罪を受けてのものなので、入札(あるいは競売)における談合(以下「入札談合」のことを意味するのは明らかである。入札談合とは、入札において応札者等が通謀して、特定の者を契約者にさせるべく各々の応札行動を決めるように協定することを意味する。最低価格自動落札方式の場合、しばしば「チャンピオン」と呼ばれる受注予定者を受注者とするため他の談合業者はチャンピオンの応札価格よりも高い価格を入れる、あるいは他の業者が応募しない、応札しない形で実現される。一言でいえば「受注調整」である。

昭和16年の刑法改正の当時、政府は「談合」を「入札者又ハ競売ノ申込者ガ互ヒニ通謀ノ上或ル特定人ヲシテ、契約締結者タラシムル為メ、他ノ者ハ一定ノ価格以下又ハ以上ニテハ、入札又ハ付値ヲナサザルベキコト協定スル行為ヲ云フ」(*1)と説明しており、制定後に形成された裁判例においても「公の競売又は入札において・・・競争者が通謀して或る特定の者をして契約者たらしめるため他の者は一定の価格以下又は以上に入札しないことを協定する」(*2)ことを指すものとされた(*3)。

なお談合罪の成立のためには応札可能業者(あるいは被指名業者)全員が当該協定に参加することまでは要しないが、競争入札の手続に影響を与えないくらいに少数の者による協定、あるいは他に十分に対抗し得る業者が存在し、そもそもの実効性に欠けるならば、談合罪の成立が否定されることになる。

 

「公正な価格」:立法者意思と判例

談合罪の構成要件である「公正な価格を害し又は不正な利益を得る目的」をどう理解するかについてはその保護法益論に関連して従来から見解が分かれてきた。ここでは「公正な価格」に絞って考察する。

「談合(すること)」(=競争を制限することを合意すること)と「公正な価格」とが並列しているので、何らかの制限があったとしても「公正な価格」の阻害に向けられたものでなければ犯罪が成立しない、と考えるのが自然な見方である。昭和16年に談合罪が刑法典に盛り込まれた際の、立法者意思はまさにそのようなものであった。

帝国議会衆議院における牧野良三議員の「適正価格ト云フモノハ、二、三年前マデハ大変不明瞭ナモノノヤウニナツテ居リマシタガ、 昨年以来統制経済ニナリマシテカラ、適正価格ト云フコトハ大変明瞭ナ観念ニナツタ」(*4)という発言からもわかる通り、当時の統制経済下では、公定価格等を前提として予定価格が定められている故に「適正価格」も一定範囲に収まることが当然の前提となり、それを破る目的でなされる談合にこそ可罰性がある、という理解になる。つまり、そこでは「公正な価格」と競争的な価格とは必ずしも一致する訳ではなかったのである。

「公正な価格」の理解について最高裁判例は「競争価格説」に立っているといわれている(*5)。すなわち「公正な価格」とは「当該入札において、公正な自由競争によつて形成せられたであろう落札価格」のことであり、競争制限によって競争によって本来形成されただろう価格が引き上げられた以上、それはすなわち「公正な価格」を害することになるのである。そのような理解は戦後になって導かれたものである。

これに対抗する適正利潤説、すなわち「当該工事等に関し、実費に適正な利潤を上積みした価格」とする考えは、下級審判決(*6)でしばしば見られてきたものであり、昭和時代の警察、検察実務のスタンダードとして理解されてきたものだった「競争価格説」では不良工事の回避といった公共調達の要請に合わないことから、最高裁判決とは異なる下級審判決が出て、それが確定するといった事態が生じるに至った経緯がある(*7)。

 

競争的価格と「公正な価格」の距離

確かに戦後、統制経済は解かれ自由競争を中心とする体制に移行したので、戦前の議論がそのまま現在に通用する訳ではない。しかし会計法令上、「予定価格は、契約の目的となる物件又は役務について、取引の実例価格、需給の状況、履行の難易、数量の多寡、履行期間の長短等を考慮して適正に定めなければならない。」(予算決算及び会計令80条1項)という規定の下、各発注機関に共有されているその時々にスタンダードとされている積算単価を根拠に予定価格が定められているのであり、予定価格を暫定的な適正価格として位置付け、どこまでの乖離を「公正な価格」とするのか、という課題は残されたままなのである。とりわけ公共工事においては、総合評価方式を原則化する理念法として平成17年に制定された公共工事品質確保法は平成26年の改正で、「公共工事を施工する者が、公共工事の品質確保の担い手が中長期的に育成され及び確保されるための適正な利潤を確保することができるよう、適切に作成された仕様書及び設計書に基づき、経済社会情勢の変化を勘案し、市場における労務及び資材等の取引価格、施工の実態等を的確に反映した積算を行うことにより、予定価格を適正に定めること。」(7条1号)と定めるなど、公共工事おける価格の適切さの理解については、従来の考えとは相当異なる環境となっていることは見逃せない。また、価格競争といってもそれが過剰になれば独占禁止法の不当廉売規制に抵触する恐れが生じることになるのであるから、競争的価格=(法的に見て)公正な価格であるという単純な図式は成り立たない。刑法96条の6第2項の規定が、現在でも「談合」と「公正な価格」とを並列させている以上、競争的価格では言い尽くせない「公正な価格の侵害」とは何か、という論点は存在し続けるのである(*8)。

 

施行者にとって利益になる場合

ここで注目しなければならないのは、昭和40年9月28日の東京高裁判決である(*9)。談合罪における「公正なる価格」が問題になった事案において東京高裁は以下のように判示している(同判決はその後、上告受理申立がなされたが棄却決定されている)。

 

果して然らば、公正なる価格を害する目的をもつてする談合罪とは、公正にして自由な競争入札が担保されている限り、その結果として形成された落札価格はこれを適正な価格と認めるべきであり、この価格を入札施行者の不利益に変更することを目的としながらなされた談合であると解釈すべきものであるといわなければならない。

 

同判決は、裏を返せば、入札施行者の「利益」になるような変更は「公正なる価格」の侵害にはならないことを述べている。例えば、公共工事において現場条件等が不利である等の事情から予定価格では割りが合わないと思われるケースでは通常入札不調が予想されるが、「地域のために」と地元業者が話し合ってどこかが責任をもって(赤字)受注するような場面があったとする(そのような話は決して稀有なものではない)。この場合、競争的な価格は予定価格超のそれとなるが、話し合いの結果は予定価格以下となる。そのような行為は上記の「公正な価格」についての判例の理解(「競争価格説」)に立ったとしても、これを害することにはならないことになる。そういった趣旨の話し合いには「公正な価格を害する目的」は認められない、というのが過去の判例から導かれる結論なのである。

 

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以上、談合罪に係る基本的事項を確認してきた。競争入札に際して応札業者同士で何かを話し合えば、それで即、談合罪が成立するというものではないということは、ここからも容易に分かるだろう。競争入札が所期の効果を達成する、すなわち複数の受注希望者が現れてそれらが競い合う結果、競争的な価格が競争入札において実現され、それが発注機関の利益、延いては納税者の利益に叶うという認識が、談合罪の基礎にある。それは言い換えれば、競争入札が機能する前提を欠くような場合、調達を確実ならしめるために業者間で話し合うことは談合罪の射程外であることを意味する。何故ならばそれは落札価格を発注機関にとって不利益に変更するものではないので「公正な価格を害する」ことにならないからである。発注機関の怠慢あるいはミスを業者側が話し合ってフォローする実務を筆者は数多く見聞きしてきた。無謬性の体裁に拘る行政はこのような実態を認めようとしないだろうが、この現実に正面から向き合うことができなければ、公共調達実務の真の改革は望めない。談合罪の法実務は、そのための有益な材料を与えてくれるだろう。それだけに公共調達の制度と実務に詳しい法曹の養成が求められるのである。

 

*1 第76回帝国議会・衆議院借地法中改正法律案他一件委員会議事録(速記) 第4回(昭和16年2月24日)25 頁。

*2 最高裁昭和28年12月10日判決刑集7巻12号2418頁。

*3 他の者に受注意欲のないことを前提に受注予定者自らのみが予定価格を割り込む形で(魅力のない工事を請け負う)コンセンサスを取り付ける行為が「談合」になるかどうか、それ自体が重要な論点となる。

*4 第76回帝国議会・衆議院借地法中改正法律案他一件委員会議事録(速記)第4回(昭和16年2月24日)21頁。

*5 最高裁昭和28年12月10日決定刑集7巻12号2418頁、最判昭32年1月22日刑集11巻1号435頁等。

*6 東京高裁昭32年5月24日判決高刑集10巻4号361頁等。

*7 いわゆる「大津判決」(大津地裁昭和43年8月27日判決下刑集10巻8号866頁)である。

*8 次注の高裁判決でも、市場独占の目的での採算無視の入札の存在に触れながら、「いわゆるダンピング価格・・・も公正にして自由な競争入札によって得られた落札価格であるか否かに疑問があるから、公正な価格といい得るか否かは疑わしい」と述べている。

*9 東京高裁昭和40年9月28日判決高裁判決時報(刑事)16巻9・10号192頁。

 

楠茂樹 上智大学法学部国際関係法学科・法科大学院教授

京都大学博士(法学)。京都大学大学院法学研究科・法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て現職。専門は公共調達制度、独占禁止法、経済刑法等。主著として、『公共調達と競争政策の法的構造(第2版)』上智大学出版/ぎょうせい(2017)。近著として、「談合、入札不正への官側の関与と刑法(特集 刑法と独占禁止法)」公正取引777号12頁以下(2015)、「最近における入札談合事件をめぐって(特集 最近における入札談合事件をめぐって)」公正取809号 2頁以下(2018)等。これまでに、国土交通大学校講師、総務省参与、東京都入札監視委員会委員長、京都府参与、奈良市入札制度等改革検討委員会委員長、京都府入札制度等評価検討委員会委員長、総務省行政事業レビュー推進チーム(外部有識者)構成員、内閣官房行政改革推進会議歳出改革WG構成員(法務省担当)、国土交通省関東地方整備局入札監視委員会委員長、財務省会計制度研究会委員、文部科学省・物品役務契約監視委員会委員等を歴任。

 

官製談合防止法のリアル

「日本は談合天国だ」などといわれて久しいが、最近は業者間でなされる通常の入札談合よりも、発注者が関与する「官製談合」の報道の方が目立っているような感がある。

贈収賄事件に発展した大阪市発注の電気工事をめぐる官製入札不正事件は、報道によれば、市の建設局の契約担当者が最低制限価格に関する非公開の情報を業者に漏洩し、当該業者がそれを自ら用い、最低制限価格付近で落札し、あるいは一部の契約ではその情報をある業者にさらに伝達し落札させ、自らは下請けに入ったという。大阪市では、過去に競争入札におけるこの下限価格、すなわちその額を下回った応札を失格にする最低制限価格の漏洩が問題になり、再発防止策を講じていた中での再発である。入札で情報漏洩の疑いが指摘されていたにも拘らず、違反を確認しなかった市の対応が批判され、吉村洋文市長(当時)は、新たな監視機関を設置するなど対応に追われた。

長岡市発注の下水道工事をめぐる情報漏洩事件でも市の上級幹部が立件された。この幹部は事件の再発防止を検討する市の委員会の委員を務めていたとのことである。政治家との癒着も取り沙汰されたこの事件は、公共工事をめぐる不正への官側の関与の相変わらずの根深さを改めて国民に知らしめるものとなった。

いずれも適用されたのは「入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律」という長い名前の法律であり、一般に「官製談合防止法」と呼ばれている。

一つ注意を要するのが、上記のケースのように官製談合防止法の適用の多くは、独占禁止法や刑法の談合罪が対象とする、私たちが一般に「談合」として理解する業者間の競争制限に発注者側職員が関与(協力)したケースではなく、発注者側職員が特定の業者を有利にするために情報漏洩を行うような「非談合型の入札不正」だということである(大阪のケースはそれらのミックスのようにも読める)。官民間の癒着も広い意味では「談合」なので「官製談合」という言葉を用いることは不自然ではないが、正式名称に絡めていえば「入札談合等関与行為」以外の「職員による入札等の公正を害すべき行為」なのである。

官製談合防止法違反の罪(8条)は刑法でいう(威力、偽計による)公契約関係競売入札妨害罪(96条の6第1項)と談合罪(同2項)の(公共調達の発注者という)身分犯的な加重類型であると一般に理解されている。官製談合防止法に刑事罰が盛り込まれるまでは、官側の入札不正の関与であっても、刑法典のこれらの規定が適用されてきた(例外的に独占禁止法違反の罪が適用されたこともある。旧道路公団の最高幹部が摘発された橋梁談合事件がその例である)。

官製談合防止法と刑法、独占禁止法の間にはやや複雑な関係があり、ここでは割愛する(拙著『公共調達と競争政策の法的構造』上智大学出版(2017年)の該当箇所を参照してもらいたい)が、次の点は押さえておきたい。それは官製談合防止法違反の罪の要件が「入札等の公正を害すべき行為」と、極めて「幅のある」ものになっているということである。これはその基礎となった刑法における公契約関係競売入札妨害罪が「公の・・・入札で契約を締結するためのものの公正を害すべき行為」と規定していることに対応する。ここでいう「公正」をどのように捉えるかについては、そもそもこの罪が何を保護されるべき法益と考えているかに拠り、(公正な)公務と理解するか、(公正な)競争と捉えるか(あるいはそれ以外か)、諸説あるが、いずれの理解に拠ったとしても、その内容は曖昧である(論者毎の主観に依存しやすい)ことにはかわりはない。

都道府県警や検察が入札不正に官製談合防止法を適用するとき、大抵の場合、その先にある「贈収賄」をターゲットにする。この曖昧さと射程の広さを有する官製談合防止法はその「入口」として使い勝手のよいツールとなっている。確かに業者側には利益獲得という入札不正をするインセンティブはある。一方、世間的にみれば発注者側職員の入札不正に関わるインセンティブは「業者からの見返り」にある、というのはわかりやすい発想だ。

贈収賄事件に発展しなくても、入札不正事件として発注者側には官製談合防止法を適用し、業者側には刑法の公契約関係競売入札妨害罪を適用できるのであれば、事件は完結させられる。数年前まで、官製談合防止法が適用された刑事事件のうち収賄が絡まなかったケースのほとんどが略式命令で比較的小額の罰金刑として処理されてきたのは、司法のこの分野における態度をよく表しているといえよう。入札不正それ自体は軽くみられてきた、といわれても否定はできまい(最初から略式で終わるようなケースだと分かっていたならば躍起になって捜査するだろうか)。状況は変化し、最近では贈収賄が伴わない入札不正事件でも多くの場合、(執行猶予付きではあるが)懲役刑が科されている。入札不正は言い換えれば公金支出に係る不正行為なのであるから、その態様次第で厳罰となるのは当然といえば当然である。

しかしながら、警察、検察が尚も入札不正を贈収賄の入口にしか考えず、身柄拘束のきっかけ程度にしか考えていなかったとしたらどうだろうか。贈収賄事件の立件という「金星」の獲得に躍起になって、あれもこれも「入札等の公正を害すべき行為」に詰め込んでしまうという危険はないのだろうか。例えば、公告前に何らかの情報のやりとりが特定の業者となされていた、とする。既存の契約業者に対して次年度の発注に関連したヒアリングを行うのはよくある話であるが、それが情報の漏洩だといわれることはないのか。地域や経験等入札参加資格が厳しめに設定されることは、公共工事などでは通常だが、それによって特定の業者を排除した、といわれることはないのか。技術仕様をどのレベルで設定するかは調達目的の合理的実現の観点から決められるものであるが、それが特定の業者を有利にした、といわれることはないのか。重要なのはそういった競争に対する一定の制約が合目的的に適正に行われているかどうかなのであるが、そんなことはお構いなしに、事実の一部を切りとって評価し、「公正を害する」と一方的に決め付けてしまうことはないのか。独占禁止法の優越的地位濫用規制について論じたこと(「存在感を増す独禁法の優越的地位濫用規制:芸能人からGAFAまで」)でもあるが、「競争の公正さ」を規律するということは難しく、「市場の番犬」は「役立たず」にも「狂犬」にもなり得るのである。それは当局が公正取引委員会から警察、検察に交代しても同じだろう。むしろ「金星」獲得に躍起になっている警察、検察は、公正取引委員会とは比較にならないほどの「モンスター」になってしまうかもしれない。

競争入札が用いられる場合には、当然その競争性の確保が求められるのはいうまでもない。しかし受注希望者間の平等の取り扱いに拘るあまり、調達目的に支障を来してしまったら元も子もない。競争条件に係る一定の制約を競争入札の仕組みの中に盛り込むことは、それが公金支出の目的に資する限りにおいては正当なものであり、(会計法や地方自治法といった)法令も許容するものである。しかし、官製談合防止法はそういった正当な行為を萎縮させる危険を孕んでいる。

重要なのは、「公正を害する」という曖昧な要件に、この法律を運用する側がどう向き合うかである。当局側に正当な行為と不当な行為をきちんと見分けるスキルがあればよいのであるが、そのためには入札契約の法実務、行政実務に長けていなければならない。そういった専門性を有する人材は捜査当局に多くないし、裁判官にも弁護士にも多くない。

「金星」目当ての「見込み違い」の捜査の危険は十分にある。「見込み違い」であっても簡単には「引っ込みが付かない」のが刑事司法というものだ。引っ込みが付かなくなったとき、当局が放つエネルギーには凄まじいものがある。公共調達の分野にとって本当に不幸なことである。ただ、正当な行為を装って不正に手を染めるケースは確実に存在する。重要なのは「見極める」スキルである。公共調達に強い法曹が求められている。

スポーツ選手の移籍制限と独占禁止法

公正取引委員会は6月17日、「スポーツ事業分野における移籍制限ルールに関する独占禁止法上の考え方」を公表した(以下、「考え方」とする。なお本論考にける引用箇所はすべて「考え方」からのものである)。これは公正取引委員会開催の「人材と競争政策に関する検討会」の報告書(2018年2月15日公表)が人材の獲得をめぐる競争への独占禁止法の適用を示唆したことを受けて、その応用編として公正取引委員会がとりまとめたものである。同報告書の公表後、「独占禁止法上問題となり得る具体的行為や慣行が存在するかどうかについて実態把握」を行う中で「スポーツ事業分野では、スポーツ統括団体が移籍制限ルールを定めている事例があることが認められた」という。

この報告書は、人材としての芸能人(の活動に制限を課す芸能事務所や関連団体)への適用が示唆されたことで話題となったが、もう一つの注目の的はスポーツ選手とスポーツ界である。

独占禁止法の違反主体は主として事業者(あるいは事業者団体)であり、スポーツ事業分野における各チームやスポーツ統括団体はこれらに当たり得る。ではその活動が制限される選手側の属性に独占禁止法上の限定はあるか。不当な取引制限規制のように特に限定しないもの(複数事業者の合意に基づく競争制限)、取引拒絶規制のように「事業者」とする場合、(「考え方」の射程ではないだろうが)優越的地位濫用規制のように「継続して取引する相手方」(あるいは「取引の相手方」)とする場合、そして拘束条件付取引規制のように「相手方」としつつ拘束される対象を「その事業活動」とすることで実質「事業者」に限定するもの、さまざまである。ただ、スポーツ選手が事業活動をしている(すなわち事業者)と考えるならば、スポーツ統括団体によってなされる選手の活動の諸々の制限が、これらの規制の対象となると考えることについて然したる障壁はない(非事業者を事業者に読み込むことはできないが、相手方には事業者は当然に含まれる)。

問題は、スポーツ統括団体による選手への制限のうち、具体的にどのような行為が独占禁止法に違反するかである。「考え方」では「独占禁止法は、公正かつ自由な競争を維持・促進することにより、消費者利益の確保や経済の活性化を実現しようとするものであ」り、それはスポーツ事業分野についていえば「選手獲得におけるチームの自由な活動等が適切に確保されることによって、スポーツファンのみならず消費者全般の利益が達成されるということ」だとしつつ、以下の考え方を示している(一部省略)。

一般に、競争関係にある複数の事業者が、共同して、人材の移籍や転職を相互に制限・制約する旨を取り決めることは、原則として独占禁止法違反となる。また、事業者団体が当該取決めを設ける場合も同様である。

スポーツ事業分野において移籍制限ルールが取り決められる場合は、チーム間の選手獲得競争が停止・抑制され得るとともに、その結果、選手を活用したスポーツ活動を通じた事業活動における競争も停止・抑制され、また、事業活動に必要な選手を確保できず新規参入が阻害されるといった弊害が生じ得ることとなる。

 

他方、スポーツ事業分野において移籍制限ルールを設ける目的には、主に以下の2点があるとされている。

① 選手の育成費用の回収可能性を確保することにより、選手育成インセンティブを向上させること

② チームの戦力を均衡させることにより、競技(スポーツリーグ、競技会等)としての魅力を維持・向上させること

この点、スポーツ統括団体が(又はチームが共同して)定める移籍制限ルールは、上記①又は②の面で競争を促進する効果を有する場合もあり得る。

結論として、移籍制限ルールについては上記の弊害が生じるからといって直ちに独占禁止法違反と判断されるのではなく、「それによって達成しようとする目的が競争を促進する観点からみても合理的か、その目的を達成するための手段として相当かという観点から、様々な要素を総合的に考慮し、移籍制限ルールの合理性・必要性が個別に判断されることとなる」としている。

公正取引委員会がスポーツ事業分野における移籍制限にこれまで手を出せなかったのは、「移籍制限ルールの合理性・必要性」の壁があったからであり、結局、「具体的なルールの内容や実態に即して個別に判断されるものである」としてしまったのであれば、それは示唆的な指針にはならないようにも思われる(唯一提示されたのが、「移籍や転職を無期限に制限・制約するルール」の問題性のみである。ただ、この問題をめぐる「思考回路」を示しただけでも前進ではある)。具体的なケースの集積はこれからである。公正取引委員会は「独占禁止法に違反する行為が認められた場合には厳正に対処することとする」としているが、一方で「各スポーツ統括団体等において、現行又は検討中の移籍制限ルールについて自主的な見直しを行い、必要に応じて改定を行うなどの取組を期待する」ともしている。仮にメジャーなスポーツ団体による諸制限に公正取引委員会が法律のメスを入れるとなると、紛糾するのは必定であろう。「選手の育成費用の回収可能性を確保することにより、選手育成インセンティブを向上させること」「チームの戦力を均衡させることにより、競技(スポーツリーグ、競技会等)としての魅力を維持・向上させること」を諸制限の正当化要素として認め、問題をその「合理性・必要性(の有無)」に持ち込んでしまった(それは正しい)以上、その線引きに悩むであろう(それは独占禁止法違反が疑われる行為に対する正当化問題一般に通じるものである)。「考え方」では多少の考慮要素を示してはいる(下記「移籍制限ルールの合理性・必要性に係る考慮要素」参照)が、結局、「無期限の制限・制約」以外はグレーのままで放置されてしまうかもしれない。「考え方」を示しておきながら、それも「原則違反」を謳いながらも、問題がある実態に手を付けないとなると、それが規範として定着してしまうかもしれない。スポーツ選手に対するチームや団体による活動の制限はさまざまであり、候補となる違反類型も多岐にわたる。今後この「広がり」にも注目したい。

公正取引委員会は、芸能界への対応も併せて「結果にコミット」できるか。

<参考> 移籍制限ルールの合理性・必要性に係る考慮要素

コンビニの深夜営業と独占禁止法

2019年4月24日の公正取引委員会の事務総長定例記者会見で山田昭典氏は以下の通り述べている。

・・・24時間営業を本部が決めているからということで、一概に独占禁止法上の問題になるというものではないというふうに理解しておりますが、その一方で、契約期間中に事業環境が大きく変化したことに伴って、取引の相手方が、この場合には、オーナー側ということになると思いますけれども、優越的地位にある者に対して、契約内容の見直しを求めたにもかかわらず、その優越的地位にある者が見直しを一方的に拒絶することが、独占禁止法に規定します優越的地位の濫用の一つの形態であります「取引の相手方に不利益となるように取引を実施すること」、それに該当するというような場合には、独占禁止法上の優越的地位の濫用に当たるということになります。

この記者会見と同じ日、朝日新聞は次の通り報じている(「コンビニ24時間、見直し拒否で独禁法適用検討:公取委」)。

公取委の複数の幹部によると、バイトらの人件費の上昇で店が赤字になる場合などに店主が営業時間の見直しを求め、本部が一方的に拒んだ場合には、独禁法が禁じている「優越的地位の乱用」にあたり得る、との文書をまとめた。

コンビニの本部(フランチャイザー)と各コンビニ(フランチャイジー)との関係は、確かに優越的地位に立つ側と立たれる側になり易く、独占禁止法における優越的地位濫用規制の適用対象としてはイメージし易い業態の一つである。今から10年ほど前、セブン-イレブン・ジャパンが、独立事業者である加盟店主に対して消費期限直前の弁当等の値下げ販売を妨害していたとして、公正取引委員会は優越的地位濫用規制違反で排除措置命令を下している。また、フランチャイザーとフランチャイジーとの間の契約は、両者間に存在する情報格差から説明義務違反の問題が生じ易く法的紛争が絶えない。

深夜営業の強要の問題は、かつてからしばしば指摘されていたことではあるが、大阪府東大阪市でセブンの店舗が深夜営業取り止めたケースがきっかけとなって大々的に報じられるようになった。同店舗が、オーナーの判断で今年2月1日から深夜営業を止め19時間営業に変更したところ、本部から24時間営業に戻さなければ契約を解除し、違約金約1700万円を請求するとの通告があったとのことである。このケースが大きく報じられることにより、再び独占禁止法上の優越的地位濫用規制が注目されることとなった。

コンビニの深夜営業、24時間営業をめぐっては、過去に(光熱費の料金等の)収納代行の要請も併せて、セブン―イレブン・ジャパンを相手取ってなされた民事訴訟においてその優越的地位濫用規制違反の有無が争われている。そこでは原告(フランチャイジー)側の敗訴で終わっている。一審である東京地裁判決は、24時間営業や収納代行が提供されないと当該コンビニ(ブランド)のイメージが損なわれることは避けがたく、加盟店にはその提供義務があると認定した。二審である東京高裁判決もこれを支持した(最高裁が上告棄却決定し確定)。

今問題になっているケース(あるいは今後出てくるだろうケース)が、過去に争われたケースと前提条件が同じかどうかは分からない。拙速な評価は避けるべきだろう。ただ、フランチャイジー側の経営上の困難の原因が契約時におけるフランチャイジー側の見通しの甘さにあるのであれば、優越的地位濫用の問題にするべきではない、ということは指摘しておきたい。「濫用」の射程が過度に拡大されることになり、契約社会それ自体を危機に陥れてしまう。優越的地位濫用規制は契約の自由の重要な修正ではあるが、それが契約の自由の根幹を脅かすことになれば、本末転倒である。一方、フランチャイザー側の自己都合による一方的な不利益の押し付けなのであれば優越的地位濫用規制の発動の場面であることに異論はなかろう(立法論としての議論の余地はあるが)。

問題は外部環境の変化によってフランチャイジー側の業務に支障が生じたような場合である。冒頭の公正取引委員会事務総長の発言中、「契約期間中に事業環境が大きく変化したことに伴って」とあるのは、まさにどちらの責任でもない環境の変化が問題とされているのである。ただ、この発言は「見直しを一方的に拒絶すること」を問題にしており、何らかの協議の場を設けて討議し、その結果としての解除通告、違約金請求ということなのであれば、問題はないという読み方も不可能ではない。しかし、フランチャイザー側が自分にとって不利益な契約内容の変更に簡単に応じるとは考えにくい。「話し合いに応じた」(手続きを踏んだ)という「アリバイの有無」の問題なのであれば意味のある条件付けではない。

公正取引委員会がコンビニ業界の実態調査に乗り出すとの報道が数日前にあった(「コンビニの実態、公取委調査へ:24時間営業で店主疲弊」)。公正取引委員会がこの問題について具体的にどう判断するかは、今後注視しなければならないが、ここでは以下の点に留意しておきたい。

コンビニが直営ではなくフランチャイズの形で独立した事業者に経営させているのは、(その一定割合は)「リスクの外部化(分散)」のためにあるといえる。つまり失敗のリスクを自ら抱え込むのではなく、契約を通じてリスクコントロール(マネジメント)できるところにメリットがある。公正取引委員会の判断次第では、その形態に変化を生じさせることになるかもしれない。一気に直営化が進むとは思えないが、リスクを外部化できないと判断されたフランチャイズ契約はそもそもの契約締結が見送られ、あるいは既存のものについては(合法的な形で)既存の契約が解消の方向に向かうかもしれない。

コンビニの24時間営業、深夜営業はブランドとしての基本的属性であり、それを止めてしまえばビジネスの根幹に関わる、との見解がある。上記の裁判例もそのような発想を前提にしたものだ。それはブランドのマネジメントにも影響する。あるコンビニブランドの一部の店舗が24時間営業、深夜営業を行わないとなるのであれば、フランチャイザーは自らのブランド維持のために、意図的な差別化に打って出るかもしれない。つまり24時間組とそうでない組(サブ・ブランド、姉妹ブランド)の使い分けである(そもそも大手ブランドのコンビニも初期の段階では24時間営業ではなく、「朝から夜までやっている(それこそ朝7時から夜11時まで)」ということが売りだった)。当然、営業時間以外の契約諸条件も異なってくる。

ただ、この問題は労働環境の適正化の問題でもある。解決は簡単ではない。

(立法のみならず公正取引委員会のような行政による対応を含む)法的環境の変化は経営戦略やマーケティング戦略に重大な影響をもたらす。部分的に正しい(と思われる)対応をしたところ、思わぬ副作用が生じる可能性もある。ある特定の人々(業者)を救おうとして、却ってそうした人々(業者)の不利益になってしまうこともあるかもしれない。優越的地位濫用規制はその蓋然性が高い法的規制の一つであるということは、もっと強調されてよいと思う。

「一者応札」は「不正」なのか?

公共契約における悩ましい問題の一つに「一者応札(一者応募)」がある。これは公共契約の締結の過程で競争入札(募集)を行なった際に、応札者(応募者)が一者しかいないケースを指す(「者」と書くのは個人事業者の場合もあるからだ。一般的に業者は会社なので「社」と書く場合も多い)。応募者は複数いたが札入れの時点で辞退が相次ぎ、結果一者になる場合もあれば、応募の時点ですでに一者の場合もある。また、競争性のある随意契約(企画競争等)での一者応募のケースもある。厳密には、場合分けをしつつ考察する必要があるが、ここでは主として一般競争入札を実施したのにそもそも応募者が一者しかいない状況を念頭におこう。最近では、海上保安庁発注の燃料購入契約で一者応札が相次いでいるケースがNHKに報じられている(NHK News Up(2019年2月15日)「偶然か?不正か?」)。

「一般競争入札は多くの応札者が期待できるのであるから、一者しか申し込まないような事態は不正以外の何物でもない、談合が強く疑われる。」これが世間一般の感覚かもしれない。一者応札のケースでは往々にして落札率(落札価格/予定価格の百分率)が高く出るのでますますそう思われるのだろう。大抵の場合、不正が原因なのではなく、他の業者にとって競争入札に参加しても勝てる見込みがないと思われていることが一者応札の発生原因となっている。同一業者と何年にも渡って契約を繰り返している業務委託契約をその翌年においても発注する場合、あるいはある現場の土木工事の完成後に追加の工事を発注する場合、一般競争入札を実施しても既存の業者だけが応募し、当該一者のみの応札となる可能性が高い。それは過去に同種の案件を受注している業者、過去に関連性の強い工事を受注している業者が、その知識・ノウハウや経験の面においても、価格低減の余地の面においても、他の業者よりも有利な立場にあるのが一般だからである。他の業者からしてみれば、最初から有利である既存の業者に対抗するために時間や労力をかけて積算し、(場合によっては)提案書を作成するのは無駄に映る。採算が合わなくともダンピングで対抗すれば受注できるかもしれないが、その合理性を見出せない業者に参入のインセンティブは存在しない。それ自体、ある意味で競争の結果なのである。だから表面的に何者応募した、応札したということに拘ることはナンセンスにも思える。つまり競争は存在するが、競争の結果が事前に判明しているケースなのである。問題は、競争の条件を不当に厳しくして一者になったのか、そうでないのに一者になったのかである。「一者=不正」と決め付けるのは暴論に近い。

一者応札が予想される場合、当該業者はできる限り高い金額で応札しようとするだろう。予定価格が非公表であっても予想したそれに合わせてくるはずである。一般的には前年度ベースなので同種の契約ならばほぼ予想通りとなる。不安であれば高めに金額を入れ、その後繰り返される入札で、どこかで金額が折り合うことになる。一者応札で入札を繰り返すということは多い。

このようなケースには随意契約が妥当すると考える人も多かろう。一昔前ならばそうする発注機関が多かっただろうが、今は違う。複数の応募者が存在する「かもしれない」以上、随意契約理由が立たないと考えられているからだ。つまり、随意契約が正当化できるのは、受注可能業者(あるいは適切な業者)が一者しかいないことが「明らか」な場合にのみに限定されると考えられているのである。個人的な見解として随意契約はもう少し柔軟に利用可能だと考えているが、一般にはそうではない。いわゆる「ゼネコン汚職」以降の四半世紀の間、公共契約は不正の温床として批判され続け、中でも随意契約と指名競争入札が標的となってきたことで、国も地方公共団体も「一般競争入札さえ実施していればよい」というマインドになり、一般競争入札を批判回避のための「シェルター」として利用している感がある。

しかし、今度は一者応札・一者応募批判が襲ってきた。「一者」というのは「競争性の欠如」を意味するのではないか。相応の参入者数が期待できるからこそ一般競争入札を実施しているのではないか。一者しか応募、応札しないというのは、発注の仕組みに問題があるのではないか。その背景には官民間の癒着があるのではないか。そういった批判である。2008年12月、政府の行政支出総点検会議が「各府省は、一者応札・応募となった契約を精査した上で、応札者を増やし実質的な競争性を確保するための改善方策を検討し、公表すべき」と指摘して以降、各発注機関はこの「解消すべき問題」に悩み続けている。

「一者」はそれ自体「不正」か。そうではあるまい。不正によって一者になるのが不正なのであって、その逆ではないはずだ。しかし随意契約批判を回避することを自己目的化し、一者応札が予想されるケースにまで競争性を確保したような体裁を繕おうとした結果、再び批判に晒されることとなった。いまさら、過去のような随意契約を選択する訳にもいかない。特定の業者との癒着を批判されて随意契約を放棄したのであるから、特定の業者のみの応札、応募が続けばそれもまた癒着と批判される。このような批判に過剰反応した東京都の小池百合子知事は「一者の場合の入札手続の中止」という大胆な改革を実施したが、契約手続の遅れなど現場の混乱を招いただけで、期待された大幅な価格低下等のデータも得られないまま一年後に撤回した(その分析として、郷原信郎「小池氏による一者入札禁止「制度改革」の“愚”」が詳しい)。

発注情報を周知徹底するとか、公告期間を伸ばすとか、そういう対応には自ずと限界がある。連続して同じ業者が受注しているような場合、公募をかけ応札に興味を有する業者が現れれば一般競争入札を実施し、そうではない場合に当該既存業者と随意契約を結ぶ「公募型随意契約」という選択肢もあるが、問題を根本的に解決するものではない(手続がよりスムースになるという利点はある)。

結局、この問題は透明性の問題に行き着くことになる。競争という手続の利点は、もちろん(価格低下等の)効率性にあるが、もう一つ行政にとっての利点として「競争手続それ自体が説明責任を果たしている」ことを挙げることができる。すなわち会計法や地方自治法の下、公共契約において求められる経済性の実現の要請に対して、競争手続こそが効果的な手法として考えられており、それが採用されている限り、その結果がどうであれ発注機関としては義務を果たしていると理解されることになる、というものである。しかし、一者が続くようなケースでは、その説明責任が危うくなる。場合によっては構造的な問題がその背景にあり、発注機関としては如何ともし難い状況なのかもしれないが、場合によっては不正・癒着の構造が背景なのかもしれない。残された手段は、説明責任を果たしていくことしかない。一者が続くことの事情を十分な情報公開を行った上で説明し、納税者に理解を求めるしかない。一者応札が続く案件を批判されて、「法令に基づいて適切に対処しております。」しかし「情報は公開できません。」では誰も説得できない。

 

楠 茂樹 上智大学法学部国際関係法学科長・教授

慶應義塾大学商学部卒業。京都大学博士(法学)。京都大学法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て、現在、上智大学法学部教授(国際関係法学科長)。独占禁止法の措置体系、政府調達制度、経済法の哲学的基礎などを研究。国土交通大学校講師、東京都入札監視委員会委員長、総務省参与、京都府参与、総務省行政事業レビュー外部有識者なども歴任。主著に『公共調達と競争政策の法的構造』(上智大学出版、2017年)、『昭和思想史としての小泉信三』(ミネルヴァ書房、2017年)がある。

存在感を増す独占禁止法の優越的地位濫用規制:芸能人からGAFAまで

独占禁止法上の優越的地位濫用規制(2条9項5号、19条)は、取引当事者間の力関係に着目し、優越的地位に立つ事業者が劣位にある取引相手に対して(契約条件の変更等により)不利益を与える行為を広く捉えるものである。市場における競争機能ではなく、個々の取引関係における不公正に焦点を当てるものであり、独占禁止法の諸規定の中でもやや特殊な性格を有するものである。これまで、大手銀行がその融資先である企業に対してその関係性を利用して相手方が望まない金利スワップ取引を押し付けたケース(三井住友銀行事件)、納入業者の従業員をスーパーに派遣させて手伝わせたり、不当な返品を強要したりしたケース(マルナカ事件)など、独占禁止法の中ではそれなりに存在感を示してきた違反類型ではあるが、リニア談合事件に代表されるようなカルテルや入札談合を射程とする不当な取引制限規制(2条6項、3条)違反ほどの社会的インパクトはなかった。

その優越的地位濫用規制が、昨年から今年にかけて、大きく報じられ脚光を浴びるようになった。

公正取引委員会が設置した有識者会合である「人材と競争政策に関する検討会」が昨年2月に公表した報告書では、フリーランス人材と企業と間の契約を独占禁止法上、どのように扱うかについての考え方が示されている。ちょうどその前後に芸能人が芸能事務所との間で不当に不利なマネジメント契約を結ばされていると話題になっていたこともあって世間の注目を浴びた。これまでタブー視されてきた感のある芸能界のしきたりや慣行に独占禁止法のメスが入るのでは、とメディアで大きく報じられた。

優越的地位濫用規制はその名の通り、優越的な地位にある事業者が劣位にある相手に不利益を押し付ける濫用行為を禁止するものであり、企業とフリーランス人材との関係においてもそのような構造があるのならば、この分野への適用はストレートなものである。独占禁止法の登板は自然な成り行きだ。

GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に対する規制論議は、現在進行形のホット・トピックである。世界的なデジタル・プラットフォーマーとして知られるこれらの企業は、ビジネス上のネットワークを支配し、ネットワークの大きさが更なるネットワークの拡大を促すという効果を利用して他社の追随を許さず、各方面のユーザー(Amazonでいえば出品者も購入者も)が大規模なプラットフォーマーに依存する構造を作り上げてきた。これら企業は顧客情報の収集において圧倒的に有利な立場にあり、その扱うビッグ・データは、ビジネス上の優位を高め支配構造の安定化につながっている。こうした支配的構造は、ユーザに対する不利益な取引条件(利用条件)の押し付けを可能にし、取引秩序の公正さを乱す危険を生じさせる。そこで注目されたのが優越的地位濫用規制である。これまで優越的地位濫用規制は事業者対事業者の関係においてのみ適用されてきたが、GAFA規制をめぐっては対消費者(一般のユーザー)にまでこの規定の射程が拡大されるのではないか、と注目されている。

コンビニの深夜営業の要請の問題も最近話題になった。優越的地位濫用規制は、令和新時代のビジネス界における注目の的といっても過言ではなかろう。

優越的地位濫用規制は、(大企業による中小企業や消費者に対する)「いじめとの闘い」といった色彩もあって、世間的にはその適用に対して賛意の声が強いが、懸念もある。そもそも何をもって「濫用」なのか、法律の文言に引きつけていえば「正常な商慣習に照らして不当」な行為とは何なのか、についてあまりにも漠然としているからである。ビジネスにおいては取引関係上の有利不利はつきものであって、事業者が自らの努力で確立した競争優位を活かした有利なビジネスができないとするならば、競争の意欲を萎縮させることにもなりかねない。優越的地位濫用規制にいう不当性については、公正取引委員会の「優越的地位の濫用に関する独占禁止法上の考え方」にいう「当該取引の相手方の自由かつ自主的な判断の侵害」との理解が一般的であるが、何をもって「自由かつ自主的な判断の侵害」というのか曖昧過ぎ、微妙な判断が問われるものも多かろう。優越的地位濫用規制違反に対しては違反に係る売上金額の1%を課徴金として徴収することが法定されており、処分を受けた事業者は抗告訴訟に討って出る可能性が高い。そうすると今度は公正取引委員会が躊躇してしまうかもしれない。

典型的なカルテルや入札談合のように明からさまに競争を制限し、市場の機能を阻害する行為に対して独占禁止法を厳格に適用することに反対する声はまず聞かない。一方、優越的地位濫用規制のように取引上の地位の強弱に着目するタイプの規制に対しては、異論も多くある。上記「考え方」では「当該取引の相手方の自由かつ自主的な判断の侵害」と述べると共に「相手方はその競争者との関係において競争上不利となる一方で、行為者はその競争者との関係において競争上有利となるおそれがある」などとも述べているが、優越的地位濫用規制が「努力して確立した競争優位への罰」として作用する恐れもまた否定できないのだ。「考え方」は意味のある「指針」になっていない。

公正取引委員会は「市場の番犬」といわれることがある。ただ、その方向性を誤れば、悪人に吠えない「役立たず」になってしまうかもしれないし、善人にも噛み付く「狂犬」になってしまうかもしれない。今後の展開が見逃せない。

楠 茂樹 上智大学法学部国際関係法学科長・教授

慶應義塾大学商学部卒業。京都大学博士(法学)。京都大学法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て、現在、上智大学法学部教授。独占禁止法の措置体系、政府調達制度、経済法の哲学的基礎などを研究。国土交通大学校講師、東京都入札監視委員会委員長、総務省参与、京都府参与、総務省行政事業レビュー外部有識者なども歴任。主著に『公共調達と競争政策の法的構造』(上智大学出版、2017年)、『昭和思想史としての小泉信三』(ミネルヴァ書房、2017年)がある。