オリンピック代表の再選出は「公正」か?

オリンピックの延期が決まった。来年ということではあるが、来年のいつかはわからない。これから調整が大変だろう。ただ、ある程度は関係各所への根回しが済んでいるのかもしれない。だからこそ、少し前まで不自然なくらいに関係者が揃って「予定通り開催の方向」といっていたのが、「1年の延期もやむなし」に揃っていうようになった、ともいえそうだ。「決定するなら全員で」という「責任の分散」のマインドの現れであるようにみえるが、そのために決定が遅れ、コロナ対応で取り返しのつかない損失が出るのであれば目も当てられない。さてその辺の事情はどうなのだろうか。

2020年東京大会の出場選手は、相当程度決まっている。コロナ禍でその選考過程がストップしてしまった競技もあるが、既に決まった選手はどう扱われるのであろうか。これは難しい問題である。個人的な心情としては、試練を乗り越えて勝ち取ったチャンスをそのままにしてあげたいという気持ちが強いが、しかし2、3ヶ月の延期ならともかく1年(もしかしたら2022年開催もあり得るかもしれない)延期となれば、その時々に優れた結果を出す選手も変わってくるのではないか、ともいえ、もう一度選考をし直すという意見にも理がありそうだ。日本オリンピック委員会の山下泰裕会長は「(延期の)期間が長くなると、選手たちは選考をもう1回やり直し、なんてことも出てくるかもしれない」と発言している(FNN PRIME2020年3月24日「“五輪延期”なら再選考? アスリートに動揺広がる」)。現在のところ、マラソンに関しては、現時点での代表を、延期されたオリンピックでも代表とする方針のようだ(読売新聞2020年3月25日記事「マラソン五輪代表、再選考しない方針…瀬古氏」)。

代表の選出は、決まったルールの下でなされた競争の結果として決定される。陸上競技ならば、100メートル走のように一発型もあれば、マラソンのように複数回のチャンスが与えられるものもある。日本では、過去には、実績のある選手を直近の成績を無視して選出し物議を醸したケースもあったが、今では比較的クリアな基準で納得のいく選考がなされているといえよう。しかし「延期」は当然のことだが、「想定外」だった。

想定外だが、現実に延期が決まった以上、何らかの決断が必要である。今はまだ、どこまで延期するのかが決まっていない段階なので、この問題を先送りできるが、直前になって決めるのは混乱を招くだけである。

仮に東京オリンピックが中止になって、次回のオリンピックが2024年開催(フランス・パリ)になるとしよう。その場合、東京オリンピックの代表選手はパリのオリンピックの選手ではないのだから、そのための新規の代表選出手続があることについてさすがに異論はあるまい。

2年後の東京オリンピック開催ならば、どうか。2年半前の選出手続をそのまま有効と見るのはどのような競技であっても難しいという意見が強いだろう。同じオリンピックだとしても時間があきすぎている。2年間といったら世界陸上ならもう、次の大会だ。

難しいのは1年後である。代表はオリンピック開催前の3ヶ月から1年のスパンで選出されることが多い(陸上の100M走はもっと直前だ)。つまり、1年後(例えば2021年7月開幕)になるのが今年7月に決まるとして、そこからまだ1年間あるのだから、新規の代表選手は可能ではありそうだ。しかし、異論も強いだろう。延期云々の議論のときに頻繁に出てきた「アスリート・ファースト」の発想は、ここでは意味をなさない。アスリート間における選出に係る問題だからだ。チームスポーツなのか、個人競技なのか、の問題もあるだろう。前者ならば国としての代表枠とその中での代表選手の問題があるが、国別でもう一回やり直すのはタイミング的に現実的ではない(国別の場合、選手別ほどパフォーマンスのブレがないともいえる。これも競技によるだろうが)。

どのような選択をするにせよ、競争的な選出という手続の公正さに疑義が出るのは避けがたい。新規の手続を主張する者は、その時々の最高のパフォーマスを出せるアスリートを優先すべきというだろう。既に決まった代表を引き続き代表とすべき、と主張する者は、同じオリンピックであるのだから一度決めたことを覆すのは公平ではないというだろう。命懸けで戦ってきた選手をレスペクトせよ、というかもしれない。

確かに代表選手の選出は、最高のパフォーマンスを出すことが期待できる順番でなされる。それを直近のレースや競技によって評価される。それが「公正な基準」と考えられている。しかし、今問われているのは、「それをキャンセルすることの「公正な基準」とは何か」である。別の要素が加わっているのである。

問題の根本は、そういった事態を事前に想定し、特殊な場面における代表選手のルールを予め決めなかったことにある。それを事前に決めておくことは、おそらくコンセンサスがとりやすかっただろう。何故ならば、その時点では誰が代表になるかがわからないので、誰もが「第三者的」な立場にいることができたからである。事後的には調整ができない問題であっても、事前にはコンセンサスを得ることが容易だった。いろいろ考え方はあろうが、いったんルールを決めてしまえば、それに従うのが「公正だ」と納得させやすい。しかし利害関係が生じた後のルール作りは実質的には「利害の調整」ということになり、「公正さ」を維持するのが難しい。

現在のところ延期は1年(程度)ということのようだが、仮にそれ以上伸びる場合には、どうするのか、将来のことも見据え、今の段階でアクシデント発生時のルール(方針)を考えておくべきではないだろうか。

「責任ある決断をしない」国、日本

I accept full responsibility. If someone is unhappy, if somebody wants to blame someone, or complain about someone, blame me. There is no one else who is responsible for this decision.

「責任は全て私にある。誰かを責めたければ私を責めて欲しい。」米国ニューヨーク州のクオモ知事の言葉である(CNNのサイトより)。クオモ知事は20日、民間企業の全従業員の出勤を禁止、在宅勤務義務付けを発表した。住民の外出制限は要請に止まったとのことであるが、状況次第ではフランスのような大胆な決断に至るかもしれない。

国や企業の幹部には責任回避することばかり考える人が少なくない。(不作為も含め)何らかの決断をする人は失敗したときに責任をとる。だから責任を負いたくない人は決断しないという行動をとる。しかし何もしなければ、事態の悪化の責任をとらされる。だから、何らかの行動をするときは、判断の内容を不明確にするか、2番手以降で判断するか、あるいは判断の理由を他人の判断にリンクさせようとする。いずれも「主体性」をぼかす振る舞いである。

だから「抽象的要請」という「言及」に止める。米国や欧州という前例を引き合いに出す。どこそこの要請といいながら「やむを得ない」形を作る。要請する側は「要請した」したのだから責任はないといい、要請される側は「要請された」のだから責任はないという。結果がよくない場合には、要請する側は「具体的な判断は要請された側がすること」なので責任をとろうとしない。要請された側は「判断の根拠は要請した側にある」ので責任をとろうとしない。それでいて強権的である。人事や金銭面で圧力をかけてくる。やり方は露骨だが、堂々とはやらない。

一般には力関係で弱いほうが責任をとらされるが、何重にもわたりしばしば循環する、「多くの人を巻き込む」意思決定主体の連鎖の中で世の中ができてしまっている。責任の所在を曖昧にするのは、日本の「十八番(おはこ)」である。誰も責任をとらないが、そこに何らかの権力構造が存在する。

オリンピック開催の是非をめぐって、なかなか関係者が決断に至らない(外部にそれを出さない)のは、「結論」に触れた人間(外部にそれを言い出した責任者クラスの人間)が責任を負わされるという「恐れ」をどこかで感じているからか。それは、ステークホルダーの数があまりにも多く、ステークの規模があまりにも大きいだけに、関係者にとっては「恐怖」といえよう。しかし「予定通り開催」も一つの決断である。タイムリミットが近づいている。アメリカあたりの要請にしたいのかもしれないが、どうやらトランプ大統領は「それは日本が決めることだ」といっているようである。WHO(世界保健機関)も「判断する立場にない」と述べていたと記憶している。オリンピック開催はみんなで決めたことだから(変更なしで)開催と言い続ける分には(その場限りでは)責任回避できる。そういう思考回路なのかもしれない(なお22日のロイター記事では、関係筋の話として、五輪組織委が通常開催の代替策を検討し始めたと報じられている)。

22日、国や埼玉県が自粛を呼びかけた中で格闘技イベント「K―1」が「さいたまスーパーアリーナ」で開催されたが、この点について橋下徹氏はTwitterで次の通り述べた。

法に基づかない要請は何も定めることなく権力側のフリーハンド。国民からすると法に基づかない要請の方がよほど強権的。そして政府は何も責任を取らない。今回、K1イベント埼玉アリーナで感染拡大すれば政治の責任。社会防衛のために止めるなら「命令」の上、正当な補償を。憲法29条3項。

平常時では法に基づかない要請は強権的になる。一方、危機のとき(失敗のとき)には、法に基づかない要請は責任回避になる。これが民主主義の届かない日本型権力構造の本質ではないか。しかし、「法に基づく命令」を「権力の暴走」と「知識人」がいうのだから、責任の所在が不明確な強権政治がこの国では生き残るはずである。

「誰かを責めたければ私を責めて欲しい」といえるリーダーの存在に令和の日本がかかっている。

「転売ヤー」捕物帳

国民生活安定緊急措置法の政令改正によるマスク転売規制は、仕入れ価格以上の値段でマスクを再販売することの禁止だったので、転売ヤーが「抱き合わせ」による「すり抜け」を考えることは容易に予想された。つまり、転売規制の対象になっていないウェットティシュとか、その他除菌・防疫アイテムと一緒に「高額」で販売すれば、マスクの再販売で値段を吊り上げたことの立証はできないだろう、という発想だ。

これに対して、経済産業省の対応は早かった。そのウェブサイト上にある「マスク転売規制についてのQ&A」というコーナーの、Q4-4「マスクを他の商品と一緒に販売する行為(抱き合わせ販売)は対象になりますか。」で、以下のように回答している。

今回の規制により禁止される行為は、①不特定の相手方に対して販売をする者からマスクを購入し、②購入価格(仕入価格)を超える価格で、③不特定又は多数の者に対して転売する行為です。このため、抱き合わせ販売そのものを規制するものではありませんが、抱き合わせで販売されるマスクが上記に該当する場合には、規制の対象になります。

業者はおそらく、「いやいやマスク自体は仕入れ原価のまま販売しております。その他の商品で儲けさせいただいております。」とくるだろう。買い手はマスクの方が欲しく、その他の商品の購入を強制されているので、業者はマスクの方で「不当に儲けている」ことは明らかであるから、理屈としては当局の規制は及び得るのであるが、問題はどうやって立証するか、である。特に刑事罰を科すとなると、当局は慎重になるだろう。

経済産業省は上記の記述に続けて、独占禁止法にも言及する。

なお、商品の供給が不足しており、当該商品に代わる商品が存在しない状況の下で行われる抱き合わせ販売は,独占禁止法が禁止する不公正な取引方法(抱き合わせ販売等)と評価されるおそれがあります。

不公正な取引方法には刑事罰規定がない。転売ヤーは身動きが軽いので、公取委が慎重にことを進めている間にどこかへ行ってしまう。楽天のような「逃げも隠れもしない(できない)」業者であれば緊急停止命令の申立てもありだろうが、相手はその筋の「輩」である。

より積極的に、「抱き合わせの場合には他の商品と併せてトータルで仕入原価を超える値段を設定した場合も同様である」としておかないと、逃げられてしまうかもしれない。そもそも現代ネット社会では、このような法令は「ザル」なのかもしれないが。

海千山千の転売ヤーである。もう次の一手を考えているのだろう。

「人材」と「人財」

「人材」という言葉は人をモノのように扱っているような印象を与えることから、経営者の中には「人財」という言葉を好んで用いる人が少なくない。経営書や経営雑誌でも「人材から人財へ」のようなテーマのコラムを見かけることもある。

おそらく、財=財産=貴重な存在という連想なのであろうが、一つ気になることがある。「材」という言葉はそんなに悪い言葉なのであろうか。

「財」とは「貝に才」なのであるから、経済的価値、貨幣的価値をおそらく意味するのであろう。一方、「材」は「木に才」だから、自然的な素材のもつ価値ということだろう。衣食住は、いずれも自然的価値を有する「材」の消費によって成り立っている。どちらの方が「人」の後に続く言葉としてふさわしいか。

人材という言葉に人をモノのように扱っている、という懸念を持つならば、人財という言葉には人をカネのように扱っている、という懸念を持たなければならない。

一方、「財」という言葉に掛替えのなさを見出すのであれば、「材」という言葉にも同様の掛替えのなさを見出してもらいたい。

公共契約に係る法制を研究していると、「土木」という言葉をよく見かける。公共工事の中心は建設であり、建設は大きく建築と土木に分かれる。

私はこの土木という言葉が好きである。人間の生活を支えるものは当然衣食住であるが、公共的な観点からは土木が大きな役割を果たす。いわゆるインフラ整備は、今では様々な人工的な材料が用いられるが歴史的には「土」と「木」だった。社会の重要な基盤がこうした自然の素材によって支えられてきたことはもっと強調されてよいだろう。

もちろん、人を木のように扱えとは思わない。しかし、土や木が私たちの生活のみならず、世の中を支える重要な公共的役割を果たしてきたことを考えるならば、「人材」という言葉にもまだまだ魅力があるのではないか、と思うのである。

「見返り」の意味とは?山形・大石田町の副町長再逮捕について

3月11日のさくらんぼテレビ(山形)ニュースより(「前副町長が収賄容疑で再逮捕 公共工事の入札で便宜 100万円受領か 山形・大石田町」)。

山形県大石田町の公共工事の入札を巡り、また不正が発覚した。前の副町長が、町民交流センターの建築工事で業者から、便宜を図った見返りに現金100万円を受け取ったとして再逮捕された。

これだけ見ると、視聴者は、入札情報の漏洩とか入札結果の操作とか、よくある「便宜を図る」ケースなのかな、と思うだろう。この副町長は「2015年8月に行われた『虹のプラザ』の入札」で、業者に「非公開の入札情報を教え、その見返りとして2017年3月・・・現金100万円を受け取った」とのとである(同ニュース)。他の記事によれば、「町民交流センターの競争入札には8つのジョイントベンチャーが指名され、そのうち3つは辞退」し、贈賄側のジョイントベンチャーが落札した。落札率99・89%だった(NNNニュースより)。「8つのジョイントベンチャーが指名」とあるが、おそらく当初入札(直後に見るようにこれは再入札の案件である)の際に応札したジョイントベンチャーなのだろう。

気になるのは、冒頭のニュースが、この「入札は、この1ヵ月前に一度実施されていたが、全ての入札額が予定価格を上回ったため成立しなかった」こと、そして前副町長は「何とか落札させるために再度入札を呼び掛け」、業者側に「情報をもらしていたのではないか」という関係者の証言を紹介していることである(工期が後にずれ込むのを懸念したことは想像できる)。そして、「その見返りとして、談合が発覚した消防庁舎の入札」で、贈賄側業者の「落札に便宜を図っていたと見られている」と報じている(冒頭のさくらんぼテレビニュース)。「消防庁舎の入札」とは前の逮捕容疑である、副町長の談合事件への関与行為(朝日新聞記事参照)が問題となった公共工事の入札(容疑は官製談合防止法違反、公契約関係競売入札妨害)。

全業者が予定価格オーバーということは、予定価格が業者側にとって「見合わない」ことを意味している。談合によって敢えて不落札にしておいて再入札時の予定価格を「吊り上げる」こともあるが、一般には、このような現象は予定価格が低すぎる場合に発生する。

このような場合、発注機関が取る選択肢は二つある。一つが予定価格を見直すか工事内容を限定することで「業者にとって見合う」ものにすることであり、もう一つは業者を説得してなんとか不採算の工事をしてもらうかである。報道を見る限りでは、この副町長は後者の選択をしたのだろう。そのために非公開の予定価格を教示し、その枠内で応札価格を入れてもらうように頼んだのだろう。落札価格が予定価格よりも0.1%ほど低いのは「端数を切った」のだろうか。18億ぴったりにしなかったのは、そうだとすると綺麗にゼロが並び過ぎて「積算っぽくない」からだろうか。

だから、「見返り」が必要になる。誤解してはならないのは、公共工事の不正での「見返り」は通常、業者に便宜を図った発注機関職員になされるものである。ここでは見返りが副町長から業者に対してなされているのである。つまり、前の入札で協力してもらった見返りに後の入札で便宜を図るという、という構造になっている。

このような「貸し借り」は公共工事ではよく聞く話である。予算が足りないとき低額で受注してもらう、追加の工事が必要になったとき無償で応じてくれる、そういった業者に対してかつては別の随意契約の発注で応えていたが、今は競争入札が徹底されるようになったのでそうはいかない。だから情報漏洩という「不正」につながるのである。

そう考えると、報道内容について三つの注文を付けたくなる。

第一に、落札率の99・89%というのは、(再入札において条件面での変更がないという前提で)「高いのではなく安い」ということである。不採算の工事を引き受けてもらったという理解ならば、である。視聴者は直感的に「落札率高い=不正」と理解してしまう。

 第二に、「便宜を図った見返りに現金100万円を受け取った」というのは、何についての「見返り」なのか、ということである。これは官製談合防止法違反、公契約関係競売入札妨害の容疑の対象となった、消防庁舎の入札に係る(副町長から業者への)便宜に対する見返りなのではないか。「誰の誰に対する何」の関係をもっとクリアにしてもらいたい。

第三に、というのであれば、今回報道された内容に対する容疑は贈収賄ではなく(「虹のプラザ」の入札に係る)別の官製談合防止法違反、公契約関係競売入札妨害なのではないだろうか(非公開情報の漏洩なのだから形式上はこれらの罪は成り立ち得る)。「100万円」の話は消防庁舎の入札に係る新事実だろう。もしこの100万円が「虹のプラザ」に係るものであるというのであれば、予定価格の変更、発注内容の見直し等の事情があったということになるが、そのような事実はあるのか。

限定された情報を前提にしているので、筆者の勝手な推測や思い込みがあるのかもしれない。追加の情報が待たれるところである。

「コロナに効く」に注意せよ:消費者庁が改善要請

予想されたように、新型コロナウィルス関係の便乗商法が目立ってきている。「摂氏26度で死滅」などというのは「普通に考えてデマ」だが、「免疫力を高めましょう」的な商法は、健康増進のコピーとしては一般的なものだし、それ自体悪いことではない。免疫力の低下と重症化がリンクしているようなので、多くの消費者はこのコピーに敏感になってしまう。問題になるのは、新型コロナウィルスと密接な関係にあるかのような表現がなされている時だ。以下、3月11日の時事通信のニュース(「『コロナ予防』広告に注意=消費者庁、販売業者に改善要請」)より。

新型コロナウイルスの予防効果をうたうインターネット上の商品広告について、消費者庁は11日までに、販売業者に表示の改善を要請した。消費者に対しては、「効果を裏付ける根拠は認められていない」などと注意喚起している。

この記事では、続けて、「同庁によると、2月25日~3月6日、ネット上の商品広告の緊急監視を実施。健康食品や空気清浄機などを販売する30事業者の46商品が予防効果を掲げていた。健康食品分野が最も多く、『ビタミンCはコロナウイルスから体を守る』『新型肺炎には早期の漢方が効果的」などとしていた。」と報じている。科学的裏付けのない効用の表示、成分の表示は景品表示法違反の疑いがあるので、消費者庁が乗り出したという訳だ。

ただ賢い業者ならば、敢えて「コロナ」の表現を用いず、「免疫力UP」とかいってボカすだろう。実は何のことだかわからなくても、消費者は「免疫(力)」というフレーズに敏感になっているのだから、露骨な「コロナ」の表現など使わずとも消費者は敏感に反応するのではないか。広告で重要なのは、「共有知識」として「どのフレーズへの感度が高いか」である。

真偽は分からないが、納豆が品薄になっているそうだ(私の職場や自宅の周辺ではそんなことはないが)。納豆は健康にいい=免疫力UP=コロナ対策という連想なのであろうが、そんなの納豆に限ったものではないし、納豆が突出して健康増進によいのであれば日本では主たるオカズが歴史的に納豆になっているはずである(個人的には好きな食べ物であることをここで断っておく)。もちろん科学的因果が証明されているならば、それに従うべきであるが。

そういえば関西テレビの「発掘!あるある大事典」の情報捏造事件(2007年)もテーマは納豆だった。この時は「納豆はダイエット効果が高い」というものだった。この放送回終了後、消費者は納豆に殺到し、店頭からその姿を消した。「納豆」という独特の雰囲気がそんな気分にさせるのか。そうであるならば、次は違う「ネバネバ」系に殺到するのだろうか。

消費者を惑わすのは商品の表示のみではなく、メディアの報道もそうである。「公器」の体裁がある以上、怪しげな広告よりもはるかに消費者に対するインパクトが強い。新型コロナウィルスに関する報道も、色々な知識人が色々なことをいっているが、本当に信用できるのだろうか(特に医療、衛生分野の専門家の発言は重い)。知識人間での相互批判がもっと盛んになるべきである。

マスクの利益上乗せ転売禁止について

マスクの買い漁りが深刻化してから1ヶ月ぐらいが経つだろうか。政府がとうとう転売禁止の対応に踏み切った。その手段は、国民生活緊急措置法の政令改正である。

国民生活緊急措置法はその第26条第1項で、「生活関連物資等の供給が著しく不足するなど国民生活の安定又は国民経済の円滑な運営に重大な支障が生じるおそれがあると認められるときは、当該生活関連物資等を政令で指定し、譲渡の禁止などに関し必要な事項を定めることができる旨が規定」されている。そして、関連する政令の改正によって、同法の規定に基づき、「衛生マスクを不特定の相手方に対し売り渡す者から購入した衛生マスクの譲渡を禁止する等の必要があるため、必要な措置」が定められた。

具体的には、「衛生マスク」を指定し、「衛生マスクを不特定の相手方に対し売り渡す者から衛生マスクの購入をした者は、当該購入をした衛生マスクの譲渡(不特定又は多数の者に対し、当該衛生マスクの売買契約の締結の申込み又は誘引をして行うものであつて、当該衛生マスクの購入価格を超える価格によるものに限る。)をしてはならない」と定め、「違反に対する罰則」を定めた(以上、経済産業省ウェブサイトより)。

政令の規定から、メーカーから小売までのプロセスには適用されない。当然、仕入原価から一定の価格を上乗せして再販売するので、これを禁止してしまえば「商売が成り立たない」。どこかのコンビニとかスーパーで仕入れたものを個人がネットで転売したり、他の小売店が店頭で転売したりすることを規制する措置である。

この措置は在庫商品の「小売間の横流し」というよくある流通にも該当することになるが、一般には売れ残り商品の引き取りとその廉売なので、今のマスク問題には無関係だろう。

国民生活緊急措置法は昭和48年制定の法律である。そこからもわかるようにこの法律は石油ショックをきっかけに制定されたものである。独占禁止法が競争への弊害をもたらす事業者の活動を禁止し、自由市場の規律を「やや遠回し」に行うことに比して、国民生活緊急措置法は「よりダイレクト」に市場過程に介在するものであり、いわば「非常停止ボタン」のような役割を果たしている。

当時と今では、置かれた経済、社会状況が異なるが、法律の考え方は一緒である。現在「ネット販売」という当時存在しなかった販売手法で多くの問題が生じていることを考えれば、。「古典的な立法」の「現代的な適用」といえるだろう。

マスクの取引自体は当然合法なので「闇取引」のようなものは生じないだろう。国内では通常の価格に戻って行くだろう。ただ、卸売業者から入手した小売業者が「再販売」した場合の価格高騰の恐れがなくなった訳ではない(再販売価格維持は独占禁止法違反である)し、メーカーの段階で値上げをする可能性も否定できない。そしてマスク転売問題が解消したとしても、需給バランスが崩れたままである限りは「行列」の解消にはならない。買い漁り行為の一つのインセンティブは消えたが、もう一つの(マスクを付けたくても付けられないリスクを減らそうとする)防衛行為としてのインセンティブをどう解消するか、そちらの方が全体としては重要な課題といえよう(増産するか、マスクの不要性を認識させるか)。

そもそもマスク買い漁り問題は、生産量の低下の思い込みによる「買い漁り」ではなく、みんながマスクを必要とする状況が急激に発生したことによる需給バランスの崩壊がその前提にあるのであって、この状況がいつまで続くか分からないが故に人々は買い漁るのである。「思い込み」がなくなれば問題が解消される訳ではない。とするならば価格が安定した状況で、単に品不足の状況が続くことになる。そのためのサーチコストが上昇して、(行列に並んだりする労力も含めて)結果的に、「高い買い物」となりかねない。

海外のサイトでもマスクは高額販売されている(欧州や米国でもマスク需要は高まっているようなので、今後、さらに価格が高騰するかもしれない)。品不足が続けばどうしても欲しい日本の消費者は「輸入」にすがることになるだろう。

仮に「ぼったくり」への憤慨を解消しても、マスク不足という国民生活への深刻な影響が解消されない限り、国民生活緊急措置法の狙いが十分に実現されたことには必ずしもならないのである。