「送料無料」をめぐる攻防:楽天vs楽天ユニオン

2020年1月22日の産経新聞の記事(「楽天送料で公取委に調査要請」)より。

通販サイト「楽天市場」を運営する楽天が3980円以上の購入で送料を出店者負担で無料にすることに対し、出店者が加入する任意団体「楽天ユニオン」は22日、独占禁止法違反に当たるとして公正取引委員会に署名を提出し、調査と排除措置を求めた。楽天側は「売り上げが伸びて店舗のメリットにつながる」と主張し意見が対立、公取委の判断が注目される。

ユニオン側の言い分では「出店者側の十分な同意を得ないまま送料無料の制度を導入するのは、独禁法で禁じる『優越的地位の乱用』に当たる」とのことだ(独占禁止法では「濫用」という漢字が用いられている)。

優越的地位濫用規制は、簡単にいえば、取引関係上優越的な立場にある業者が(劣位にある)その取引の相手方に対して、後者にとって不都合な契約変更を押し付けたり合理的根拠のない金銭の提供を求めたりするなど、相手にとって不利益になるようにその力を濫用する行為を禁じるものである。

楽天側が優越的地位に立っている(相手方が容易に他の取引先を見出せない状況ある)という前提で考えて、この送料無料の義務付け制度の導入が、果たして「濫用」といわれるようなものといい得るのだろうか。

ここで注意すべき点は二つある。

第一は、送料無料の義務付けの狙いが、楽天だけが唯得をするものではなく、楽天のユーザーである一般消費者にとって有益なものであると、楽天側が考えているということである。一般消費者に対する便宜を図ることを通じて、自社の競争優位を確立する(あるいは多数のプライム会員によって支えられているAmazon等他のプラットフォーマーに対抗する)という「健全な競争活動」として、楽天側は考えているということである。確かに、一律送料無料となればユーザーにとっては「比較が容易」になり、それは消費者フレンドリーなものとなる。

私は楽天ユーザーでもあるし、Amazonプライム会員でもある。業者が消費者フレンドリーになることは、一消費者として、もちろんウェルカムである。

いわゆるデジタル・プラットフォーマーである楽天は、売り手と買い手を結ぶマッチング・ビジネス(あるいはその場の提供)を主たる業務内容としており、常に「二面の市場」と向き合っている。両方の市場においても取引相手との関係で優越的な立場にあるのであれば、それはまさに支配的だといえる。楽天のケースについては、一方の市場では競争的な状況に直面していて、他方の市場では取引相手に対して優越的な地位を確立している場合、だといえようか(楽天側はそもそも優越的地位の存在それ自体を争うかもしれないが)。

楽天はこの点について強気に見えるのは、一般消費者獲得をめぐってAmazonなどと熾烈な競争をしており、「楽天には消費者が味方に付くはずだ」という「正当化」ができると考えているからだろう。

第二は、第一の点に関連するが、送料無料の義務付けが「売り手に負担を増やす」というが、果たしてそうなのか、という点である。買い手側から見れば、ものを買うとき、自分がトータルでいくら払うかが重要である。その比較において「どこが一番得なのか」を考えているはずだ。送料無料の義務付けとなれば、それまで送料を含まなかった商品の値段が「実質、送料込み」の値段となる訳だから、表面上、高くなるのは自然な帰結である。

「送料無料にするという前提での値段を示せ」というのでも、「(無料の場合も含めて)送料込みの値段を示せ」というのでも、結果、同じことだろう。そうではダメなのか?

売り手側からすれば「高く見られるのは嫌だ」という抵抗感があるのだろう。どっちにしても嫌がるかもしれない。

プラットフォーマーからすれば「送料無料」というイメージが欲しいのかもしれない。そうであれば後者ではダメなのだろう。「売り上げが伸びて店舗のメリットにつながる」との楽天の主張はこのイメージを意識してのものなのだろうか。

問題の本質は、実は、値段が安くなる、値段が高くなるということではなく、「見せ方が変わる」ということについての鬩ぎ合いだ、ということなのではないか。そうだとすると、どっちもどっちという気もする。

もちろん、実質的に値段が上がる、あるいは下がるというのではあれば話は別だ。このケースの帰結を詰めて吟味する必要がある。

何れにせよ、今後の公正取引委員会の反応が注目される。

快記録を連発する厚底シューズ:公正な競争を実現するルールは何か?

厚底シューズを履いたマラソン選手が快記録を連発している。ついこのあいだの箱根駅伝でも話題になった。とりわけ、それまで圧倒的だったラドグリフの女子マラソン世界記録がコスゲイによって約15年ぶりに塗り替えられたのは衝撃だった。

その厚底シューズを認めないという動きが世界陸連(World Athletics)であるそうだ。The Times紙(「Nike’s record-breaking running shoe to be banned」(1月15日))などが報じている。似たような事例として水泳の水着問題があった。スピード社製の高速水着「レーザー・レーサー」が新記録を連発し問題となり、その後禁止された(これらの問題は、田村崇仁氏のコラム「箱根駅伝で「厚底シューズ」旋風、新記録連発で規制の動きも?」の解説参照)。

スポーツ科学が導き出した技術を靴や水着に実装した結果、記録が向上した。その何が問題なのだろうか。それはスポーツにおける「公正な競争とは何か」という問題と言い換えることができる。

例えばF1などの高速自動車レースでは、選手の力量だけでなく、エンジンや車体の性能やメカニックのスキル、スタッフのチームワークなど、総合的能力によって勝敗が決まる。「あの選手はエンジンのおかげで上位に食い込んでいる」などという指摘はあるかもしれないが、だからといってレース自体の有効性を問う声は出てこないだろう。表彰が個人単位でなされるのに加え、チームとしての順位も付けられ、それがファンの強い関心事になっており、このスポーツの魅力を高めている。誰々のファンというよりもどこどこ(例えばフェラーリ)のファンという人も多かろう。

もちろん、F1にはF1のレギュレーション(技術規則)が存在する。それも詳細に、厳格に存在する。その範囲でギリギリの勝負をする。イノベーションが起これば、それがまた将来のレギュレーションに反映される。その繰り返しである。

「マラソンはシューズ製造会社の技術の勝負であって選手の力量は無関係である」という前提を置くことも理念的には可能ではある。ある同一の選手がシューズ以外は全く同じ条件(これは実際上不可能である)で走ったときの時間で競い合い、タイムの短い順で表彰する。そういう競争も競争である。しかし陸上競技は「選手の競技」である。そこにツールの技術が絡んでくる。F1のように「選手とチーム」の「組み合わせ」で勝負しているのであれば、厚底シューズは大した問題にはならないのかもしれない。

問題は、レースをする側(見る側も含まれよう)に、「何の勝負をしているのか」ということについて「どのようなコンセンサス、共有化されたルールがあるか」ということに帰着する。競争の公正さにおいて重要なのは、合意された統一のルールの下にあるかどうか、である。スポーツにおける競争(勝負)とは共通のルールがあって初めて成り立つものであり、その解釈も共通のものでなければならない。そうしなければ比較可能にはならないし、勝敗を付ける根拠を失ってしまう。

悩むのは革新が起きたときだ。ルール上は禁止されていないが、誰も気づかなかった技法を始めた、あるいはある誰も使ったことのないツールを使った選手が新しい記録を出したとき、どう対処するか。

一つがその創意工夫を受容することである。それが有効な手法なら他の選手は真似をするだろう。その後、競技のスタイルがガラッと変わるかもしれない。走高跳や走幅跳における「跳び方」の技法はそのカテゴリーに入るだろう。そこで共有されている競い合い方のルールは、自力で走り、道具を使わずに高く、遠く跳ぶことにあるのであって、跳ぶ技法の変化はそのルールに形式的にも実質的にも反しないからだ。

もう一つが許されざる「想定外」としてその後ルールで禁止することである。禁止対象には指定されていなかったし、知られていなかった薬物であるが、禁止されているものと同様の効果と同様の危険を生じさせるものを使用した場合、がそれに当たるだろう。あるいはその結果をキャンセルすることである。この場合、そもそも「ルールに違反した」という扱いをすることになるが、それは「暗黙のうちに合意があったものに違反した」と理解をすることを意味する。

厚底シューズの問題は結局、何なのだろうか。陸上競技において暗黙のコンセンサスがあるとすると、それは一体どのようなものなのだろうか。ここで重要なことは、陸上競技の他のスポーツとの違いの一つは、レース自体の勝敗(競い合い)のみならず、過去の記録との比較という、もう一つの競い合いを展開しているということだ。

過去の記録を更新したとしても、技術的革新の前後で比較したところで果たしてどれだけ意味を有するのだろうか。野球の通算(あるいは年間)ホームラン記録も似たような 問題を抱えている。

だから急激な環境の変化は歓迎されない。特にアスリートの使う「ツール」の変化はそうである。

マラソン・シューズの技術は日々進歩している。アベベが裸足で走って、その後靴を履いた頃と比べれば、その性能は飛躍的に向上している。仮に2020年の技術が1960年代に突然導入されたらその当時の競技関係者はどう思うだろうか。メーカーの提供する技術が突出して目立つと、心理的に抵抗感を抱く。選手の弛まぬ努力で10秒、20秒、時間をかけてギリギリ詰めてきたのに、シューズの性能で突然1分、2分短縮されてしまうとは・・・そういう感情なのだろう。つまり、マラソンにおいては選手が主でシューズは従の役割が求められている、そういう「コンセンサス」がどこかにあって、メーカーの役割が急に目立つと、状況がそういうコンセンサスの射程外に置かれてしまう、そこに心理的な抵抗感(期待からの離脱)を覚えるのではないだろうか。

「新型シューズを皆、履けばよいではないか」という意見もある。無体財産権が絡むと独占という別の問題が出てきてしまうが、そうでなければ、そして安全性の問題がないのであれば、何が悪いのか、ということを説明するのは難しい。本人が走る以外の何かで勝負している、という批判をするならば、そもそも「靴を履くな」「同じ靴を履け」という極論に行き着いてしまう。

仮にメーカーが1年かけて実現した技術進歩が、練習方法の革新や肉体改造、走法や呼吸法の改善による1年分の記録の向上に匹敵するものだとするならば、それは受容されるべきものなのか。その技術進歩が10年分の記録向上を実現したらどうか。問題の本質は、技術開発のスピードが早過ぎた、あるいは唐突過ぎたが故に、記録更新の「度合い」がアスリートの努力、工夫を相対的にキャンセルしてしまうほど大きなもの感じられてしまう、その「無力感」にあるといえるのではないだろか。

ルールの問題としてこれをどう論じるか。陸上競技のあり方を考えるいいきっかけにはなるだろう。

「話し上手」ということと「雄弁である」ということ

大学教員に話し上手な人はあまりいない。もちろん、何割かは喋るのが仕事なので、経験が長い分、多くの学者はそういう仕事でない人と比べれば喋りはそれほど下手ではない。しかし、大学受験予備校の人気講師などと比べればその足元にも及ばない。予備校講師は「学生に如何に興味を惹かせ、効率よく教えていくか」が競争の要素だから、生き残るためには「話し上手」であることが最大の武器となる。FD(ファカリティー・デベロップメント)の取り組みは確かに最近盛んで、教員評価がうるさくなりつつあるが、予備校講師と比べれば、まだまだ厳しい競争に晒されているとは言い難い。

通常、大学生にとって大学教員との接点は「授業」「ゼミ」であって、「研究」ではない。研究の世界でよく知られた教員だからといって教え方が上手いとは限らない。ただ、研究の第一線で活躍している研究者の授業は大抵、情熱的ではあるが。

法科大学院では実務家教員として現役弁護士が講義を担当しているが、(私の知る限り)皆、話し上手である。一番大きな理由は「普段、お客さん(クライアント)を相手にしているから」であろう。お客さんに「わかりやすく丁寧に説明」しなければ仕事を失ってしまう。そして常に対峙する、あるいは説得する専門家(紛争の相手方弁護士、裁判官)に向き合っているからであろう。一定の知識を有する者に論理と証拠を用いて「上手く説得」しなければならない。

これは政治家の「雄弁さ」とは意味が違う。「雄弁さ」とは「人に感動を与えるような、巧みで、力強い」という意味での「有効な話し方」である。もちろん、それは「話し上手」ということではあるのであるが、その狙いが政治的なところにあることに注意しなければならない。つまり民主主義のプロセスにおいて自らの主張(や思想)を実現するための「説得術」ということである。説得された側は「投票」という行動で「いいね」を表明する。専門的知識を有している人々だけを説得しても、(議席獲得のための)ボリュームのある支持は獲得できない。相手から政治的な支持を受けるために話しているのだから、それはしばしば修辞にはしり、「扇動的に」なったり、「偽善的に」なったり、「盛って」いたりする。

リーダーには「雄弁さ」は不可欠の要素なのかもしれない。しかし、同時に警戒もしなければならない。筆者は、政治家や評論家を見て「ああ、この人は雄弁だなあ」と思ったら、「話し半分」で聞くようにしている。「半分」というのは「嘘が半分」という意味ではない。他の人が同じ内容のことを「雄弁でなく」話したら半分の説得力しか生み出さないということだ。

ある意見を形成したり、政治的な判断をしたりするとき、重要なのは「自分の頭をクールにして考えたときどうなのか」である。民主主義に求められるリテラシーとはそういうものではないだろうか。

「すしざんまい」の意地と戦略

5日の毎日新聞の記事(「大間産クロマグロに1億9320万円 「すしざんまい」会社が落札 豊洲初競り」)より。

豊洲市場(東京都江東区)で5日早朝、令和初となる新春恒例の「初競り」があった。毎年高値がついて話題となるクロマグロは、1本276キロの青森県大間産が最高値の1億9320万円(1キロあたり70万円)で競り落とされ、昨年に次ぐ史上2番目の高値となった。

記事によれば「大間産が最高値となるのは9年連続」で「最高値のマグロを落札したのは2年連続ですしチェーン「すしざんまい」を展開する「喜代村」(中央区)」だという。

一本「一億円超え」とはなんとも「豪快」だが、「初競り」は全国ニュースになるのだから、「豪快」であればあるほどバリューがある。「すしざんまい」は各メディアにとっては絶好のニュース源なのである。「今年もやってくれた」、そんなニュースが欲しいのだ。

「すしざんまい」も譲れない。「今年は違うのか」という(残念な)ニュースは、その「勢いを削ぐ」ことになり、これはどうしても避けたい。ここの社長さんは「マグロ大王」の異名を持つという。自分でも、自社のウェブサイトでそう公言している(「マグロ大王の部屋」)。

これはもう「風物詩」の領域だ。この光景を見ないと年が明けた気がしない。釣り上げた漁師の「一攫千金」のストーリーもまた、毎年話題になる。ここまでくると、ここで「競り落とす」ことは、この時期に「景気の良い話」を提供する、この企業ならではの「CSR(企業の社会的責任)」のようなものともいえる。

このような「一回の取引」による(ブランドとしての)全体のバリューの向上は、非常に効率の良いレバレッジ効果が働く有効な戦略だ。加えて「三方良し」を可能にする、効果的な社会貢献ともいえる。

重要なことは、この規模の企業でなければそれができないということだ。小さな企業がそんなことをやったら身が持たないし、それが寿司の価格に反映されれば結果として消費者にとってマイナスになってしまう。「広告宣伝費」と「割り切れる」ぐらいの規模がなければ、耐えられない。話題性の高さが売り上げを伸張させ、その分、余裕ができて消費者に還元できる。そのぐらいの「大展開」が前提になる。

「すしざんまい」の高価落札の報道を見て、少し前に筆者がアゴラに掲載した、五輪で使用する空手用マットの「一円入札」を思い出した(「東京五輪空手用マット「1円落札」は妥当か?」)。独占禁止法上、著しい原価割れの販売は、他の業者を排除して自らの支配的地位を形成する効果が伴えば、「不当廉売」として問題になるが、五輪で使用する器材の場合、市場全体での他業者の排除効果がない以上、問題にならないだろう。(積極的な宣伝はできないにしても)「口コミ」も期待でき、広告効果は少なくない(受注実績は業界では共有される知識になる)ので、そもそも競争制限を問えるのか疑問でもある。

高く買う行為も「不当高価購入」として独占禁止法上規制されているが、同様に他の業者の排除や市場全体への悪影響が問われるものであって、個別の取引ではなく市場全体において他の業者の排除効果がない以上、一回の高価落札だけを問題視することはできない。

筆者は今では独占禁止法の研究者であるが、学部時代はマーケティングのゼミで流通やブランディングを研究する学生だった。CSR論はその当時からのテーマで、法学研究者となってからも主たる関心の一つであり続け、2010年には『ハイエク主義の「企業の社会的責任」論』(勁草書房)という著作を刊行してもいる。冒頭の報道が興味を惹かない訳がない。

「すしざんまい」は近いうちにマーケティングの教科書に載るだろう。CSRとブランディング、そして広報の各ケースとしてで、である。横浜中華街に出店した立地戦略も興味深い。

どうなる、コンビニの深夜営業・元旦営業?

深夜営業に続き、元旦営業の是非(可否)をめぐって揺れているセブンイレブンに新たな動きがあった。12月29日の産経新聞ウェブ記事(「時短セブンの契約解除 オーナー反発、訴訟検討 31日付、クレーム理由に」)より。

セブン-イレブン・ジャパンは29日、自主的に時短営業をしていた大阪府東大阪市の加盟店オーナーに対し、31日付でフランチャイズ契約を解除すると最終通告した。オーナーが明らかにした。セブン本部は店へのクレームが多いことを理由にしているが、オーナーは反発しており地位確認などを求める訴訟を検討。店の明け渡しを拒否するとともに独自に営業を続けるという。

司法判断に委ねるということなので、その推移を見守るしかないが、一点確認したいことは、「契約の自由」の観点からは、フランチャイザーであるセブン-イレブン・ジャパンの方に軍配が上がるべき事案だということである。フランチャイザー側からすれば、「深夜営業も元旦営業も勝手に止めることはできないって契約したでしょう。」ということだ。「いつでもあいている」という「ビジネスモデル」なのだからそういう契約なのであって、自分の都合であけたりあけなかったりするのなら、「セブンの看板を降ろして」ということになる(今回のケースはそれ以外の理由での解除通告であることに注意)。

しかし、フランチャイジーであるコンビニ側がここまで粘れるのは何故か。もちろん、「ブラック企業という風評」をフランチャイザー側が恐れて妥協するのではないか、という(マスコミによる影響の)期待がその背景にあるが、もう一つさらに独占禁止法という「守護神」が後ろに控えていることを忘れてはならない。

過去の記事でも引用したが、2019年4月24日付の朝日新聞記事は、次の通り報じている(「コンビニ24時間、見直し拒否で独禁法適用検討:公取委」)。

公取委の複数の幹部によると、バイトらの人件費の上昇で店が赤字になる場合などに店主が営業時間の見直しを求め、本部が一方的に拒んだ場合には、独禁法が禁じている「優越的地位の乱用」にあたり得る、との文書をまとめた。

フランチャイザーもフランチャイジーもどちらも事業者であり、プロ対プロの対等な取引だというのが契約上の建前であるが、明らかにその置かれた立場は違う。他のフランチャイザーに容易に乗り換えることもできなければ他の業種にも転換できない多くのコンビニは、強大なフランチャイザーとの関係で圧倒的な劣位に晒されている。優位に立つ事業者は、自らに不利益になることは一切受け入れず、自らに有利に働けば相手方に不利益になることでも容易に選択する。契約の段階では「win-win」の構造にあるように見える契約も、よく見ればどちらかに一方的に有利な内容になっているかもしれない。

このコンビニをめぐる独占禁止法の問題は、フリーランス人材をめぐる同法の問題と類似する点がある。フリーランス人材に係る最近の問題は、フリーランス=プロという構図が成り立たなくなっている点に特徴がある。ギグエコノミー、シェアリングエコノミーと呼ばれる経済のあり方が浸透する中、フリーランサーは人々の「働き方」として容易に選ばれ得る選択肢である時代となった。しかしこうした人々は労働法制の盾を用いることができない。そこで注目されたのが独占禁止法である(NHKの「視点・論点」に最近筆者が出演し、このテーマ(「フリーランス人材と独占禁止法」)で話したので参照いただきたい)。

我が国で半世紀近い歴史を持つコンビニは、「脱サラ」手法の古典のような選択肢として知られている。アマチュアが「一国一城の主」になる、そういう生き方である。「働き方の多様化」の先駆のような存在だ。確立したビジネスモデルをそのまま利用できるので、営業ノウハウに乏しいサラリーマンには飛びつき易く、それがリスク分散を重視するフランチャイザーの思惑と合致した。もちろん営業指導に係る「面倒は見る」が、最後は「自己責任」という世界である。あらゆるビジネスと同じように、「成功する者もあれば失敗する者もある」のは当然である。どちらが正しくて、どちらが正しくないと割り切れる問題では本来にはない。ただ一ついえることは独占禁止法(公正取引委員会)がどう出るかで、問題のあり方が大きく変化するということだ。

コンビニと独占禁止法の問題は、フリーランス人材と独占禁止法の問題を考える上で重要な試金石となるだろう。

数日前、こんな記事を見かけた(「コンビニ「柔軟経営を」=24時間営業は需要次第—経産省報告原案」)。

コンビニエンスストアの在り方を検討する経済産業省の有識者検討会(座長・伊藤元重学習院大教授)は23日、24時間営業など長時間労働の改善に向け、コンビニ大手に「店舗の置かれた環境に応じて柔軟な経営を認める」ことを促す報告書原案を公表した。来年1月に報告を正式にまとめる。報告書に法的な拘束力はないが、政府の要請を受け、大手各社は業務改革の徹底を求められそうだ。

セブン-イレブン・ジャパンは一連の問題を踏まえて、時短営業の試行範囲を拡大し検証を本格化させるとも聞く。今後、コンビニのビジネスモデルは本質的な変化を遂げるのか。人々の生活において切っても切れない存在であるコンビニの、今後の動向が注目される。

フリーランス人材と移籍金、契約解除金

少し前のFNNのニュース(「芸能契約書が変わる 業界団体が契約書を見直し」)。芸能人の移籍制限に対して独占禁止法の適用の見解を公正取引委員会がまとめたというニュース(「芸能人の移籍制限は「独禁法違反」―公取委」)にリンクして、業界側の動きを報じたものだ。

関係者によると、国内最大の芸能業界団体「日本音楽事業者協会」は、契約書のひな形を見直し、芸能人との契約更新の際、独立や移籍を事務所側の判断で先延ばしできるとしてきた規定を削除するほか、「移籍金制度」を導入する方針で、関係者向けの説明会を開いている。

サッカー選手の移籍金制度のようなものを考えているのであろうか。Wikipediaによれば、「移籍金」とは「プロスポーツ選手が所属する団体(クラブ)との契約期間中に所属団体(クラブ)を変更(移籍)するにあたり、新しい移籍先から元の所属団体に対して支払う金額のことである。」とのことである(「移籍金」の項)。すなわち選手の保有権を譲渡することの代償としての金銭のことである。移籍先のチームと選手との間で予め合意がなされている移籍金は、チームと選手の間で定めた金銭を新しいチームに支払えば自由に移籍が認められる(バイアウト条項)という趣旨のもので、「契約解除(違約)金」と呼ばれるようだ(元の所属先に支払う場合とそうでない場合とがあるようだ。詳しくは、サッカー・ダイジェストWeb版の記事、「『契約解除違約金』ってなに? ネイマール電撃移籍で再注目」を参照)。

欧州サッカー界における現行の移籍金制度、契約解除金の運用は、チームとの契約が完全に終了した選手の保有権をチームは主張できないとした「ボスマン判決」を受けて、現在のような形で定着している。

芸能事務所が「移籍金」「契約解除金」のようなものを定めたとしよう。デビューしたてのタレントの場合、いくらが妥当なのだろうか。将来化けるかもしれないし、それだけの投資に見合うタレントと思えば「●億円」と定めておいて、あとは(事務所間の同意を求めて)「応交渉」としておくのが事務所にとっては都合がよいか。あるいは単に「応交渉」とだけ出しておくか。何れにしても「移籍金」や「契約解除金」という概念を出してきただけで「自由な移動」が保証された訳ではない。

タレントはどこからか購入して誰かに売り渡す「再販売」の商品ではない。だから値段を予め付けるのは難しい。「契約解除金」を定めるとすると高額になるのは必定である。低額で設定されるとするならば、事務所自体「評価していない」ことを自ら吐露するようなものだから、ハッタリでも高めに設定するかもしれない。

さらにいえば、今日本で問題になっているのはフリーランス人材の契約をめぐる独占禁止法上の問題である。想定されるのは、クラブや事務所との関係で劣位に立たされる選手やタレントであり、選手やタレントとの関係で優位に立つクラブや事務所である。バイアウト条項を定めるにしても、金額設定に関するそもそもの交渉力が選手やタレントにはないのが一般だ。選手の報酬がもともと高い場合には、バイアウト条項は選手にとってそれほど大きなハードルにはならないが、報酬が低い場合には「解除金の高額設定」は「一方的に不利な移籍制限」でしかない。

交渉による金銭的補償の合意に基づく移籍という場合、元々の「引き抜き禁止」の慣行が定着している限り、移籍金制度といってもワークしない恐れがある。そもそもそのような慣行がなければ、契約期間満了前のタレントを引き抜くために移籍金のようなものが現れ、既に定着していたのではないだろうか。業界における「引き抜き禁止」慣行は事務所間の共同行為(カルテル)の問題である。事務所とタレントとの契約関係を問題にする優越的地位濫用規制や不当な拘束条件付取引規制とは別次元のものである。サッカーにおける選手市場との背景の違いをよく吟味すべきだろう。

「移籍金制度」は独占禁止法違反を回避するための有効な処方箋となるか。

 

一括発注の罠:医薬品談合事件

先月28日の産経新聞のニュース(「医薬卸、一括受注悪用か 談合疑い4社、シェア9割 公取委「生活影響も」)より。公正取引委員会は現在、独占禁止法違反の疑いで、医薬品卸4社を強制調査した。検察への刑事告発を視野に入れた調査とのことである。

全国57病院を運営する独立行政法人地域医療機能推進機構(東京)が発注する医薬品の入札をめぐる医薬品卸売大手4社による談合疑惑で、過去3回の入札で落札したのは、全てこの4社だったことが28日、分かった。再編が進んだ医薬品卸売業界で巨大化した“4強”が医療費抑制のための一括発注を逆に悪用し、数年前から利益確保を図っていた疑いが浮上している。

記事によれば、「同機構では、地方病院の経営効率化が課題とされ、複数病院で医薬品を発注する場合は「共同入札」として、同機構が2年に1回、一括発注する方式が採られた」が、その理由は「一括でやった方がコストカットできる」からだという。しかし、「全国規模の納入に対応できるのは実質的に4社に限られ」る。記事では「巨額に上る医薬品を一括受注できる上、同機構は公的機関のため民間と比べて卸値を買いたたかれる懸念もない」と指摘するが、これは競争入札になれば、予定価格は高めに設定されるということを意味するものといえる。こうした事情が受注調整を容易にしたとみられている。

筆者はいくつかの発注機関で入札監視委員会や契約監視委員会の委員(長)を務めており(務めてきた)、そこでこの一括発注、共同購入の入札状況を数多く見聞きしてきたし、そのメリット、デメリットについて何度も討議をしてきた。

従前バラバラに発注してきたものを一括で、あるいは共同で発注する。そうすれば単価あたりの費用が下がるはずだ。その直感は正しい。しかし、業者が取り扱える量に限界がある。それが数社に限定されるならば談合し易い環境となり、その誘引が強くなる。競争的であれば確かに「より安く」調達できるのかもしれないが、談合されれば「より高く」なってしまう。談合されてもより安くなるような「一括発注、共同購入の効率性」が存在しなければ事態はただの悪化となる。このケースは全国規模の納入に対応できる業者が絞り込まれてしまい、談合を誘発したという「裏目に出た」ものである。

共同発注、共同購入のタイプとして、複数の種類の物品を一括発注するというものもある。例えば、文房具などを種別ごとにバラバラに発注するのではなく、いくつかの種類のものを併せて購入しようとすれば、確かに運送費等の観点から直感的には安くなるような気がするが、必ずしもそうはいかないことがある。その結果、一者応札になることがあるからだ。とりわけ地方自治体の発注のように地元調達に拘れば競争業者の数が相当に絞られることになるので、その傾向はますます強まる。

「一括発注、共同購入」は独立行政法人の調達改善計画の定番だ。しかし、それによって競争状況がどうなるかといった考察も同時に必要になるものである。確かに入札談合は法令違反そのものであり、それを摘発するのは各発注機関の役割ではない。しかし、自らの調達改善への取り組みが違反を誘発するのであるならば、その責任の一端はやはり各発注機関にあるといわざるを得ない。

一方で、発注機関が「応札業者数」「応札可能業者数」といった表面的な競争性に拘り、却って効率的、合理的な調達を自ら妨げる結果となる場合もあり得る。競争入札において仕様や入札参加資格の設定を「最低限」にするべきだという主張は、ほぼ暴論である。正しくは「合理的な仕様や入札参加資格を設定すべき」か、あるいは「競争性低下のデメリットとの比較でその妥当性を考えるべき」、というべきである。

「競争性」は軽視してもいけないし、拘泥してもいけない。公共契約をめぐる競争論は、一般に思われているほど単純ではない。