「自分の物差し」で考えるな。

論壇誌でもSNSでも同じことがいえるのだが、相手の言論を批判する人々の多くが「自分の物差し」で物事を決め付けている、ということをよく感じる。特に勢いのよい言葉遣い、醜い表現、小馬鹿にしたようなものの言いようを伴う批判のケースでそう思われることが多い。

どんな言論であっても、言論の基礎となる知識と経験に影響されるものである。その知識や経験が異なれば相手の言論は、相手の発するものとは違ったものに見える。真意が伝わわらないままに誤解され、批判される。これは言論において最も悲しい出来事である。

自分の価値観でしかものを語れない類の批評家も同様だ。こういう人々に「知識人」という言葉を当てはめるのは本来おかしいとは思うが、知識人と呼ばれる人々にはそのような狭量な視野の者が多いように見える。言葉遣いは歯切れがよいし、それなりの文章力があるので、「尖った」批評家が重宝されるのであろう。相手のスタンスなどお構いなしに「斬りまくる」痛快さを読者が求めているとするならば、根本問題は読者のリテラシーということになる。批評家はある種の役者のような存在だ。言論の当事者ではもはやない。

相手の立場を理解しようという真摯な態度を貫く批評家は、自信があるのだろう、自ずと文章が穏やかになる。しかし同時に迫力がある。そういう批評家に出会うことが少なくなった。私はそういう批評家とは程遠いが、そういう自覚があるだけまだマシかもしれない。