法執行は何のため? 刑法の場合
一見、当たり前のことを論じようとしているように思われるかもしれないが、そもそも民事、刑事、行政といった独禁法に係る各種法執行はそもそもいかなる狙いがあるのか、という点を明らかにしておくことは、独禁法の法執行制度の特徴を把握するためには重要なことだと思う。
刑法の教科書を開くと、その冒頭に必ずといってよいほど「刑法には二つの目的、機能があって」とされ、「応報」と「違反抑止」が列挙されている。応報とは読んで字の如く、「報いを受ける」ということだ。「報復」という言葉からも分かるとおり、自分の悪い行いに対して社会が(国家が)害悪を自分に与えるということだ。だからその害悪に見合った害悪である必要があり、それを越えれば過剰報復となり規範に反するということで、「罪刑均衡」という発想が生まれる。一方、抑止効果を狙った刑法の機能には一般予防と特別予防とに区分される。前者は自由刑を念頭において罪を犯した者を更なる潜在的犯罪者として一定期間社会から隔離することで危険を除去するという発想で、罰が犯した罪に対する償いであるという前提をおくと説明が付かないものになるが、世の中一般では比較的説得力のある刑罰の存在根拠として受け入れられている(潜在的犯罪者の人権を無視するならば、そして事実誤認のリスクを無視するならば、その者が社会にもたらす危険を数値化したもの(社会的害悪の大きさ)と、その者を隔離することにかかる費用(国民が共同して負担するコスト)の比較で前者がより大きい場合には隔離が正当化されることになる)。
もう一方の一般予防とは、刑罰という害悪の予告によって「犯罪を思い止まらせる」効果を狙ったものだ。実際に罪を犯した者はその予告を無視した者として予告通りの刑罰を受けるという仕組みだ。刑罰が科されなければ、その予告が偽りのものとなり今後の抑止効果が期待できなくなる(極端なことをいえば「刑罰を科したふり」だけでもその効果は維持できるが、その事実が判明したらそれまでだ)ことから、実際に刑罰が科されることになる。抑止効果が完全に効き、犯罪がゼロになれば刑罰自体もゼロになる。ただ実際にはゼロになることはないし、見つからない犯罪まで含めればゼロにすべきではないという見方もできる。
「実際にはゼロになることはない」という言い回しはまだしも、「見つからない犯罪まで含めればゼロにすべきではない」という言い回しには抵抗感を覚える読者も多いのではないだろうか。犯罪などというものは、完全にシャットアウトするべきものであり、一定の件数の存在を最初から容認するのはナンセンスだ、という反応をしばしば刑事法学者からも受けることもある。正義(の追求)と真実(の発見)で全てが解決できるというピュアなマインドはそれ自体素晴らしいことであるが、この手のものの見方には、なにごとにも費用面、時間面での制約(=コスト上の制約)というものがあるという基本的な事実認識が欠如している。
害悪の告知によって違反を抑止するという一般予防の発想は、それ自体当たり前のことをいっており、議論すべき余地もないようにも思われるかもしれないが、ここでは少し立ち止まって考えてみることにしよう。
まず、違反行為を抑止するための刑罰の重さはどのようなものだろうか。
簡単にいえば、国家が違反行為によって犯罪者が得る利益を上回る害悪を刑罰として科せば、それを見越した潜在的犯罪者は犯罪を思い止まるということになるが、問題は簡単ではない。つまり、それだけでは「あらゆる犯罪が一切の費用をかけることなしに、100%発見し、訴追でき、有罪とし、実際に刑罰を科す」ことができるという「のっぺらぼう」な世界の話である。
発覚率を無視することはできない。10回に1回しか見つからない犯罪であれば、見つかったときに犯罪の利益を全て失い、さらにより大きな害悪を受けることになったとしても、犯罪を躊躇するとは限らない。この「10分の1」という確率をカウントしなければならないからだ。単純に、10回に1回の確率でaの重さの刑罰を受けるというならば、(確率を考慮して、という意味での)「期待としての刑罰」はa/10となる。これと犯罪によって得られるだろう利益(これも、犯罪を犯せば確実に手に入るという利益を念頭におくならば確率は100%となるが「期待」ということになる。)と比較してその大小関係を見ることになる。同様に有罪に持ち込まれ、刑が執行されることの確率、期待をカウントしなければならない。理屈は分かるが実際の計算は容易ではないだろう。
そしてコストである。つまり(税金の投入という形で理解される)国家的財源の利用に見合うだけの犯罪の抑止なのか、という視点も重要だということだ。警察や検察に大きなコストをかけさせておいて社会的にほとんど影響のない微罪が摘発されたというのは「割に合わない」。そのコストが他の用途に用いられたならば得られただろう効用を考えた場合の、当該犯罪抑止のための費用負担(これを「機会費用」という)は、果たして合理的なのか。犯罪抑止によって守られる社会が享受する利益の大きさ(害悪の回避)とそこに投入されるコストの大きさとの比較をすることが、合理的かどうかの指標になる(テクニカルには、犯罪抑止による限界社会的利益(なる)曲線(右肩下がり)と犯罪抑止に必要な限界社会的費用(なる)曲線(右肩上がり)の交錯地点で最適抑止の水準が決まる、ということになる。この「最適抑止」という発想が刑事法学者には随分と「ウケが悪い」ようである。個人的な経験として、ある刑訴法学者がから「刑事法には「最適な水準」などという概念はありませんが・・・」、と真顔で反応されたことがある)とするならば、「単に発覚率等を考慮して犯罪をやめさせる」だけの抑止論とは異なる抑止論が導かれるということになる。そしてそのコストが実際にどのくらいかかるかもケースバイケースで、ある一定の確率分布に従って変化するなどという面倒くさい前提を置き始めると考察は複雑になるばかりである。
独禁法に係る犯罪の場合、あまりこうした議論に行きつかない。理由は3つある。
第一が、独禁法違反がもたらす社会的害悪は存在する犯罪のメニューの中でも格段に大きいということだ。例えば、ある公共工事の入札談合を想起し、その被害額が契約額の10%と想起するだけでその社会的害悪の大きさがイメージできるだろう。例えば、2000年代前半の年の道路公団等発注の橋梁談合事件に係る発注総額は数千億円だった。海外の事例では日本円で一兆円規模の制裁が科されるケースもあることを考えれば、細かく論じなくてもその独禁法違反によってもたらされる社会的害悪の大きさは容易に理解できるだろう。
第二が、刑事告発の専属的な権限を持っている公正取引委員会には三四半世紀にわたる知識と経験の蓄積があり、社会的害悪の大きさを考慮すれば、その効率的な手続の遂行のスキルによってコストが無視できる状況にあるということだ。また2005年の独禁法改正で導入された課徴金減免制度によって証拠収集が容易になった(すなわち大幅なコスト削減効果を実現できた)ことも、コストを無視できる大きな背景事情となっている。
そして第三に、第一の点にリンクするが、公正取引委員会が刑事告発は、刑事罰の対象となる違反類型に該当する全ての違反行為に対してなされるものではなく、「悪質」「重大」なものに限定されているということである。この点もコストを無視できる状況を作り上げている。
刑罰のインパクト?
独禁法上の制裁としては大きく刑罰としての自由刑、財産刑と行政上の制裁(措置)としての課徴金とがある(民事救済制度は我が国には米国のような懲罰的賠償や三倍賠償の制度がないので「制裁」的色彩はないものと考えてよい)。刑罰は個人と法人の両方に科される(さらには法人の代表者にも)一方、課徴金は事業者(通常は法人であることが多い)のみに課され、その内容も差があるので単純な比較はできないが、少なくとも企業(事業者、法人)に対する金銭的制裁においては同じ機能を発揮しそうではある。この「かぶり」が問題になるのが、不当な取引制限規制違反である。不当な取引制限規制違反については法実務上、原則は排除措置命令と課徴金納付命令という行政処分で処理されるのだが、悪質、重大な事案については公取委によって検事総長に刑事告発され検察側はこれを受けて起訴し、刑事事件となる。そうなると同一事業者(法人)に対して行政上の制裁である課徴金納付命令が下されつつ、刑事罰としての罰金刑が科されることになる。罪刑均衡の要請からバランスを欠くものではなければ問題ないとするのが一般的な理解ではあるが、法のメカニズムとしては違和感がある。わざわざ重複して制裁を下す理由がどこにあるのか、ということである。法制上も刑事罰と課徴金の機能が被るという理由で、次の規定が設けられている。
独禁法7条の7第1項:
公正取引委員会は、第七条の二第一項の場合において、同一事件について、当該事業者に対し、罰金の刑に処する確定裁判があるときは、同条、第七条の三、第七条の四第二項若しくは第三項又は第七条の五第三項の規定により計算した額に代えて、その額から当該罰金額の二分の一に相当する金額を控除した額を課徴金の額とするものとする。ただし、第七条の二、第七条の三、第七条の四第二項若しくは第三項若しくは第七条の五第三項の規定により計算した額が当該罰金額の二分の一に相当する金額を超えないとき、又は当該控除後の額が百万円未満であるときは、この限りでない。
なぜ「二分の一」かという理由は定かではないが、ラフに「刑法の半分の機能は抑止、残りは応報」という発想だと思われる(それにしてもラフだ)。
ゼロベースで考えてよいのならば(立法上はそうはいかないのであるが)、刑事罰と行政上の制裁が同じ抑止機能を有するならば、どちらか一つに一元化してはいけないのだろうか。例えば、刑法は個人処罰だけ残して法人処罰の制度は止めにする(すなわち課徴金に一本化する)という立法論は合理的といえるだろうか。
(一度法制化されたものを廃止するのは面倒だという反論は法整備において実際にかかるコストを考えれば多少の説得力はあるがこれは措いておいて)これに反対するロジックがあるとすると、刑法には行政上の制裁にはない機能があるというものだろう。一つは前にみた「応報」なのであるが、しかし組織体に対して「応報」という概念が馴染むのかは疑問なしとしない。もう一つはスティグマ(烙印)効果だ。行政上の制裁では、なされた行為の反規範性に対する制裁を当該当事者に与えるのは不十分であり、刑法犯という烙印を押すことでより強い法の意思を与えることができるという発想だ。確かに「前科者」という印象は今後の社会生活を営む上で大きな足枷になる。その効果が持つ抑止効果は大きい。しかし、それはあくまでも実際に存在する社会的機能であって、刑法が本来的に発揮するべき法的機能なのかというと疑問がある。それは確かに応報なのかもしれないが、烙印という害悪に相当する被害は何か不明であるし、抑止効果をいうのであればそもそもの刑罰の重さの問題として議論すれば足りるはずだ。「前科者という烙印」の脅しは国家権力による人々の統制には有効だろうが、課徴金か刑罰かという選択の中で果たして意味のある視点かは疑問である。そもそも応報の場合と同様、組織体に烙印を押すことの意味がどれほどあるのだろうか。組織体の場合、時間が経てば人が変わるが、後からやってきた人にその烙印の効果を残存させる合理的理由はどこにあるのだろうか。
米国反トラスト法の場合、日本の不当な取引制限規制に相当するシャーマン法1条違反にはこのダブりがない(刑事罰か差止訴訟)。欧州の競争法は行政上の制裁で一本化されている。日本の場合は、排除措置命令を起点としつつ場合によって刑事罰を科すという形で始めたのだが、70年代の石油カルテル事件の後に課徴金制度が導入されたことで「二重制裁」のような形になった。罪刑均衡の観点からバランスを欠かなければ問題ないという観点を貫けば、課徴金制度も刑罰と同様に違反抑止と説明してもよい話なのだが、この制度の導入当時、課徴金の側の法的趣旨を違反の抑止として説明せず、不当利得の没収と説明した。憲法上の次の規定がひっかかったからである。
第三十九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
前者は遡及処罰の禁止、一事不再理といわれるものだ。一事不再理とは一度決着が付いた刑事事件についてその決着を覆されることはないというものであり、後者は二重処罰の禁止といわれるもので、追加して刑罰を科されないというものだ。ここで問題になるのが二重処罰の禁止の方で、確かに法の形式だけみれば「刑事上の」となっているので、課徴金と刑事罰が被っても問題ないようにみえるが、課徴金も罰金同様金銭的な不利益の賦課であるから、これを実質的に同様なものと解した場合には課徴金と罰金のダブルでの賦課はこの二重処罰禁止の憲法上の要請に反するのではないか、との疑念が生じた。裁判になれば合憲判決を得られる可能性が高いと思われる(実際、高裁判決において課徴金と刑事罰の重複適用は合憲と判断されている)が、そもそも憲法上の問題を提起させたくないとの(政府の)思惑からだろうか、課徴金制度の方の法的趣旨を刑事罰と重複しないように「小さく」説明した。現在、課徴金制度は違反抑止の趣旨が正面からなされているが、上記の独禁法7条の7第1項の規定が存在するのは、今でも憲法上の二重処罰禁止規定を意識していることを物語っている。
違反抑止という観点だけを考えればよいのであれば、既に触れた犯罪抑止による限界社会的利益曲線と犯罪抑止に必要な限界社会的費用曲線でその合理的制度設計を説明してしまえばよいのであるが、実際には「法的な諸々の制約」があってなかなかそうはいかない。それが法学の面白さだといえばそうなのであるが、数多くある「論じ方」の内、一部の部分を切り取って純粋にその合理的制度設計を論じる方が「科学的な考察」に馴染むといえそうであるし、「法と経済学」といわれる学問分野はルールの考察にあたって経済学の議論にフィットする部分を切り取ってその限りで純粋に議論するのであるから精緻な議論ができるのは当たり前といえば当たり前である。だから、法学者からの反発を受けるのであるが。
「件数の増減」というある種のマジック
犯罪統計は扱っているテーマが犯罪なので、そこで明らかにされるデータのインパクトが強い。外国人犯罪がこんなに増えたのかとか、少年犯罪の凶悪化が進んだとか、薬物事案の件数の推移から薬物蔓延が深刻だとか、色々考えさせられるデータばかりである。しかし、最低でも、仮にある犯罪の件数(摘発件数)が減ったあるいは増えた場合に、それはなぜそうなったのか、を考える習性は身に付けた方がよい。ある犯罪の件数が増えた理由としてこれを報じる記事が「治安の悪化」を結論付けたとするならば、本当にそうかは疑った方がよい。科学的な体裁でいうならば、他の条件を不変として扱うならば(あるいは一切無視できるとするならば)そういう結論は尤もらしいが、犯罪件数の増減に影響を与える何らかの条件を操作すれば、結果としての摘発件数は「治安の悪化」とは別に増減することになる、という当然といえば当然の理屈を忘れやすいのには注意が必要である。
ある週だけ自転車窃盗の件数が飛躍的に伸びたとする。その週だけ窃盗集団が自転車窃盗キャンペーンでもうったのだろうか。それは逆で、大抵の場合、そのような事実が出てきたときは警察の側がその週、本腰を入れて摘発に乗り出したと考えるのが筋だろう。しかし、一年単位でデータがとられたりすると事実が見えにくくなる。外国人犯罪も同様で、年々取り締まりが強化されただけで犯罪の実際の件数は変わらないのかもしれない。治安が悪化したのではなく、最初から治安がよくなかっただけなのかもしれない。あるデータに接したときには、そのデータに影響を与える要因の「あたり」をつけることがまずは肝要だ。そうしないと「切り取られた事実」で舞台装置が作られ、そこで公演を見せられると演出家の思うように印象が作られてしまう。これは政治の世界でもビジネスの世界でも同様の問題が存在する。要は、特定の印象を相手に形成させ、その行動を変化させようというやり口だ。人々は全ての情報を瞬時に把握することも処理することもできず、限られた、自分にとって収まりのよい範囲で脳の中で完結させる傾向がある(この脳機能の研究は実に面白いようだ)。
独禁法の問題に惹きつけていうならば、課徴金減免制度が導入された2005年の10年ほど前から不当な取引制限規制違反の摘発件数が伸長し、2000年頃からさらに急伸した。それも入札談合が多くを占めた。1990年代から入札談合が増え、2000年頃からさらに増えたと理解すべきだろうか。そうではあるまい。
日本はかつて(今でも?)「談合天国」などといわれるくらいに談合が蔓延していた(いる)といわれている。だとするならば、談合が増えたのではなく、取り締まりが強化されたと考えるのが自然な見方だ。実際に、1990年前後に日米政府間でなされた貿易不均衡を是正するための協議である日米構造協議の結果、日本政府は独禁法の制度強化、運用強化を米国政府に約束し、その後幾度かに渡る独禁法改正、そして運用強化を行っている。摘発件数が増えたのは「本腰を入れて」摘発に乗り出したからというのが普通の見方だ。談合天国日本では、どうせ談合は摘発されないという「甘い認識」が業界にあっただろうから、無防備でその分、釣り用語でいう「入れ食い」の状況だったようだ。経済学的にいえば、発覚率は十分に低く、当局がかけるコストも小さい、そもそも摘発する意欲が小さく、談合が社会的に害悪をもたらすという認識が世の中で十分に共有されていない。そのような状況下で談合が抑止される訳がない。しかし、当局がかけるコストが大きくなり、摘発する意欲が高まり、談合が社会的に害悪をもたらすという認識が世の中で共有されるようになったのであるから、発覚率は高まるはずである。結果、摘発件数も増えることになる。
2005年に課徴金減免制度を導入する際、業界からの抵抗が激しかった。簡単にいえば「チクリ制度」なので、その反発は自然といえば自然である。その抵抗を抑えるためには世論の後押しが重要な意味を持つ。摘発件数が増えれば、その分「談合の蔓延」が強調できる。談合が蔓延しているのはかつてからそうなのであるが、「見せ方」として「蔓延しているという印象」が重要なのである。世間の印象はそのようになり、これと戦う公正取引委員会に軍配が上がった。しかし、重要な事実は「摘発したから件数が増えた」のであって、「件数が増えたから摘発した」のではない、ということだ。
そして、2005年の課徴金減免制度導入後、不当な取引制限規制違反、とりわけ入札談合に係る摘発の件数が劇的に減少した。それは何故か。課徴金減免制度導入という事実を聞かされると、この制度が功を奏して抑止効果が働いたという見方は確かにストレートである。減免制度とは密室で行われるカルテルや談合の情報が違反行為者側から当局に通報されることを、当事者にインセンティブ付けする制度であり、これによって違反行為者の間に「疑心暗鬼」を呼び起こし、結果、高い抑止効果が得られるものだと期待された。非協力ゲーム理論における囚人のジレンマの利得マトリクスを、意図的に作り出したものとしてしばしば説明される、それである。
しかし、課徴金減免制度導入による抑止効果と入札談合の摘発件数の減少には強い因果があるのだろうか。その他の要因として、課徴金減免制度導入に成功した公正取引委員会にはもはや談合摘発キャンペーンは不要となり、限られた資源を私的独占規制違反、不公正な取引方法規制違反等、他の違反の摘発に振り向けただけなのかもしれない。あるいは、課徴金減免制度導入によって業者側のデフェンスが強化され、情報管理がより巧妙になり、その分発覚率が低くなってしまったのかもしれない。あるいはより発覚のし難い「暗黙の了解」タイプの協調関係が強固になったのかもしれない。この場合、課徴金減免制度導入によって違反抑止効果はむしろ低まったという結果をもたらしたことになる。ある結果としてのデータが与えられたとき、その原因は単一のものではないと考えるべきである。「法と経済学」の議論においては「切り取られた事実」を扱っていることは議論の過程で明らかになるが、統計の場合、「切り取られた事実」を扱っていることが見え難い。「世の中には3種類の嘘がある。嘘、大嘘 、そして統計だ(There are three kinds of lies: lies, damned lies, and statistics)」というよく引き合いに出される統計への悪口は言い過ぎであろうが、統計データとその評価を批判的に眺めるべきこと(何を扱っているかではなく、何を扱っていないかを見極めること)は確かに重要である。