独禁法総論:競争概念とその周辺 

1 独禁法の入り口:土俵に立てないのは何故か?

 ビジネスの世界においては、法は行動を制約するものと捉えられがちで、企業内で法を司る部門(法務、コンプライアンス)はフロント・オフィス(収益部門)の人々からは「ブレーキをかける部署」として煙たがられるのが一般のようだ。確かに何か事業を行おうとするときに最初から法的制約の話をされたら、浮かぶアイデアも浮かばない。確かに諸々存在する法律は決して創造的なものではないし、法律学として大学で講義されるものも創造性をかき立てるようなものにはなっていない。法は、放っておいたら無軌道、無秩序になってしまう世の中を、一定の軌道に乗せ、一定の秩序の枠内に収めることをその役割としていると理解でき、そうだとするならば、法がブレークスルーの原動力になる訳がない、と理解したくなるのも理解できる。軌道を超えたところに創造性はあり、既存の秩序を破壊するところに創造性があるからである。法は、その存在自体「保守的」なのである。

 ただ、だからといって法はビジネスにおける「厄介者」か、というとそういう訳ではない。刑法が人々の生活において「厄介者」か、というとそういう訳ではないことは容易に理解できよう。同じようにビジネスの世界を規律する諸々の法は、ビジネスに参加する事業者(「企業」といってもよいが、本書がメインで扱う独禁法では違反主体は「事業者」となっているのでこの言葉を用いる。ただ、企業結合規制においては、違反主体は「会社」となっている)にとっては「単に事業者の活動を制約するだけの存在」ではない。もしそうであれば、執行機関としての公正取引委員会の運営にかかるコスト、訴訟になった際の裁判コストなど、ただの無駄になってしまうので廃止した方が望ましい。事業者の創造性を低下させ、経済の発展の足を引っ張るだけの障害なのであれば、一刻も早く廃止すべきである。

 独禁法の1条に目的規定があるので読んでみよう。

 この法律は、私的独占、不当な取引制限及び不公正な取引方法を禁止し、事業支配力の過度の集中を防止して、結合、協定等の方法による生産、販売、価格、技術等の不当な制限その他一切の事業活動の不当な拘束を排除することにより、公正且つ自由な競争を促進し、事業者の創意を発揮させ、事業活動を盛んにし、雇傭及び国民実所得の水準を高め、以て、一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする。

 法律にそう書いてあるからそう理解する、というほど読者はピュアではないかもしれないし、私もそこまでピュアではないのだが、法律の学習においてはそこから入るしかない、というのが現実である。法律の学習においては「納得がいく、いかない」のレベルで悩んではいけない。法解釈には幅があるが、それでも限界がある。まずはそういう法律がある、そういう判例があるというところから入らなければならない。実務がどうなっているのかを知るにはその制定法と判例法は所与の前提だからである(だから、納得がいかないものが出てきたら納得がいかないものとして知識として利用すればよいだけの話である)。よくわからないものでもわかったふりをしてサクサクと覚えて書けてしまう受験エリートは法律の世界に向いているのかもしれない。

 現時点では、ほとんど独禁法についての情報が提示されていないけれども、この目的規定から、次のことを読者は理解したはずである。

  • 独禁法は「私的独占」「不当な取引制限」「不公正な取引方法」を禁止するものであること
  • 独禁法は(1)に加え、事業支配力の過度の集中を防止するものであること
  • 独禁法は(1)(2)を通じて、結合、協定等の方法による生産、販売、価格、技術等の不当な制限その他一切の事業活動の不当な拘束を排除することをその内容とするものであること
  • 独禁法は公正且つ自由な競争を促進することを目的とするものであること
  • 独禁法は(3)に加え、事業者の創意を発揮させ、事業活動を盛んにし、雇傭及び国民実所得の水準を高めることを目的とするものであること
  • 独禁法は(3)(4)を通じて、一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とするものであること

 前半の三つが独禁法の内容に係るものであり、後半の三つがその目的に係るものである。これから見ていく諸々の規定が、本当に(4)乃至(6)の狙いを実現することができるのか、という点については読者の判断に委ねたいと思う。独禁法の一般的な教科書は「目的通りの内容」であることを説得するように方向付けられているのかもしれないが、本書は経営や商業を志す読者が経営や商業の観点から興味深くこの分野の法律を学んでもらいたいと考えて執筆しているので、そのようなミッションを負っていない。

立法であっても判例であっても無謬でもなんでもない、理解不能なものはたくさんある。考えてみれば立法は民主主義の基礎の上にあるが、その過程は言い換えれば「闘争」のようなものだ。利害関係者の中で利害関係を争った結果が立法というのであれば、最初から「苦しい」部分があるに決まっている。判例は言い換えれば「裁判官かく語りき」であって、裁判で負けた方は最後まで納得いかない場合が多かろう。よく裁判所の前で見る「不当判決」と書いた紙は悔しいから負け惜しみでやっているのではなく、内容に納得がいかないからやっているのである。しかしそれがその後、法として機能するからこそ学ぶべきものとなるのだ。それが正しいから学んでいるのではない。しかし、重要なことは、それが真っ当なものかどうかは別にして、ある法律が見直されない限り、ある判例が変更されない限り、その法律や判例は法として存在し、作用し続けるということだ。実践を目指す者は、「べき」ではなく「である」を学ばなければならない。

 さて、独禁法の1条を読んで、言い換えれば独禁法の目論見書を読んで、この時点で「納得がいかない」と感じる読者はどのくらいいるだろうか。本当に独禁法はそのような目論見通りになっているのか、という疑問はその後の話である。もし反発感を覚える読者がいたとするならば、それは資本主義のメカニズムに対する強烈に抵抗する思想の持ち主ではないだろうか。資本主義経済については項を改めて論じることとするが、それは簡単にいえば、私的所有物の自由な処分を通じた営利活動を通じた社会の形成によって特徴付けられる経済のことである。このメカニズムは、資本家と労働者との間において必然的に搾取を生み出し、それが資本主義の自壊をもたらすと唱える学派があり、その初期の代表的な思想家の名前をとって「マルクス主義」と呼ばれることが多い。その支持者の中でもピュアなあるいはコアな層はその根本にある私的所有を否定しようとする。だからこの層の論者はあらゆる財の国家による所有を特徴とする社会主義や、所有と概念すらない共産主義の支持者となるのであるが、そのような層からみれば独禁法なるものは「修正資本主義」、つまり資本主義の部分的修正による資本主義の継続を支持する考えであり、欲望が生み出す搾取という隷属をその根本において容認する、理想を捨てた「修正主義者(revisionist)」だと扱われてしまう。

 もともと資本主義の擁護者であれば独禁法は、資本主義の弊害を除去し、その機能を向上させるツールとして歓迎されるものであろうが(資本主義の擁護者が独禁法を歓迎しないケースもある。それが戦後間もない頃の日本だった)、資本主義の批判者の中には独禁法は資本主義の延命を図る悪しき立法と映る場合もあるかもしれない。

 独禁法を受け入れることができないもう一つの勢力があるとしたら、それは徹底した自由放任主義者だろう。しばしば「リバタリアン(libertarian)」と呼ばれるが、後で出てくるオーストリア出身でイギリスの経済学者フリードリヒ・ハイエク(Friedrich A. Hayek)はリバタリアンと呼ばれるが米国版独禁法である反トラスト法(正確には、独禁法が日本版反トラスト法なのであるが)の存在について積極的な姿勢を示しているように、リバタリアン自体一枚岩ではないのだが、公権力の介入(より極端な立場として国家の存在)一般に批判的で、個々の主体の自由な活動を重視することがその特徴であり、何らかの形で公権力の介入を伴う法律の存在に消極的な姿勢を見せることで共通している。つまりリバタリアンから見れば、独禁法も否定されるべき公権力の介入であり、個人の自由への不当な干渉であると、否定的に評価され易いということだ。

 ピュアなマルクス主義者、そして際立ったリバタリアン。思想的には正反対の極に位置するこの二者は、独禁法1条の段階でその土俵に乗ろうとしないだろう。この二つの立場は思想の左右の極であり、互いに相容れないはずであるが、ある立法に対して否定的である点で共通しているのは興味深い現象である。

2 独禁法の狙い:競争の属性と帰結

 前項では目的規定しか独禁法を見ていないが、さて、独禁法とはいかなる法律なのであろうか。目的規定に「私的独占」「不当な取引制限」「不公正な取引方法」という三つの禁止類型が出てきている。このうち、「不当な取引制限」について見てみよう。

 「不当な取引制限」に関連する条文として次の二つをまずは押さえておきたい。独禁法3条と2条6項である。 

独禁法3条:

事業者は、私的独占又は不当な取引制限をしてはならない。

独禁法2条6項:

 この法律において「不当な取引制限」とは、事業者が、契約、協定その他何らの名義をもつてするかを問わず、他の事業者と共同して対価を決定し、維持し、若しくは引き上げ、又は数量、技術、製品、設備若しくは取引の相手方を制限する等相互にその事業活動を拘束し、又は遂行することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。

 この条文の位置関係から分かる通り、独禁法上存在する基本的概念は2条の各項でその定義が置かれている。ただ、2条各項の定義規定の中で用いられている概念についての定義規定は存在しない。従って、「一定の取引分野」、「競争を実質的に制限する」、「公共の利益」といった概念については解釈に委ねられることになる。2条4項に「競争」の定義が置かれているのはやや驚きだが、2条の各項間での定義に係る相互の関係がないと考えるならば、ここでいう「競争」の定義は、2条の外部にのみ存在する「競争」に係る概念の定義ということになるが、この定義規定自体辞書的なそれに過ぎず、あまり意味のあるものとも思えない。第1講で触れたように、立法されたからといって、それが必ずしも合理的な機能を果たしていなかったり、意味のない、あるいは説明がつかなかったりする場合もあるのだと「開き直って」あるいは「割り切って」、ここでいう「競争の定義」には拘らないでおくこととしよう(辞書的なものに過ぎないので、特に独禁法の諸々の規定の理解に支障をきたすものでもない「言い訳」みたいな条文だ)。ただ、独禁法を理解するためにはより実質的な競争に対する理解が必要であり、特別の項目を用意してそこで論じることとする。

 不当な取引制限の典型例はカルテル、談合といわれる。誤解してはならないのが、独禁法上「カルテル」「談合」といった用語は一度も用いられていない、ということだ。カルテル、談合と呼ばれるもの、呼ばれ得るものが他の禁止規定(私的独占等)に抵触するとされたケースもある。あくまでもカルテル、談合といわれるものが過去において、上記の2条6項の諸要件を充足すると考えられ、違反とされてきたというに過ぎない。だから不当な取引制限規制をカルテル規制、談合規制とそのまま言い換えるのは必ずしも正確ではない。とはいえ、学習における導入段階でそのような互換でイメージするのは悪くはない(そうでない場合の備えがあればよい)。

 カルテル協定とは一般に、競い合いの関係にある複数の事業者が、競い合いの要素である価格、数量、技術、付加的なサービス等について競い合うことを止めること相互の義務付け合うことを約する(合意する)ことをいう。最も解り易いのが価格カルテルであり、ある製品の値段をいくらにする、ということを共同で決めてしまうことだ。2条6項には、「共同」とか「相互」といった言葉が出てくるので、何をもって「共同」というのか、何をもって「相互」というのか、といったことがらについて諸々の解釈論があるので、個別の項目で触れることとする。ここでは、個別の違反類型が独禁法1条の構造にフィットしているのかを確認する作業をしておきたい。

 価格カルテルの不当な取引制限規制による禁止は、第1講で示した独禁法1条の(1)乃至(6)を満たすといえるか。答えは「個々のケースを見るしかない」だが、少なくともこれまで違反とされた価格カルテルはこの構造に整合すると考えられると、実務(法執行機関である行政と司法)は捉えてきたことだけはいえる。裏を返せば、無垢に考えれば、この構造に乗らない行為は違反として扱われてこなかったという理解ができるのである。

 価格カルテルが不当な取引制限規制に抵触するかは、後述する不当な取引制限規制(2条6項)の要件の理解が前提なので、ここでは該当すると考えておこう((1)の充足。(2)は別対象なので無視)。価格カルテルは価格を競い合わない合意であり、そもそも(1)が充足されている段階で「不当な」のだから「協定等の方法による・・・価格・・・不当な制限」に該当する((3)の充足)。不当な取引制限規制に抵触するということは、2条6項にいう「公共の利益に反して・・・競争を実質的に制限する」ものなのだから、「公正かつ自由な競争」を妨げるものとはいえるだろう((4)の充足)。

 ここまでは規制に違反しているという事実からストレートに理解できるものなのだが、問題は(5)と(6)である。法学部で展開される通常の独禁法の講義なら、この辺に引っかかることはない。独禁法は「公正かつ自由な競争を促進する」ことを狙いとするもので、「以って」以降の記述は「結果、そうなる」ことを示しているだけで、個々の規定の解釈や運用には意味をなさないか、間接的な係わりしか持たない、と一蹴する傾向が強い。しかし「競争」という抽象概念に「公正かつ自由な」という更なる抽象概念を接続して、それが目標などといわれても、読者は雲を摑むような思いをするだけだろう。「以って」以降の記述が法解釈や法運用において大した意味を持たないとしても、独禁法なる法律が経済社会においてどういう機能を果たしているのかを知る上では、「公正かつ自由な」という無味乾燥な言葉に終始するのではなく、より明確な経済的帰結である「一般消費者の利益を確保するということ」、そして「国民経済の健全な発達」、それも「民主的な」それ、というより具体的、そして議論の材料として示唆的な言葉を考察する方が「エキサイティング」ではなかろうか。そしてこういった言葉とリンクした「競争」の「公正かつ自由な」姿を描写することが、経営や商業に軸足を置いた議論になるのではないだろうか。

3 競争の価値とその対語

思うにい独禁法の不幸の一つは、その目的において「競争を促進」すると書かずに「公正かつ自由な競争を促進」すると書いたことだ。競争自体が抽象的な概念であることに加え、さらに抽象的でそれを読む者の主観に強く依存する規範的概念で修飾することで、独禁法自体が鵺のような得体の知れない存在になってしまったということである。ただ、このような現象は日本独自のものだけではなく、本家である米国においても存在し、反トラスト法はその目的において独占それ自体に対する警戒という政治的な意図があるかないか、といった論争が制定後130年を経過した現在でも続いている。それは米国の反トラスト法が英国のコモン・ローの法理である取引制限の法理や独占禁止の法理が形成された頃と、市場や産業を取り巻く環境が大きく変化し、これらの法理それ自体も昔のものよりも随分とバージョンン・アップしたその過程の中で、経済においてどのような規範が求められるかについて、一貫しているように見える判例法理の中にも色々と変化を遂げたその結果としての「正体不明」である。日本の場合は、最初から制定法の段階で正体不明の物にしているだけの違い、ということになる。

得体の知れないものの得体を知ることは至難の技ではあるけれども、確かなヒントが存在する。それは、独禁法は「競争」を守るべき価値として位置付けているということである。私的独占規制や不当な取引制限にある「競争を実質的に制限する」という違反要件は、素直に捉えれば競争それ自体の制限の悪性視であり、これを競争の公正を害したとか、競争の自由を害したと再構成するのは論者の勝手であるが、競争の制限それ自体を問題にしていると考えるのが出発点である。

辞書的な意味での競争、すなわち独禁法2条4項の定義規定にいう競争を、その競争を行う複数事業者間で止める協定を一般的にカルテルという。市場における競争は取引に係る要素、あるいは競争優位を形成する何らかの要素に係る競い合いをその内容とするのであるから、カルテルの合意とはその要素に係る競い合いを停止する合意を意味する。その要素が価格である場合にはそれは価格カルテルと呼ばれることになる。そのような合意は、コストカットへの創意工夫、効率化への努力を妨げる形で、競争状態よりも大きな利益を合意した事業者にもたらす。それは競争状態であれば得られた一般消費者の利益を吸い上げるものであり、競争を制限することが不当であるという価値判断の下で、それは不当な行為となる。

 ここまでが法学として学習する独禁法のお話であり、ここからが経営や商業に軸足を置く人々にとっての本論となる。法学においてはそのような価値判断は法がそう選択しているのだからそう考えるのだ、という議論を当たり前のようにする。否、そういう問題意識すら持たないのが一般である。つまり、法に書かれたことは学習の前提、言い換えれば定義のようなもので「そう宣言しているのだからそう理解する」という思考回路になりがちである。国家の歯車を養成する大学法科のエリートはそこに疑問を持ってはいけないという明治以降の歴史的な経緯があるのかも知れないが、何かと「ブレークスルー」ばかり考える経営や商業の学徒は、そうはいかない。

 競争とはある同じ対象の獲得めぐって二人以上の者が争うことであるというが、それが市場においてどのような意味を持つかは何も語っていない。空腹の動物がある食べ物をめぐって殺し合う場合もこの定義に該当してしまうが、それは市場競争でもなんでもない。競争が市場とリンクしているという前提で考えるのであれば、市場の特性を踏まえた競争概念でなければ意味がないし、それは市場における競争を制限することを禁止する独禁法の要請するところであるはずである。

 市場における競争を理解するポイントは、競争によって何が実現されるかをどう理解するかにある。市場における競争が獲物を狙う動物の競争と異なるのは、その手続にある。前者は何らかの交換を通じてなされるもので、交換する相手にとって魅力的な条件を提示しその相手が自発的な意思に基づいて交換に応じる手続が内在されているメカニズムが市場競争である。一方、後者は力によって相手の意思に反して財産(獲物であれば生命)を奪う行為である。独禁法2条4項はこれら両者を含んでしまう。

 競争の理解はここから二つに分かれる。一つが競争の帰結として価格が費用に一致することに着目する競争の理解である。需要曲線が右肩下がりであり、提供される財やサービスの限界費用が一定であり、競い合いの対象が価格の要素しかないという前提で考えれば、競争が激しければ激しいほど価格は限界費用に接近する。この「価格=費用」水準を競争的と考えて、そこからの乖離を非競争的と考える立場が、独禁法においてよく支持される競争理解の一つである。

 当然、次のような疑問が生じる。競争に勝利するということは「価格>費用」水準の価格の設定が可能になるということであり、競争の理解を価格と費用が一致する点に見いだすのはその本質を見誤っているのではないか。

そのような疑問を抱く人々には競争を結果あるいは状態として理解するのではなく、過程として理解することを勧める。競争とは、選択し得る取引相手の条件の中でよりよいものを選択する手続が双方に用意された状態でなされる、その、よりよい条件を双方が提示し合い、よりよい条件が発見される過程である。そういった経済主体における選択の集積によって市場が形成される。そのよりよい条件は、より安い生産費用であったり、より生産的な技術であったり、立地であったり、あるいはブランド・ロイヤルティであったりさまざまであるが、何れにしてもそういったよりよい条件を発見する手続が競い合うということであり、その過程を通じて初めて市場というものが成り立っている。よりよい条件はある種の知識と言い換えられ、市場は知識発見の場、競争は知識発見の手続ということになる。そして競争の結果、市場は競争を経ない場合よりもよりよい条件が見出されることとなり、知識が有効に利用される帰結へと導かれる。

この二つの競争の理解は、その反対語として何を対置するか、でその特徴がさらに明らかになる。

前者の競争、すなわち価格が費用に一致する点を競争と考える立場は、その反対語として「独占」を念頭に置く。独占とは売り手、あるいは買い手が市場において一者しかいない状態であり、売り手独占であれば、右肩下がりの需要曲線を前提に、生産量(販売量)を下げる形で独占価格をつけることで全体の余剰を低下させる(競争状態との比較で、売り手側の余剰の増大分を買い手側の余剰の減少分が上回る)効果があり、故に独占は競争に比べて非効率といわれ、そこに悪性が見出される。

一方、後者は、競争は手続なのであってその手続が存在する以上、独占という状態自体に悪性を見出さない。知識の発見活動としての競争が妨害されない限り、独占は常に知識の有効な利用のテストを受け続けており、競争の手続が機能する以上、独占は知識が有効に利用された結果であるとしか評価されない。

後者のように理解される競争の反対語は独占ではない。それは計画である。つまり、知識の発見の手続としての競争は、市場に参加する個別の経済主体のみがなし得る行為であって、特定の誰かが集中して、計画的に行えるものではない。競い合いというプリミティブな辞書的意味での行為の動機を有する経済主体は、自らの有する知識(競争優位の要素)を自分にとって最も有利になるように利用するインセンティブを有しており、もちろんそれは常に合理的なものではないにしても、市場による知識の発見の集積を通じてそれらの知識は有効利用されていく。その過程は計画を受け付けないものであり、知識発見の手続である競争の対局は計画ということになる。計画はこのプロセスと相容れないからである。

競争の対局は独占か計画か。この把握の仕方の違いが、独禁法へのアプローチを大きく左右する。

コラム:競争、独占と独禁法 経済学の入門教科書では、最初に競争、次の独占、そして寡占の順番で説明されることが多い。ざっくりいってしまえば(売り手側を見た場合)「競争」は「価格と費用が一致する水準」で販売する状況として描写される。座標上に描かれる供給曲線と需要曲線(各々の買い手が払ってもよい最大金額の変化)の交錯点が、売買が成立する均衡点だという前提で考えつつ、供給曲線をそのまま限界費用曲線に置き換え、それと需要曲線と交差する点を競争的な均衡と理解し、限界費用が販売される量を問わず一定の場合(水平に描かれる)、その一定とされた限界費用と価格が一致する点で販売する点を「競争的」と称するのである。この場合、買い手の利益は需要曲線と限界費用曲線と縦軸で結ばれた三角形となり、需要曲線と限界費用曲線を所与のものとする限り、実現され得る社会的余剰を最大化させることになる。 独占の場合、実現され得る社会的余剰、言い換えればこの三角形はどうなってしまうのか。独占者は自由に価格を変化させることができる。しかし重要な条件がある。それは自分の利益を最大化するというミッションを自分に課しているということである。青天井に価格を上げれば需要曲線を上回ってしまう。誰もそんな価格を払わない水準に価格が引き上げられれば取引は成立しない。この場合は独占者の利益は売り上げがないのだからそもそもゼロである。だからどこかまで引き上げるが、どこかまでしか引き上げない。ではどこまで上げるのか。それは需要曲線上独占価格で成立する販売量に独占価格と限界費用の差を乗じたもの(四角形)の面積として示される独占者の利益を「最大化」する水準である。面積を最大化するために凸型の二次関数を微分するという「操作」をすることで導かれた限界収入曲線と限界費用の交錯点で決まる販売量が独占者の利益を最大化する販売量だ。後はそのまま需要曲線の上にプロットすればよい。上記の三角形はどうなったか。(買い手の利益と(独占者としての)売り手の利益の総和は)小さくなった。つまり、社会的余剰は低下した。独占の方が競争よりも資源配分上の効率が悪いというのはこのことを意味する。 このピュアな「競争vs独占」の構図が、経済学から見た独禁法の存在根拠だ。しかし、多くの法学者は納得が行かない。理由は三つ考えられる。一つはこんな単純な描写で市場を論じてもらいたくないという「理論への抵抗」だ。これは経済学が事実の本質を言い当てている限り、言いがかりに近い。もう一つは、独占の弊害は資源配分上の効率性を規範的基準として用いることだ。法学者的には独占者としての売り手がその力を行使して買い手から利益を吸い上げる強制にこそ悪質性があるのであって、仮に資源配分上の効率性に悪影響を与えなくても悪いものは悪いという直感を譲ろうとしない。これは売り手=企業、買い手=消費者という構図を前提にしているのはほぼ自明だろう。強者が弱者を叩く構造に反規範を見出す。第三が、おそらく一番真っ当な批判が、独占には非効率の側面のみならず、効率的な側面もあるのではないかというものだ。競争が独占に転換するプロセスで何が起こったのか、が重要だという。つまり、「健全な」競争の結果、独占に至ったのであれば、市場に何らかのプラスの効果をもたらしたはずだ。そのよい面を考慮しないで独占の弊害だけを説くのはミスリーディングであるという。強引に上記の座標で表現するならば、競争が限界費用曲線、需要曲線を変化させるということになるが、そんな比較をし始めたら何とでもいえてしまう。しかし情報産業におけるGAFAの支配などを考えると、この四半世紀間、これらの企業が経済に対してどれほどの貢献をしたかを考えると、もう初歩的な経済学の枠組みでは論じ切れないという直感を持つのは自然なことである。独禁法を考えるとき、価格カルテルは独占の弊害だけを論じれば足りるが、排除型私的独占の場合はそうはいかない。それは何故か、まずは考えてみてもらいたい。 寡占(複占)市場の分析については、「クールノー・ナッシュ均衡」なる言葉が唐突に出てくる独禁法の教科書もあるようだが、不思議とこっちの方は独禁法学者に受けが良い。寡占市場は結局、(価格=費用という意味で)競争的になるのか、そうでないのか、という議論をするときに、後者になるという結論が「聞き心地よい」からなのかもしれない。ナッシュ均衡という言葉からわかる通り、相手の行動を予測して自分の行動を決めるゲーム的状況において互いの最適反応曲線の交差を導くという作業の結果、そのような描写がなされる。しかし、競争的価格よりも高い価格に落ち着くというストーリーが、互いに譲らない価格競争に陥るストーリーよりも独禁法違反にし易いから「心地よい」というのであれば、それは誤解である。第一に、このような均衡を導くための条件設定が相当厳しい。条件設定次第では別の結論も十分成り立つ。また、独禁法の場合は事業者間の合意が必要だが、非協力状況における戦略的均衡を求めるゲームの話だとこの合意の外にあるシナリオだ。暗黙の了解型のカルテルへの応用もあり得るが、苦しい。援用の可能性があるとすると企業結合規制ぐらいだろうが、寡占市場のこの分析は間接的な係わりに止まるものとなろう。

4 経済民主主義

 独禁法1条は「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする」と規定する。「国民経済の健全な発達」と書かずに「国民経済の民主的で健全な発達」と書いた理由は何か。

「経済民主主義」という言葉は、分かったようで分からない言葉の典型だ。民主主義という「政治」の用語に「経済」を接頭語として付けたこの言葉は何を伝えたいのか。

 多くの読者が、独禁法を学習する前に「経済民主主義」という言葉に接している。それは大学に入る前の話だ。山川出版社の『日本史』の教科書に次のような記述がある。

「GHQは、日本経済の後進性を象徴する財閥・寄生地主制が軍国主義の温床になったとみて、それらの解体を経済民主化の中心課題とした。(中略)1947年にはいわゆる独占禁止法によって持ち株会社やカルテル・トラストなどが禁止され、過度経済力集中排除法によって巨大独占企業の分割がおこなわれることとなった。」

 独禁法を制定させた3年後に企業に対する強制生産を命じる権限を連邦政府に与える国防生産法(Defense Production Act of 1950)を制定した米国に、「軍国主義の温床」云々をいわれたくないのが日本側の本音だが、そもそも財閥・寄生地主制が軍国主義の温床になったという歴史的理解はどこからくるのであろうか。

 寄生地主制については、労働者とともに農民の経済的解放を推し進めることでより開かれた民主主義を実現するという政治的意図があったとされる。経済民主化として労働改革と農地改革が出てくる所以である。共産国家の台頭、その背景となるマルクス主義を警戒する戦後の米国が、資本主義を擁護しつつ日本の経済制度の後進性を非難するのは政治的非民主性だった。労働者の解放、農民の解放を構造的差別としての「搾取」にその根拠を見出すことには躊躇したのだろうか。寄生地主制も土地所有者による労働者たる農民からの搾取であり、資本主義の弊害そのものともいえそうだが、資本主義の弊害をどう除去するかは戦前半世紀における米国の課題そのものであり、日本を同じステージの国として認めたくなかったのかもしれない。

 財閥はどうか。確かに日清、日露戦争に勝利し、第一次世界大戦では戦勝国側となった日本がその勢いに乗じて軍事国家に突き進んでいった背景には財閥の存在は無視できない。財閥系の企業の多くは軍需を支えたのは事実だからである。しかし、財閥が日本の軍事国家を加速させたというのではなく、軍事国家日本が財閥を利用して軍需を支えさせたというのが実態ではなかろうか。確かに財閥が政商のような役割を果たしたのは事実だろうが、仮に戦前において財閥が強大でなければ日本の軍事国家化が避けられたかというとそう言う訳でもないだろう。

そのようなシナリオは、独占を実現した資本主義が国内を搾取し尽くし、国外にその場を求めて国家権力と結び付き、植民地の拡大を目指したというマルクス・レーニン主義的な「帝国主義」像を想起させる(国家独占資本主義)。しかし、このシナリオは米国自体にも及ぶものである(いわゆる「米帝」)。反トラスト法によって経済的権力の集中が回避されている米国においては経済的権力と政治的権力が結び付いて軍事国家化することは米国ではあり得ない、といいたげなその見立てはどれだけ説得的なのであろうか。東西冷戦構造において東側から眺めれば、米国は十分軍事国家化した資本主義国ではなかったのだろうか。それは民主主義の手続によって多額の軍事予算を計上し、軍需については公共契約を通じた調達を行うか、国防生産法を行使するか、土木のように直営(陸軍工兵隊)で行うかをすればよいだけの話なのであるから、である。民主主義のコントロールの効いた(その体裁が整っている)軍事大国は存在する。その代表格が米国なのではないか(米国は世界でも有数のロビーング大国であることを忘れてはならない)。

財閥解体についていえば、労働者とともに農民の経済的解放によって民主主義の担い手の裾野をダイレクトに広げようという政治的意図を強調するのには無理がある。集中した経済的権力を背景に政治的影響力を行使する少数の企業集団の存在を消滅させるという意図はあるだろうが、財閥解体についていうならばより経済的な文脈を強調することが重要である。

 民主の対語は独裁であり、独裁とは政治的意思決定が特定の誰かに集中する状態を指す。一方、民主主義とはその源泉がその集団に属する人々に分散されている状態を指す。全員で話し合うこと、全員が投票する権利を有することといった手続が民主的といわれるのは意思決定の主体を特定化させないためである。では経済の文脈でこの政治的用語を使用するのは何を意味するのだろうか。

 民主の対語は独裁である。経済の文脈で権限が特定の誰かに集中する状態が独占と呼ばれるものであることは容易に察しが付くだろう。つまり経済民主化の要請は独占の除去にあるということだ。では、独占の対語は何か。経済的にみて特定の誰かがコントロール出来ない状態のことである。それが競争であるということについて、ここまで読んできた読者が答えるのには時間はかからないだろう。つまり経済民主化とはいわば競争の維持、促進、ということになるのである。

資本主義国でありながら競争を維持、促進する基本法を持たない日本は、近代的な資本主義国家としては後進的だというのである。軍事国家日本を支えたとされる財閥の存在は、反民主主義の象徴として説明の便宜がよかったのは事実だろう。ただむしろ独禁法の制定についていうならば、米国と同様の法制における資本主義のスペックを身に付けさせ、いち早く「米国側」をアピールしたかったというのが本音ではなかったのだろうか。反トラスト法は米国資本主義の根幹に関わる不可欠の要素であるが、資本主義対社会主義の対立の中でそれを説くのは難しい。日本が社会主義を選択しようとする場合の説得材料にならないからである。民主主義という言葉はそこで効果的なアピール要素となったのではないか。

 しかし、で述べた重要な視点を忘れてはならない。競争の対語は独占だけではなく、計画もそうであるということを。戦前、戦中の日本の経済制度を考えるとき、日本は契約の自由を至上のものとし独占の現出を放任したというよりも、日本は資本主義体制を維持しつつも国家による計画を重視し、その経緯において特定の経済主体への集中を容認したといった理解の方が史実に忠実ではなかろうか。

 そもそも明治維新時に経済的に後進国であった日本は欧米列強と互角の力をつけることを最優先の課題としたが、英米のように自由市場重視の中での産業革命を待つ余裕はなく、上からの殖産興業であった。19世紀に欧州が経験したような劣悪な労働環境や貧困問題を20世紀の日本も抱えたが、その後の欧州が福祉国家政策によって資本主義の弊害を回避した一方、20世紀前半の日本は統制によってこれを乗り切ろうとした。英国では労働運動を牽引したフェビアン協会を出発点とする労働党が戦間期に政権を獲得するに至るが、日本では第一次世界大戦後、計画経済色を強めていった。1933年の重要産業統制法が象徴的である。労働運動は資本主義の福祉国家政策による修正を図るのではなく、国体の転覆と捉え治安維持法によって弾圧することで対応した。1940年の大政翼賛会設立によって政治的自由がなくなり、経済的には財閥への資本の集中が加速した。

 こうした統制が民主的要請に反する形で、いわば軍部のような特定の機関の意思が押し通される形でなされていたことが問題だというのであれば、その通りだろう。しかし、経済統制それ自体が非難された訳ではない。戦時中はどの国でも多かれ少なかれ統制色が強まるからである。経済面については資本の集中が反民主主義的だと批判されたのであるが、もし国民の意思を反映させる形で諸々の産業が国家の統制下に置かれ、あるいは国有化されるとしたならば、GHQは果たしてこれを反民主的と非難しただろうか。結論からいえば、戦争期においてすでに東西冷戦を見据えていた米国にはそのような評価軸は存在しなかっただろう。私的所有と契約の自由、そして競争原理を通じた自由市場を否定する経済制度は受容できない。しかしそれは国民の意思だといわれれば反論が難しい。しかし政治的に不動の地位にある「民主主義」という価値は相手を黙らせるには十分な説得力を有する。

 財閥解体と独禁法の制定による経済的権力の膨張の抑制は、半分は政治的な意図を持ったものであるが、残りの半分は競争原理を通じた自由市場の機能化という純粋に経済的な意図を持ったものであり、「民主」という言葉は単なる便宜のよい比喩に過ぎない。しかし、このような比喩が独禁法の混乱を招く一要因になったということには留意が必要である。そもそも誰も市場に影響力を持たないという競争の理解は、数多くある競争の理解のうち、極めて特殊で偏屈なものの味方であるが、多少気の利いた独禁法の教科書に出てくる経済学のあの「競争」(の状態)と合致するのであり、そのような、のっぺらぼうな競争概念を経済学から持ち込んだ責任の一端は「民主」というマジックワードにあったという見方は、多少の説得力があるだろう。

5 独禁法と憲法:資本主義はどこに向かうのか?

  日本国憲法にはさまざまな人権メニューがあるが、大きく精神的自由と経済的自由に分けることができる。独禁法は事業者の経済活動を規律するものであることから経済的自由に係るものであるという直感を自然と抱くが、そもそも独禁法が日本国憲法上どのように扱われるべきか、についての大きな論争がかつてあった。「営業の自由論争」と呼ばれるものがそれであある。

 「営業の自由」という概念は日本国憲法上出てこないが、ある特定の職種の営業拠点、すなわち立地(同業他者との距離)を制限する立法の合憲性が問われたケースで、判例は、21条保障される職業選択の自由の一環としての「営業の自由」に言及し、この規定に係る合憲基準を示した。同様の問題は独禁法が扱う事業者の経済活動の自由にも当てはまると憲法コミュニティーでは一般に考えられており、それが経済的自由権の制限の問題として公共の福祉の観点からそのような制限が許されるかという問題の立て方をするのが通常だった。論者によっては29条の財産権の問題であると主張する場合もあるが、いずれにしても、独禁法の規制の対象とする諸々の違反行為はひとまず憲法上の人権メニューの問題として扱い、それを許容する(つまり合憲とする)かどうかは公共の福祉の該当性に委ねるというロジックを採用するのが憲法学におけるコンセンサスだった。

 そこに割って入ったのがある経済史家だった。この経済史家によれば独禁法が禁止する諸行為は英国コモン・ローの伝統の上にあるのであって、コモン・ローにおける取引制限の法理(米国でいうシャーマン法1条、日本でいう3条後段)はpublic policy(公序)の観点から私法上の無効を宣言するものであって、言い換えれば、制限される側の自由な取引をpublic policyとして、私法上保護するものであるから憲法上の規範に乗せようとする憲法学における議論は歴史的には誤った認識だという。

 取引制限禁止法理で実現しようとしている取引の自由は、そもそも禁止され制約を受ける側の自由ではなく禁止によって解放される側の自由である。それはほとんど論理必然、あるいは定義上そうなる、といってよい。それは憲法上の要請する自由ではなく、契約法としてのコモン・ロー上で要請された自由の実現である。その延長線上にある(といっても当時のコモン・ロー上の法理と現在の独禁法との間に実質的な一致を見る方が困難である)独禁法は憲法上の人権を問題にしているのではなく、私的権力によって歪められる自由の、public policy の観点から要請され回復である。日本国憲法上の言葉に引き寄せるならば、「公共の福祉」の要請としての取引の自由の保障である。

 当然、日本が英国と同様の、成文憲法を持たず、コモン・ローの長い伝統によってpublic policyが保たれてきたという条件が満たされれば十分な説得力を持つだろうが、英国と日本とでは(米国とも)明らかに歴史的背景、制度的事情が異なるのであって、英国初(それも数百年前)の法理がベースにあったとしても、国家からの自由を高らかに、強力に唱えた戦後憲法の枠組みにおいて、取引制限禁止や独占禁止の法理は英国史においては憲法上の問題とされてこなかった、といったところで日本の憲法学者に響く訳はなく、傾聴に値すると論じた論者はいても、全面的に賛同する論者はいなかった。後知恵的にいうならば、法制史においてバラバラな世界各国で独禁法類似の立法がなされており、各国には各国の憲法規範があるのであって、それらを無視して、全て最も早くその法理を取り入れた国の法制史をなぞれ、というのは暴言に近い。「公共の福祉」の要請としての取引の自由の保障が要請されているからといって、独禁法という「制定法」に係る営業の自由の観点からの人権制約の合憲性という議論があっても、それは何も矛盾しないはずである。

 独禁法と憲法との関係をめぐる議論が、取引の自由は憲法の射程の内か外か、という範囲に止まってしまったのは学問的に見れば、歴史的な不幸であったといえる。独禁法は経済憲法であるなどといわれながら、憲法上の位置付けについて煮詰まった議論に至っているとは到底いえない。それは独禁法の側にも問題があって、1947年に制定された独禁法はその後しばらく停滞期を経験した。それは日本が競争を規律原理とする経済運営を高度成長に至る過程で選択してこなかったからである。それは政府の行政指導や許認可等を通じた産業政策重視の経済運営だった。新規参入を促進する政策は重視されず、護送船団という言葉に象徴されるように既存の業者の成長と保護が優先課題となった。独禁法は機能しないまま昭和の終わりまで時代が進むこととなった。独禁法がプレゼンスをアピールするようになったのはここ30年ほどのことである。

 憲法論の側にも独禁法を議論する素地に欠けていた点を認めざるを得ない。憲法29条に定める財産権の保障は、資本主義制度の根幹たる私的所有権を定めるものであるが、その第1項で「財産権は、これを侵してはならない。」と定めつつ、第2項で「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と定め、憲法上保障の射程を立法に委ねている。29条は私有財産制を制度的に保障するとともに、国民の個々の財産権も保障すると考えるのが判例(最判昭和62年4月22日民集第41巻3号408頁)、そして通説であるが、両者ともそれだけではどの射程で保障されるかは不明である。抽象的に(私的所有権を基礎とする)資本主義制度を定めたといっても、歴史上多くのバリエーションを持つ資本主義のラインナップの何を選択するかについては、憲法は何も語っていない。結局、独禁法が資本主義の根幹を否定するようなものでもない限り、独禁法が私的所有権の自由な行使に一定の枠を与えるものになっても、それは個人の財産権を制約する立法が、「公共の福祉に適合する」ように、これを「法律で・・・定め」たものとして認められるかどうかという議論の立て方にならざるを得ない。

 言い換えれば、日本国憲法は資本主義における経済憲法である独禁法について、憲法は何も語ってはいないということになる。このような状況下において、取引の自由の保護を図る独禁法はそもそも憲法上保障される人権メニューが射程とする自由の問題ではないとする経済史家からの挑戦は、独禁法を語る口を持たない憲法論の側において、憲法論側から見て「格好の標的」に映ったことだろう。

憲法上侵害してはならない自由を画定する作業は困難であり、ましてや法人資本主義を前提とした事業者の活動の規律についてはそうである。競争政策という経済環境の変化に適応してその内容を変化させ得る立法と運用によって実現する独禁法について、公共の福祉なりpublic policyなりを持ち出して合憲性の境界を議論するための「ディシプリン」は、これまでのところ十分に見出されたとは思われない。

独禁法をめぐる憲法論の貧困の一つの背景は、競争が望ましく独占が望ましくないという価値判断を憲法論として受け止める理論的素地が欠如していることにある。「事業の自由」(「契約の自由」と言い換えてもよい)が競争制限を生み出すとき(しばしば単に「独占」と言い換えられる)、その競争制限を阻止するために独禁法が登場する。日本国憲法には競争を保護する言及はない。一方、独占を拒絶する記述もない。営業の自由が職業選択の自由の一貫として保障され、所有権を保障する規定の延長として事業活動の自由が保障されるとしても、独占する自由が保障されている訳ではないし、一方、これを排除することを求めている訳でもない。結局、公共の福祉の観点から政策的に独禁法の介入を合憲的に解釈できるかという、経済的自由権に対する政策的規制一般の問題として処理されるだけである。

 資本主義と独禁法:経済制度の基本問題

資本家による労働者からの搾取という資本主義の問題は、産業構造の変化を経て独占資本主義へと変遷し、独占企業は金融資本を巻き込んで各種産業を支配し、やがて帝国主義へと突き進む国家独占資本主義へと展開したというのが、マルクス主義(の一派)の歴史認識である。この国家独占資本主義という言葉が、戦後、独占資本主義の弊害を国家的介入によって除去する積極国家(マルクス主義から見れば修正資本主義)を語る用語と化し、このピュアなマルクス主義からすれば「身売り」のような転向は、資本主義陣営が独占の弊害を除去し自由市場を機能化させる(競争の健全化)要請と合致して一つの均衡に至ったように見えるが、その均衡点の一つは福祉国家であるが、独禁法もまたその均衡の例であるように見える。つまりマルクス主義陣営から見れば、独占によって苦しむ多くの人々(中小企業や一般消費者)を解放する役割を果たすのが独禁法であり、それは「契約の自由」に委ねる消極国家ではなく独占の弊害が特徴である現代における積極国家の要請である、ということになる。公正、自由、一般消費者、民主的、といった独禁法の言葉は、歴史的に、マルクス主義陣営に居場所を提供してきた。

山川出版社の『政治経済』の教科書には「・・・経済活動の自由については、他の人権との調整という観点だけからではなく、福祉国家を実現するという社会政策的な観点からの制限も認められる。経済的自由の具体的な規制としては、独占禁止法・農地法・都市計画法などがある。」との記述があるが、独禁法を競争の維持、促進を実現する法律と理解すると意味が分からないが、独禁法を搾取される人々の解放のための法律と見れば納得がいく。独禁法はそれを眺める論者によって見え方が違うのである。

資本主義において独禁法はどのような役割を演じているのだろうか。

  考えるヒントは、競争の対語を独占ではなく計画と考えることにある。競争とは確かに競い合いの一つの帰結としての「価格=費用」の状態である、あるいは効率性が他の状態よりも大きく達成されている状態であると定義することはできる。しかし、競争は競い合うことそれ自体であり、それが「価格=費用」の状態を保証するものでもないし、最大の効率を保証するものでもない。しかし、競争の手続のみが、人々がバラバラに持っているより良い技術、より低廉な財やサービスの提供の可能性といった経済に係る知識を発見するためには競い合いを通じた照合の過程を経る必要がある。その過程を競争と呼ぶならば、競争とは競い合いという行動を通じた知識発見の手続ということになる。この意味での競争の対語は独占ではなく、競い合いの積み重ねによらない生産、流通、消費といった経済過程であり、それは特定の誰かが計画的に最も優れた生産手法、流通手法を通じて、最も人々が満足するような消費を実現するように命令する方法、すなわち計画経済型の社会主義であるということになる。

 この競い合いの過程が存在する以上、自由市場は知識を有効に利用する傾向を保持し続ける。どのような競い合いの状態がどれだけ知識を有効に利用することを可能にするかは完全に把握できない。一ついえるのは、一時的な独占があったとしても自由市場の要請を満たした結果における独占であるのであれば、独占は競争と矛盾しないということだ。自由市場の機能を不全する形で独占が継続する場合には法的な介入が必要になる。そこに独禁法の役割がある。

 独禁法が自由市場の機能化を妨げる事業者の行為を禁止することをその役割とするならば、独禁法が禁止すべき対象は、下記のどちらかということになる。

 第一が、そもそもの「契約の自由」の出発点である自由を侵害すること、言い換えれば他者に何かを強制すること、あるいは強制的に他者から何かを奪うことである。典型的には刑法がその役割を担うが、刑法が規定する個人間で生じる典型的な類型以外、言い換えればビジネス上の慣行として見られる行為が独禁法の射程となる。

 第二が、当事者間においては「契約の自由」の範疇だが、それが競争を妨害し、自由市場の機能を不全に陥れるタイプの行為である。典型的には価格協定がそれに当たるだろう。類型的にマイナスの外部性が顕著で、その行為の外形から反論の余地を許さないタイプの行為である。

 独占者の行為は第一の性格を有する際に問題視される。独占という地位が自由市場の要請を満たしていることを根拠に続いている場合には問題視されるべきではないが、そうではなくなった場合、言い換えれば独占の弊害のみが残存し、競い合いの過程が期待できなくなった場合には、自由市場からこの独占を受容する余地が失われる。排除を目的にするだけの極端な廉売はこのタイプに属する。

 繰り返すと、この場合、独禁法が向き合う競争の対語は計画である。独禁法が保護しようとするものは、競争の基盤にある自由であり、競争を通じて形成される自由市場の機能である。競争は自らの知識を有効に利用しようとする動機を持った経済主体による競い合いの集積としての自由市場の過程、知識発見の手続であり、その手続を保護する限りにおいて独禁法は競争を保護するのであるが、それは特定の誰かの競い合いを助けるものでも、競い合いの集積の特定の帰結を計画的に実現しようとするものでもない。上記の第一、第二のいずれかのタイプの行為であることが経験的に知られた(ある程度はパタンとして把握できる)行為が類型化されたものが禁止されるのである。

 そういった骨組みを前提に独禁法を理解しようとすると鵺のような存在の実像が見えてくるのではないだろうか。

 独禁法は、その幹に対するいくつかの統一性のない接木によって形成されるものである。一つが、独禁法の目的規定に見られるように「公正」「自由」「民主」といった「射程の広い」規範的な概念の下、競い合いの集積による過程にさまざまなバイアスのかかった要請に基づく違法のイメージが混入された状態で諸々の違反が問われてしまっているということである。

次に、ある行為が市場にもたらす影響を具体的に計算したり、説明したりすることを前提に、ある行為が競争的か非競争的かということをケース・バイ・ケースで判定しようという考え方が付加されているということである。競争を計画の対語と考える立場からすれば、こればこれは撞着的な認識だが、ここでは競争の帰結を具体的に把握できるというスタンスに立った考え方が採用されている。

 さらに競争を辞書的な意味での競い合いでのみ理解し続け、競争制限の射程を(競い合い

を妨げる何らかの影響が出れば理論的には競争制限を認めるという形で)柔軟に捉えつつ、行政機関や裁判所の実務を「後追い」的に説明できればよいと開き直る立場が、独禁法の議論に入り込むことで、独禁法はますます得体の知れないものとなる。しかし、この立場は法実務を知るという学習の便宜からは正しい姿勢である。その目的からすれば、何らかの形である程度体系立ててある法令の多くの適用事例が理解され、頭の中で整理できればよいのであって、実務を離れて法理を詰めたところで、法理論や法体系が大して詰められていない法令を前に、そのような努力をしたところで徒労に終わるどころか、どこかで説明できない部分が出てくるのは必定だからだ。そのようなフラストレーションを抱える理由は、実務家要請の学習においては全くないと割り切った方がよいのかもしれない。

 学習の便宜のために作成された本著でもそのような立場にコミットしたいのだが、経営や商業を志す読者に向けて執筆された趣旨から、多少なりとも競争や市場の本質論に迫った観点からある法令を理解する努力をすることがそのセンスを磨くことにも繋がると考えたので、上記のような議論を展開したのである。

7「経済法」という法領域について

 競争と計画を対置するものの見方は、独禁法を含む「経済法」という領域の特徴を理解するのに大いに役立つ。まずは戦前と戦後を各々代表する二つの経済立法を見てみよう。

主務大臣、前条の統制協定の加盟者3分の2以上の申請ありたる場合において、当該産業の公正なる利益を保護し、国民経済の健全なる発展を図るため、特に必要ありと認めるときは、統制委員会の議を経て、当該統制協定の加盟者又はその協定に加盟せざる同業者に対して、その協定の全部または一部に依るべきとを命ずることを得。

この法律は、私的独占、不当な取引制限及び不公正な取引方法を禁止し、事業支配力の過度の集中を防止して、結合、協定等の方法による生産、販売、価格、技術等の不当な制限その他一切の事業活動の不当な拘束を排除することにより、公正且つ自由な競争を促進し、事業者の創意を発揮させ、事業活動を盛んにし、雇傭及び国民実所得の水準を高め、以て、一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする。

前者は重要産業統制法2条であり、後者は既に見た独禁法1条である。共通するのは両者とも「国民経済」の発達のための法律だということであるが、すぐにその違いにも気付く。それは重要産業統制法においては「国民経済の健全な発達」とだけ規定されているのに対し、独占禁止法においては「国民経済」と「健全な発達」の間に「民主的で」という言葉が挿入されているということだ。周知のように独占禁止法は連合国軍の占領政策としての経済民主化の一貫で導入されたものである。経済における民主とは何か、についてはすでに触れた。少なくとも独禁法においては「民主」という言葉は「誰も市場を支配しない」という意味での「競争」の言い換えであったが、しかしその競争概念自体が幅のあるものだから、そして「公正」や「自由」という規範概念を伴って競争が語られるものだから、結局、論者によって簡単に操作可能となってしまう問題を伴うこととなった。

独禁法の議論においてほとんど注目されてこなかった概念の一つが「国民経済」だ。一般的な言葉として「経済社会」「日本経済」程度に理解されているこの言葉は、戦前の重要産業統制法にも用いられていたという事実はもう少し強調されてもよい事実である。1973年制定の国民生活安定緊急措置法の目的規定(1条)も「この法律は、物価の高騰その他の我が国経済の異常な事態に対処するため、国民生活との関連性が高い物資及び国民経済上重要な物資の価格及び需給の調整等に関する緊急措置を定め、もつて国民生活の安定と国民経済の円滑な運営を確保することを目的とする。」と、「国民経済」の文言を用いている。

 戦前の重要産業統制法や戦後の国民生活安定緊急措置法は政府による細部の市場過程(物価水準等の具体的な決定)に深く関わる「統制型」の立法であり、独禁法は一般的に競争制限行為を禁止する「規律型」の立法である。同じ経済立法であるが、一方では競争のメカニズムを排し、もう一方では競争のメカニズムを擁護する点で対照的だ。言い換えれば、独禁法は、個々の利益の追求のために行われる「契約の自由」が、競い合いの過程を通じて市場を機能的なものにするようにするための(裏を返せばそうならないことを防止するための)変換装置の役割を果たす。統制型立法はその射程においては市場の機能自体を排除し、直接的に経済の計画を実施しようという意図に導かれている。つまり、同じ目標を実現するのにアプローチの異なった(正反対の方向性を持つ)立法が並存しているということだ。

 現在「経済法」という科目は独禁法を中心とした競争制限禁止に係る立法、そして不公正な取引方法に係る立法の総称(といっても全てではなく、公取委が法執行機関として関与するものに限定されている)として理解されているが、かつては統制型の経済立法が「経済法」と呼ばれていた。今では統制型の経済立法は「経済統制法」と呼ばれるのが通例だが、独禁法の存在しなかった戦前においては経済立法といえば経済統制の立法だったので、違和感なく「経済法」の呼称が用いられていた。

「経済法」の概念の源流は、経済法学者自身が認めるようにドイツ由来の概念である。20世紀初頭にドイツ(ドイツ第二帝国からワイマール期)で持ちられるようになった法領域の呼称である。

19世紀後半、近代化を急ぐ日本は国家学(法学や経済学といった国家運営に関連する学問の総称といってもよかろう)の研究者養成を急ぎ、欧米列強に多くの人材を派遣した。その多くは、経済学の分野では古典派から新古典派への変遷期にあった英国ではなく、古典派への対抗勢力として歴史学派が普及していたドイツに渡った。この歴史学派は自らが考察し、政策を導く対象とした経済を「国民経済」と呼び、その議論を「国民経済学」と呼んだ。明治から大正期にかけての日本の経済学は、イギリス由来の古典派経済学かこの歴史学派だったのである。歴史学派においては「国民経済」とは国家の経済運営に関わる諸問題の集合であり、そもそもにおいて全体主義的な色彩を帯びていた。日本の戦前の法律、それも統制型の経済立法が国民経済の言葉を用いるのは、自然なことであったといってよい。但し、経済法概念が生まれた20世紀初頭においては、歴史学派は終焉を迎える時期に差し掛かっており、歴史学派にリンクさせて経済法を概念する立場は諸々あるうちの一つにすぎない。

では独禁法において「国民経済」の用語を用い続けるのは何故か。一つは大した意味がない、と考える見方があり得る。過去に経済立法にこの言葉を用い続けてきた名残で、いわば「枕詞」のように用い続けているということだ。むしろ「民主的」という言葉に力点がある、そう考えるのは確かに説得力がある。もう一方の見方として、独禁法においてさえ、なおも統制立法としての要素を見出そうという意図が込められていると見ることだ。独禁法の中にある種の統制的な計画性を見出そうという発想があるのかもしれない、あるいは独禁法自体が他の統制型の立法と同様に経済統制を実現する一手法と考えられていたということである。独占的状態の規制のような市場過程への強権的な介入にはその要素が見出せる。独禁法は他の統制型立法とは選択し得るメニューの一つであり、それはその時々の環境に応じればよい。重要なのは「国民経済」の効果的な発展を実現することだ、と考えるのは確かに敗戦直後の日本の実情には合っていた。

<コラム>現代の経済統制法
令和時代にアクティブな経済統制法 マスクの買い漁りが深刻化してから1ヶ月ぐらいが経つだろうか。政府がとうとう転売禁止の対応に踏み切った。その手段は、国民生活安定緊急措置法の政令改正である。国民生活安定緊急措置法はその第26条第1項で、「生活関連物資等の供給が著しく不足するなど国民生活の安定又は国民経済の円滑な運営に重大な支障が生じるおそれがあると認められるときは、当該生活関連物資等を政令で指定し、譲渡の禁止などに関し必要な事項を定めることができる旨が規定」されている。そして、関連する政令の改正によって、同法の規定に基づき、「衛生マスクを不特定の相手方に対し売り渡す者から購入した衛生マスクの譲渡を禁止する等の必要があるため、必要な措置」が定められた。具体的には、「衛生マスク」を指定し、「衛生マスクを不特定の相手方に対し売り渡す者から衛生マスクの購入をした者は、当該購入をした衛生マスクの譲渡(不特定又は多数の者に対し、当該衛生マスクの売買契約の締結の申込み又は誘引をして行うものであつて、当該衛生マスクの購入価格を超える価格によるものに限る。)をしてはならない」と定め、「違反に対する罰則」を定めた(以上、経済産業省ウェブサイトより)。政令の規定から、メーカーから小売までのプロセスには適用されない。当然、仕入原価から一定の価格を上乗せして再販売するので、これを禁止してしまえば「商売が成り立たない」。どこかのコンビニとかスーパーで仕入れたものを個人がネットで転売したり、他の小売店が店頭で転売したりすることを規制する措置である。この措置は在庫商品の「小売間の横流し」というよくある流通にも該当することになるが、一般には売れ残り商品の引き取りとその廉売なので、今のマスク問題には無関係だろう。 国民生活安定緊急措置法は昭和48年(1973年)制定の法律である。そこからもわかるようにこの法律は石油ショックをきっかけに制定されたものである。独占禁止法が競争への弊害をもたらす事業者の活動を禁止し、自由市場の規律を「やや遠回し」に行うことに比して、国民生活安定緊急措置法は「よりダイレクト」に市場過程に介在するものであり、いわば「非常停止ボタン」のような役割を果たしている。当時と今では、置かれた経済、社会状況が異なるが、法律の考え方は一緒である。現在「ネット販売」という当時存在しなかった販売手法で多くの問題が生じていることを考えれば「古典的な立法」の「現代的な適用」といえるだろう。マスクの取引自体は当然合法なので「闇取引」のようなものは生じないだろう。国内では通常の価格に戻って行くだろう。ただ、卸売業者から入手した小売業者が「再販売」した場合の価格高騰の恐れがなくなった訳ではない(再販売価格維持は独占禁止法違反である)し、メーカーの段階で値上げをする可能性も否定できない。そしてマスク転売問題が解消したとしても、需給バランスが崩れたままである限りは「行列」の解消にはならない。買い漁り行為の一つのインセンティブは消えたが、もう一つの(マスクを付けたくても付けられないリスクを減らそうとする)防衛行為としてのインセンティブをどう解消するか、そちらの方が全体としては重要な課題といえよう(増産するか、マスクの不要性を認識させるか)。そもそもマスク買い漁り問題は、生産量の低下の思い込みによる「買い漁り」ではなく、みんながマスクを必要とする状況が急激に発生したことによる需給バランスの崩壊がその前提にあるのであって、この状況がいつまで続くか分からないが故に人々は買い漁るのである。「思い込み」がなくなれば問題が解消される訳ではない。とするならば価格が安定した状況で、単に品不足の状況が続くことになる。そのためのサーチコストが上昇して、(行列に並んだりする労力も含めて)結果的に、「高い買い物」となりかねない。海外のサイトでもマスクは高額販売されている(欧州や米国でもマスク需要は高まっているようなので、今後、さらに価格が高騰するかもしれない)。品不足が続けばどうしても欲しい日本の消費者は「輸入」にすがることになるだろう。仮に「ぼったくり」への憤慨を解消しても、マスク不足という国民生活への深刻な影響が解消されない限り、国民生活安定緊急措置法の狙いが十分に実現されたことには必ずしもならないのである。