批判は中庸が肝要・続編

批評は中庸が肝要

先日、NHKの番組「おはよう日本」のインタビューで有識者としてコメントした。コロナ軽症者用に(東京オリンピックのために準備した)警察官宿舎を改修したが未使用のまま元に戻し、二度の改修で総額40億円を支出したという内容の報道だった。当時の状況では「どうなるかわからない中、保険をかける意味もあるので結果的に未使用になったこと自体は責められない部分もある」が、その手続きや各省庁、自治体との情報連携、コミュニケーションの問題があったのかもしれず今後の材料のためにも十分な検証をするべきだ、とコメントした。国民の税金の利用なので、当然、批判的に見ることは重要だ。

 この点について世間の反応は二つに分かれている。

 一つが、「40億円という多額の出費をしておいて未使用などとは、とんでもない無駄遣いだ。関係者の責任追及を徹底すべきだ。」というものだ。そしてもう一つが、パンデミックを防ぐために必要なことをしたのだから、結果未使用に終わったとしても、むしろ政府の判断は褒められることはあっても責められるべきではない。」というものだ。

これらの意見は両方ともことがらの一面しか見ていない。前者は、最初から無駄と決め付けているのが問題だ。検証なしに無駄と決めつけるのは思考停止以外の何物でもない。証拠なしに断定するのは、言論上最もしてはならないことだ。

後者は、最初から合理的と決め付けているのが問題だ。目的が正しければ手段が正当化される訳では決してない。政府は必要だが政府に関わる全ての出費が合理的な訳ではないはずだ。自衛隊のように武力紛争の抑止効果があるのなら、武力紛争が生じなかったこと自体を「よい成果」ということができるが、警察官宿舎を改修したことがパンデミックを防いだ訳ではないので、未使用だったことは「見込み違い」に基づく(実際に、ホテル等が使用されたのでこの施設は不要だった)のだから、今後に活かすべき材料として検証の対象になるだろう。それを「国民のためを思って実施したのだから褒められる話だ」といった単純な思考で正当化すべきではないはずだ。40億円という多額の費用はより有効なお金の使い道もあったかもしれない。あるいは今後の変異種の感染拡大などを考えれば、オリンピックの動向など勘案しつつ再改修など要らない、という結論が妥当だったのかもしれない。大変なときだから黙れというなら民主主義は要らない。

あるテレビの番組で、ある与党政治家がコロナ禍における政府の対応を批判された際、「頑張っている人を批判してはいけない」といった趣旨のことを発言したのを見かけたことがある。この種の発言は絶対にしてはならない。このコロナ禍で誰もが歯を食いしばって頑張っている。全体の奉仕者であるはずの政治家や公務員が頑張るのは当たり前で、問われているのは頑張る方向とその具体的施策の合理性、妥当性である。必死だから免責というのでは政策は成り立たない。「国民一丸になるべきこのときに批判などするな」、というのも同じ類の発言だ。

一方、何でもかんでも相手の悪口を探すだけの態度には辟易する。政府批判なら何をいっても責任は負わなくてよい、という風潮には強い危機感を覚える。野党政治家は相対的に自身の評価を上げたいがために政府の評価を作為的に下げようとする。それが客観的な事実を前提とした正当な評価に基づいているならばよいが、悪口をいうためだけに恣意的に事実を切り取って酷評するという言説が、政府の批判者には多く目立つと感じているのは筆者だけではあるまい。

 批評は中庸が肝要である。しかし、メディアによく登場する知識人にはそのような中庸な姿勢を見かけることはあまりない。際立った言説が視聴者に好まれるからだ。できれば視聴者の危機感を煽った方がよい。視聴率が取れるからだ。政府の対応に不満を持つ視聴者を代弁して政府批判をすることで視聴者の満足感を与える。勢い、必要以上に事実を誇張して報道する。それが必要以上の危機感を煽る。それが視聴者の不満を増幅させる。その不満を解消する発言を知識人にさせる。そういう循環のように思えてならない。中庸の姿勢を貫いて視聴率を下げるのであれば、際立った姿勢を示すことで視聴率を上げた方がよい。何故ならば、資金を提供するスポンサーがいるからだ。

 だから大抵の場合、最初からポジションが決まっている知識人が登場するか、知識人を誘導して際立った発言をさせるかのどちらかになる。後者の場合、良識のある知識人は、番組の編集に不満を持って「2度と出ない」と思う場合も多々あるようだ。筆者はそういった有識者を数人知っている。

 冒頭のインタビューでは、筆者は「理解できるが検証が必要だ」と発言した(切り貼りされたのではなく、確かにそう発言した)が、順番を変えて「検証が必要だが理解できる」と発言したら随分と印象が変わっただろう。筆者は仕事柄、公共契約のあり方には厳しく眺める癖が付いているので、どのような場合でも将来に活きる材料は活かすべきだ、と考えてそのように発言したのだが、政府担当者からすれば納得がいかないかもしれない。「理解できる」と発言しただけ、中立であるとは思うのだが。

  競争入札が善で、随意契約は悪だ。一般競争が善で、指名競争は悪だ。落札率が低いのは善で、高いのは悪だ。このタイプの言説がこれまでの入札契約改革でまかり通ってきた。しかし競争入札を行うことが不利な場合には随意契約をすることが認められている。緊急性の高い調達で無理して競争入札を強行するのは、却って国民の損害を与えることになりかねない。必要な競争入札は必要で、必要な随意契約は必要というだけの話なのに、そういう議論にはならない。

 指名競争や随意契約が、談合や癒着の温床になってきたという事実は否定できない。だからといってこれらのすべてを闇雲に否定するのは思考停止そのものである。大人用のプールで子供が溺れたら危ないので全部子供用プールにしろというのがナンセンスなのと同じ発想だ。しかし、人々は「怒り」や「憤り」の感情を持つとき、往々にして極端な議論に走りやすいものだ。尼崎脱線事故でカーブを曲がり切れずに脱線した列車がマンションに激突して多数の死者が出たとき、住宅の付近を列車が走っていることを「危険極まりない」と指摘した識者がいたが、それなら横断歩道は全部廃止し全部トンネルにせよということになるし、飛行場の滑走路からターミナルまで数十キロ離せということになる。事故の危険を最小限に抑える工夫は必要だが、極端な安全志向は非現実的なコストを生み出す。随意契約は不正、癒着の危険があるから廃止せよではなく、不正、癒着の危険を最小化する努力を施しつつ随意契約を実施せよ、というのが正解のはずだ。もちろん、随意契約自体が不正、癒着だというならば話は別だが、それならば法令は随意契約を許さないだろう。

 随意契約の生命線は透明性にある。例えば、昨年話題になった全世帯向けのマスク配布事業。あれは随意契約で行われた。一段階早い時期に国民にアナウンスし、実際に配布していれば結構効果があったと思う。2月から3月にかけて不織布のマスクが店頭から消えたのは事実であった。それが未知のウィルスに直面した国民の不安を煽ったことは事実だ。政策として政府が必要なマスクを調達し、必要な人に配布することそれ自体は、不良品がなく、支出も低廉に抑えられて、目的に対して一定の成果が期待できるならば、批判されるべきものではない。そして場合によって随意契約が必要だという考えは当然だ。公共工事における緊急随意契約は人々の命を守るために必要なものだから競争入札のメリットを捨てて、「時間を買う」のである。それを否定する人はいない。だから政府はその調達の必要性も含めて徹底した情報公開に努めればよい。

随意契約にとっては透明性がその生命線である。随意契約への国民の不信感が高まり、今後必要な場面において発注機関が躊躇して随意契約を利用できないような事態になれば、それは政府にとって不幸な話であるし、それは延いては国民にとって不幸な話だ。あれこれと批判される中、政府にとって必要なのは先手先手の透明化なのではないだろうか。本当に必要なものを正当な手続で調達しているのであれば、堂々と説明すればよい。必ず国民は支持するはずだ。途中に紆余曲折があっても、それはどんな場合でも紆余曲折がある。仮に些細なミスを取り上げて野党が政府批判しようものなら、そのような批判をした野党こそが国民の支持を失うであろう。ただ際立った報道を好み、国民の不安と怒りを恣意的に誘導しようというメディアの姿勢が変わらない限り、政府は情報の公開に躊躇し、無謬の体裁を繕い続けるだろう。「批評は中庸が肝要」という出発点があっての透明性への信頼なのであるから。

 「批評は中庸が肝要」と決めつけるのも思考の停止かもしれないが、そこから出発するのは大抵の場合、問題に対して事実に整合的な理解となるというのが歴史的な経験則ではないだろうか。最初から善悪を決め付けるような議論には、十分警戒した方がよい。