独禁法はカメレオンのような存在だ。山川出版社の『日本史』の教科書ではGHQによる経済民主化として独占禁止法や過度経済力集中排除法に言及する一方、同じく『政治経済』の教科書では「経済活動の自由については、他の人権との調整という観点だけからではなく、福祉国家を実現するという社会政策的な観点からの制限も認められる」と述べられ、その「経済的自由の具体的な規制」として独占禁止法が農地法や都市計画法などと共に挙げられている。二つの教科書が同じことを述べているというのであれば、GHQの経済民主化政策は福祉国家政策と同視し得、独占禁止法がその手段であるという理解になる。
この「経済民主化」という言葉は、その中身自体はどうとでも説明できるが何故か説得力を持つマジックワードのようなものである。民主という政治的用語を独禁法が実現しようとしている「何かの比喩」として持ち出すのであれば、民主の対語である独裁も独禁法が避けようとしている「何かの比喩」として理解することになるが、これは経済における独占を念頭に置いていることは容易に想像が付く。では民主に相当する経済的概念は何か、つまり独占の対語は何か。それが「競争」であるのであれば、経済民主化とは競争による経済の規律を意味するということになる。「競争の促進」を言わんがために「民主」などという言葉を駆り出すのは随分と遠回りをしたものだと思うが、民主という言葉の利用は単に競争の言い換えである以上のより強い意味付けを競争概念に対して行う意図があるように感じるのである。ではそれは何だろうか。
民主の対語である独裁は「政治的な意思決定が特定の人物に集中している」さまを意味している。民主とはその逆で意思決定の主体が分散しているさまを描写するものである。その対比で考えると独占が特定の経済主体に取引条件を左右することができる状態を意味するのに対して、競争はそうでない状態を意味するということになる。価格を例にとれば、つまり、誰も価格に対する影響力を持たない状態だ。全ての売り手が限界費用での価格設定という競争市場の条件を受け入れるプライステイカーとして振る舞うことを「競争」と描写しようとする、ハイエクのようなオーストリアンの論者にいわせればナンセンスな競争観は、確かに民主という言葉と競争概念をリンクさせるバックグラウンドを提供する。オーストリアンの基本的認識は、自由市場において貢献度の高い経済主体はそうでない経済主体に比べ一定の影響力を行使できる立場にあり、それを善し、と考える。より魅力的な条件での取引を実現する経済主体に対しては、その影響力ある地位がその効率性を反映したものである限り、そして他の経済主体からの挑戦を受けるという意味でのある種の公開性が競争の手続きに認められる以上、これを問題視しない。競争優位を獲得する活動を認める限り、競争を民主と見ることには無理が生じてくる。つまり競争を、力の否定と見るのか、力の肯定と見るかでこの政治的用語を受容するかどうかが決まってくる。これは競争観の違いであるが、これまで詰めて議論されてこなかったイシューである。神棚に置かれた「経済民主主義」は、だからこそマジックワードとしての機能を果たし続けているものでもある。