「一者応札」は「不正」なのか?

公共契約における悩ましい問題の一つに「一者応札(一者応募)」がある。これは公共契約の締結の過程で競争入札(募集)を行なった際に、応札者(応募者)が一者しかいないケースを指す(「者」と書くのは個人事業者の場合もあるからだ。一般的に業者は会社なので「社」と書く場合も多い)。応募者は複数いたが札入れの時点で辞退が相次ぎ、結果一者になる場合もあれば、応募の時点ですでに一者の場合もある。また、競争性のある随意契約(企画競争等)での一者応募のケースもある。厳密には、場合分けをしつつ考察する必要があるが、ここでは主として一般競争入札を実施したのにそもそも応募者が一者しかいない状況を念頭におこう。最近では、海上保安庁発注の燃料購入契約で一者応札が相次いでいるケースがNHKに報じられている(NHK News Up(2019年2月15日)「偶然か?不正か?」)。

「一般競争入札は多くの応札者が期待できるのであるから、一者しか申し込まないような事態は不正以外の何物でもない、談合が強く疑われる。」これが世間一般の感覚かもしれない。一者応札のケースでは往々にして落札率(落札価格/予定価格の百分率)が高く出るのでますますそう思われるのだろう。大抵の場合、不正が原因なのではなく、他の業者にとって競争入札に参加しても勝てる見込みがないと思われていることが一者応札の発生原因となっている。同一業者と何年にも渡って契約を繰り返している業務委託契約をその翌年においても発注する場合、あるいはある現場の土木工事の完成後に追加の工事を発注する場合、一般競争入札を実施しても既存の業者だけが応募し、当該一者のみの応札となる可能性が高い。それは過去に同種の案件を受注している業者、過去に関連性の強い工事を受注している業者が、その知識・ノウハウや経験の面においても、価格低減の余地の面においても、他の業者よりも有利な立場にあるのが一般だからである。他の業者からしてみれば、最初から有利である既存の業者に対抗するために時間や労力をかけて積算し、(場合によっては)提案書を作成するのは無駄に映る。採算が合わなくともダンピングで対抗すれば受注できるかもしれないが、その合理性を見出せない業者に参入のインセンティブは存在しない。それ自体、ある意味で競争の結果なのである。だから表面的に何者応募した、応札したということに拘ることはナンセンスにも思える。つまり競争は存在するが、競争の結果が事前に判明しているケースなのである。問題は、競争の条件を不当に厳しくして一者になったのか、そうでないのに一者になったのかである。「一者=不正」と決め付けるのは暴論に近い。

一者応札が予想される場合、当該業者はできる限り高い金額で応札しようとするだろう。予定価格が非公表であっても予想したそれに合わせてくるはずである。一般的には前年度ベースなので同種の契約ならばほぼ予想通りとなる。不安であれば高めに金額を入れ、その後繰り返される入札で、どこかで金額が折り合うことになる。一者応札で入札を繰り返すということは多い。

このようなケースには随意契約が妥当すると考える人も多かろう。一昔前ならばそうする発注機関が多かっただろうが、今は違う。複数の応募者が存在する「かもしれない」以上、随意契約理由が立たないと考えられているからだ。つまり、随意契約が正当化できるのは、受注可能業者(あるいは適切な業者)が一者しかいないことが「明らか」な場合にのみに限定されると考えられているのである。個人的な見解として随意契約はもう少し柔軟に利用可能だと考えているが、一般にはそうではない。いわゆる「ゼネコン汚職」以降の四半世紀の間、公共契約は不正の温床として批判され続け、中でも随意契約と指名競争入札が標的となってきたことで、国も地方公共団体も「一般競争入札さえ実施していればよい」というマインドになり、一般競争入札を批判回避のための「シェルター」として利用している感がある。

しかし、今度は一者応札・一者応募批判が襲ってきた。「一者」というのは「競争性の欠如」を意味するのではないか。相応の参入者数が期待できるからこそ一般競争入札を実施しているのではないか。一者しか応募、応札しないというのは、発注の仕組みに問題があるのではないか。その背景には官民間の癒着があるのではないか。そういった批判である。2008年12月、政府の行政支出総点検会議が「各府省は、一者応札・応募となった契約を精査した上で、応札者を増やし実質的な競争性を確保するための改善方策を検討し、公表すべき」と指摘して以降、各発注機関はこの「解消すべき問題」に悩み続けている。

「一者」はそれ自体「不正」か。そうではあるまい。不正によって一者になるのが不正なのであって、その逆ではないはずだ。しかし随意契約批判を回避することを自己目的化し、一者応札が予想されるケースにまで競争性を確保したような体裁を繕おうとした結果、再び批判に晒されることとなった。いまさら、過去のような随意契約を選択する訳にもいかない。特定の業者との癒着を批判されて随意契約を放棄したのであるから、特定の業者のみの応札、応募が続けばそれもまた癒着と批判される。このような批判に過剰反応した東京都の小池百合子知事は「一者の場合の入札手続の中止」という大胆な改革を実施したが、契約手続の遅れなど現場の混乱を招いただけで、期待された大幅な価格低下等のデータも得られないまま一年後に撤回した(その分析として、郷原信郎「小池氏による一者入札禁止「制度改革」の“愚”」が詳しい)。

発注情報を周知徹底するとか、公告期間を伸ばすとか、そういう対応には自ずと限界がある。連続して同じ業者が受注しているような場合、公募をかけ応札に興味を有する業者が現れれば一般競争入札を実施し、そうではない場合に当該既存業者と随意契約を結ぶ「公募型随意契約」という選択肢もあるが、問題を根本的に解決するものではない(手続がよりスムースになるという利点はある)。

結局、この問題は透明性の問題に行き着くことになる。競争という手続の利点は、もちろん(価格低下等の)効率性にあるが、もう一つ行政にとっての利点として「競争手続それ自体が説明責任を果たしている」ことを挙げることができる。すなわち会計法や地方自治法の下、公共契約において求められる経済性の実現の要請に対して、競争手続こそが効果的な手法として考えられており、それが採用されている限り、その結果がどうであれ発注機関としては義務を果たしていると理解されることになる、というものである。しかし、一者が続くようなケースでは、その説明責任が危うくなる。場合によっては構造的な問題がその背景にあり、発注機関としては如何ともし難い状況なのかもしれないが、場合によっては不正・癒着の構造が背景なのかもしれない。残された手段は、説明責任を果たしていくことしかない。一者が続くことの事情を十分な情報公開を行った上で説明し、納税者に理解を求めるしかない。一者応札が続く案件を批判されて、「法令に基づいて適切に対処しております。」しかし「情報は公開できません。」では誰も説得できない。

 

楠 茂樹 上智大学法学部国際関係法学科長・教授

慶應義塾大学商学部卒業。京都大学博士(法学)。京都大学法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て、現在、上智大学法学部教授(国際関係法学科長)。独占禁止法の措置体系、政府調達制度、経済法の哲学的基礎などを研究。国土交通大学校講師、東京都入札監視委員会委員長、総務省参与、京都府参与、総務省行政事業レビュー外部有識者なども歴任。主著に『公共調達と競争政策の法的構造』(上智大学出版、2017年)、『昭和思想史としての小泉信三』(ミネルヴァ書房、2017年)がある。

存在感を増す独占禁止法の優越的地位濫用規制:芸能人からGAFAまで

独占禁止法上の優越的地位濫用規制(2条9項5号、19条)は、取引当事者間の力関係に着目し、優越的地位に立つ事業者が劣位にある取引相手に対して(契約条件の変更等により)不利益を与える行為を広く捉えるものである。市場における競争機能ではなく、個々の取引関係における不公正に焦点を当てるものであり、独占禁止法の諸規定の中でもやや特殊な性格を有するものである。これまで、大手銀行がその融資先である企業に対してその関係性を利用して相手方が望まない金利スワップ取引を押し付けたケース(三井住友銀行事件)、納入業者の従業員をスーパーに派遣させて手伝わせたり、不当な返品を強要したりしたケース(マルナカ事件)など、独占禁止法の中ではそれなりに存在感を示してきた違反類型ではあるが、リニア談合事件に代表されるようなカルテルや入札談合を射程とする不当な取引制限規制(2条6項、3条)違反ほどの社会的インパクトはなかった。

その優越的地位濫用規制が、昨年から今年にかけて、大きく報じられ脚光を浴びるようになった。

公正取引委員会が設置した有識者会合である「人材と競争政策に関する検討会」が昨年2月に公表した報告書では、フリーランス人材と企業と間の契約を独占禁止法上、どのように扱うかについての考え方が示されている。ちょうどその前後に芸能人が芸能事務所との間で不当に不利なマネジメント契約を結ばされていると話題になっていたこともあって世間の注目を浴びた。これまでタブー視されてきた感のある芸能界のしきたりや慣行に独占禁止法のメスが入るのでは、とメディアで大きく報じられた。

優越的地位濫用規制はその名の通り、優越的な地位にある事業者が劣位にある相手に不利益を押し付ける濫用行為を禁止するものであり、企業とフリーランス人材との関係においてもそのような構造があるのならば、この分野への適用はストレートなものである。独占禁止法の登板は自然な成り行きだ。

GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に対する規制論議は、現在進行形のホット・トピックである。世界的なデジタル・プラットフォーマーとして知られるこれらの企業は、ビジネス上のネットワークを支配し、ネットワークの大きさが更なるネットワークの拡大を促すという効果を利用して他社の追随を許さず、各方面のユーザー(Amazonでいえば出品者も購入者も)が大規模なプラットフォーマーに依存する構造を作り上げてきた。これら企業は顧客情報の収集において圧倒的に有利な立場にあり、その扱うビッグ・データは、ビジネス上の優位を高め支配構造の安定化につながっている。こうした支配的構造は、ユーザに対する不利益な取引条件(利用条件)の押し付けを可能にし、取引秩序の公正さを乱す危険を生じさせる。そこで注目されたのが優越的地位濫用規制である。これまで優越的地位濫用規制は事業者対事業者の関係においてのみ適用されてきたが、GAFA規制をめぐっては対消費者(一般のユーザー)にまでこの規定の射程が拡大されるのではないか、と注目されている。

コンビニの深夜営業の要請の問題も最近話題になった。優越的地位濫用規制は、令和新時代のビジネス界における注目の的といっても過言ではなかろう。

優越的地位濫用規制は、(大企業による中小企業や消費者に対する)「いじめとの闘い」といった色彩もあって、世間的にはその適用に対して賛意の声が強いが、懸念もある。そもそも何をもって「濫用」なのか、法律の文言に引きつけていえば「正常な商慣習に照らして不当」な行為とは何なのか、についてあまりにも漠然としているからである。ビジネスにおいては取引関係上の有利不利はつきものであって、事業者が自らの努力で確立した競争優位を活かした有利なビジネスができないとするならば、競争の意欲を萎縮させることにもなりかねない。優越的地位濫用規制にいう不当性については、公正取引委員会の「優越的地位の濫用に関する独占禁止法上の考え方」にいう「当該取引の相手方の自由かつ自主的な判断の侵害」との理解が一般的であるが、何をもって「自由かつ自主的な判断の侵害」というのか曖昧過ぎ、微妙な判断が問われるものも多かろう。優越的地位濫用規制違反に対しては違反に係る売上金額の1%を課徴金として徴収することが法定されており、処分を受けた事業者は抗告訴訟に討って出る可能性が高い。そうすると今度は公正取引委員会が躊躇してしまうかもしれない。

典型的なカルテルや入札談合のように明からさまに競争を制限し、市場の機能を阻害する行為に対して独占禁止法を厳格に適用することに反対する声はまず聞かない。一方、優越的地位濫用規制のように取引上の地位の強弱に着目するタイプの規制に対しては、異論も多くある。上記「考え方」では「当該取引の相手方の自由かつ自主的な判断の侵害」と述べると共に「相手方はその競争者との関係において競争上不利となる一方で、行為者はその競争者との関係において競争上有利となるおそれがある」などとも述べているが、優越的地位濫用規制が「努力して確立した競争優位への罰」として作用する恐れもまた否定できないのだ。「考え方」は意味のある「指針」になっていない。

公正取引委員会は「市場の番犬」といわれることがある。ただ、その方向性を誤れば、悪人に吠えない「役立たず」になってしまうかもしれないし、善人にも噛み付く「狂犬」になってしまうかもしれない。今後の展開が見逃せない。

楠 茂樹 上智大学法学部国際関係法学科長・教授

慶應義塾大学商学部卒業。京都大学博士(法学)。京都大学法学部助手、京都産業大学法学部専任講師等を経て、現在、上智大学法学部教授。独占禁止法の措置体系、政府調達制度、経済法の哲学的基礎などを研究。国土交通大学校講師、東京都入札監視委員会委員長、総務省参与、京都府参与、総務省行政事業レビュー外部有識者なども歴任。主著に『公共調達と競争政策の法的構造』(上智大学出版、2017年)、『昭和思想史としての小泉信三』(ミネルヴァ書房、2017年)がある。