前回の論考(「『新しい地図』とGAFA:改めて考える芸能界における「圧力」問題と独占禁止法」)では、「文春オンライン」の杉本和行前公正取引委員会委員長へのインタビューの前半部分(「杉本和行元公取委員長インタビュー#1:元SMAPの3人めぐって…公正取引委員会がジャニーズ事務所を「注意」した真意とは」)を素材に、芸能界と独禁法の関係を中心に論じたが、今回の論考ではこのインタビューの後半部分(「杉本和行元公取委員長インタビュー#2:『公務員のデジタル人材調達は難しい』GAFA時代の競争、日本はどう規制すべきなのか」)を素材に、主としてデジタル社会における政策のあり方について論じてみたい。
杉本氏は「公取ではプラットフォーム企業の実態を把握するためのチームを作った」のか、という質問に対して、こんなことをいう。
専属部隊を作ったんですけど、公取の中にデジタルの専門家がいるわけではありませんからね。外部の専門家の知恵を借りましたし、事務方も一から勉強しました。とはいえ、やはり基本的なところから勉強しなければなりませんから、やはりIT技術の専門家を招く必要もあるわけです。ただ、今の公務員のシステムではなかなか……。
情報技術は恐ろしく速いスピードで進化していく。この技術のフロンティアをキャッチ・アップしている人材は少なく、その市場価値は大きい。一から勉強しているうちに技術は次のステージに移っているかもしれず、産業の姿は様変わりしているかもしれない。
20年数年前にマイクロソフトが反トラスト法違反で司法省から訴えられた際、この分野の技術の進展のスピードは速く、常に革新を目指して競争的に振舞わなければ一見支配的かのように映る現在の構造は脆く崩れ去るだろう(だからマイクロソフトを支配的企業というのはナンセンスだ)、といった趣旨の反論をしていたと記憶しているが、当時、GoogleやFacebookといった企業が反トラスト法のターゲットになるような今の事態を誰が想像しただろうか。10年後、20年後にはこれらの企業が勢いをなくし、次の技術の波に乗っかった別の企業が今では想像もつかない形で情報産業を席巻しているかもしれない(私はそういった支配的企業の自由市場を通じた衰退の過程に関心がある。独占禁止法による弱体化ではなくて)。
法律はいつも後追いである。ある産業におけるある企業のある行動が反競争的かどうかを、独占禁止法は見極めなければならないが、新しい産業や新しいビジネススタイルについては、それが分かるのはいつも後になってからだ。露骨なカルテルや入札談合ならば、有無をいわさずアウトの判定ができようが、デジタル・プラットフォーマーの行動はどうだろうか。デジタル人材が不足しているのでどうしたらよいかということに悩む公正取引委員会の姿が悩ましい。今のアメリカで、「効率性の追求」ではなく「大きいものへの警戒」を反トラスト法の基本思想に据えようという考えが支持されつつあるのも、そういう「わからない」「わかり得ない」ことへの不安が背景にあるのかもしれない。
産業における現実、企業行動が先にあり、マーケティング学、経営戦略論、そして経済学がそれに続き、行政が悩み、法律家が最後に出てくる。それも日本の場合、欧米の後追いであることが多い。私が90年代、学部生の頃に勉強した70年代から80年前後のマイケル・ポーターの戦略論は、単純にいえば「競争優位=効果的な障壁の形成」の話なのだが、後から考えれば独占禁止法の標的になることがたくさん盛り込まれていた。独占禁止法がトレンドにしたのは随分後になってからのことである。さて、デジタル・プラットフォーマーに対する独占禁止法のアプローチはどこまでそういった「時間差」を短縮できるか。そうこうしているうちに、技術革新が進み、事情が変わってしまうかもしれない。
話を杉本氏に戻そう。
杉本氏はデジタル・プラットフォーマーの優位は情報量における優位と考え、そういったデータをプラットフォーム企業がオープンにし、他企業が産業インフラとして利用できるようにすべきだ、と主張する。
プラットフォームは競合企業にデータへのアクセス権を設定する。その代わり、企業はプラットフォームに対してアクセス料金を支払う。これは、競争政策におけるエッセンシャル・ファシリティの考え方なんです。「不可欠資産」とも言うんですが、例えば電力会社の配送電網とか、携帯電話の電波網などは限られた資源で、既存事業者によって寡占・独占にならざるを得ない。そこに競争原理を入れて、企業が新規参入できるようにするためには、独占状態になっている不可欠資産に対するアクセス権を設定してあげることが必要になってきます。
競争を回復(維持、創出)させるために必要な資源に他社をアクセスさせる方法は、独占禁止法の適用においてはもはや「古典的手法」の域といえようが、元々国有企業だった業者(資源形成のコスト自体が税金によって賄われた)に対してはまだしも、民間企業の創意、工夫、努力によって形成された資源の場合、「優位になったから開放せよ」では市場の否定ともなりかねない。自由市場を信頼して新たな技術革新にかけるのか、それとも競争条件の矯正された平等を重視するのか、のものの見方(哲学)の違いである。自由市場に期待できないのであれば社会主義的な発想をするのがストレートなのだが、そこを競争政策に期待し続け自由市場の看板を下ろさないところに、問うべき論点がある。
「競争」という言葉は多義的である。かつては独占禁止法の世界では、「平等であることが競争である」という考え方が根強かった。それは放っておいたら競争できない業者が独占禁止法の介入によって競争できる状態にすること、すなわち「格差の解消」を「競争」という言葉に置き換えたものである。一方、アメリカの反トラスト法の世界では「競争」を「価格が安くなること」と読み替える考え方がここ半世紀ほど根強かった。だからデジタル・プラットフォーマー規制に悩むのである。
独占禁止法はその目的規定にあるように「公正且つ自由な競争」を促進する法律である。そして「一般消費者の利益」「国民経済の民主的で健全な発達」のためにある法律である。「公正」とは何か、「自由」とは何か、「一般消費者の利益」とは何か、「国民経済」とは何か、「民主的」とは何か、「健全な」とは何か、実はほとんど詰められていないものばかりである。
杉本氏の話はその後、情報社会の本質論に及ぶのであるが、独占禁止法の話とは距離があるので重要な指摘だがここでは割愛しよう。その代わり、これも独占禁止法の話ではないのだが、一つ彼の余談をとりあげる。
昔話になりますが、私が大学受験をした年は学生運動によって東大の安田講堂が占拠された1969年です。東大の入試は中止になり、1年だけ京大に通ったのですが当時の総長、奥田東さんが演台に立って入学式の訓辞を始めようとした途端に全共闘がワッショイワッショイと入学式を粉砕。その後は全学バリケードといって授業もすべてなくなりました。クラスでは討論会だけが行われましてね、先生方は校門の前に並べられた椅子に座らされて学生に「自己反省が足りない」なんて頭をポカッと殴られたりして。そんな時代だったんです。
杉本氏はこの発言を「若者が世の中を、日本をどうにかしなければいけないと、その熱いエネルギーを思い切り発露させていた」という認識、そして「日本の将来のためにアグレッシブであれ」という現役官僚へのエールに結び付けるのであるが、この流れに水を差すようで申し訳ないが、一言だけコメントしておく。
「自己反省が足りない」とポカっと殴った連中もより過激な活動をした連中も含めて、皆「自由」「公正」「平等」といった概念を自分の都合のよいように「解放」という言葉に込めて闘争を繰り返してきた歴史があった。既成左翼の場合、そこに「民主主義」という言葉がさらに覆い被さった。独占禁止法は競争概念がコアにあるのであるが、それを装飾する言葉にあまりにも幅があり過ぎる。独占禁止法の歴史的経過の中でその時々の哲学があってもよいと思うが、その時々のトレンドに振り回されてしまうとそもそも何をしたい法律なのか分からなくなってしまう恐れがあることを、私たちは十分認識するべきではないだろうか。