見逃されがちな「契約の自由」の視点

 筆者は行政機関で実務研修の講師をすることが多い。その多くが会計法や地方自治法といった公共契約に係る法令の講義である。実務研修なので、学問的な何かではなく、諸法令や諸規則が実務上どのような意味を持ち、どのように扱われているのか、について解説することがそのミッションとなる。

 公共契約の世界では、しばしば法令に書かれていることと現実に存在する事実とが大きく乖離していることがある。日本はかつて「談合天国」などと揶揄されてきたが、独占禁止法は1947年から厳然と存在し、刑法の談合罪や競売入札妨害罪(現行刑法では公契約関係競売入札妨害罪)はその前から存在していた。しかし、戦後しばらくの間、談合は半ば公然となされてきたといわれている。入札談合について独占禁止法の適用除外立法があった訳でもなく、刑法の談合罪においても早い段階で競争的な価格を侵害すればそれが公正な価格の侵害になるという最高裁判例が確立しており、談合を見逃す法的根拠はなかったはずである。しかし、独占禁止法は談合に対して寛容だったし、適正利潤を反映した価格が談合罪にいう「公正な価格」であるという昭和40年代の地裁判決があり、(検察が控訴しなかったことで)それが確定してしまった後、刑事実務でも談合摘発に消極的になってしまった時期が長く続いた。談合厳罰の実務は、戦後三四半世紀の歴史の中の直近の3分の1について当てはまるものなのである。

 残りの3分の2、すなわち戦後半世紀においては指名競争が一般だった。指名される業者が固定化されれば談合が誘発される。しかし表面上は競争をした体裁になっている。談合をされれば(上限価格としての)予定価格ぴったりになるのが通常(そこで予定価格の漏洩などで官製談合とリンクする)だが、発注者は必ずしも困らない。なぜならば予定価格を超えることがないからである。予定価格が獲得した予算を反映すると考えるならば、談合されても予算オーバーになることがない、ということだ。予定価格の設定も計上された予算も行政による「事前の計画」だとするならば、予定価格ぴったりの落札は「計画通り」ということになる。ここで体裁上は、予定価格=計画された価格=競争価格という「信じがたい」と等式が成立することになる。

これは無謬の形式が欲しい行政にとっては都合のよい話だった。結果、予算も過不足なく消化できる。前年度の計画通りは次年度の計画を正当化させる強い根拠になる。経済学者の金本良嗣はかつて、「指名・談合・予定価格」を「公共工事の三点セット」と呼んだ。

会計法や地方自治法が考える適正な価格は競争価格である。今では一般に設定されるようになった低入札調査基準価格や最低制限価格(最低制限価格は地方自治体のみが設定可能である)と予定価格との間で決まる「競争価格」が、法の予定する適正価格である。会計法令には予定価格は適正に設定せよ、そして公共工事品質確保法には適正な利潤を反映させろと書かれてあるが、予定価格が競争価格などとは書かれていない。そもそも「競争の計画」という発想は撞着的だ。ある程度のレンジで予測することは可能かもしれないが、競争の重要な性質の一つは、さまざまな条件に、そしてその変化に柔軟に対応することにある、ということを見失ったものの見方である。

行政は自らの正当化根拠を「失敗しない」ことに見出そうとする。事前に予測したことと現実のそれが乖離したときに、現実の説明を計画の範囲に押し込もうとする。上記の指名競争は行政が無謬を装う上で都合のよい存在だったのだ。指名される業者は談合構造の中で安定的な受注が期待できるので、指名され続けるために手抜き工事、不良工事をする訳にはいかない。発注者である行政は予算を過不足なく消化できるだけでなく、予想外の出来事や予算を計上しにくい費目への支出を受注者側に委ねることができたし、それは半ば強制されたものであった。行政が扱う公的財源よりも民間に渡った金銭の方が柔軟性を持つので都合がよいのだ。

この非公式な対応が、行政の無謬性(の体裁)を支えてきた。このような「不透明さ」に政治的要素が絡んで、各種の利害関係が形成され、安定的なものになったということはもっと強調されてよい。

しかし、時代は変わった。今でも公共工事の入札不正は絶えないが、かつてのような安定的な談合構造は相当程度解消されたといってよいだろう。最近において道路舗装工事などでゼネコン系企業が摘発されることはあったにせよ、(課徴金算定率の大幅引き上げを実現した)2005年の独禁法改正の時期になされた大手ゼネコン企業による「談合訣別宣言」以降、公共工事が総合評価方式へと切り替わったこともあって、大規模工事は技術力の勝負へと大きく舵を切り、競争状況は一変した。むしろ公共工事以外の公共契約で疑われる談合構造の方が問題だ。

公共工事の入札不正は、癒着した特定企業を有利にするための情報漏洩や手続操作といった「入札妨害」行為の方が今では目立っている。この場合、官側の協力が通常不可欠になるので、官製談合事案となるのであるが、業者間の競争制限行為であるいわゆる「談合」ではないことに注意が必要だ(官製談合防止法違反になるので「官製談合」と呼ばれるのであるが、やや誤解を招く表現ではなかろうか)。

公共契約が競争的に実施されることはそれ自体望ましいことである。会計法令が公共契約の法的規律のベースを競い合いに置いているということは、競争という手続が公的財源の利用の仕方として合理的だと考えられているからに他ならない。かつてのような体面だけ競争で中身は非競争という「法令と実態の乖離」の時代から、法令と実態とが一致する時代になった。競争的な過程を通じて至った契約は、契約外の不透明な対応を困難にする効果を持つ。業者にとって「見返り」がないからである。契約過程の透明性は過去に比べて徹底されるようになった(ただ、今でも情報公開への消極姿勢は目立つが)が、その分、契約はドライなものになった。上記の「談合訣別宣言」は「談合だけ」を問題にしたのではなく、官民間、民民間で行われてきた諸々の「旧来のしきたり」との訣別を宣言したものである、ということに注意しなければならない。

ここで重要な点は、「契約するかしないかは自由」ということでる。「契約の自由」という当たり前の原則は、公共契約の発注担当者にとって大きな脅威である。十分な予算が取れなければ、業者は公共契約に魅力を感じない。民間需要が大きければそちらに流れてしまう。競争が激しいと思われれば、回避されるかもしれない。一般的にはあまり知られていないが、今、公共工事分野で深刻なのは応札者が存在しない「不成立」の問題である。「入札で一定数以上の応札者が存在しないのは不正の証拠だ」などと平気でいう識者をたまに見かけるし、一時期の東京都のように「一者応札は無効」などという乱暴な政策も存在するが、入札における競争の実態はその入札をきちんと吟味しなければ何もいえないはずである。

公共契約を競争的に実施するということは、その分、「契約の自由」の原理(言い換えれば資本主義のロジック)に従うということだ。競争は確かにメリットがあるが、その分のリスクもある。当たり前だが、この手続は相手方に「仁義なき戦い」を要求するものであるが、相手方の行動が思惑通りに展開されるとは限らない。言い換えれば、常に自分が相手方の競争のメリットを獲得できる保証はない。それをうまくコントロールするのが公共契約担当官のスキルのはずである。指名の時代は競争という体裁があったが、その実態は「官民協働」のようなものであった。競争はメリットも大きいがリスクも大きいという事実に向き合うことから始めるべきだ。

「契約の自由」という発想は当たり前過ぎてか、政策論から抜け落ちることは多々あるように思われる。例えば、最低賃金の引き上げは国内の新規雇用を抑制する効果を持つかもしれない。金利規制の強化は新規貸付を抑制する効果を持つかもしれない。新規雇用の判断も新規貸付の判断も企業側に「契約の自由」がある以上、もともとの狙いとは相反する効果を持つかもしれないのである。今、話題になっている地銀同士の統合は統合された地銀の活動を自由に委ねれば、期待される地方における金融の機能とは異なる結果を生み出すかもしれない。もちろん分かった上で、それ以上の効果を期待するのであればよいが、事象の一部だけを切り取って評価しているのであれば、それはリスキーなアプローチだ。

公益事業などで見かける契約義務、あるいは新型インフルエンザ等対策特別措置法にあるような契約強制は例外だ。競争を基軸とする経済運営を展開する上で「契約の自由」の視点は欠かせない。しかし「契約の自由」は単純そうに見えるが、実はなかなか手強い相手である。

投稿者:

shigekikusunoki

研究上の関心事(独禁法、公共調達、社会思想等)社会活動(主として国や地方自治体の公共契約の監視や制度改革)、その他日頃に気なること(政治、経済、歴史、文化・風俗、教育等なんでも)や趣味(?)について色々と発信していきます。よろしくお願いします。