「無料」を考える:健全なマーケティングか、誤認の誘発か?

筆者はこれまで、楽天市場の「送料無料」問題を独占禁止法の優越的地位濫用規制違反の問題として何度か述べてきたが、ここではマーケティングとしての「無料」の問題を考えてみたい。

「ただより高いものはない」という直感から、筆者は「ゼロ円」とか「無料」とかいわれると、むしろ警戒感を強めてしまう。「キャンペーン」として「ゼロ円」をやっている業者は大抵、初期の段階で顧客数を一定数増やす狙いがあり、おそらくその後の(一定以上顧客が増えればその後構造的に顧客が増え続ける)ネットワーク効果や(一度取り込まれたら容易に抜け切れない)ロックイン効果を期待してのものだと思ってしまう。何れにせよ、後から一定の値段を徴収しても顧客は減らないと思っているから、最初に「ゼロ円」とやる。「無制限に、永久に、『ゼロ円』」ならその企業は潰れてしまう。そうでないならば、他の商品や他の市場にリンクする何かがあって、そこで儲けようとしているのだろう。

最初はゼロ円とか、ゼロ円キャンペーンとかは、初期の段階での損失を後にどこかで取り戻そうという狙いがあると考えた方がよい。それが顧客にとって良いことか悪いことか、あるいは市場にとって良いことか悪いことかは別にして、である。ただ、独占禁止法の不当廉売規制は「(原価を割るような)安売りによる他者の排除、市場支配、将来における搾取」というシナリオで説明されるものだということは、知識としては用意しておくべきだろう。

さて、ネット販売でいう「送料無料」はどうか。楽天市場の各店舗は一般的に考えて市場支配的になることが考え難いので(だから優越的地位濫用規制の問題になる)、不当廉売規制のような問題ではない。

ネットで商品を買う場合、配送という行為が伴うのであるから、ものの価格の他に送料がかかるのは当たり前である。ただ、一定額以上の場合には「送料無料」と表示されている商品も頻繁に見かける。「送料無料」は、通常、大きな額の取引の場合には利益も大きいので、そういった「有り難い顧客」の場合には、おまけとして送料分を値引きしてあげるという意味合いがある(Amazon Primeのように最初に費用負担をした顧客にそのサービスを提供するタイプのものもある)。まとめ買いに対する値引きのようなものだ(「送料無料」が伴う場合は「一括配送」になるので、さらに値引きされることがある)。

しかし、これはその意味を「好意的に見た」場合の理解であって、意地悪な見方をすれば、「送料無料と表示すれば「お得感」が出るので顧客を誘引し易い」という効果を期待して、「送料分を上乗せ」しておいて「無料」とやる場合がある、という指摘も可能である。

ビジネスホテルを検索していると「朝食無料」という表示をよく見かける。「無料」という方が「聞こえがいい」からなのだろうか(実質、「朝食付き」一択なのだが)。ホテルの部屋に「コンプリメンタリー(おまけ)」としてペットボトルの水が置いてあるのと同じだ。パンとコーヒー程度なら「無料」もわかるが、結構本格的なブッフェのところもある。普通に考えてそれも経費なのだから、宿泊料金に反映されていると見るべきなのだが、人は「無料」の言葉に弱いようだ。

そもそも送料を無料にする意思もないのに、商品の価格に送料分を上乗せしておいて「送料無料」とやったらどうなるか。ある店舗が、実店舗での商品の販売価格に送料分を上乗せしておいてネット販売で「送料無料」と表示したら、どう評価すればよいのだろうか。これは「不当表示」だというだろうか。いや、「送料を別途取らないのだから「送料無料」で問題ない」というだろうか。

実質の伴わない「値引き」表示は有利誤認として景品表示法に抵触する恐れがある。それは「送料無料」表示であっても同じである。また「送料無料」の表示があっても、実際は条件(地域や時期等)によって変わるのであれば、それもまた問題になる。実はこの問題、公正取引委員会だけではなく、消費者庁の出番があるもしれない問題なのである。

ただ、通常の3倍の値段にして「70%オフ」のような表示をすれば、一発アウトになるだろうが、送料無料程度だったら多少の恣意的な表現があってもそれほど消費を歪めている訳でもないし、それも一つの一般化されているマーケティング手法なので消費者もそれはわかっているはずだし、わかって当然というのが予想される当局の反応だろうか。

「無料」の真贋を見極める力が、今、消費者に求められている。

楽天が妥協案、公取委はどうする? 楽天「送料無料」問題③

先日19日、日テレBSの「深層NEWS」に出演した。テーマは「ネット通販戦国時代!どうなる?送料無料化」である。筆者はこれまで2回に分けて楽天の送料無料問題について論考(「『送料無料』をめぐる攻防:楽天vs楽天ユニオン」「ワークマンが撤退へ:楽天「送料無料」問題②」)を執筆し、読者に問題喚起を行ってきた。

前回のAGORA論考からこれまでの間の3週間ほどでいくつかの動きがあった。今回の番組出演を機に、直近の動きも踏まえながら多少の考察を行っていきたい。

楽天市場が自社のサイトに出店する店舗に対して、3980円以上の売買については一律送料無料にするという方針を立て、それが店舗側の大反発を招き、紛糾した。その後、公正取引委員会の調査が入り、楽天側が「雲行きを心配し始めた」のか、いくつかの追加的な方針を明らかにした。2月の10日から13日ぐらいにかけての出来事である。日経新聞の記事(「楽天・三木谷氏「優越的地位の乱用でない」送料問題で」)はこう報じている(以下、三木谷氏の発言は同記事からの引用)。

楽天は13日、2019年12月期の決算説明会を東京都内で開いた。三木谷浩史会長兼社長は、ネット通販サイト「楽天市場」で一定額以上を購入すると、3月18日から送料を無料とする方針について「誤解を招く」として、送料込みという表現に改める考えを示した。4月に商用サービスを始める携帯電話事業については「わかりやすい料金設定にしたい」と語った。

「送料無料」と「送料込み」の何が違うのか。店舗側の不満は、「送料無料」ということは実質、「送料」というサービスも「込み」で商品を販売することになるが、市場の状況もあるので商売としてそんなに商品の値段を簡単には変えられない、これまでの価格を維持するために送料を自分で負担することになるのではないか、という危惧感を持ったのだろう。また、ものの大きさや内容によって送料は変わり得るので一律無料としてしまうのには無理があり、そのしわ寄せが店舗側にかかってくるという心配があるのかもしれない。

楽天側は、最終的に消費者が払う金額は「送料込み」なのだから、送料無料にしてその分値段をあげればいいではないか、と本気で思っていたのだろうか。「『送料無料』の方が利用者には響きがいいが、誤解のないようにする」と三木谷氏はいうが、これを妥協したのは、多少痛いところだろう。

しかし「送料込み」の値段を提示せよといっても、表示上の値段が上がるのだから、送料無料で嫌がる店舗は「送料込み」でも嫌がるだろう。「店舗で価格を調整してもらうので、優越的地位の乱用にも当たらないと考えている」と三木谷氏はいう。店舗側が「送料の押し付け」を理由には反発しているのなら、「送料込みの値段提示」でも同じ反論をすることになる。

それともやはり両者の間でコミッション(手数料)に差が付くのか?

楽天側のイクスキューズは、Amazonとの対抗上必要な対応だということ、そして消費者の便宜からすれば「送料無料」の一律化は正当化できる、というものだろう。だから、最初は強気の発言が続いていた、と筆者は考える。

しかし公正取引委員会の調査が入り、雲行きが怪しくなった。

優越的地位濫用規制のポイントは、「一方的な押し付け」の有無にある。相手にとって何らかの不利益な条件を提示したとしても一律に違反になる訳ではない、そんなことをしたら、ビジネスは成り立たない。重要なのは相手の事情を最大限配慮してギリギリの妥協案を詰められるかどうかだ。その「手続」が踏まれていれば、楽天側の行為は「濫用」とまではいえない、という環境が整うことになる。

「相手の事情を配慮」するアピールはこの規制を回避するうえで重要だ。他の報道ではこんな記事もあった(ロイター・ウェブニュース(2020年2月13日)「楽天、退店店舗に払い戻し 送料無料化めぐり」)。

インターネット通販サイト「楽天市場」を運営する楽天・・・の三木谷浩史会長兼社長は13日の決算会見で、3月中旬から予定する送料無料化の施策に関連し、送料無料の施策が原因で退店する店舗に対し、出店料を払い戻すとの方針を明らかにした。

三木谷社長は「店舗に中長期で大きな損失が出ないよう小売価格を調整するよう周知徹底しようとしている。それでも退店する店舗に、どういう補てんができるかしっかり考える」と述べた。

これは店舗というよりも公取委へのアピールだろう。「一方的ではない=濫用ではない」ことのアピールだ。この制度を使って援助してもらう店舗はどれだけいるのか。そんなことをするくらいなら、そもそもの手数料を下げてくれといいたいだろう。

しかし、この種のプラットフォーム事業の生命線は手数料である。その主導権はプラットフォーム側にあるのがビジネスの不可欠の基盤だ。ウーバーのような事業やコンビニでも同じことであろう。

さて、公取委はどうでるか。「事件化したくない」というのが本音だろう。処分すれば楽天はほぼ争ってくる。ある程度の妥協案を提示し、説明を何度も繰り返した。相手への配慮の手続は踏んでいる。優越的地位濫用規制の適用は、今では公取委の「看板事業」である。これでこけると大きな痛手になる。しかし、ほぼ社会問題化してしまったこの送料無料問題で、双方の妥協が得られないまま楽天が強行したのに公取委が何もしなければ、今度は公取委が悪くいわれる。これも嫌であろう。公取委の2月19日現在でのスタンスはこうだ(NHKニュース「楽天の“送料無料” 公取『実態見て判断』」)

楽天がネット通販サイトで一定額以上を購入した場合の送料を無料にするため、出店者に「送料込み」の料金体系にするよう求めていることについて、独占禁止法違反の疑いで調査している公正取引委員会は、不当に不利益を与える実態があるかどうかを見て判断する方針を改めて強調しました。

何とか妥協点を見出してほしい。一番そう思っているのは公取委なのかもしれない。

コンビニ問題、経済産業省の検討会が報告書案を公表:産経新聞からは厳しいコメント

本ブログ掲載の論考、「どうなる、コンビニの深夜営業・元旦営業?」(2019年12月30日)でも触れた、コンビニ問題に係る経済産業省の有識者会議、「新たなコンビニのあり方検討会」が2月6日、報告書案をまとめた(会議の場に提出した)。

人口減少社会、人手不足による人件費の高騰、加盟店オーナーの高齢化、その他コンビニサービスの多様化(加重化)などの環境変化を挙げつつ、「こうした中で加盟店が疲弊し、事業の継続が困難となるという事態が顕在化しており、今やフランチャイズによるコンビニというビジネスモデルの持続可能性が危機に瀕している」と指摘している。その上で報告書は次の通り述べている。

これまでの統一的なフランチャイズモデルをそのまま硬直的に各加盟店に適用しようとしても、個別の加盟店が置かれた経営環境が多様化してしまっているがゆえに、場合によっては加盟店が過度な負担を抱えることとなるケースや、加盟店が本部から適切な支援を受けられず、経営状況を立て直すことができないといったケースが昨今の課題として浮かび上がっているのではないか。

報告書は具体的な提案として、

① 「統一」からより「多様性」を重視するフランチャイズモデルへの転換

② 本部の加盟店支援の強化、フランチャイズへの加盟メリットの可視化

③ オーナーとの対話の強化

の三項目について述べている。

簡単にいえば、これまで報道されてきたようなフランチャイジー(コンビニ・オーナー側)の実情(苦境)をより重視し、フランチャイザー(本部側)が柔軟に対応せよ(理解を示せ)、ということである。一律の24時間営業の要請、休日の在り方(取り方)、アルバイトなど人材の確保、人件費の一部についての本部負担などが言及されている。

一連の報道で、フランチャイザー側の「ブラック企業」感が国民に浸透してしまっている(そういえば少し前に、どこかの経済誌で「コンビニ地獄」といった特集がされていたのを思い出す)のだろうか、報告書も「この流れ」に乗った形になっているように見える。要はフランチャイザー側に問題があるのだからこれを是正せよ、と。

各紙は報告書の内容を簡単に触れるだけのものが多いが、産経新聞は次のように書いている(「コンビニ問題の有識者会議、業界への注文に終始 不十分な報告書」)。

コンビニをめぐる課題を議論する経済産業省の有識者会議の報告書が6日まとまった。社会問題に発展したコンビニの課題は24時間営業への対応などが進んだ。ただ、議論の集大成と位置付けた報告書では、本部や業界への注文に文面が費やされた一方、もう一つの担い手である加盟店への言及がみられないなど、不十分な内容となった。

「本部と加盟店の双方がメリットを享受する」ことを促しながら、本部以外の重要なプレーヤーとなる加盟店やオーナーの果たすべき役割や姿勢についての提言には欠けた。

その他も産経の記事は、「報告書では各社に人材確保や定着に向けた店舗従業員教育の充実を求め、業界に特定技能制度の活用などを期待したが、目新しさには乏しい」などと手厳しい。

この報告書のストーリーは、コンビニはかつてビジネスモデルとして成功をおさめたものの、近年の環境変化の下、立ち行かなくなっており(「本部と加盟店の双方がメリットを享受するというフランチャイズの有する好循環が目詰まりを起こしている」と表現している)、「持続可能性」といった観点からのビジネスモデルの軌道修正が必要だ、と論じようとするものである。

持続可能性とは誰(何)に向けられた言葉なのであろうか。一般には、経済の、環境の、といった広く共通の対象に向けられているか、企業の、組織の、あるいは労働者の、といった特定の主体に向けられていることが多い。ここでは、持続可能性は「ビジネスモデル」に向けられている。

ビジネスモデルや業態が持続可能性を失い、新たなモデルや業態にとって代わられるのは、競争社会では通常の現象であり、むしろ歓迎されるべきものでもある。既存の企業が新興勢力に負けないためには、常に自社を環境の変化に適応させる必要がある。たとえGAFAのような巨大企業であっても進化し続けるテクノロジーの前には脆い存在である。コンビニのような一般消費者向けの流通業は、人々の生活スタイルの変化が大きく変われば自らの存在も大きく変化させなければやってはいけない。コンビニはそれに適応するように登場し、その変化を加速させた。

自社に脅威を与える変化に対応できない企業は淘汰される。あるコンビニのフランチャイザーがそうなのであれば、その程度の企業だったということである。それを危惧するのは、誰の利益を考えてのものなのか。コンビニのオーナーなのか、それとも生活する人々なのか。

変化とは何か。一連の問題は主として、フランチャイジー側が置かれた環境の変化である。もともとフランチャイジーは契約に際して、(それが甘かったかもしれないが)一定の利益の見通しがあって開業に至ったはずである(そこに「詐欺的な要素」があれば全く別の問題になる)。環境の変化はフランチャイジー側を襲ったのであり、フランチャイザー側はこれを「契約問題」としてドライに扱おうとしている。ビジネスモデルの持続可能性の問題として、フランチャイザー側は認識しているのであろうか。

フランチャイジー側の悩みは、自らが苦境に立たされていてもフランチャイザー側が聞く耳を持たず現状維持での更新か解除かを迫ってくることである。フランチャイジーの直面する脅威をフランチャイザーのそれと同一視できていないことを意味する。「一部の」フランチャイジーのためにビジネスモデルを見直す必要が果たしてあるのか、と考えているのかもしれない。「全ての」フランチャイジーが撤退を余儀なくされるほどの深刻な問題を抱えているのにフランチャイザーが無視しているのであれば、あまりに鈍感であるし、無能である。

一律的に深夜営業が苦しいというのであれば、それを強制するビジネスモデルを(新規の)オーナーは望まず、フランチャイジーのなり手は激減するだろう。その時、困るのはフランチャイザーである。既存のオーナーが「逃げられない」状況に陥っており、市場の自律的調整機能が期待できないというのであれば、それはもう独占禁止法の領域に入っているということになる。

フランチャイザーが直営店ではなく独立した事業者をフランチャイジーとして使いたがる理由は、それが「手数料ビジネス」として意味を有するからである。手数料ビジネスということは、経営のリスクを分散することができるということである。自社の労働者ではなく契約相手として店舗を展開することができる。ウーバーとドライバーのような関係だ。実質的に労働問題として理解できるが、独立した事業者として「ドライな契約」の世界に持ち込むことができる。フランチャイザーがそこにメリットを感じている以上、報告書の提言はフランチャイザーには響かないであろう。

コンビニ問題と、楽天、ウーバーイーツのようなデジタルプラットフォーマーが抱える一連の問題との共通性は、もっと強調されてよいだろう。つまり相手は労働者ではなく事業者である、ということであり、業態としてはマッチングビジネスだということである(コンビニをマッチング・ビジネスというと違和感があるかもしれないが、ブランド化された店舗=「場」で、フランチャイジーと消費者を結び付けるという意味では、そう捉え得るのではないだろうか)。コンビニという流通の(画一化された)「場」の性質を取引相手の都合でコロコロ変えたくない、というのが本音だろう。ウーバーの例でいえば、ドライバー、配達員の都合でアルゴリズムを「受動的に」変えたくないというのと同じだ。構築されたビジネスモデルが自社の競争環境にマッチしているかどうかは自社が考えるのであって、消費者の声は重要だが外部の「知識人」にいわれたくはない、と思っているのかもしれない。

持続可能性とは誰に向けてのものなのか。問題となるのは、自社の利益と他者の利益が不整合を起こす時だ。「企業の社会的責任(CSR)」が問題になるいつもの場面である。マイケル・ポーター流の共有される価値の創造(Creating Shared Value)が可能でそれが有効ならば、それは現場に任せればよい。

報告書は「公正な競争、公正な取引」を語りたいのか、マーケティングを語りたいのか、あるいは社会的責任や価値創造を語りたいのか。「持続可能性」という言葉が、ターゲットを曖昧にしてしまってはいないか。

最後に、報告書案はその後半部分で「新たな時代に向けたコンビニの革新」として、

①リテールテックを活用した次世代モデル

②社会課題解決型ビジネス

③国際展開

について述べているが、これはフランチャイザー・フランチャイジー問題とは別の報告書で扱うべき問題だろう。ビジネスモデルの持続可能性の問題に結びつけたいのだろうが、前半部分の(産経新聞のいう)「不十分」=「消化不良感」を埋め合わせるための「抱き合わせ」のような感じがしてならない。

歴史的建造物の「利活用」:日南市・飫肥の挑戦

九州の小京都が抱える課題

「九州の小京都」と呼ばれる宮崎県日南市・飫肥(おび)。江戸時代は五万一千石伊東氏飫肥藩の藩庁として栄え、当時の城下町としての地割りが今も残る、美しい街並みが保存されている。

1977年に九州初の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたこの景観地区の課題は、他の歴史的景観地区と同様、その良好な景観の維持にある。観光客は「美しい街並み」を体感しにくるのであって保存状況が悪ければ客足は遠のいてしまう。しかし、歴史的建造物の保存には自ずとコストがかかる。私的にも公的にも利用されていない歴史的建造物を「保存」の対象として扱う場合には、純粋に費用の「持ち出し」となる。観光資源としての間接的な効果が頼みであるが、必ずしも潤沢とはいえない公的財源の出動に躊躇してしまうのは、自然な現象である。それほど大きくない自治体にとって、数千万、数億という出費は相当の負担である。結局、国の補助や民間の寄付に依存する、受動的な対応となってしまい、自治体にできることは観光地としてのPRに努めることぐらいになってしまう。「無い袖は振れない」。同じ問題に直面する自治体は少なくないだろう。

「無い袖」が「振れない」のであれば、振れる袖を創ればよい。

創客創人

日南市の掲げるコンセプトの一つに「創客創人」というものがある。それは「様々な分野において、今あるもの、資源の中から、人々が望む価値を見出し、それを実現する製品やサービスなどを創り出し、『新しい需要=客』を創り、その客を幸せにする仕組みを創れる人財を育てる」という哲学を意味している(日南市HPより)。各自治体が共有すべき地方創生のコア概念といってもよい。日南市は、全国でも珍しい「マーケティング専門官」を外部から登用、配置するなど、「戦略的」な取り組みに熱心と聞く。

「保存」から「利活用」へ。これが転換のポイントだ。歴史的建造物を「保存」しようとするから「持ち出し」になる。「利活用」すれば「価値の創出」になる。その価値が地元の人々とそこを訪れる人々の間で共有されるのであれば受容される。歴史的景観を維持しつつ、新たな人の流れを創出する。昔よく見た観光地とは無関係な「タレントの店」などとは違う、これまで積み重ねられてきた伝統を重視しつつその伝統を紡ぎ直し、新たなスタイルへと昇華させる、サステイナブルな戦略が目指された。そのための志のあるプレイヤーを募った。

一棟貸し

その第一弾は「家の一棟貸し」だ。

京都では町家の一棟貸しという宿泊スタイルが定着しつつある。京都の旅館は敷居が高いが近代的なホテルは味気ない。そんな客層の需要に応えるものだ。旅館業法(同施行令)の見直しによって、簡易宿所営業の客室延床面積規制の基準が緩和され、厚生労働省通知の改正で少人数を対象とした簡易宿所のフロント設置義務付けも一定の条件を満たせば不要となった。

飫肥の特徴は、一棟貸しされるのが「邸」と呼ばれる物件だということだ。勝目邸(かつめてい)と合屋邸(おうやてい)という古民家を民間業者がリノベーションし、簡易宿所として2017年4月にオープンしている(IGNITEの記事参照)。京都の高級旅館に匹敵する、いずれも重要伝統的建造物群保存地区内にある建造物を一棟貸しとは何とも豪勢だが、(清掃等を除けば)従業員の人件費がかかっていないので、多くの人にとって十分選択肢に入る宿泊料金となっている。特にグループでの宿泊の場合、リーズナブルなものとなる。これが一棟貸しのメリットである。

現在、第二弾の準備が最終段階に達している。日南市所有の歴史的建造物である、築約140年の「旧小鹿倉邸」の利活用である(2015年に小鹿倉氏から日南市へ寄付されている)。2017年に市が実施した公募で採択された業者(勝目邸、合屋邸とは別の事業者)が、5部屋の宿泊施設を事業展開するという(日南テレビのサイト参照)。この事業は中小企業庁の「商店街活性化・観光消費創出事業」の補助対象にもなっている。市所有の建造物であるので、業者は「賃借する」形になるが、スタートアップのための補助として最初の5年分の賃借料相当分を助成することになっている。

待つだけではいけない

市が所有する歴史的建造物(飫肥城下町保存会のサイト参照)には、小村寿太郎生家や旧飯田医院など様々ある。もちろん、大手門のような貸し出すことに馴染まない建造物もあるが、馴染むものであれば旧小鹿倉邸のような民間業者の創意工夫に基づく利活用によって、歴史を後世へと残しつつ新たな価値を創出する、そういった存在へと蘇ることが期待されている。もちろん、すべてが簡易宿所である必要はない。企業の保養所、オフィス、私立大学のセミナーハウス等、さまざまな用途があり得よう。重要なのは、飫肥の伝統に関わりを持つこと、企業が、大学が地元住民と価値を共有することである。歴史地区を支える人の創出であり、この歴史地区への客の創出にもつながる。

 国の補助や民間の投資も、こうした「展開」があって初めて獲得できるというものである。何もせずに待っているだけではいけない。

そういった活動は、飫肥以外の日南市の戦略とリンクするものである。例えば、大学発ベンチャーの誘致、受け入れは、必然的に研究者と学生の流れを創る。地元の中学や高校との交流も活発になれば、そこは文教地区となる。それがクラスター(房)になれば、一つの文化圏となる。その延長線上で歴史地区への関わりも生まれてくるだろう。

官民協働の真髄:「公共空間」の新しいスタイル

「官民協働(Public Private Partnership)」という言葉が使われて久しい。これまでは公共調達の実施を民間主導の資金調達によって賄おうというPFI(Private Finance Initiative)のような意味で用いられることが多かった。しかし、PFIの場合は公共サービスを民間委託とその実変わらず、ただ建設費等当初のコストの分割払いのような意味においてメリットがあるに過ぎない。その割には手間暇がかかり、行政機関にはあまり評判のよくない公共契約手法であるという声は少なくない。官民協働の政策が行き詰まっていると感じるのは筆者だけではないだろう。

しかし本当の協働とは、官は民の知恵とニーズを引き出し、民は官の有するリソースを利活用する、そういった思惑の一致が、政策の推進力となり、創出された価値が共有されるという点に見出されるべきものではないだろうか。財政負担を軽くするだけであれば、一般競争入札で価格を下げさせるのと何も変わらない。財政負担の軽減と共有化される価値の創出という、一見、相反するかのような二つの要素が整合的なものとなることに官民協働の突破口がある。それは財産の利用とマーケットの利用という観点からすれば資本主義的であるが、それは「公益」を追求する資本主義である。ビジネスは「公益」だけでは動かない。しかしインセンティブの構造を構築しさえすれば、ビジネスは喜んで「公益」に向かっていく。そこに官民協働の真髄があるのではないか。

「飫肥(の歴史、文化)」という「公共空間」に、「民間の論理」がどうコミットしていくか。利活用のアイデアは「利活用する側」が持っている。それをどう引き出すかは、行政の腕の見せ所である。

飫肥地区をめぐる日南市の戦略は、政府の推進する「まち・ひと・しごと創生」政策の切り札的存在として、「新たな公共の創出」のモデルとなるのではないか、と期待している。

ハーフマラソンで日本記録更新:厚底シューズ問題②

今日(2020年2月3日)のサンスポ記事より。

香川・丸亀国際ハーフマラソン(2日、Pikaraスタジアム発着)厚底シューズで設楽超え!! 小椋裕介(26)=ヤクルト=が1時間0分0秒の日本新記録をマークし、日本勢トップの2位でゴールした。今夏の東京五輪での使用が認められたスポーツ用品大手ナイキの「厚底シューズ」を履きこなし、2017年9月に設楽悠太(28)=ホンダ=が出した1時間0分17秒の記録を塗り替えた。

ハーフマラソンの日本記録がとうとう、1時間ぴったりまで短縮された。世界記録はジョフリー・カムウォロルの58分1秒だからまだあと2分ある。フルマラソンの世界記録と日本記録の差は4分ちょっとなので、比率としては似たようなものだ。

今回のレースもまたもや厚底シューズが話題になった。小椋はハーフの自身の記録を2分ちょっと短縮したという。フルマラソンなら4分に相当する。これには本人も驚きを隠せない、という。

この「びっくり感」は厚底シューズに対する批判を後押しすることになる。本人もびっくりするような記録の飛躍は、このシューズによって達成されたものである、と。

次のように考えることもできる。薄底シューズを履いて練習してきた選手がいきなり本番で厚底に切り替えても「適応」ができず、好記録は期待できない。厚底を履きこなすための「必要な筋力、走法技術、経験や勘」があって初めて好記録につながる。F1選手が与えられたマシンやエンジンの特性を使いこなすスキルと同じようなものだ。

だから、「厚底」だけが強調されるのには違和感を覚える。記録更新の背景には、確かに厚底シューズの影響はある。しかし、得られた好結果は、そのツールを使いこなす選手とそれを指導するチームの努力と工夫の賜物である、ということを忘れてはならない。

とはいえ、日本記録、世界記録を過去のそれと比較し、ランク付けする従来の評価手法には、純粋に賛同し切れない。各時代における前提条件が異なるからだ。これまで「ゆっくりとした変化」の中で記録更新がなされてきたので、目立たなかったが、厚底シューズが「暗黙の了解」に揺さぶりをかけることになった。

誰もが厳密に比較可能だとは思っていない。だから、過去の記録が過小評価されることはなかった。当時において偉大な記録は現在でも偉大である。しかし、同時代においてここまで急激に変化してしまうとは・・・。

それでもいいと考えることもできる。記録は更新されるものだから、それが急激だからといって何が悪い、と。だからこそ「ルール」すなわち「公認のための条件の合意」が重要になってくる。

そもそもマラソンはコースの設定が重要なポイントとなる。起伏の激しいコースでは記録が出にくい。スタート地点とゴール地点の標高差のルールがあるのは当然だが、そうであるならば風が強くない、涼しい時季の、フラットなコースが好まれる。世界記録がいくつかの主要レースで出やすいのはそういう設定をして、有力選手を招待するからだ。

陸上競技はトラックであればトラックの質の問題があるし、短距離走であれば風速の問題がある。マイナスの風速で走った記録と風速+2.0で走った記録とを純粋に比較することなどできない。走幅跳や短距離はその競技場の標高も影響するという。世界陸上の東京大会(1991年)でマイク・パウエルがそれまで無敵のカール・ルイスを破って走幅跳の世界記録(8.95M)を樹立したが、それまで23年間破られなかった記録は高地でのものだった(その後約30年間、パウエルの記録は更新されていない。ロードとの比較で、これはこれで驚きだ)。

トラック競技最長の男子10000M走の世界記録はケネニサ・ベケレの26分17秒53であり、これは15年も破られていない。

条件の違いを厳密に考えたらランキングなど作ることができない。それは一定の範囲において「比較可能とのコンセンサス」があるから成り立つものである。

厚底シューズはどうやら容認される方向にあるようだ。人間は「記録」が好きだから似たような問題はこれから何度も出てくるだろう。

非公認のフルマラソン世界記録はエリウド・キプチョゲの1時間59分40秒2である。この記録はキプチョゲ本人とそのためのサポート・ランナーだけが走る特殊な環境で達成されたものである。その他、時間帯の調整や、給水サポートなど、有利な条件を意図的に作り出した上での記録ということで、国際陸上競技連盟(現在のWorld Athletics)は非公認としている。公認の条件がいろいろあるとして、「何故」そうでなければならないのか詰めて考えると面白そうだ。

仮にこのようなケースが公認の対象となった場合、大会形式のレースは大きく様変わりするだろう。純粋に駆け引きを含めた順位をめぐるレースとしての関心が高まるかもしれない。それはそれで望ましいことだと思う。日本国内でもマラソン大会の多くが市民参加型のそれになった現在、トップ・アスリートの「競い合いの仕方」が問われている。