「話し上手」ということと「雄弁である」ということ

大学教員に話し上手な人はあまりいない。もちろん、何割かは喋るのが仕事なので、経験が長い分、多くの学者はそういう仕事でない人と比べれば喋りはそれほど下手ではない。しかし、大学受験予備校の人気講師などと比べればその足元にも及ばない。予備校講師は「学生に如何に興味を惹かせ、効率よく教えていくか」が競争の要素だから、生き残るためには「話し上手」であることが最大の武器となる。FD(ファカリティー・デベロップメント)の取り組みは確かに最近盛んで、教員評価がうるさくなりつつあるが、予備校講師と比べれば、まだまだ厳しい競争に晒されているとは言い難い。

通常、大学生にとって大学教員との接点は「授業」「ゼミ」であって、「研究」ではない。研究の世界でよく知られた教員だからといって教え方が上手いとは限らない。ただ、研究の第一線で活躍している研究者の授業は大抵、情熱的ではあるが。

法科大学院では実務家教員として現役弁護士が講義を担当しているが、(私の知る限り)皆、話し上手である。一番大きな理由は「普段、お客さん(クライアント)を相手にしているから」であろう。お客さんに「わかりやすく丁寧に説明」しなければ仕事を失ってしまう。そして常に対峙する、あるいは説得する専門家(紛争の相手方弁護士、裁判官)に向き合っているからであろう。一定の知識を有する者に論理と証拠を用いて「上手く説得」しなければならない。

これは政治家の「雄弁さ」とは意味が違う。「雄弁さ」とは「人に感動を与えるような、巧みで、力強い」という意味での「有効な話し方」である。もちろん、それは「話し上手」ということではあるのであるが、その狙いが政治的なところにあることに注意しなければならない。つまり民主主義のプロセスにおいて自らの主張(や思想)を実現するための「説得術」ということである。説得された側は「投票」という行動で「いいね」を表明する。専門的知識を有している人々だけを説得しても、(議席獲得のための)ボリュームのある支持は獲得できない。相手から政治的な支持を受けるために話しているのだから、それはしばしば修辞にはしり、「扇動的に」なったり、「偽善的に」なったり、「盛って」いたりする。

リーダーには「雄弁さ」は不可欠の要素なのかもしれない。しかし、同時に警戒もしなければならない。筆者は、政治家や評論家を見て「ああ、この人は雄弁だなあ」と思ったら、「話し半分」で聞くようにしている。「半分」というのは「嘘が半分」という意味ではない。他の人が同じ内容のことを「雄弁でなく」話したら半分の説得力しか生み出さないということだ。

ある意見を形成したり、政治的な判断をしたりするとき、重要なのは「自分の頭をクールにして考えたときどうなのか」である。民主主義に求められるリテラシーとはそういうものではないだろうか。

投稿者:

shigekikusunoki

研究上の関心事(独禁法、公共調達、社会思想等)社会活動(主として国や地方自治体の公共契約の監視や制度改革)、その他日頃に気なること(政治、経済、歴史、文化・風俗、教育等なんでも)や趣味(?)について色々と発信していきます。よろしくお願いします。