楠茂樹
首相を選ぶ、選挙の公認候補を選ぶとか、政治に関わる何かの人事が決められるときに、しばしば「談合政治」という言葉が用いられる。当然、「それはけしからん」という文脈で、だ。
筆者は独占禁止法の研究者で、扱う「談合」は「入札談合」の方だ。もちろん、こちらも悪い文脈(法令違反)で用いられるものだ。
なぜ、入札談合は独占禁止法上禁止されるか。それは入札談合が競争制限になるからだ。談合は、競争を制限し、「一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する」(独占禁止法1条)という同法の目的に逆行する、典型的な行為と考えられている。もちろん競争制限行為であってもこの目的に反しない行為は許容されるが、(官公需の場合)発注者が会計法や地方自治法の規定に沿って競争入札を採用していることが前提なのだから、そこに業者側の談合を正当化する余地が見出されることはない。
では政治的なシーンで談合は許されない、という意見はどこからくるのだろうか。競争を制限することが好ましくないということなのか。相手方である投票権者にとって選択肢が狭まることが問題だというのならば、それは一つの意見であろう。
しかし、それならば野党統一候補の絞り込みに向けた政党間の話し合いも談合になってしまう。野党が統一候補を出して与党に対抗する思惑からそうするのであるが、選挙における選択肢はその分、少なくなる。与党も同様に候補者を調整する。
ただ、圧倒的な候補者が1人いるだけの選挙よりも複数が激しく競い合っている方が、良好なパフォーマンスが出るという「信念」が競争の手続にはあるのだという前提が置かれるのであれば、与野党拮抗していた方が望ましい、という見方もできる。だからこそ政策論争も充実するし、有権者の関心も高まる。これが小選挙区制の魅力の一つだろう。
話し合いの結果選ばれた候補が有権者に響かなければその候補者は当選しない。候補者の絞り込みは談合で決まっても、最後の出口の部分が有権者に開かれたものであれば(つまり投票という最後の手続が存在する限り)、それでも構わないという見方もできる。与野党共にパッとしない候補が出てくれば、第三の候補が「するっ」と勝利を攫うことだってあり得るのだ。首長選挙などを見てると、そういう場面にしばしば遭遇する。相手がいる以上、最も有権者に響く候補者を各政党は選ぼうとするだろう。出口が競争的ならば過程も競争的にならざるを得ない。そこで歪んだ政治力学で選んでしまえば、それはその政党が愚かだということだ。
談合が悪いのではなく密室で行われるからよくないのだ、という見方もある。そのプロセスが透明であれば、話し合いは悪くない、という考えだ。ただ、入札談合は「あけっぴろげに」やっても違反である。競争制限が問題だからである。密室になるのはそれが違反だからだ。
政治において重要なのは透明であること。それならば話し合いが悪いのではなく、それが外部から分かる形でなされればよい。ただ、話し合いはどうしても不透明になりやすい。だから公開の場で競争をする。
談合という言葉を政治のシーンで用いることの意味は何か。何とはなく談合はよくないという印象だけでこの言葉を眺めていると、問題の本質を見誤るかもしれない。