第1章 出発点としての談合

第1節 談合天国、日本

 「談合天国」という不名誉な呼称が用いられる日本は、外部からそういわれるだけではなく、2005年の独禁法大改正に併せて大手ゼネコンが共同で「談合決別宣言」[1]を出したことからも分かるように、業界自体が正面から認めるほどに「半ば当然に存在するもの」として認識されてきた[2]

法制面からいうならば、1941年の談合罪の創設時、「良い談合、悪い談合」の区別がなされる形で構成要件が定められたこと[3]、その後形成された判例[4]が「公正な価格」を競争的価格説で解釈したのに1968年の地裁判決(大津判決)[5]が適正利潤説を採用し、それが確定してしまいその後の摘発が停滞した(談合金の授受のケース等に限定された)ことを挙げることができる。また、会計法令の面では、明治会計法制定後、早い段階で指名競争が「一般的に」用いられる法的環境が整えられてきたことも大きな背景となった[6]。併せて歴史的に随意契約が多用され得る法制の放任は官民間の癒着を誘発したのは事実だろう。戦後は独禁法が談合摘発の主たる役割を果たすことが期待されたが、公取委は長い間、その期待に十分応えられなかった[7]

談合が横行してきた歴史的事実に対する一つの大きな疑問は、被害者であるはずの発注者が何故に横行する談合の排除に積極的でなかったのか、ということである。談合が摘発されると一様に発注者は「被害者」として振る舞おうとするが、談合という「業界の常識」についてその契約のパートナーである行政が無知な訳がない。積極的に関与する官製談合(多くが贈収賄に至る)の事件には至らない、気付いていて対処してこなかったケースが圧倒的に多いといえよう。

談合の加害者である業者側の都合は、価格引き上げによる利益確保(それも、公共調達は必要があってなされるので価格引き上げによって需要量が減少しないという特徴がある。もちろん予算制約からの間接的なトータルでの発注量の減少の効果はあるだろうが)で十分に説明が付くが、発注者側の事情は説明できない。もちろん、発注者側職員の個人的利益(収賄や天下り)が関わる場合もあるだろうが、これは発注者全体の事情ではない。

 確かに、大津判決のいうように適正利潤を確保させないと不良工事のリスクが高まり、このリスクの回避のために、(低価格受注の防止のための)談合を通じた予定価格付近での受注を容認してきた、との理解は一つの筋道ではある。品質維持のための赤字受注への警戒は本来低価格入札対策、あるいは総合評価方式の問題の中で解決されるべきものである。確かに低入札価格調査等下限価格の設定や総合評価方式に係る制度環境が未整備な状態が放置されてきたのは事実であり、そういった制度的要因が談合構造を安定的なものにしてきたという説明は一定の説得力を持つ。しかし、それだけで日本の公共契約に深く根を張ってきた談合構造の十分な説明といえるのであろうか。

  従来から、談合は「必要悪」といわれる世論があった。その一端が大津判決のような事情に見出されることは事実だろうが、それならば「悪」という言われ方をするには足りない。談合罪にいう「公正な価格」が最高裁判例のいうような競争的価格説が採用されていたことを考えれば不可能ではないだろうが、業界内部の言われ方としては特殊過ぎる。

 「必要悪」とは、広辞苑によれば「社会的に否定的に評価されるが、それがなかった場合により大きなマイナスがある時に存在を肯定される悪」を意味する。英語でいう「Necessary evil」もほぼ同様の理解だ。英米でこの言葉が用いられるとき、「政府」「税金」「一定の条件の下での武力行使」「銃の携帯」等[8]、法それ自体、あるいは法令の下、公的に認められるものに用いられることが多い感覚を持つ[9]。日本の場合、この言葉は法令違反、あるいはグレーゾーン領域で用いられることが多いようだ[10]

社会的には許されないことは単に業者間の談合が独禁法上、刑法上、法に触れるというだけのものなのだろうか。むしろ被害者であるはずの行政が法令上禁止される談合を自らの「表に出せない」事情(社会的な都合ではなく自己の都合)で利用しているという「不整合に対する疚しさ」に悪性があり、しかしその不整合を前提にしないと何か大きな障害が生じてしまうという正当化根拠が見出されているのではないか。「一定の利潤を前提にしないと事業が十分に実現できない」という事情は入り口としては妥当だとしても、談合の必要性と悪性の交錯を描写するには、より深層へ迫る必要があるのではないだろうか。

 

 第2節 競争への抵抗?

 1 旧会計法の制定

福澤諭吉自身の手による伝記、『福翁自伝』[11]には、福澤が幕府勘定方の幹部に英文経済書を翻訳して紹介した際、原語の「コンペティション」を「競争」と訳したことに対して、「争い」という言葉を「穏やかでない」と不満を述べたことが書かれている。単に今でいう市場メカニズムを機能させる競い合いの手続きの話なのであるが、幕府高官には「物事を争って決める」発想それ自体に抵抗があったのだろう。

 維新後、不平等条約の解消を至上命題とした明治政府は、列強同様の近代国家の「体裁」を獲得せんがために、(端的にいえば「輸入」元の)欧州に学び一連の立法作業を急ピッチで進めた。1889年制定の旧会計法はフランス、ベルギー等の会計法令をモチーフとしたもので、これら法令における「競争」を基本原理とした公共契約の体系を導入した[12]。その後、指名競争が原則化される勅令が登場し、例外としての随意契約もその適用範囲が拡大されるなど競争性の確保という観点からは「骨抜き」にされる[13]が、戦前においても公共契約のベースとしての競い合いの発想は、形式上は維持されていた。

 2 公共工事にみられる契約の片務的性格

 川島武宜、渡邊洋三の共著『土建請負契約論』[14]が、我が国の公共工事契約における受発注者間の関係の封建的特徴を説いたのは1950年のことだった。御恩と奉公のような封建関係として語られる公共工事の請負契約は単に、取引関係上の優越的地位を利用した力の行使の結果としての片務的構造というのみならず、そもそも契約という発想すら前提としておらず、また契約獲得に向けて安さのような競い合いの手続きを想定していないものの見方ではなかったのだろうか。御恩を受ける業者が当該工事の獲得をせんがために魅力的な条件を提示する所業はそもそも奉公ではない。長期的関係の中で形成される奉公とは忠誠を尽くすことであって、与えられた仕事を一所懸命こなすことである。契約の条件を問うことは予定されておらず、契約手法の類型でいうならば、それは(交渉のない)匿名での随意契約に馴染むものである。

 3 「無謬」という建前と「安心」という本音の交錯

 現代では封建関係とたとえるのは適当ではないが、長期的、安定的な関係の下で形成される相互信頼が、契約手法の形式とは別に先行しているという発想は、公共工事の実情を説明するのに重要な前提だ。建設マネジメント分野の専門家である渡邉法美は、「安心システム」と呼ぶ官民間の協力メカニズムを提示し、指名競争入札が果たしてきた役割を説いている[15]。渡邉に拠れば、「公共発注者と元請業者は指名と談合によって、元請業者と専門工事業者は互いに協力関係を結ぶことによってコミットメント関係を形成し」、「これによって社会的不確実性は事実上ゼロとなり、各主体に安心が提供され」、「これらの特徴によって、発注者と国民は大量かつ迅速な社会基盤施設整備を享受し、企業は売上高を確保し、労働者は安定的雇用を図ることが可能となる」といった「安心システム」が築かれてきた[16]。この説明は高度経済成長期以降の公共契約に妥当するものとして描かれている[17]。 

 この構造を支える発想が「官の無謬性」である。渡邉は「我が国の多くの行政組織には、膨大な量の公共工事の「完璧な」執行、すなわち、過不足のない予算執行、一低水準以上の工事品質の確保、工事の年度内完工、会計検査への「無難な」対応といった「無謬性」の要請を実現することが求められてきた」[18]と述べている。工事の計画未達は最も避けなければならないもので紛争処理の話はそもそも問題にならない。財政法学者の碓井光明は「工事の完成についての完璧主義と言ってよい」と指摘する[19]。そこには競争という手続きへの信頼は見出せず、競争とは真反対の発想である計画が重視された。

 公共工事における発注者の一番の関心事は、当然の話であるが、確実な社会基盤整備の実現であり、個々の工事でいうならば、確実な工事の完成である。そこで信頼できると事前に分かっている業者に任せたいと発注者は考えるだろう。事前に分かっているならばそれらの業者を指名すればリスクは少なくなる。一方、一般競争入札の場合は入札参加資格等の組み方を失敗すればリスクは高まる。指名競争入札が発注者に好まれた最大の理由はここにある(一般競争入札が採用される場合であっても、入札参加資格等の絞り込みで指名競争入札と同様の状況を作ることができるならば、一般競争入札か指名競争入札かという区分それ自体があまり意味のあるものではなくなる[20])。

もちろん競争者が絞りこみ、言い換えれば「囲い込み」をすれば価格は高止まりになる。入札談合のリスクも当然高まる。しかし、予算制約はあるものの、獲得した予算は計画されたものであるから、工事完成のためにすべて使い切っても計画通りということになる。過不足のない予算執行は、行政機関としてはむしろ好まれていた。これが、指名競争入札が許容されてきたひとつの理由である[21]

片務的なもの、一方的なものよりも、契約の表面には現れない官民間の「双方向的な」共存(相互依存)関係を指摘するほうがより本質的であるといえる。指名競争入札や地域要件の設定等、何度となく反競争的であると批判されてきた諸制度とその運用の意味を解き明かす鍵は、この双方向的な関係の解明にあるといえる。ではそれはどういうことか。

 第3節  談合される側の利点

1 予定価格=適正価格の想定

公共調達分野には、官の無謬性を支える(尤もらしく見せる)いくつかの素地がある。そのひとつが予定価格である。最低価格自動落札方式であれ総合評価落札方式であれ、会計法令は、予定価格を上限とした価格競争を応札者に求めている。予定価格(あるいはその付近)を半ば保証する上記「囲い込み」は会計法令が求めている価格競争を妨げるという点で非効率と考えるのが通常の思考であるが、少し前まで公共調達の世界ではこの点が問題視されることはなかった。

その背景のひとつとして、予定価格の性格に対する理解の仕方を挙げることができる。予決令80条2項は、「取引の実例価格、需要の状況。履行の難易、数量の多寡、履行期間の長短等を考慮して適正に定めなければならない」、適正な予定価格設定を定めている。これはあくまでも上限価格の適正さを意味するものであった、適正な契約価格をそのまま指すものではない。しかし少し前までは受発注者には予定価格をそれ自体適正な契約価格と理解しようとする傾向があり、(少なくとも表面的に行われる)競争入札の結果、発注者が設定した予定価格周辺に落札価格が落ち着くという(貸し借りの世界の中で仕組まれた)予定調和的な現象はむしろ歓迎されるべきものでもあったようだ[22]

もちろん、会計法令上、低入札価格調査(そのための基準価格の設定)や最低制限価格の設定が予定されている場合によっては認められる以上、予定価格だけが適正なのではなく、下限価格としての低入札調査基準価格や最低制限価格であっても適正であるはずである。つまり会計法令が予定している価格の適正さは「上限価格―下限価格」(下限価格が存在しない場合もある)の範囲で語られるべきものであり、その範囲内で展開される競争の結果がピンポイントでの適正な価格と理解されるべきものであるはずである[23]。しかし、非競争的な競争入札の結果、予定価格周辺での落札が恒常化し、下限価格への意識は希薄なものとなっていた。(形式だけの)競争の結果が予定価格の適正さ(競争価格=予定価格=適正価格)の裏付けになってきたとの見方も可能である。また発注者が技術や技術者を独占していたというかつての事情が予定価格制度を支えた、との指摘もある[24]

2 計画の無謬を繕う「預け金」

  しかし事前に設定された予定価格は事後においても適正であり続ける保証はない。事情次第で予算内では工事が完成できないかもしれない。公共工事には設計の不備その他の不確定要素[25]が存在し、本来であれば契約金額に変更が生じるような場合でもそのように対応されない場合もあれば、予算上余裕がある場合には(必要以上に)多めに追加することができる[26]。しばしば「そもそも発注者側の積算自体が高すぎる」と指摘されるが、こうした柔軟な「出し入れ」の必要性と可能性を考えれば、競争的な水準よりも高めの積算をしておくことは必ずしも不合理ではない。設計変更、契約変更といった一連の見直しが求められる場合でも、(予算制約が厳しいときは)計画に基づいて算出された予算を変更することは容易ではない[27]。できる限り、契約や契約として締結するものの、非公式に発注者の事情に応じて柔軟に対応してくれる業者が、発注者にとって望ましい、ということになる。そのためには一回限りの業者では都合が悪く、一定の業者を官民間の「貸し借り」の世界に囲い込んでおく必要がある。高値での安定受注が保証されることとなった業者はその地位をキープしようと、いわゆる「請け負け」の案件であっても受注し、確実な工事の完成を目指そうとする。どこかで埋め合わせがあるだろうからである。指名されているということは、この貸し借りのサークル内にあるということを意味する。言い換えれば、指名は発注者にとっての最大の武器であった。このような事情は指名競争入札をより安定的なものとした、といえる。入札談合はこのような構造の中に埋め込まれていると見ることができる。

このような事情は公共工事に限ったことではない。物品調達であっても公共工事関連以外の業務委託でも少なからず存在するものである。例えば、購入した物品が発注者側の責任で不具合を起こした場合や、予想外の事態が生じて追加の関連業務を委託したい場合などに、無償で修理をしてくれたり、無償で引き受けてくれたりするという期待を「お決まり業者」には期待できる[28]。不測の追加支出は発注者にとっては都合が悪く、手続の煩雑さを考えると、不確実性故の不利益の吸収をしてくれる受注者を発注者は好む傾向にある[29]

官側の「計画通り行った」体裁の重視(その典型が予算の過不足のない執行)は、貸し借りの構造を安定化させる。

 3 調整費用の負担

より悩ましく、より水面下の問題が、特に公共工事において存在する。それは公共調達実現に際して生じるさまざまな表に出しにくいコストの受注業者の負担という問題である。公共工事は当然ながら「ある地域」において実施されるものである。ある公共事業を実施しようとすれば、それは当該地域におけるさまざまな利害関係の調整が必要になるのはいうまでもなく、そこに何らかのコストが生じることになる。合意形成のコストを実際負担するのは誰なのであろうか。

地元の工事は地元に、という声をよく聞く。このような発想は社会政策的な観点から説明されることが多いが、その一方で、公共事業の過程において発生し得るさまざまな軋轢を事前、事後に回避、解消するための重要な要素となり得る。簡単な話、地元業者であれば当該地域におけるトラブルが効率的に回避、解消できると思われているのである。

しばしば「見切り発車」の公共工事を目にすることがある。つまり用地買収等の事前の準備ができていない状態で工事が開始されるものである。地元での抵抗がある場合に、地元業者が受注している場合とそうでない場合とで交渉の成否に差が出る場合、非競争的な契約者選定手法を採用することの、見えない(見せたくない)コスト削減効果が存在するということになろう[30]

4 都合のよい「競争」の体裁

 見せたくない金銭だが工事の遂行のためには必要な金銭を行政は透明にしたいとは思わない。正面から予算計上の手続きを踏むこともなければ、後から情報公開することもない。予定価格という公共調達に必要と説明された計画的な価格の使い道については、一旦業者側に渡ってしまえばその責任でなされるものであって、行政は関知しない。ただ行政は、その金額が恣意的に決定されていると指摘されることを回避したいはずだ。契約者と契約内容の決定手続きにおいて恣意性を排除する仕組み、言い換えれば中立性、公正性のための説明責任を果たせる仕組みは「競争」なのである。最低価格自動落札方式を前提にすれば、競争の手続きによって最低価格の業者が選ばれた、ということなのであって、そこに恣意性は働いていない、という訳だ。予定価格が競争価格であるという「予定調和(的な一致)」は発注者側にとって都合がよかった。

これまでさまざまなものに「必要悪」という言葉を用い、そういった事実を曖昧にすることで物事を解決する手法が我が国では好まれたようである。恒常化していた談合という現象も含めて、この公共工事をめぐる「必要悪」の歴史を詳らかにする作業はこれまでほとんどなされてこなかった。

5 安全装置としての入札談合

このような発注者側の事情だけでは「貸し借り」の構造は成り立たない。この構造の安定化に寄与する業者側の事情は「安定受注の必要性」である。受注の見通しが不安定は経営の不安定につながる。苦しくなった業者の中には目先の売上を確保するためにダンピングに踏み切る者が現れるかもしれない。当然のことながら、業者は談合のサークルに入りたがる。

発注者側からすればコントロールの効く業者を囲い込みたい事情があり、業者側からすれば囲い込まれたい事情がある。だから受動的に囲い込まれたのではなく、柵の中に自ら入り鍵をかけたと見ることもできる。公共工事分野の「閉じた社会」はこのようにして生まれ安定化した、といえる。この傾向は公共工事において顕著だったといえるが、多かれ少なかれ他の公共調達分野においても当てはまることである。

 発注者にとって談合は、公共調達を円滑に遂行するためのある種の安全装置として機能していたといえる。

 第4節 政治的イシューとしてのコーティング

 公共調達、とりわけ公共工事の分野は、政治家の利権構造を語るときの定番の一つである。談合その他入札不正絡みの刑事事件で首長、議員がよく登場する。大抵、見返りとして何らかの経済的利益のやり取りがある。口利きが主だが、情報漏洩のケースもある。首長が関わるケースは公的財源の使い道としての発注業務にダイレクトに影響を与える立場にあるので分かりやすい。一方、議員の場合、個別の発注業務には直接関わらず、予算や法律・条例を通じて間接的に関わるのに止まるが、行政は議会を通じた影響を恐れ、これが個別の発注業務への圧力の源泉となる。また国会議員が地元地方議会における「子飼い」の首長、議員を通じて、地方自治体の発注に対して水面下の影響力を行使することもある。そもそも有力議員は、当該地域への公共事業の誘導などを通じて大きな発言権を有していることが多く、個人レベルにおける強固な政治権力のネットワークの背景となっている。このネットワークは、受注企業はもちろん、地域のさまざまな組織、団体へのコネクションをカバーし、トラブル解決にも貢献する。端的に言えば、ある政治家を絡ませておけば「保険がかかる」状況を作ることができる。

 裏を返せば、行政が見せたくない部分を抱えているという事実が、政治的利権が生じる余地を部分的に作り出してしまっている、ということだ。悪くいえば「食い物にされている」のだが、好意的に見れば「都合のよい存在」でもあるということだ。重要な事実は、行政側の事情は、公共調達を計画通り進めることにあり、計上された予算をオーバーすることがなければ、その金銭がどこでどう回るかには強い関心がない、という点である。計画通りという体裁が必要で、そのために競争の形式と談合の実質を組み合わせ、業者側に融通の利く金銭を預けることができれば、後は良きに計らってもらえばよい。

 官側の入札不正への関与は官製談合防止法の制定よりもずっと前から恒常的なものだったろうが、より重要な点は、法令違反となる官製不正とまではいえないレベルの談合構造の黙認こそが談合を安定的なものにしてきたということであり、黙認の背景には個人的利益の動機ではなく、業務の円滑な遂行という職務上の都合が大きかったということである。談合は法的に見ればそれ自体が不正として完結するものであるが、不正の構造としては談合という現象だけ見ていては説明不足である。

 Brian Woodallは、その著『工事中の日本(Japan under Construction)』[31]で公共工事をめぐって政官財のトライアングルで形成される利権構造を描写したが、行政側にとって談合は個人的利益の動機とは別に、業務遂行上都合のよいものだったという視点が本来はより強調されるべきだ。反社会的勢力の公共工事への関わりも同様である。反社会的勢力は暴力を背景に行政に圧力をかけ利権を貪ってきたという説明は話の半分であり[32]、行政側がそれを利用し、一定の機能を果たさせてきたという説明が残りの半分である。民事紛争を解決してきたのは法曹ではなく反社であったというストーリーは過去の建設事業によく当てはまる。「土地」が強く関わっているからである。しかし、行政側が直接反社に金銭を流すことは決してない。だから談合という構造が意味を持つのである。談合の被害者である行政は、談合の先に何があるのか「関知しない」ことになっている。

第5節 小活 

 勝田有恒は今から四半世紀前に、談合に対する日本人の意識について、「業者はもとより我々日本人自身の意識にこれをなんとなく許す部分がありはしないか」と指摘し、その背景事情として以下のように述べている[33]

・・・談合は談合参加者間での仕事の配分、共存共栄という経済効果をもつとさえ考えられるに至るが、こうした考え方は、仲間内での競争を避け、互いにほどほどにやってゆく日本の仲間杜会あるいは許認可が設定する「埒杜会」では、あまり非難の対象とはならず、むしろ談合での申し合わせを破った者を村八分のように仲間から排除するという、仲間規範のほうが優先する。それはとりも直さず、談合杜会といわれるように、日本の文化や社会意識の反映でもあるだろう。

・・・高度成長期においては、幼稚産業の育成・保護、仕事の効率化の点で、経済官庁にとって、極めて都合のよいものであり、政治家にとっても、業者を経由して公金を政治資金として還流させ、選挙にも協力させるというメカニズムを作りあげる躾糸のようなものであった。そして発注担当官には、天下り先を保証するものでもあった。このようにして談合は必要悪という意識さえも希薄になってきたのである。

  では、そもそもの「必要悪」の源泉は何だったのか。法令違反が「悪」で日本の文化や社会意識が「必要」というのはあまり説得的ではない。この場合、単に悪性を弱めるだけのものだろうからである。勝田は二番目の引用で「仕事の効率化」に言及しているが、その前の記述[34]を読むと、どうやら高度成長期における大量発注業務の受け皿としての建設業者の存立と繁栄を問題にしているようだ。これは「必要」性の部分的説明にしかならない。

 多少の弊害はより大きな利点のためには仕方がないという「必要悪」の意味は、ここでは、公金の計画された使途が説明されているものとその実態とに乖離があるという点に悪性があるといえ、それは競争という体裁と談合という実態という虚偽の体裁というもう一つの悪性を伴うものである一方、表に出せない金銭の利用が業務の円滑な遂行を可能にしているという必要性を充足させ、後者の要請が前者のそれよりも強いという点で関係者は納得しているという点に見出すことができる。このようなやり取りが面と向かって説明し難い点にある種の疚しさが付随し、これが曖昧さを伴う必要悪という言葉に反映されるようになったのではないだろうか。


[1] (社)日本土木工業協会「透明性ある入札・契約制度に向けて―改革姿勢と提言―」(2006年4月27日)。背景事情、公表の経緯等については、当時の日本土木工業協会元副会長の山本卓朗へのインタビューを参照。「[INTERVIEW]日本土木工業協会元副会長・広報委員長山本卓朗氏−「決別」当時の緊張感を忘れるな (平成の土木 5つの転換点 : 震災から脱談合まで激動の時代をひもとく)」日経コンストラクション 2019年4月8日号(709号) 40-41頁)。

[2] 注意したいのは、この宣言は談合だけを問題にしているのではない、ということである。以下、引用する。

透明性や公正性,自由な競争への要請に対応し,政治や行政の側においては,「公共工事の入札及び契約の適正化の促進に関する法律」の施行,総合評価方式の導入・拡大など,公共調達制度の改善に積極的に取り組み,公共工事における競争の枠組みが整備されてきた。しかしながら,会計法などの関係法令は物品も含めた公共調達のすべてを包含したもので,価格のみによる一般競争入札を原則としている。このため,公共工事の特性を十分に反映していないことから,技術力を活かして品質確保を図る入札・契約システムを導入すべきとの声が高まり,「公共工事の品質確保の促進に関する法律(品確法)」が党派を超えた議員立法により成立した。これにより,公共工事に係る調達において技術力が直接的に反映できる新たな時代を迎えた。このような画期的な枠組みが整備される中で,建設業が自らへの不信感を払拭し魅力ある産業として再生するため,談合はもとより様々な非公式な協力など旧来のしきたりから訣別し,新しいビジネスモデルを構築することを決意した。

 談合だけが旧来のしきたりではなく,それ以外にも「様々な非公式な協力」が存在していたことが指摘されているのである。そういった旧来のしきたりが水面下で存在していることを前提に,非競争的な公共調達のシステムが機能してきた,ということを関係者は述べているのである。この旧来のしきたりが何であったのかを探る作業は,公共調達改革を考えるうえで不可欠の作業となる。この宣言は「旧来のしきたりとの決別宣言」と呼んだ方がよさそうである。

[3] 勝田有恒「談合と指名競争入札 : 法文化史的アプローチ」一橋論叢111巻1号(1994) 18頁。

[4] 大判昭和19年4月28日大審刑集23巻97頁,最決昭和28年12月10日刑集7巻12号2418頁,最判昭和32年1月22日刑集11巻1号50頁,最判32年7月19日刑集11巻7号1966頁。

[5] 大津地判昭和43年8月27日下刑集10巻第8号866頁。

[6] 木下誠也『公共調達研究』日刊建設工業新聞社(2012)39頁以下参照。藤田・前掲注(3)3頁も参照。

[7] ただ、サンフランシスコ講和条約発効後(すなわち独立後)、公取委が経験した長い「冬の時代」においては入札談合のみならずあらゆる禁止規定の適用が低調に終わったという点は十分踏まえておく必要がある。つまり競争政策一般が低調だったのであり、それは公共契約における特殊事情故にそうだった訳ではないということである。

[8] 国際紛争の場面においては、国益のようなものも含まれるだろう。広島に原爆投下した爆撃機B29が「Enola Gay」と呼ばれたことはよく知られているが、これに同行したカメラ撮影目的のB29は「Necessary evil」と呼ばれた。

[9] つまり英米において仮に談合が必要悪といわれる場合には、談合が適法なものとして正当化される場合に、談合は非効率を生じさせるデメリットのある悪だが、談合を認めることで得られるメリットの方が大きい「必要」であり、法令上認められるという文脈になるだろう、ということである。

[10] 実は、この同じ言葉の使い方が逆の文脈になっているとするならば、これは非常に興味深いことだ。日本と英米とでの規範感覚の違いが反映しているのかもしれない。

[11] 福沢諭吉(富田正文編纂)『新訂福翁自伝』岩波文庫(1978)。

[12] 木下・前掲注(6)36頁以下。

[13] 同前39頁以下。

[14] 川島武宜=渡邊洋三『土建請負契約論』日本評論社(1950)。

[15] 渡邊法美「リスクマネジメントの視点から見た我が国の公共工事入札・契約方式の特性分析と改革に関する一考察」土木学会論文集(F)62巻4号684頁以下(2006)。

[16] 同前686頁。

[17] 同前690頁。

[18] 同前。

[19] 碓井光明「日本の入札制度について」公正取引521号(1994)24頁。

[20] 一般競争入札が採用されなかった理由として「安かろう悪かろうの回避」を挙げる声は少なくなかった。もちろん、一般競争入札でも同様の効果を挙げることは仕組み上可能である。

[21] もちろん現在においてである訳ではない。

[22] 今でも、受発注者双方において「予定価格=適正価格」を主張する者が少なくない。

[23] 予決令は、予定価格は「取引の実例価格、需要の状況、履行の難易、数量の多寡、履行期間の長短等を考慮して適正に定めなければならない」(予決令80条2項)と定めているが、それは定め方が適正でなければならないと定めるものであって、定められた額がそのまま契約条件として適正であることを意味しないことは法文上明らかである。例えば、少し古いが、1983年3月中央建設業審議会(中建審)建議においては「予定価格は標準的な施工能力を有する建設業者がそれぞれの現場の条件に照らしても、最も妥当性があると考えられる標準的な工法で施工する場合に必要な経費を基準として積算されるもの」と定義付けられている。そこでは予定価格は「標準的」なものであって、言い換えれば一定の合理性を有する価格、あるいはひとつの目安価格という意味として理解されていることが分かる。とするならば、何故に厳格な上限拘束性を有するのか、という疑問が生じることになる。

[24] 「予定価格制度はもともと積算・見積もりなどの技術や技術者を発注者が独占している状態のなかで生み出された制度であった。そのために、入札制度導入にあたって模範とされた欧米の制度では必要条件とされていなかった予定価格が、適正な工事価格を算定するうえで有用だとして日本では受け入れられた。」(武田晴人『談合の経済学:日本的調整システムの歴史と論理』集英社(1994)137頁)と指摘されるように、予定価格制度は導入時の事情に拠るものであった。しかし、現在ではそのような前提を置くことはできない。

[25]渡邉・前掲注(15)691頁以下では、公共工事をめぐるさまざまな不確定要素について描写されている。官の無謬性の要請の下、そういった不確定要素を表面化させないために旧来的な非競争的システムが構築されてきたといえる。

[26] 同前691頁(「変更後の支払いについては、予算が十分にない場合は、業者が損害を被り、予算が潤沢な場合に不足分を受け取るといった予算執行状況に応じた柔軟な対応策が採られている場合も少なくない。」)。

[27] ここでも官が無謬を装うとすることの影響が出ている。予算の硬直性もまた、予算を組んだ段階での行政の無謬性の想定が影響している。

[28] 地元業者であれば仮に紛争原因があったとしても表立って発注者を訴えるようなことはせずに、長期的関係の中での「将来の見返り」によって埋め合わせをするだろう。無謬性を装いたい発注者もそう期待するだろう。

[29]「お決まり業者」の存在を「癒着」としてしか見ない立場が世間的には支配的ではある。

[30] このような「見せたくない」コストの負担については、実際上は存在するものの学術的な文献上語られることは皆無といってよい。一連の暴対条例制定、運用が、「公共工事と暴力団」の関係断絶を強調するのは、それだけ根が深い(深かった)ということを意味する。過去において発注者は反社会的勢力の一方的な被害者だったのではなく、部分的には(受注者あるいは下請業者を通じて間接的な)利用者でもあった。そこに政治勢力の利権構造やさまざまな社会的問題が絡み、事態が複雑なものになった。そこに行政対象暴力が絡み事態が複雑になった。大阪の飛鳥会事件に見る一連のやりとりは露骨な例だが、行政側に被害者意識のないものも少なくない。そういったケースは強要や入札妨害といった犯罪を構成することがないので、表に出てこない(友好な関係が築かれ、力の均衡が保たれ秩序が安定している限りでは犯罪は発生しない)。近年福岡県で起きいくつかの発砲事件はそういった秩序が崩壊しかかっていることを窺わせる出来事だった。

 また公共工事における反社会的勢力の利用は企業における「総会屋」の利用とその構造が似ていると思われるかもしれない。ただ公共工事における反社会的勢力の利用は、受注者(その下請)側に窓口を作り(不透明な形で)一定の役割を担わせていたところに特徴がある。その分、総会屋よりもその存在が見えにくい。

[31] Woodall, Brian. Japan under Construction: Corruption, Politics, and Public Works, Berkeley, Calif:  University of California Press (1996).

[32] Peter B. E. Hill, The Japanese Mafia: Yakuza, Law, and the State, Oxford University Press, Oxford, U.K. 2006,

[33] 勝田・前掲注(3) 19頁。

[34] 同前15頁。