SMBC日興証券が、複数の銘柄について、いわゆる「ブロックオファー」取引に関連して不正な相場安定を行なったとして立件された。3月23日に刑事告発を行った証券取引等監視委員会のウェブサイトを見ると、売買価格の基準となる同取引当日の終値等が前日の終値に比して大幅に下落することを回避するために、証券市場に大量の買い注文を入れて買い付けたという事実について、金融商品取引法159条3項で禁止する不正な安定操作を行なったのだ、という(証券取引等監視委員会のウェブサイト参照)。
筆者は金融商品取引法の専門ではないので、個別の解釈論や違反の射程論は控えるが、同社副社長までもが逮捕される事態となったこの事件、独占禁止法、そして公共契約法制を主たるフィールドとする研究者の視点から、いくつかのコメントをしておきたい。
金融商品取引法上、風説の流布、偽計、暴行又は脅迫の禁止(158条)、仮装・馴合売買(159条1項)、変動操作取引(159条2項)、違法な安定操作取引(159条3項)といった、資本市場を歪める一連の不正な行為は、総括して「不公正取引」と呼ばれている(同上参照)。
法学の分野で、「公正」という言葉に最も敏感に反応するのは法哲学者であることは論を待たないが、独占禁止法学者も負けてはいない。独占禁止法の目的規定である1条には同法の直接的な目的を「公正且つ自由な競争」(傍点筆者)と規定し、「公正」概念が独禁法の基本的あり方において大きな意味を有している。また、「不公正な取引方法」(19条、2条9項各号)という違反類型は、「不当な取引制限」規制、「私的独占」規制、企業結合規制と共に、独占禁止法における中核的な禁止規定となっている。そこでは「公正な競争を阻害するおそれ」という競争市場への、あるいは取引秩序への効果に係る要件が置かれている。この「公正」「不公正」という概念をめぐる議論の歴史は、独禁法論議の歴史といっても過言ではないくらいに盛んに議論されてきた。最近では、「不公正」という概念を「反競争」と読み替える、言い換えれば「自由競争に対する悪影響」のことを指すものとして、実務上も講学上も、この規定に係る大方の違反を理解することでほぼ決着が付いたので論争は下火になった感もあるが、「公正」「不公正」の理解が独占禁止法のあり方を決する最重要概念の一つであり続けていることには変わりはない。
この不公正な取引方法の重要類型の一つとして不当廉売がある。不正に安く売ってはならないというこの類型は、強い資本力を有する事業者が廉売を継続することで競争事業者を排除し、独占化を企図することを未然に防止しようという私的独占規制の予防規定として説明されるのが今では一般だが、かつては原価割れであることそれ自体の不公正が強調された時代があった。今から約半世紀前、ある有力な小売店の目玉商品の廉売に対抗して他の有力な小売店が廉売で対抗し、原価割れの出血競争になった結果、この商品を主力として販売する零細小売業者の経営を圧迫したというケースが違反として扱われたが、今では独占問題を生じさせないということで、このケースの参照価値は低下している。相手に対抗するために廉売をすることは事業上の防衛行為であり、自由競争の機能を害するものでは必ずしもないという理解が今では一般的だ。
SMBC日興証券事件は、ブロックオファー銘柄の「空売り」圧力に対抗するため注文による買い支えを図った形での価格安定の企図であったと報じられている。対抗的な要素、防衛的な要素のあるこれらの一連の行為は、米国法由来の金融商品取引法における不公正取引が守ろうという「自由競争」の守備範囲か否か。詐欺的な要素はあるのか、自由競争のメカニズムを歪める要素はあるのか、恣意的な力がそこに形成されるのか、独占禁止法との比較で考える格好の材料となるのではないだろうか。なお証券会社絡みの独禁法違反として、有名な野村證券損失補填事件(「不当な利益による顧客誘引」規制違反)があり、そこでは資本市場における競争の公正さが正面から問われた。二つの法律の共有部分は小さくない。
同様に、公正さが問題になる領域として公共入札に関する犯罪をあげることができる。刑法96条の6第1項の公契約関係競売入札妨害罪は「公の競売又は入札…の公正を害すべき行為」という要件を置き、同2項の談合罪は「公正な価格を害し又は不正な利益を得る目的」という要件を置いている。公正さ、正しさの理解が犯罪の成否に影響を与えるのである。官製談合防止法違反罪も同様だ。
この公正さをめぐる判例はさまざまあるが、自由競争それ自体を問題にするという考え方で一致する傾向が強い。少なくとも談合罪は自由競争によって形成される価格と利益が正しいものだという理解で現在は揺るぎない。ただ、官製談合防止法違反の判例で最近、自由競争を問題にするという前提で、その帰結への影響をみるのではなく、自由競争という存在に対する人々の「信頼」に重きを置くとするものが登場した。これら立法を支える公正さ、正しさをめぐる理解にも少なくない変化が生じたという評価も可能である。
自由競争の機能それ自体ではなく、その存在に対する「信頼」という概念でコーティングされた、この立法の存在理由の根本に係る説明を金融商品取引法に及ぼすとなると、同法の理解はどう変わるのか、変わらないのか、興味が湧く。 もちろん独占禁止法には独占禁止法の、公共入札関連犯罪にはこれら犯罪類型の、そして金融商品取引法には金融商品取引法のロジックと解釈がある。そのまま話が共有できる訳でもあるまい。また冒頭の事件も、あらゆる事件と同様に、物事の断片だけを見るのではなく、その全体を見る必要があるのであって、現時点での限られた情報で何かの示唆を導くには不十分過ぎる状況にある。しかし、自由市場に係る公正さが問題になっているいくつかの領域を同時に意識することで、金融商品取引法の特徴というものも浮き彫りにすることもできようし、今問題になっているこの事件についても何か考えるヒントがあるようにも思われるのである。