年金制度の思想的考察

(未完成原稿、引用厳禁)

筆者は20世紀を代表する社会哲学者であるF.A.ハイエクの研究者であり、これまでに反トラスト法や企業の社会的責任に関連するハイエク思想の考察を進めてきた。その思想形成過程は、その人生の中で経済学から法学、政治学へと展開(変遷)するところに特徴があり、その初期においてはケインズとの論争、社会主義経済計算論争といった経済学史上誰もが知っている論争に参戦し(当時は不幸にも劣勢と評価された)、その後知識論、競争論、市場論といった経済学の基本問題に目を向け、当時の主流派経済学を厳しく批判した。同時に、社会主義、共産主義を徹底的に批判する『隷従への道』を刊行する。それはその実、資本主義に侵食する全体主義批判の書であり、その後半世紀にわたる彼の福祉国家批判の嚆矢でもあった。

LSEからシカゴ大学へ移籍したハイエクは『感覚秩序』という心理学(脳生理学)の書を刊行したのち、法学、政治学の分野に本格参戦する。1960年の『自由の条件』はその金字塔の一つだ。この書の第3部はまるまる福祉国家批判に当てられている。労働組合、社会保障、累進課税、住宅問題、農業の保護、教育問題、テーマは多彩だ。重要な事実はこういったテーマが『自由の条件』(The Constitution of Liberty)という名の本で扱われていることだ。この本は彼の経済思想を基礎に文明を支える自由の本質を説き、その自由を脅かす諸勢力の存在とその思想の正体を暴露することにあった。彼の社会思想は自生的秩序とこれを支える法の支配にその基礎があるが、福祉国家思想はこの両者を脅かすという。自由主義と相容れないものの考え方の代表は設計主義と社会正義であり、福祉国家はこの両者の属性によって自由を脅かすという。『隷従への道』という言葉からも分かる通り、個々人への幸福を保障するという甘言に誘われてやがて、その繁栄の可能性を縮小させる全体の統制に従属する道を人々が進むのか、個別の幸福を保障することはないが、全体として豊かで開かれた世界に進むのか、という選択を示すのである。しかし、人々は福祉国家の方に引き寄せられる。それは何故か、そしてそれは何故に危険なのか。これを解き明かすのが『自由の条件』第3部なのである。

・共産主義とナチズムとは同根

・保守主義と社会主義は似たもの同士

彼のこの二つの認識の意味するところは何か。全てに共通するのは「全体」を「個人」よりも優位なものとして理解する発想である。福祉国家も同類だ。よく誤解されるのは福祉国家は「個人の尊重」の発想がベースにあるが、ハイエクのように福祉国家を批判するのはむしろ個人の否定ではないか、というものである。ハイエクにとって重要なのは、所得再分配の分配の程度は「誰が決める」のか、という視点だ。誰がどのような所得水準にあることが「適正」か、という規範は誰が決めるのか。多数決で決めるのか、あるいは支配者が決めるのか、いずれにしてもそれは「全体」の判断だ。ハイエクの考えの基礎には、それを決めるのは自生的秩序なのであって、特定の誰かの、あるいは集団の有している社会正義なるものが決めるものではない、という発想がある。誰かが適正と思う帰結を実現しようとすれば、そこに計画が発生する。ソ連型の経済体制がその典型だが、多かれ少なかれ福祉国家の発想には計画が伴う。しかし、自生的秩序を規律するのは計画ではあり得ない。計算ができないところが自生的秩序の特徴だ(その出発点が社会主義経済計算論争であったことは容易に想像がつく)。唯一、法が自由な世界を規律する資格を有している。それを法の支配という。法に対する民主的なコンセンサスがあるから守るのではなく、法のみが唯一自由な世界を規律できるからである。だからハイエクは立法ではなく司法を重視する。あまりにもゆっくりとした時間感覚だという批判は当然ある(だから『法と立法と自由』では立法院構想を立てるのである)が、彼の世界観の中では、福祉国家は文明に対する脅威なのである。歴史的みれば福祉国家は成熟した人間社会の「知恵」のように理解され、近代的、文明的であると思われがちだが、ハイエクはむしろ部族社会への先祖返りを看取するのが興味深い。

おそらく小泉信三はこの発想にはついていけなかった。小泉の著作を読めば分かるが彼は明らかに福祉国家論者だ。そして相当程度、設計主義だ。社会正義が世の中を適正に導くと考えている節もある。法の支配は民主主義にリンクしている。『隷従への道』を好意的に取りあげているが、その深部にまでコミットしてはいない。小泉は1966年に死去したので『自由の条件』については十分な知識がなかったと思われるが、小泉がこの著の書評を書いたらどうだっただろうか。

老齢者に対する年金制度は福祉国家政策の最も主要なものの一つであり、資本主義各国において、世紀を超えて、財政上の最も大きな悩みの種になっている。ハイエクは福祉国家批判で有名な社会哲学者であるが、意外なことに年金制度への言及は少なく、『自由の条件』第3巻の「社会保障」と題された19章の中でわずか4ページのみ取り上げ、その他の文献では断片的に言及がある程度である。とはいえその内容は社会正義批判と設計主義批判という、ハイエクの福祉国家批判の社会哲学を構成する重要なテーマに密接に係るものであり、資本主義批判の思想的風潮が強まる中、自由主義陣営からのアプローチとして、ハイエクの年金制度批判を整理し、その思想上の特徴を明らかにしておく興味に駆られる。ハイエク自身の年金制度への言及の少なさ故か、ハイエクの年金制度批判を正面から扱った先行業績は乏しい。しかし、ハイエク自身、「大部分の国が最も深く約束してしまい、もっとも深刻な問題を生む傾向にある分野が、老齢と扶養家族に対する給付である」とし、「老齢者問題はとくに深刻である」としていることからもわかるとおり、老齢年金制度はハイエクの福祉国家批判の中でも最大の関心事であるはずであり、その考察と評価はハイエクの福祉国家批判を考える重要なきっかけを与えることは疑いない。

ハイエクは強い福祉国家批判にも拘らず、ハイエクは無政府主義者ではなく社会保障と呼ばれるものの一部を容認している。具体的には医療サービスや生活給付について自助努力では対応できない部分への政府の支援を認めている(Hayek 1960)。それゆえに、ハイエクの思想は社会主義であると言われることさえある(Epstein 1988)。

そうであるならば、ハイエク自身が擁護する社会保障と容認しない社会保障とがあって、それが自らの福祉国家批判の中で整合性が取れているかが論点とされるべきである。強制加入の老齢年金制度について批判しているということは、それが自らの福祉国家批判の対象になるからである。一方、高齢者を含む生活困窮者に対する生活保護を支持するのは、それが自らの福祉国家批判の射程外だからである。

ハイエクの福祉国家批判のコアには、それが、彼が擁護する自生的秩序との不整合がある。文明的な社会においては人々の経済状況は特定の誰かが計画して決まるものではなく、人々の自由な意思決定と自発的な取引の集積によって、分散化された知識が有効利用される過程を通じて実現されるべきものである(Hayek 1945)。知識の発見過程としての競争の結果、発生した財産の分配が行われるが、自由市場の帰結であって特定の誰かの正義感覚に依存するものではない。しかし、人々の経済状況を特定の誰かが計画しようとするのであれば、自由市場の効率化作用は失われ、知識の有効利用は実現されない。計画のためには計算が必要だが、そのための知識は特定の主体が扱うには膨大過ぎる。それができると考えるのは設計主義の誤謬である。同時に、計画の中には人々への具体的な分配の基準を設定することになるが、国家が何らかの正義の観念に従ってそうしなければならず、その根拠となる社会正義は一旦受け入れてしまうと、自発的取引によって形成される自由市場のメカニズムを破壊する力となる。

 ハイエクは年金制度自体を批判している訳ではないし、公的年金制度を否定している訳でもない。私的契約に基づく民間年金と公的年金が併存することには異論を唱えない。どちらが優れた制度かは人々の自発的な意思決定の積み重ねによって判断されるものであるからである。選択の自由が認められている以上、自生的秩序のメカニズムは保たれる。そうである以上、設計主義の誤謬からも社会正義の幻想からも逃れられる。

(工事中)

<References>

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Hayek, Friedrich A. 1945. “The Use of Knowledge in Society.” American Economic Review 35 (4): 519–30.