「第三者による委員会」について

「第三者会議で調査、検討します。」政府でも企業でも不祥事が起こると、マスコミの追及に対して官公庁や企業のトップがこう宣言する。弁護士、会計士、大学教授、ジャーナリストといった面々が選ばれる。筆者もこれまでさまざまな「第三者会議」の委員を務めてきた。

官公庁や企業に所属していない人物を連れてくるのだから、確かに「第三者」だ。しかし、「中立」であるとは限らない。そこがポイントである。そもそもその企業の顧問弁護士まで第三者という場合があるが、それはミスリーディングだ。この場合、内部者として扱うべきだろう。ポイントはその企業にとって「都合の悪いことをいわない」と予想されるかどうかだ。パートナー的な関係性が出来上がってしまっている場合、専門家ではあっても第三者にはならない。通常、対立していたら関係性は解消されるので、継続している場合には良好な関係があるということになる。今後良好な関係を築き上げたい思惑がある場合も同様だ。

 ある官公庁が入札制度とその運用のあり方を批判され、検証のための第三者委員会を立ち上げたが、メンバーが全員、そこの入札監視委員会の委員だったというケースは珍しくない。いちいち新たに探してくる手間がかからないという事情もあるが、築き上げられた関係性から予測可能性が高い、というのが選ぶ側の本音だろう。入札監視委員会がいつも荒れているようなら、おそらくそこからは人選はしない。

自分は中立だと思っている専門家は多い。ほとんどがそうではないだろうか。「御用学者」などという言葉があるが、自身でそう認識している専門家がいたら、それはむしろたいしたものだと思う。選ぶ側が人選を繰り返した結果、生き残ったのがそういう人物というだけの話だが、自身は忖度したつもりはなく、自らの考えを歪めたとも思っていない。最初から「スタンス」など何もない、「博識なだけ」の学者も多い。だから、事務局側から提案を受けたとき否定はしない。根本には影響しない範囲で、「まあドイツではこうですねぇ」とかコメントするだけだ。だから自分は中立のつもりでいるのだ。ただ、それは中立な第三者と呼ぶべきではなく(登用された)その分野の専門家と呼ぶべきだ。

その専門家を選んだ責任は選んだ側にあり、その結果こそが検証の対象とされるべきだ。第三者委員会の存在はゴールではなくただの中間地点である。元最高裁判事の大物弁護士とかが出てくると何故かマスコミは黙ってしまう。だから「そういう人選」になるのではないだろうか。「大物であること」と「中立であること」は必ずしも一致しないし、「その結果が真っ当であること」を保証するものでもない。

某官公庁とその審議会が批判されている。接待によってその判断が歪められた、と。審議会のメンバーを御用学者と決め付けるのは極端である。中立的な第三者と言い張るのも無理がある。だから審議の過程とその帰結を見ればいい。行政が歪められたというならば、その中身を検証すればよい。確かに「お馴染みの」面々だったり、場合によっては「あれ?」という顔ぶれもいるが・・・入り口の段階で評価すべきではない。

 筆者自身、数多くの「第三者による委員会」の委員を務めてきた。どうやら空気を読むのがうまくないようで、いろいろ批判的な発言をし、嫌な顔をされる。某行政のとある「改革委員会」の委員長をしているときに、委員だったそこの顧問弁護士が「会議の方針に納得がいかない」という理由で早い段階で委員を辞任するという事態になったことがある。その弁護士は改革したくない側の行政の擁護者であり、自分が会議を仕切れると思ったらしい。その思惑が外れ、居場所がなかったのだろう。

改革したくない側から見れば確かに中立には映らなかったのだろう。しかし議論を尽くし、証拠を集め、有権者に十分な説明責任を果たせる改革案が出せたかどうかがポイントであって、あとは他の専門家の論評と民主主義の手続に委ねるしかない。委員会の結論それ自体が検証の対象になるのだ。委員会の存在もその結論も決してゴールではないし、ゴールにしてはならない。