「保守」思想と独占禁止法

 自民党が今、ある宗教団体との関係でさまざまな追及を受けている。その中で、保守思想に立脚しているはずの自民党が、何故に日本を蔑ろにする教義を前提にして多額の献金を集める団体と繋がっているのか、という批判がなされている。戦後日本における保守といえば「親米」という意味でのそれであった。冷戦時代の反共、安保といったアメリカとの共闘姿勢を固持するという55年体制における「政権を貫いてきた姿勢」が「保守」なのであって、そこから先は人それぞれであるという印象を受ける。

「保守」とは現状を変えたくない人々のことをいい、「権力側の保守思想」とは自らを権力側に保ち続ける「自分本位」のものの考え方であるように思われる。だから世の中の風潮が変わればその風潮に合わせて主流派になろうとする。不変の出発点はなく、極端な変化は嫌うが、大きな変化の力には流されやすい。よくいえばバランスがいいが、悪くいえば一貫性がない。資本主義擁護という意味では確かに一貫しているが、その射程は広すぎて、その性格付けには大した意味がない。冷戦後は特にそうだ。

 独占禁止法は1947年に制定されたが、当初は憲法が保障する経済的自由の侵害であるかのようにまでいわれるほど、評判が悪かった。資本主義を擁護するなら、競争を規律し、経済の民主化を図る独占禁止法の存在が不可欠であると考えるのが「通常の感覚」だと思うが、財界を支持基盤とする保守的政治家からはウケの悪い法律だった。早い段階で骨抜きにされている。むしろこの立法に対しては左派(と呼ばれる人々)から応援する声が強かったようだ。独占禁止法は資本主義の弊害を除去してそれを機能、成長させる基本的立法であるのだから、その思想的な背景を疑いたくなる。一方、独占禁止法に否定的な保守的政治家は国家の経済への介入を極端に嫌うリバタリアンのようだ。なお、新自由主義と詰られる小泉純一郎政権の時代に、独占禁止法の大幅強化がなされている。左派が喜びそうな話ではないか。資本主義陣営=保守派という構図も実は、怪しげなものである。

 

「保守」思想と独占禁止法

 自民党が今、ある宗教団体との関係でさまざまな追及を受けている。その中で、保守思想に立脚しているはずの自民党が、何故に日本を蔑ろにする教義を前提にして多額の献金を集める団体と繋がっているのか、という批判がなされている。戦後日本における保守といえば「親米」という意味でのそれであった。冷戦時代の反共、安保といったアメリカとの共闘姿勢を固持するという55年体制における「政権を貫いてきた姿勢」が「保守」なのであって、そこから先は人それぞれであるという印象を受ける。

「保守」とは現状を変えたくない人々のことをいい、「権力側の保守思想」とは自らを権力側に保ち続ける「自分本位」のものの考え方であるように思われる。だから世の中の風潮が変わればその風潮に合わせて主流派になろうとする。不変の出発点はなく、極端な変化は嫌うが、大きな変化の力には流されやすい。よくいえばバランスがいいが、悪くいえば一貫性がない。資本主義擁護という意味では確かに一貫しているが、その射程は広すぎて、その性格付けには大した意味がない。冷戦後は特にそうだ。

 独占禁止法は1947年に制定されたが、当初は憲法が保障する経済的自由の侵害であるかのようにまでいわれるほど、評判が悪かった。資本主義を擁護するなら、競争を規律し、経済の民主化を図る独占禁止法の存在が不可欠であると考えるのが「通常の感覚」だと思うが、財界を支持基盤とする保守的政治家からはウケの悪い法律だった。早い段階で骨抜きにされている。むしろこの立法に対しては左派(と呼ばれる人々)から応援する声が強かったようだ。独占禁止法は資本主義の弊害を除去してそれを機能、成長させる基本的立法であるのだから、その思想的な背景を疑いたくなる。一方、独占禁止法に否定的な保守的政治家は国家の経済への介入を極端に嫌うリバタリアンのようだ。なお、新自由主義と詰られる小泉純一郎政権の時代に、独占禁止法の大幅強化がなされている。左派が喜びそうな話ではないか。資本主義陣営=保守派という構図も実は、怪しげなものである。