御用学者

政府や自治体の(外部)委員をよくしているが、こういう学者を揶揄する言葉に「御用学者」というものがある。

第三者会議のメンバーを選ぶとき、選ぶ側の理由はいろいろある。ここでは問わないでおこう。ここで関心があるのは、御用学者といわれる人は研究者としてどうなのだろうか、ということだ。

一つは寡作な人。これはわかりやすい。研究者として機能していないが、名の通った大学の教員をしているパターン。でもなぜか政府の委員をたくさんやっている。名前だけの人。昔研究者として活躍したという人もいるが、最初からあれ?という人もいる。

もう一つは現在進行形で多作な人。これはやや驚きかもしれない。しかし実はこのタイプの人が現出するのは理由がある。政府等の委員をしていると、優秀な政府の役人が立法資料や海外の動向などを実によくまとめてくれ、その上で、今後の立法としてはこのような方向がありますが、どうでしょうか、と伺ってくる。つまり委員をしていると、そういう情報に接しやすいのだ。委員ならば当然その分野をある程度は勉強する。この場合、その委員会の流れに合わせて、自分もその資料を使って、同じような論調のことを「自分のオリジナルな調査・論考」であるかのようにどこかに書いて仕舞えば一丁あがり、という訳である。盗作気味ではある(それだけだったら孫引き)が、政府としては都合が悪くなければ「どうぞ、どうぞ」ということになる。けしからん話だが、この手の学者は確かにいる。人のふんどしで・・・というやつだ。多作な人で「サーベイ」系の業績が多い人、これは気をつけた方がよい。「サーベイ」のボリュームが「研究」の評価になるような世界ではそういう動機を持ちやすいので自戒しなければならない。

今ではネットで情報公開が進んでいるので、委員をしていることの優位性はあまりないのだが、昔はそのアドバンテージは凄まじいものがあった。

しかし大多数の委員は、至極まともな、倫理的な研究者である。いわれるがママの、よきに計らえの、あるいは積極的に太鼓持ちをするような、業績貧困な「御用学者」は少数だ。残念ながら便乗型は少しばかりいるようだ。